86話:火種は灯へ ― 薩摩交易所始動
雨脚が細く強く、瓦に数え切れぬ指を落としていた。伏見・寺田屋。未明、灯芯の火が紙障子に橙の円をつくり、畳は湿った土の匂いを孕む。
戸口が、唐突に鳴った。
「――出ろ」
板戸が外れ、薩摩の郷士隊が黒潮のように流れ込む。草鞋が畳を擦り、鞘走りの乾いた音が重なった。奥で誰かが悲鳴を呑み込み、廊下で箪笥が倒れ、金具が床を這う。
先頭を切ったのは有馬新七だった。鋭い目が闇への道を選ぶ。脇差を流星のように投げ、逃げようと飛び出した男の指を壁へ縫い付ける。
もう一人――道島五郎兵衛が、廊の角から刀を抜いて躍り出た。肩で風を裂き、有馬めがけて斜に斬り込む。刃の火花が一度散り、有馬は半歩も退かない。相手の懐へ踏み込み、胸ぐらを鷲づかみにして土壁へ叩きつけた。白い土がぱらぱらとこぼれ、柱木が低く鳴る。
有馬は道島の右手首を壁で挟むように極め、刀を奪い落とすと、声を絞った。
「――オイゴト刺せ」
背後から走り込んだ味方の槍が、短く鳴って止まった。道島の身体が弛緩し、壁を伝う血が畳の目へ染みていく。
別座敷でも刃が交わる。屏風が倒れる音、柱に当たる槍の鈍い響き。濡れた木の匂いに、鉄の匂いが混じる。逃げる者は足を掬われ、叫ぶ者は口を塞がれる。やがて荒い息だけが残り、雨の音が座敷に戻ってきた。
表の雨の帷子の向こう、駕籠の簾がわずかに上がる。島津久光の横顔が灯に浮かんだ。睫毛に雨粒がひっそりと留まり、すぐ消えた。
「負傷の手当てを怠るな。生け捕りは吟味所へ……」
声は低く平らで、昂りを外へ出さない。小松帯刀がひざを進める。
「一件、鎮まり申しました。……西郷どんの件、いかがなさいますか」
久光は扇を一度だけ打ち鳴らし、雨の筋を見た。
「京に置けば、火に風を送るようなもの。薩摩に返しても、火種が油に触れる。――遠ざけるがよい」
「お預け先は?」
「常陸・羽鳥。藤村晴人殿へ、私より文。借財の折に面目次第もない願いなれど、あの地ならば静かにさせらる」
小松は頷き、筆を取る。
――此度、尊攘の徒、鎮撫やむなし。西郷隆盛、洛中に留め置くは禍根と存ず。しばし羽鳥にて預かりの労、伏して願い上げ候――。
封蝋が固まるのを待たず、密使が闇に消えていく。久光は雨の底で目を閉じた。
(守るために、遠ざける。冷たさと見えて、これしかない)
廊の端で、有馬は柄を握った手をそっと開く。震えがまだ残っていた。土壁の白が、掌に粉のようについた。
夜は、しだいに薄まり始めていた。
羽鳥・政庁の灯はまだ消えない。夜更け、雨上がりの瓦が月をぼんやり映し、廊の板はしっとりと光っている。
藤村晴人は、書院で封蝋を切った。紙は京の湿りを連れている。文を読み終えると、指先で一度だけ卓を叩いた。
「……受ける」
傍らの近藤勇が、即座に頷く。「受け渡しはどこで?」
「大坂・天保山の沖合。合図は二度灯、三度消し。舟は二、帆は地味、夜は無灯。弥太郎に回しておけ」
「上陸後の処置は?」と土方歳三。
「政庁宿舎で“療養”という名目。外出は禁。だが、見るものはすべてこちらへ運ぶ。警固は斎藤と永倉に回す」
晴人は返書をしたため、密使に託した。
――拝受仕候。西郷殿の身柄、謹んでお預かり申し上げ候。処遇一切、貴藩のご意向を本とし、静養・警固・便宜相計らい候――。
幾日か後の薄明。海は鉛を溶かしたような色で、天保山沖を潮だけが動いていた。
