10話:母と茶と、語らいの間に
早朝の空気は、昨夜の雨を引きずっていた。
石畳の隙間に水たまりが残り、松葉が貼りついている。
その上を慎重に避けながら、晴人は藤田家の門をくぐった。
呼ばれたわけではない。ただ、礼を述べたい気持ちがあった。
帳簿を開示し、町に波紋が走った翌日――人々の反応も、役人の反応も、すべて彼の中に渦のように残っていた。
そんな晴人の足取りを見つけたのか、庭先を掃く女性がにこやかに頭を下げた。
「あらまあ、晴人さま。朝からようこそお越しくださいました」
それは以前にも食事を振る舞ってくれた、藤田家の使用人――中年の女性だった。
上品な和服に、色褪せた腰巻。表情には皺が刻まれているが、どこか品のある柔らかさを湛えている。
「昨日は、ありがとうございました。……少し、お礼をと思いまして」
「礼など、とんでもない。……いえ、ちょうど、茶の用意をしておりました。少しだけ、お時間いただけますか?」
促されるまま、晴人は屋敷の奥、あの静かな茶間へと通された。
木の柱には、長年の手入れによる艶が宿っていた。
障子越しに射す光が淡く、湿り気を帯びた香りが畳に染み込んでいる。
すでに用意されていた湯呑みからは、香ばしい番茶の香り。
そして、茶菓子代わりに、小さな切り餅が焼かれていた。
「朝はまだ冷えますからね。……どうぞ」
「いただきます」
湯呑みに口をつけた瞬間、ほっと胸の奥が緩むのを感じた。
その温かさに、なぜか涙腺が軽く反応しかけた。
「……こんなに静かな朝は、久しぶりです」
「町が落ち着いてきたのでしょうか?」
「いえ、たぶん……自分が、やっと“立ち止まれた”んだと思います」
女性は微笑んだまま、少しだけ姿勢を正した。
「晴人さま。ひとつ、伺ってもよろしいですか?」
「あ……はい」
「なぜ、そんなにも“誰かのため”に、尽くされるのですか?」
問いかけは、責める色も、敬意もない。ただ、素直な“興味”だった。
晴人は少しだけ目を伏せ、湯呑みを置いた。
「……誰かを救いたい、と思っているからです。
それは、今に始まったことじゃなくて……もっと昔、きっと、“助けられなかった誰か”がいるからだと思うんです」
「過去に?」
「ええ。今は……その人たちの代わりに、誰かを助けたい。
間違ってるかもしれません。でも、“見て見ぬふり”だけはしたくないんです」
言葉にしてしまえば、それは理屈でも信念でもなかった。
ただの後悔と願いの折り重なったもの。
だが、女性は頷きながら言った。
「いいえ、間違ってなどおりません。
人は皆、自分にできる形で、優しさを誰かに返して生きているものです」
その言葉に、思わず口をつぐんだ。
「晴人さまがしていることは、“救う”なんて大きなことではなくても……“灯す”ことだと思いますよ。
冷えきった心に、火を分けていくような。……そういう人が一人いるだけで、町は、変わるんです」
ふと、釜の湯が小さく音を立てて沸いた。
女性は静かに席を立ち、味噌汁を注ぎ始めた。
芋がらと豆腐、そして刻まれた野菜の香りが、ふわりと部屋に広がっていく。
やがて運ばれてきたのは、麦飯に小豆を添えた素朴な一椀。
先日と似ているが、今日はそれが妙に心に沁みた。
「どうぞ。……食べることで、身体は正直に動きます。無理な正しさより、まずは“今日をしっかり過ごすこと”を大事になさってください」
「……はい」
箸を手に取り、味噌汁を一口すする。
その温かさが、胸の奥のざわつきをゆっくり鎮めていくようだった。
(ああ……俺は、たぶん、こういう言葉を欲しかったんだ)
誰かに背中を押されるのではなく。
怒られるのでも、称賛されるのでもなく――
ただ、「いてくれるだけでいい」と言ってくれるような、そんな言葉を。
味噌汁の湯気の向こう、障子の外で鳥が鳴いた。
朝は、もう始まっている。
