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85話:将軍と姫の結び

江戸の空は、薄く霞んだ春立ちの気配を含んでいた。二月十一日、巳の刻前。城下の道という道に注連縄が渡され、白木の高張提灯には「慶」「和」の二文字が淡く灯る。将軍宣下と、和宮内親王の婚礼――二つの儀が同日に重なるなど、誰も見たことのない一日である。


 羽鳥の職人たちは、夜明け前から江戸城二の丸御殿に入っていた。金具師は襖の引手を一つひとつ磨き、指物師は新調の長卓を糸面でやさしく落とす。塗師は漆の上に極薄の金箔を押し、和紙師は羽鳥で漉いた強靭な奉書を屏風の裏打ちに張る。庭方は桂の枝ぶりを見て、雪吊りを解くタイミングを見極めた。


 「ここ、柱間の寸法が半分はんぶ短い。幕を一間、奥へ」


 藤村晴人は、口数少なく指を走らせた。帳場には江戸城改修の精算表・配材表・人足割が苛烈な密度で並ぶ。資金の手当はすべて済んでいる。羽鳥信用連を通じた短期の資金回し、羽鳥会所からの物資直送、紙幣の両替含みでの支出計画――いずれも昨日までに“金”と“物”に変わっていた。


 「晴人様、御礼札の貼り位置、これで?」


 「“寄進”は要らない。『施工 羽鳥政庁御用』だけでいい。見せるのは功じゃない、仕事だ」


 書記が頷き、駆ける。檜の匂いに金泥の甘さが混じり、城が“晴れの場”の匂いへと変わっていく。


 表御殿から二の丸広場までの導線に、羽鳥の儀仗と警固が配される。指揮を執るのは芹沢鴨だ。粗い外套の下に紺の稽古着、腰には実用一点張りの拵え。近藤勇・土方歳三・沖田総司・斎藤一・永倉新八・原田左之助・島田魁――常陸の名簿に連なる精鋭が、各層の要所に散っている。


 「芹沢、二の丸角の詰めを厚く。行列が折り返す。七呼吸、を置け」


 「承知。勇は駕籠脇、歳と永倉は南廊下。沖田は先行、斎藤は影につけ。原田・島田は後詰めに回す」


 短い言葉で軍配は収まり、足音は音もなく消えた。


     ◇


 辰の刻、将軍宣下。大広間は朝の光で白く、畳の目が凛と立つ。祝詞が静かに澄み、勅使の宣旨が読み上げられた。慶喜は黒の裃に身を正し、僅かに伏せた睫毛が光を受ける。場の全てが吸い込まれるように静まった。


 列の端で晴人は、背後の歯車を耳で聴く。渋沢栄一が肩越しに囁く。


 「城外の振る舞い所、三十六カ所すべて配置完了。羽鳥紙幣は両替商に預け、銭・小判・銀での即時引き換え可。混乱の芽は潰しました」


 「よし。菓子は?」


 「第一便が御半刻前に。二便は日本橋、三便は芝口。岩崎殿が船手を抑えています」


 岩崎弥太郎が一礼した。「“和蘭焼き”“蜂蜜カステラ”“砂糖煎餅”、寒でも持ちます」


 「うまいと一言、言わせれば勝ちだ」


 宣下は粛々と進む。名乗り、装束の擦過、長押に触れる扇の乾いた音――晴人は視線を崩さず、合図の拍を数え続けた。


     ◇


 午後。西の丸に移り、婚礼の儀。女房装束の白が障子越しに淡く揺れ、和宮の髪は黒真珠のように艶やかだ。飾り紐の赤が、一滴の血潮のように清冽である。


 接客所では、羽鳥の女職人たちが最後の仕上げにかかっていた。縫箔のほつれを直し、緒締めを調律のように撫でて整える。晴人は目で礼を述べ、余計な言葉は挟まない。


 「表御殿から二の丸広場まで、導線異状なし」


 芹沢の報が飛ぶ。「近藤、駕籠脇に付き、土方は角で間合いを取れ。沖田、先頭の歩調、三厘落とせ」


 「了解」


 澄んだ返事が空気を切り、行列は美しく速度を保った。白無垢が進み、三々九度の杯が置かれ、金の輪が盃縁に走る。息を呑む音さえ消え、江戸の時間が一瞬、凍る。


 (これで、橋がかかった)


 晴人は胸中でだけ呟く。朝廷と幕府、京と江戸――浅い溝が深い断絶へ変わる前に、「形」で結い直す。そのための金、人、技をこの一日に注ぎ込んだ。


     ◇


 城外では、すでに都の祭が始まっていた。神田の辻で羽鳥の和洋菓子が配られ、子どもの指先に砂糖が白く残る。浅草では酒樽が割られ、湯気の立つ粕汁が紙椀へ注がれる。羽鳥紙幣で支払うと両替所の「現銀可」の札が目に入り、頷きと笑顔が連鎖する。