小舟が近づき、蓑笠の男が立つ。面差しは厚いが、眼は澄んでいる――西郷隆盛。受けに出た近藤が、短く礼を返す。言葉は二つ三つ。舟は並走し、やがて海霧に紛れた。
羽鳥の港は夜を纏っていた。荷揚げ場の燈芯は絞られ、雨上がりの板が冷たい。
「こちらへ」
斎藤一が道を示し、土方が背後を受け持つ。裏門が音もなく閉じられると、港のざわめきはぴたりと遠のいた。
翌朝。
西郷は小さな室に通され、温い粥を受けた。戸口に当番が二、廊の角に斎藤。逃がすためでも、締め上げるためでもない、ただ“預かる”という配置。
晴人が入る。上衣は質素、帯の結びは固い。
「遠路、ご苦労でした」
「こちらこそ……面目なかことをいたし申した」
晴人は余計を言わない。ただ、用件を置いていく。
「ここにいる間、城下には出さない。代わりに、必要なものは全てこちらへ運ぶ。羽鳥で動いている“算盤と土木と信用”、見て、触れて、持ち帰ればいい」
西郷は大きな頷きを一度だけした。
「おはんの噂は薩摩まで届いちょる。……勉強、させてもらいもす」
その日から、西郷は客であり、弟子だった。
午前――記録局。渋沢栄一が帳簿を広げ、羽鳥式の複式を示す。
「入るは借、出るは貸。片方だけで終わらせない。数字で嘘をつかないという約束事です」
西郷は太い筆で丁寧に欄を埋める。字は素朴だが、行が揺れない。
午後――会所。岩崎弥太郎が、荷の出入りを指先で追わせる。
「ここで一筆。荷は川を下り、港で一札。現銀は両替所で合わせる。目で追って、帳で追って、最後に手で合わせるんでさ」
西郷は荷車の軋みと札の擦れる音を同じ目で見、同じ耳で聞こうとした。
夕刻――土木。工兵組が堤の締固めを実演し、雨量の算段を板に書く。
「土は水で生きる。水は土で押さえる。足りなければ竹で補い、余れば石で締める。金は、その背を押すだけだ」
西郷は黙って見、黙って訊いた。頷き方は大きいが、口は多くない。
夜――港の波止場。潮はやわらいだ黒で、星がところどころ欠けて見える。
「薩摩は、一度燃やしてしもうた国ごわす。……もういっぺん、灰から起こすごたる」
「二度目の再建、か」
「はい。借りてでも、知恵ば入れる。人と金が行き来する筋を、薩摩から江戸へ、江戸から海へ、まっすぐ繋ぎ申したい」
晴人は短く頷いた。
「窓口をつくる。“薩摩交易所・羽鳥出張所”。名義と費用は薩摩、場所と手続きは羽鳥が責任を持つ。久光公への礼にもなる」
翌日、書状が薩摩へ走る。返書は簡潔で、礼を失さぬ。
――御提案、忝なく候。薩摩交易所、名義当藩、実務は御地指図に従い候――。
会所の一角に白木の看板が掛かった。「薩摩交易所 羽鳥出張所」。
初荷は黒砂糖の俵と樟脳の樽。次便で薩摩紙と焼酎。羽鳥からは薬草束、木綿反、銅の半製品が返礼で乗る。帳場では羽鳥紙幣に薩摩の手形が裏書で結ばれ、両替商の目が穏やかになる。
西郷は帳場の片隅で、その往来を眺め続けた。札の端が潮風でふるりと震え、その度に彼の胸の奥で、固く小さな火が強まっていく。
「国は……こうやって繋がるもんでごわすか」
晴人は答えない。ただ、横に立って海の匂いを吸い込んだ。
羽鳥に持ち込まれた“火種”は、燃え広がるためではない。火床に据え、明かりに変えるために在る。
その夜、西郷は文机に向かい、太い筆で短く記した。
――二度目の薩摩、羽鳥より始む。
小雨上がりの羽鳥は、土の匂いが濃かった。会所の裏手、運河沿いの資材置き場で、鍬の鈍い音が規則正しく続く。
西郷隆盛は裾を膝までからげ、工兵組と同じ列に混じって土を突き固めていた。小石が跳ね、締め太鼓の合図に合わせて足踏みが揃う。