でも、ここには確かに“心が休まる静けさ”があった。
――きっと、町にも必要なのは、こういう空気なんだ。
戦うばかりじゃない。
争うばかりでもない。
誰かの言葉と、誰かのご飯と、誰かの静かな“ありがとう”が、きっと町を支えている。
湯気の中、晴人は目を閉じて、もう一口、味噌汁をすくった。
町へ戻った頃には、雲の切れ間から陽が差し込んでいた。
水たまりに映る空がきらきらと輝き、街角の土塀に貼りついた雨滴が、光の粒となって滴る。
晴人は、静かに息を吸い込んだ。
(さっきまでの空気が、まだ残っている気がする)
番茶の香りと味噌汁の温もり。
あの静かな空間で交わした言葉のひとつひとつが、まだ体の内側に、ほのかな明かりのように灯っていた。
町は、ゆっくりと動き始めていた。
瓦礫が取り除かれた道端では、子どもたちが並んで火鉢を運んでいた。
声をかけ合いながら、重さに耐える姿はどこか凛々しく、ほんの少し前まで“炊き出しに並ぶだけ”だった彼らとは違って見えた。
「こっち、次の集積所までって書いてあったよ!」
「よーし!じゃあ石橋んとこまで運ぼう!」
晴人は、ふと足を止めた。
それは、子どもたちの背中に、“役目”があるように見えたからだった。
(……自分で、自分の場所を見つけ始めている)
それは、どんな政令よりも早く、深く、町に根付く変化だった。
少し歩くと、掲示板の前に数人の町人が集まっていた。
晴人が先日貼り出した「物資配分記録」を見ている。
「こないだ米が届いたんは、ここの表の通りなんだとさ」
「けどさ、うちんとこ、干し魚は一匹も来てねぇぞ?」
「……誰かが、横流ししてんじゃねぇか」
「しっ! 声がでけぇよ……」
声をひそめながらも、誰もが何かを“疑う”ようになっていた。
だが、それは単なる不満ではなく、**“気づき”**でもあった。
(この声を、怒りに変えさせないようにしないと)
晴人はその場を離れ、商家が並ぶ通りを抜け、炊き出し場へと足を向けた。
午前の配布が終わったのか、大釜の蓋が外され、火が落ち着いていた。
灰の匂いと、炊けた麦の甘い香りが鼻をくすぐる。
木桶を片付けていた青年が、晴人に気づいて頭を下げた。
「晴人さま、お疲れさまです。……さっき、裏手の御幸町から、子どもだけで来た子がいまして」
「子どもだけ?」
「はい。親が寝込んでいて……“おなかが空いたから来た”と。
ちょっと弱ってる様子で、薬草を少し煎じて渡しました」
「……ありがとう。よく対応してくれた」
青年は照れくさそうに笑ったが、その目には迷いがなかった。
それはきっと、**この町で育まれつつある“責任”**の萌芽なのだろう。
晴人は、ふと立ち止まり、道の端に腰を下ろした。
路地を抜ける風が、ちょうど心地よい温度になっていた。
(あの味噌汁も、あの言葉も……“責任”を受け止めるための力だったんだ)
「民はそれだけで救われることがあります」――あの言葉が胸に残っていた。
救うという言葉は、大きすぎる。
だが、寄り添うこと。背中を押すこと。
あるいは、たった一杯の味噌汁が、その人の“その日”を支えること。
そういう小さな連鎖が、きっと町を変える。
「晴人さま」
声に振り返ると、先ほどの青年が、ぬか漬けを包んだ布を差し出していた。
「余ったんです。少しだけですが、よければ」
「……ありがとう。いただきます」
受け取った包みの温もりが、両手にじんわりと染みた。
食べ物を受け取る、という行為。
それは物理的な“腹を満たす”だけではない。
「誰かが、あなたの今日を気にしてくれている」という、言葉を越えたメッセージ。
(俺があの茶間で受け取ったものも、きっと……それだった)
恩返しではなく、循環。
やさしさの連鎖が、人と町を繋げていく。
ぬか漬けの香りを胸に、晴人は立ち上がった。