 「羽鳥の菓子、うめえな」「あの紙、透かしぃ綺麗だ」「城の飾りも見事だこと」「羽鳥印だってよ」


 噂は早い。橋の袂の飴売りは口上を変え、呉服屋の若旦那は透かし和紙を陽にかざす。銭形の札をまじまじと眺めた両替商が小声で「信用が利く」と漏らし、夕には“羽鳥の札、江戸通用”の瓦版が刷られた。


 渋沢は会所の出納で誤差を零に近づけ、弥太郎は船手と荷車を交互に動かして供給線を切らせない。清河八郎は警固の人足を締め、酔客の波をさらりと捌いた。芹沢は巡回路を踏み直し、近藤は控えの詰所で小隊の息を合わせる。土方は角の死角に目を配り、沖田は列の先頭で歩速を刻み、斎藤は影の縁を静かに滑り、永倉は詰め所の士気を支え、原田と島田は後詰めの荷駄を守った。


 「表御殿から二の丸広場、三往復目。導線良好、混乱なし」


 芹沢の最後の報が、空気をほどく。夕刻、江戸城の屋根から一筋の白煙が立った。狼煙ではない。羽鳥の職人が設えた合図の香――式が無事に収まった知らせだ。拍手が遠くで湧き、波のように城下へ広がっていく。


 控え間で、晴人は一息の茶を受けた。盆を運ぶのは斎藤お吉。下田育ちの手は湯加減も客の顔色も読み当てる。


 「お疲れでございます」


 「喉が戻った。ありがとう」


 湯呑の縁を薄荷の香が走る。お吉はそっと下がり、晴人は帳面へ戻る。工事、什器、振る舞い、警固、人足賃、両替料――すべて“値切らず、必ず間に合わせる”。羽鳥のやり方だ。支出は払った。回収は回すからこそ回る。


 夜、城外は灯の海。提灯の赤が川面に揺れ、橋のたもとで唄が生まれる。「は・と・り、は・と・り」と子が節をつけて跳ねる。誰かが笑い、誰かが泣く。誰もが今日を忘れまいとしていた。


 晴人は石垣の陰で空を仰ぐ。冬の星は硬く明るい。金は尽きる。だが名は積み立てられる。払った代価は高い。けれど、それに見合うものを得た。


 ――結びは、始まりの別名。


 江戸の夜は深く、そしてやさしかった。

夕刻の江戸城は、淡い柿色の空を背に、障子の白だけが静かに浮かんでいた。宣下と婚礼、二つの儀が滞りなく収まり、御殿の深いところでは息を潜めるような安堵が広がる。だが外へ出れば、そこはまるで別世界だ。大手門の外から日本橋・浅草へと、提灯が流れ、笛と太鼓が波のように寄せては返す。


 羽鳥会所の荷駄は、暮れ六つを待たずに三度目の転回へ入っていた。渋沢栄一は袖をたくし上げ、出納札に次々と朱を入れる。荷印を読み上げる声は、江戸訛りと常陸言葉が入り混じり、帳場の墨の匂いの中で弾む。


 「和菓子・一荷、日本橋へ。洋菓子・半荷、芝口。酒樽・二十、神田明神前」

 「了解、次便は小判優先か?」

 「いや、羽鳥紙幣での支払いが伸びている。両替所の増援を回す。現銀残量、半刻ごとに報告だ」


 岩崎弥太郎は川側の手配に張り付いていた。運送船の舳先に立ち、闇に沈む川面を見通すと、短く指笛を鳴らす。合図に応じて船頭が棹を押し、荷は音もなく桟橋に吸い込まれていった。


 「弥太郎、次の便は薬種を抜け」

 「承知。寒の夜は腹だけじゃなく、喉も渇く。葛根湯と甘茶・各小箱、縁日筋に回します」


 その間、清河八郎は人波の“うねり”を読んでいた。酔客が滞る地点、喧嘩の芽が立つ路地、露店の火の気の危うい場所――紙片に小さく印を付け、周囲の与力と町年寄へ素早く渡す。


 「火の手は北から入る。焚き火は二町おき、番太郎に見張らせろ。横町は一方通行、戻りは別筋を使わせる」

 「へい、承知」


 雪洞の列の向こう、突然わっと歓声が上がった。御台所の行列が戻ってきたのだ。白無垢の余韻を纏った女中衆の駕籠が静かに滑り、沿道からは「おめでとう」「よい日だ」の声。芹沢鴨は道幅を読むように視線を走らせると、わずかに顎を動かした。


 「勇、駕籠脇を一間広げろ。歳、角に立て。沖田、前路の笛を一拍落とせ」

 「了解」

 「了解」

 「はぁい」


 近藤勇は人垣の肩を軽く押して間合いを作り、土方歳三は角に立って“見られている圧”で押し返す。沖田総司は笛の先導役へ滑り込み、歩調を三厘落として波立つ気配を沈めた。斎藤一は闇の縁を歩き、永倉新八は詰所で隊の息を揃える。原田左之助と島田魁は荷駄の最後尾を守り、酒樽と子どもたちの距離を絶妙に測って離した。