「土は生き物です。締めた分だけ返してくる。焦ると崩れます」
指導役の若い工兵が声を掛けると、西郷は「うん」と短く応じ、もう一突き深く鍬を入れた。肩が波のようにうねる。汗が襟を濡らし、頬に細い筋を作った。
午前の作業が終わると、場所を記録局に移す。渋沢栄一が帳面を広げ、黒い玉砂利のように数字を置いていく。
「ここが“借”、ここが“貸”。荷はここで受け、金はここで出る。片方だけで終わらせない。必ず、もう一方で証明する」
「ほんなこつ、筋が通っちょりますな……」
西郷は太い筆を握り、見よう見まねで枠を埋めた。筆圧は重いのに、罫からはみ出さない。渋沢は小さく頷き、次の頁に指を移した。
午後は会所。荷の出入りが川のように途切れない。岩崎弥太郎が指先と声で流れを制する。
「薩摩の黒砂糖、第一便。倉に半日寝かせて湿りを落とし、秤の癖を合わせる。樟脳の樽は火気厳禁、札を二重に。返礼は薬草束と木綿反――表に“羽鳥調合”“羽鳥晒”と押しておく」
西郷は木札の動きを目で追い、札の裏の小さな朱印を確認する。
「札一枚で、人も船も、動くものでごわすか」
「はい。だから札は嘘をつかせない」
夕刻、訓練場の端で近藤勇が声を張った。
「本隊、前へ! 列を乱すな、槍は斜角、合図は旗」
土方歳三は無言で動線を直し、斎藤一が路地の影に目を遣る。西郷は柵越しにそれを見ていた。
「人の足並みは、こうして揃えるのでごわすな」
「足並みと帳面が揃えば、戦も市も崩れません」
晴人が肩越しに応じると、西郷はにやりと笑った。笑い顔のまま、視線の底に硬い光が沈んだままだった。
◇
数日後。薩摩からの返書は端正で、余計を挟まなかった。
――西郷隆盛の預かり、厚御礼。羽鳥出張所の件、御指図に従い候。過激の徒に通ずることなきよう、厳に相慎むべく申し付け候――。
小松帯刀の端書きには、さらさらと「西郷、学ぶこと多しとの由」とだけあった。
開所の日、会所の一角に白木の看板が掛かった。
「薩摩交易所 羽鳥出張所」
煤でいぶした紺の暖簾が風にふくらみ、砂を含んだ春一番が角を曲がるたび、布の端がぱた、と鳴る。帳場に座るのは薩摩から派遣された若い書役、隣に羽鳥の出納役。札箱は二つ、印判は三つ。両替商の老爺が透かしを見て、わざとらしく咳払いを一つだけした。
「値決めはどうする」と地元商人の一団が押しかける。
渋沢が穏やかに笑って一礼する。
「相場の基準は“前日終いの羽鳥板”。そこから上限下限の幅を出します。暴れさせません。納めは即日、返しは三日以内。遅延の時は遅延札を出し、利息を付けます」
「……札で済ますのか」
「現銀でも結構。両替所に羽鳥紙幣の箱をご用意しました」
人垣の後ろで、西郷が一歩前に出た。
「薩摩は、学びに来もした。商いには口だけでは通らん。黒砂糖の俵は一番良かとこを持ってきもした。値が気に入らん時は、遠慮なく言ってくいやんせ。こっちも腹ぁ割ります」
声は太く、飾り気がない。ざわめきがほどけ、誰かが「まぁ、やってみるか」と吐き出した溜息に笑いが混じった。
その日の帳場は忙殺だった。黒砂糖、樟脳、薩摩紙、焼酎、羽鳥の薬草、晒、銅の半製品。受けと払いが交差し、札の角が次第に柔らかくなる。夕暮れ、出納の誤差は“銭四文”。出納役が汗を拭い、渋沢が無言で親指を立てる。西郷は帳簿の隅に、太い筆で短く書き留めた。
――札は嘘をつかぬ。人が、嘘をつかせる。嘘を許さぬ場を、つくるべし。
◇
