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83.5話:名と印と、冬の湯気

今回の「えた/ひにん」の描写は、読者さんからのご質問をきっかけに掘り下げた回です。作中では史実用語を説明目的で用いていますが、差別の肯定ではありません。生業・制度・生活の現実をできるだけ丁寧に描き、物語として「どう変えていくか」を示していきます。


 ほかにも気になる点(制度の仕組み、日常の描写、用語の補足、登場人物の視点など)があれば、感想欄で遠慮なく教えてください。作品の精度を上げる参考にします。バグ報告(誤字・整合性)も大歓迎です。

浅草河原は、冬の風がまっすぐ吹き抜ける。葦の茎は色を失い、墨色の川面は日差しをはね返す力もなく沈んでいた。土手の下には、流木と板切れで継ぎはぎした小屋が点々と並ぶ。煙の細い筋がいくつも立ちのぼり、鼻を刺す獣脂と湿った革の匂いが、風向き一つで町の賑わいと隔絶したこの一隅に溜まっていた。


 晴人は手拭で口元を押さえ、足元のぬかるみを確かめながら土手を下りた。先触れに立つのは羽鳥政庁の記録局長・浅尾主税。彼は目礼だけして道を開ける。焚き火のそばでは、骨抜きの済んだ犬の死骸が藁でくるまれ、年寄りの男が黙々と草鞋を編んでいた。少し離れたところで若い女が子を抱き、固くなった麦粥を水で戻している。どの顔にも、季節の冷たさとは別の、長く沁みついた線があった。


 「お役人様、こっちだ」

 声をかけたのは、川筋の世話役だという壮年の男だ。手はひび割れ、爪の際に黒い泥がこびりついている。「疫病が出た折の片付けは、あっしらの稼ぎだ。誰もやらねぇからな」


 彼は土手の向こう、風の通る一段高い場所を顎でしゃくった。そこには、板囲いの簡単な囲いがあり、藁で覆った長い担架が並ぶ。晴人は一瞬、言葉を探した。現代で覚えた語彙は、この場では刃こぼれする。


 「……仕事は、辛いだろう」

 「辛いか? 慣れだ。だが、冬は喰いもんがねぇ」

 壮年は笑って見せ、すぐに笑みを畳む。「子どもは熱を出す。医者に見せる金があれば、ここにゃいねぇ」


 晴人は、土手の上から見下ろした町の白壁を横目に、胸の内で短く数を刻んだ。皮、骨、川魚、死体処理――どれも避けられたがる仕事だが、どれも都市を支えている。支えているのに、輪の外に押し出されている。


 「浅尾、羽鳥へ戻る。今夜だ」

 「承知」


 風が一段と冷たくなった。葦の影が揺れ、子の咳がひとつ、乾いた空に吸い込まれていった。


 ※


 羽鳥政庁・北会所。床几を円に並べ、炉の火を落として、紙束だけが暖を持つ。晴人は短く要点を並べた。


 「救うのは情ではない。藩の益だ」

 視線が一斉にこちらを向く。経済局の渋沢、運送局の岩崎、軍政局の近藤・土方、記録の浅尾、衛生担当の蘭方医・杉田。


 「皮革は軍靴と馬具、胴乱、工兵の手袋に変わる。川魚は干物と佃煮にすれば兵糧になる。死体処理と衛生は、春の疫病流行を減らし、労働損失を抑える。港湾と下水の土木は、来年の洪水を一つ減らす」


 反対は最初に来た。年配の郷士が膝を正す。

 「身分の垣を崩すおつもりか」

 「崩さない。仕事に門を開く。門の内側にあるのは、賃金と規律だ」


 晴人は帳面を返し、四枚の札を置いた。


 「一つ、雇用。江戸・羽鳥・水海道の三カ所に『衛生・土木小役所』を臨時設置。仕事は下水の浚渫、路面の整備、羽鳥港の荷役。十人一組に組頭を置き、朝夕の点呼と記録を義務づける」