町の空気は、ほんの少しずつ――確かに、変わってきている。
やがて遠くの屋根の上で、子どもたちが棒切れを剣のように振り回していた。
「おら! 炊き出し場の守衛だぞ! 不正な役人は通すな!」
「この道は通行止めでーす! 見張りの時間だぞー!」
笑い声と、かけ声と。
遊びの中に織り交ぜられた“まねごと”が、どこか真実を射抜いていた。
晴人は、その声を聞きながら、静かに微笑んだ。
この町は、もう“傍観者”ではない。
小さな声と、小さな一歩が、町という生き物の“心音”になりつつある。
午後の陽が斜めに傾き、町の影が長く伸び始めた頃。
晴人は、裏路地の炊き出し場を離れ、小さな坂道を登っていた。
この時間になると、風が変わる。
昼の熱を逃がし、川沿いから吹く風は、日陰の土を乾かし、草の香りを運んでくる。
(もうすぐ……夕方か)
今日という一日が、静かに終わろうとしていた。
だが、その終わり方は、昨日までとは違っていた。
「声」がある。
「疑問」がある。
「笑い声」すら、今は意味を持っている。
そう思ったとき、背後から声がかかった。
「――そなたの歩みは、いつも静かじゃの」
振り返れば、そこにいたのは藤田東湖だった。
杖を手にしてはいるが、その足取りは思いのほかしっかりしている。
浅葱色の羽織が、午後の光にかすかに染まっていた。
「東湖さま……。お身体は?」
「気が張っておるだけよ。……とはいえ、医者には叱られておる」
苦笑しながら、東湖は並んで歩き出した。
「町の様子、見ておった」
「……変わり始めています」
「うむ。確かに、“声”がある。張り紙を見て、話す者。“なぜ”と口にする者。
なにより、“手を動かす者”が増えた」
晴人は頷きながら、言葉を探した。
「……あれは、私がやったことじゃありません。ただ、ほんの少し、きっかけを置いただけです」
「それで十分よ」
東湖は立ち止まり、町を見下ろすように丘の縁に立った。
瓦の隙間から夕日が差し、遠くに連なる煙突が赤く染まっていく。
「民は、火のようなものだ。酸素を得れば、自然と燃える。
だが、それを塞げば、煙すら立たぬ。……そなたは、風を通した」
「……風、ですか」
「無色で、形もない。だが、確かに吹いて、流れを変える。
そなたは、この町に“変わってもよい”という空気を吹き込んだ」
東湖の目は、どこか懐かしいものを見つめていた。
「わしも、昔は信じておった。言葉が、力になると。
だが、“言葉だけでは、変わらぬ”と知ってから、筆を握る手が重くなった。
――そのとき、ようやく“行動する者”の重みが分かったのだ」
晴人は、その言葉を胸に刻むように聞いていた。
「東湖さまは、それでも書き続けた」
「ああ。書くことで、どこかの誰かが動くならば、と。……だが、晴人。
今のそなたは、“誰かの筆”ではない。そなた自身が“行”そのものだ」
その声に、晴人の胸がきゅっと締まった。
「……光栄すぎる言葉です」
「なに、ただの事実だ」
東湖はふっと笑い、ふと表情を変えた。
「実はな、今日、わしの元に手紙が届いた。
町の巡回役を務める下級士族が、“民が話し始めている”と書いてよこしたのだ」
「……!」
「“晴人という者が、町に動きを生んでいる”と。
“誰かが名を呼び、誰かが真似をし、誰かがまた、新たな行動を起こしている”と」
晴人は言葉を失った。
彼の背後に、自分の知らぬ“連鎖”が生まれ始めていた。
「晴人。町は、そなたを“見ている”。
正論でも、命令でもない、“誰かがやっているから、自分もやってみる”という、原始的な連帯の種を、そなたはまいたのだ」
その言葉に、晴人は初めて、“震え”を感じていた。
責任でも、恐怖でもない。
それは、**「自分という存在が、確かに世界に影響している」**という実感の芽生えだった。
東湖は静かに歩を進める。