夜。港の防波木の上に、二人の影が並んだ。潮は黒く、星明りが割れて揺れる。
「寺田屋の夜は、忘れられもはん」
西郷の声は低い。
「刀は、抜けば戻らん。戻したつもりでも、戻っとらん。……だから、次は刀の要らぬ戦をこさえたか」
「数字と道で戦う」
晴人は短く言い、暗い海の面に目を置いた。
「道は橋で繋ぐ。数字は帳で繋ぐ。人は挨拶で繋ぐ。大きいものを動かすには、静かに繋ぐのがよい」
「繋いで、反さんごつせんといかん」
「反さないために、仕組みで縛る。仕組みで助ける」
しばし沈黙が置かれた。波が木杭を叩く音だけが、刻を運んでいく。
「久光公は、必ず見ておられる」
晴人が続ける。「騒がぬこと、驕らぬこと、約束を守ること。三つ外せば、ここまでの働きは無になる。肝に置いてくれ」
「承知もした」
西郷は深く一礼し、顔を上げた眼に、焔の芯のような光を宿した。
◇
その頃、鹿児島。錦江湾の水が薄青く光り、桜島が春霞に半身を隠す。新たに設けられた「羽鳥出張所受継所」の格子戸が開き、初荷の木箱が運び込まれた。箱書には「羽鳥晒」「薬草調合」「銅半製」とある。
「帳は?」
「羽鳥と同じ“左右二分”にて整えてあります」
算学に通じた郷士が、見よう見まねで複式帳簿を引き写す。薩摩の紙に、羽鳥の枠が刻まれていく。
「砂糖の出荷札、裏書を忘れるな。江戸の両替商が嫌がる」
小姓が走り、印判が乾くのを扇であおいだ。
港では、空樽が音を立て、舟大工が舷を叩き、銅板が薄く鳴る。鹿児島の町は、ゆっくりと、しかし確かに別の呼吸を覚え始めていた。
◇
羽鳥のある夕刻。会所の板廊で、清河八郎が報を掲げた。
「京より。寺田屋の後、尊攘の声はしばらく引いた。……が、押し込めた火は燠になる。江戸にも火種が散っている」
晴人は報を受け取り、封を畳んで返す。
「見張りは続ける。羽鳥は政治の表に立たない。物と金を通す道を広げる。声を上げるのは、困った時だけでいい」
斎藤一が「了解」と短く答え、足音を残さず闇へ消えた。近藤は訓練場へ戻り、土方は出納の札箱を振って音を確かめる。
西郷はその背中を見送り、静かに拳を握りしめた。
(薩摩も、こうあらねばならん)
怒りを力に、力を制度に、制度を約束に。――羽鳥で見た筋道が、彼の中で一本の線になっていく。
◇
開所から十日。薩摩交易所・羽鳥出張所の帳簿は、初めての月締めを迎えた。
「誤差、銭二文」
渋沢が鼻の奥で笑い、西郷が「よか」と短く応じる。岩崎は出荷予定表に新しい線を引いた。
「江戸行き、薩摩紙を倍に。焼酎は冬場に強い。薬草は京へ回す。黒砂糖は長崎経由で上海に試し荷。樟脳は火事多い江戸の町に好かれます」
「上海……」
西郷は遠い海を一瞬だけ思い、すぐ目の前の帳面に戻した。
帳場の外では、初荷祝いの酒が静かに注がれる。騒がぬ祝いだ。
「おはんの国は、火の国でごわす。火は、鍋にも灯にもなる」
晴人が盃を置き、言葉を置く。
「火の行く先を、人が決める。ここからは、あんたが決めろ」
西郷は盃を受け、深く頭を垂れた。
「学び申した。あとは、やり申す」
夜風が運河を渡り、暖簾を揺らした。灯の芯がわずかに伸び、影が畳の目へ細く長く、静かに落ちた。
寺田屋の血の匂いは、もうここにはない。代わりに、墨と紙と、焙じ茶の香りが満ちている。
火種は、灯へと変わった。
明日もまた、札が行き、人が行き、船が行く。
そして薩摩へ、江戸へ、海の向こうへ。
羽鳥の夜は、それを知っているかのように、深く、揺れず、続いていった。