 「二つ、賃金。日雇いは銀一分、皆勤七日で追加の羽鳥信用状(米・味噌・薪に交換可)を支給。飲み代に化けぬよう、信用状は家族の名義で発行可」


 「三つ、健康。蘭方医の巡回、行火と綿入れの貸し出し、炊き出しの常設。種痘は希望者に限り、説明を尽くす」


 「四つ、製造。皮革は丁場を別棟にし、石灰と鞣し樽を用意。製靴は羽鳥の工匠三名を配し、型紙を統一。納入先は軍政局、代金は現銀」


 渋沢が手を挙げた。

 「資金は公庫からの融通で?」

 「初期は公庫、翌月から軍政局・運送局の受払で回す。帳簿は複式、現銀と信用状を別欄に記載。浅尾、ひな型を今夜中に」

 「はっ」


 沈黙。時計の代わりに炉の炭が小さく弾け、全員の視線が晴人の口元に集まる。


 「もう一つ。食わせる。今日からだ」


 ※


 羽鳥会所の裏庭に、大釜が三十。蒸気が白く立ちのぼる。常陸南部から荷車で運び込んだ南瓜は、皮の青と果肉の橙が瑞々しい。女衆が手際よく割り、味噌と酒粕で煮含める。別の釜では、霞ヶ浦から上がった鰻を蒲焼にし、端肉は佃煮に回す。細身の鍋では、冬眠前に太ったドジョウが甘露煮の色に沈んでいた。


 「味噌は薄めるな。南瓜は煮崩していい。腹の底にたまる飯にする」

 晴人は鍋蓋の湯気を避けながら、次々と指示を飛ばす。


 岩崎が運送の表を掲げる。

 「江戸の炊き出し場は浅草・両国・本所の三カ所、合計二千食。羽鳥は千五百。荷車の往復、今夜は三便で回します」

 「佃煮は小袋に。信用状の引き換えは会所の窓口で。混ぜ物はするな、塩梅は薄すぎるくらいでいい」


 炊き出し場の一角で、蘭方医・杉田が小卓を置き、木札に症状を書きつける。熱の子には薄い粥、咳には茹で大根に蜂蜜を垂らす。指示は簡潔で、誰にでも真似できる言葉に削がれていた。


 夕刻、最初の鍋が浅草へ発つ。荷車の軸が重く軋み、車夫が背を丸める。晴人は一歩下がって見送った。


 ※


 浅草河原は、昼間より静かだった。焚き火の炎が低く、空気は冷たい。大釜の蓋を上げると、味噌と南瓜の甘い匂いが立ち上る。遠巻きにしていた子どもが、最初に近づいてきた。


 「順番だ。押すな」

 世話役の男が声を張る。配るのは羽鳥の腕章を巻いた若い者たち。碗に南瓜の煮付けをよそい、隣の桶で佃煮をひとつまみ添える。


 「これは……なんの肉だい?」

 年寄りの女が恐る恐る問う。

 「肉じゃない。魚だ。骨がやわらかいから、よう噛んで食べてくれ」

 晴人は笑い、わざと自分の碗から先に口をつけた。


 味は素朴だ。だが、腹に落ちる重さがある。女は二匙目で涙を拭い、子は碗を抱えて離さない。焚き火の向こうで、昼間の壮年が晴人に目礼した。


 「仕事は明朝からだ。土手の上に紙が出る。十人で来い。名は書かん。印だけでいい」

 「賃は?」

 「銀で払う。足りねぇ時は、紙(信用状)も出す。米と味噌と薪に替えられる。酒は駄目だ」

 「……酒は駄目か」

 「仕事の後になら、俺もつき合う」


 男は、鼻の奥で短く笑った。


 ※


 翌朝、江戸と羽鳥で一斉に動いた。城下の下水は泥で詰まり、川沿いの道は車輪が沈む。組頭が号令をかけ、素手に近い道具で泥をすくい、石を並べ、凹みに砂利を敷く。午後には、荷車の車輪がひとつ分だけ軽くなった。


 羽鳥港では、荷役の列が延びた。鰻樽、南瓜俵、柴束。昼の賃払いは小袋の銀。週の終わりに、皆勤者には信用状が渡される。札の裏には、米・味噌・薪の引換数と会所の印。浅尾は小机に腰を据え、複式帳簿の借方・貸方に丁寧に印を打つ。