「明日もまた、同じように風を吹かせよ。
嵐を呼ぶ必要はない。――そなたの足音が、そのまま風となればよい」
「……はい」
並んで歩く影が、地面にふたつ並んだ。
日は沈みつつあったが、その影だけは、確かに前へと伸びていた。
夜風が吹き始める頃、晴人は町外れの長屋に戻っていた。
灯りはすでに落とされ、室内にはほのかな油の香りが残っている。
小さな行灯の火が、壁にゆらゆらと揺れる影を映していた。
足袋を脱ぎ、畳に腰を下ろす。
今日一日が、やっと終わったのだと、身体が告げていた。
張りつめていた心が、ふっと緩んでいく。
(……俺は、何かを成し遂げたのだろうか)
町の声、東湖の言葉、使用人の笑顔――
どれも優しく、確かな“手応え”として胸に残っている。
だがそれと同時に、言いようのない不安が背中に張りついていた。
行動すれば、敵も生まれる。
変えれば、誰かが傷つく。
正しさは、必ずしも歓迎されない。
帳簿の開示は、神崎庄兵衛たちにとっては“秩序の破壊”だったかもしれない。
町の中には、晴人の背中に“期待”を乗せ始める人々もいた。
(これが、俺の望んでいたことだったのか……)
言葉にしてしまうと、それはすぐに薄れてしまいそうだった。
晴人は荷物の中から、一冊の帳面を取り出した。
それは、この時代に来てから――あるいは来る前から――ずっと書き続けている、自分だけの記録帳だった。
ページをめくると、町の地図、物資配分案、非常時対応の手順。
その隙間に、小さく手書きされた“ことば”が目に留まった。
> 「誰かのために動くとき、自分の輪郭が見えてくる」
ずいぶん前に書いた言葉だった。
だが今、この瞬間になって、その意味が初めてわかったような気がした。
(誰かのために、動くこと――)
それは、相手を救うだけじゃない。
自分という人間が、どうありたいかを問うことだった。
晴人は筆を取り、帳面にゆっくり書き足した。
> 「今日、町に風が吹いた。
> それが誰かの心を揺らしたなら、俺の声も、無駄ではなかったと思う」
その一文を書き終えると、不思議と胸の内が澄んでいくのを感じた。
窓の外では、虫の声が静かに響いていた。
やがて、台所から湯を沸かす音が聞こえる。
誰かが、夜のために用意している。
この町には、夜を越える準備がある――そのことが、なぜか嬉しかった。
立ち上がり、晴人は戸口を開けた。
風がふっと吹き抜ける。
遠くの山の稜線が、月明かりでほんのりと浮かび上がっていた。
(明日も、町を歩こう)
特別なことはしなくていい。
ただ、耳を傾けて、手を貸して、笑って、怒って、黙って、また歩く。
その積み重ねの先にしか、未来はない。
「……変えられるかもしれない。ゆっくりでも、少しずつでも」
声に出してみると、それは思っていたよりも強く、静かな響きになった。
――翌朝。
晴人は、再び町へと出かけていった。
まだ誰もいない路地を抜け、誰も起きていない裏手の水場を通り、炊き出し場の釜を覗く。
冷たくなった灰の下で、薪がわずかにくすぶっていた。
そこに、昨日の子どもたちが残した木札が立てかけてある。
> 「火番 こまつ・てっちゃん」
読みやすいように、丁寧に墨で書かれていた。
(ああ……もう、町は自分で歩き出してる)
その瞬間、晴人は胸の奥に確かに“火”を感じた。
小さな灯。だが、それはどんな炎よりも、確かに温かい。
彼は釜のそばに腰を下ろし、薪を一本ずつ並べ直すと、微かに残っていた火種にそっと息を吹きかけた。
再び、ぽうっと炎が立ち上る。
その湯気は、まるで“町の命”が、今もここに息づいていると告げているかのようだった。
気に入ってくれた方、評価ぽちっとしてくれると舞い上がります。
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