 「羽鳥紙幣、ほんとうに江戸で通るんだってよ」

 「おう、両替所が“銀で引き換え可”の札を出してる。試してみな」

 「透かしが綺麗だねぇ」

 「偽造できねえ筋目ってやつさ」


 市井の声は軽い。しかし、その軽さが信用を運ぶ。晴人は城内の控え間で短い文をしたため、書役に託した。「市中振る舞い、二更まで延長。湯茶と粕汁を増量。火の始末を厳命」。筆を置いたところで、茶盆が静かに差し出された。


 「お疲れでございます」

 斎藤お吉の手は、変わらず落ち着いている。湯気の向こうで、晴人はわずかに笑んだ。

 「まだ道半ばだよ。ありがとう」


 文金高島田の余香が廊下の奥に残る。和宮の装束の糸を整えた羽鳥の女職人が、そっと一礼して去る背を、晴人は目で追った。名は要らない。ただ仕事が良ければ、それで良い。


     ◇


 夜、城の石垣の陰で、芹沢が短く報告した。

 「表御殿から二の丸広場まで、三度目の行き返し。導線に乱れなし。小競り合いは二。いずれも沈静済み」

 「ご苦労。隊を半分ずつ交代で休ませてくれ」

 「わかった。勇、十五刻で入替えだ」

 「任せろ。……沖田、飯は食ったか」

 「菓子で腹が満ちました」

 「菓子で戦はできねぇ。味噌を入れろ、味噌を」


 そんなやり取りに、晴人は胸の奥でだけ笑う。緊張の糸が切れぬよう、しかし張り詰めすぎぬよう。指揮とは、結局のところ“間”を読むことだ。


 江戸の夜は、粟立つようにきらめいていた。橋の欄干が光を返し、川面を小舟がゆっくり横切る。瓦版屋が「羽鳥の札、江戸通用」を大書した木版を刷り上げ、表紙の隅に「和宮様ご婚礼」と小さな飾り文字を添える。呉服屋の座敷では透かし和紙が回され、火消の屯所では粕汁が湯気を立てた。


 「藤村様」

 背後で渋沢が声を落とした。「勘定所より伝令、式典費用の件、江戸の御用金からの立替え不要――とのこと」

 「それでいい。払うべき物は払う。見せたいのは羽鳥の“支払いの速さ”と“約束の堅さ”だ」

 「はい」


 弥太郎が駆け寄る。「次の便、芝口で詰まりました。横丁が逆流してます」

 晴人は地図を指で叩く。「一本裏を使う。清河殿に“逆流止め”を頼め」

 「承知!」


 清河は指示を受けるや、にやりと笑って合図を飛ばした。裏の道が生き、前の道が軽くなる。人の流れは生き物だ。押せば噛む。流せば、勝手に整う。


 (きょう、この都は“ひとつ”になった)


 晴人は静かに思う。朝廷と幕府が紙一重の橋でつながり、城と町が物と金で結び直された。名目は祝言と宣下。実体は経済と信頼の再配線だ。金は出した。だがそれは消えない。名に、信用に、次の仕事に変わって戻ってくる。


     ◇


 夜半。城の奥で、慶喜が短い酒を口に運んだ。晴人は深く頭を下げる。

 「本日、万事つつがなく」

 「うむ。……藤村、よくやってくれた」

 簡素な言葉の中に、疲労と安堵が並んでいる。慶喜は盃を置き、ほんの少し口角を上げた。

 「江戸が、ひとつ息をした気がする」

 「それなら、すべてが報われます」


 廊下の向こう、和宮の女房の笑い声が、鈴のようにかすかに響いた。新しい生活の音。新しい政の音。晴人は頭を垂れ、静かに席を下がる。


 石垣を撫でる風は、冬の冷たさをまだ含んでいた。だが、その底に微かな春の匂いが混じっている。芹沢隊の控えが焚き火に当たり、近藤が肩を叩き、土方が火箸で炭を寄せる。沖田は湯飲みで手を温め、斎藤は黙って空を見上げ、永倉は笑って輪を広げ、原田と島田が荷車の覆いをもう一度確かめる。


 「晴人様」

 お吉がそっと羽織を差し出した。綿の温もりが肩に落ちる。

 「ありがとう。……さあ、もう一働きだ」

 「はい」


 城下の灯は、まだ消えない。羽鳥の札は回り、菓子は尽きず、酒はほどほどに止まり、歌は夜の底で続いている。今日使った金と人と技――そのすべてが、明日の“常態”を作る。


 ――結びは、始まりの別名。


 晴人は、静かに歩き出した。江戸の夜が、頷くように、わずかに明るくなった。

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