 噂は早い。両国橋の蕎麦屋で、客が言う。「羽鳥は身分を問わねぇらしい」。神田の古道具屋が応じる。「代金は銀で、紙(信用状)も使える」。町年寄の耳にも届く。「炊き出しは腹にたまる。鍋が薄くない」。


 「幕府や他藩に見つかれば、非難は必至かと」

 夜半、会所の奥で浅尾が囁く。


 「見られて困ることはやらない。見てもらって困る頃には、もうやめられない形にする」

 晴人は湯のみの縁に指をかけ、笑った。


 救恤ではない。雇用だ。恩情ではない。契約だ。


 そして何より――この冬を越える体を、明日も動く腕を、ここに作る。


 外では風がうなり、会所の板壁がわずかに鳴った。鍋はまだいくつも煮えている。煙は高く、夜の冷たさの上を渡っていった。

朝の霜が解けきらぬうちから、羽鳥会所の裏庭はまた湯気で白くなった。前夜の残り火に薪を継ぎ、女衆が南瓜を割るたび、包丁の音が軽く響く。土間の一角では、皮革小屋の柱が一本、夜のうちに立てられていた。杭を打つ音が、低く腹に来る。石灰樽のふちには白い縁が付き、樹皮の鞣し桶には水が張られている。


 「樽は日向へ。影だと臭いが抜けない」

 晴人が指で日をさし、工匠に合図を送る。工匠は短く頷き、若い者に手振りで伝えた。


 昼前、江戸・浅草の炊き出し場へ運ぶ第一便が出ると、入れ違いに、雇い入れたばかりの“河原組”が会所の表門に列を作った。十人一組、組頭の木札を握っている。顔はこわばっているが、靴の泥は薄い。朝の点呼で、彼らは初めて名ではなく「印」で呼ばれ、帳面の端に、同じ形の朱が並んだ。


 「今日の仕事は下水のさらえと、河岸の砂利敷きだ。組頭は浅尾から道具を受け取れ。怪我をしたら、その場で声を上げろ。黙って我慢するな」

 晴人の声は、焚き火の煙に押されずすっと通る。子どもが母の裾から顔を出し、男たちの背中が、目に見えぬほどだが伸びた。


 下水は想像以上に固かった。長い冬で締まった泥に、木の枝や布切れ、魚の骨が絡みつく。最初の一掬いが動くまでに腕が震えた。だが、一度泥が口を開くと、水は勝手に道を覚え、板の下から黒い流れが走った。組頭が手で合図を出し、桶が行ったり来たりする。昼には路地の臭いがひと匙だけ軽くなり、荷車の輪が一度だけ、引っかからずに回った。


 「見ろ、ここだ」

 衛生の杉田が、石灰を溶いた桶を持ってきた。泥を上げた溝に白を一筋、さらりと流す。「水気を吸って腐りを抑える。手は井戸の前の樽で洗え。水は惜しむな」

 晴人は、その簡単な所作を、子どもにも分かる言葉に置き換えて何度も繰り返させた。手拭を指に掛けて洗う若者の動きに、ぎこちなさが少しずつ消える。


 夕方。会所の奥で、初めての賃金が払われた。浅尾が机に複式の帳簿を広げ、借方と貸方に朱を置く。皿に乗せた銀一分がひとつずつ配られ、皆勤の者には薄茶色の札――羽鳥信用状が添えられた。札の裏には「米一合、味噌半合、薪一把」の文字と、会所の印。


 「……本当に、これで米に替わるのか」

 壮年の男が、札を光に透かして訊いた。

 「替わる。お前の家の名も入っている。店で断られたら、この窓口へ来い。俺が返す」

 晴人が正面から応じると、男は一拍置いて深く頭を下げた。


 その夜――会所の空気が安堵でほどけかけたとき、背戸で押し問答の声がした。町の口入屋が二人、雇われた女の信用状を取り上げようとしている。


 「待て」

 晴人は即座に出た。浅尾が後ろで帳面を抱える。

 「これはうちの規則に違う。信用状は本人と家族のものだ。仲介の手間賃は現銀で受け取れ」

 口入屋が口を開きかけた瞬間、浅尾は帯から一枚の紙を抜いた。「羽鳥会所取引規定」。二人は文字が読めずに食い下がったが、人の輪が出来、規定の読み上げが終わる頃、観念したように肩を落とした。


 「ここで稼ぐなら、ここに従え」

 晴人は淡々と告げ、規定を門口に貼り出させた。人垣の中で、河原組の若者が、見えぬ仕切りが一枚外れたような顔をしていた。


 ※


 皮革小屋は、三日で輪郭を持った。石灰の槽、洗い流しの溝、風を通す窓。鞣しは時間を食う。だが、型紙を起こす仕事は、今日からでも進む。工匠が床几に座り、紙を革の上に当てる。土方がしゃがみ込み、革靴の踵を持ち上げた。


 「歩いてみろ」

 軍靴の試作を履いた若い兵が、土の上を四、五歩進む。ぎしりと鳴る。もう一往復。

 「どうだ」

 「藁沓より重いですが、足の裏が痛くない。濡れた板でも滑りにくい」

 土方は短く頷き、近藤が鼻を鳴らして笑った。「雨の日の稽古で転ばんのは助かる」


 小屋の奥で、若い女が縫い針を動かしていた。昼の炊き出し場で晴人に声をかけてきた女だ。細い指は、最初は震えていたが、糸の運びは美しかった。工匠が目配せする。「筋がいい」

 晴人は女の前に膝をつき、低く言った。「これは賃仕事だ。今日の分は今日払う」

 女は、初めて聞く約束を確認するように、ゆっくり頷いた。


 ※


 江戸でも、輪は広がっていた。浅草・本所・両国に置いた臨時小役所の掲示板に、仕事の札が増える。下水浚えのほか、橋板の打ち直し、便所の溝掘り、堤の補修。終われば賃。雨でも賃。規律を破れば罰。簡潔で、逃げ場がない代わりに、裏口もない。


 「羽鳥の紙は、酒に替えられないのか」

 蕎麦屋で男がぼやくと、店主が笑った。「あたり前だ。だから腹が減らねぇんだろ」


 やがて、噂は町年寄から郡代へ、郡代から老中の耳にも入った。ある夜、羽鳥会所に役人が現れ、帳面の閲覧を求めた。晴人は遮らず、ただ「名と印」を指さし、現銀の受払いをその場で照合させた。役人は帳面の丁寧さに目を丸くし、何も持たずに帰っていった。


 「見られて困ることは、やらない」

 晴人は自分に繰り返し、翌朝の炊き出しの味噌を味見した。


 ※


 月が変わる頃、体の変化が目に見えた。河原の子の咳が細くなり、女の頬がほんのわずかだが丸みを取り戻す。下水の溝には水が流れ、路地の臭いが一枚軽い。羽鳥港の荷役列は、掛け声に力が出た。


 それでも、反撥はある。郷士の一部は眉をひそめ、寺子屋の師匠は「子どもが手間賃を覚える」と嘆いた。晴人は否定も肯定もせず、会所の壁に賃金と支出の明細を貼った。渋沢が横で小さく笑い、「見えるものは、やがて当たり前になる」と呟く。


 夜、会所の板間に座り、晴人は複式帳簿の均衡を指でなぞる。借方の米・味噌・薪、貸方の信用状・現銀・工賃。数字は静かで、しかし確かだ。斎藤お吉が湯を運び、湯気の向こうで、女の縫い針がまだ動いているのが見えた。


 「名前は?」

 晴人が訊くと、女は一瞬ためらい、ゆっくりと名乗った。河原で名を呼ばれることが、これまでなかったのだと知れる口ぶりだった。

 「明日も、来られるか」

 女は、今度はすぐに頷いた。


 晴人は湯呑を手のひらで温め、壁にかかった木札を見る。「河原組」と墨書された札の下に、組頭の印が並んでいる。その先に、「履物組」「荷役組」「浚渫組」と新しい札が増え始めていた。名前が増える。仕事が増える。輪が増える。


 外の風はまだ冷たい。だが、板壁の内側で、湯と飯と賃銀が、ゆっくりと、しかし確かに人を温めていた。ここから冬を越え、春を迎えれば、もう後戻りはできない。


 ――制度は、人の背骨の高さにしか立たない。ならば背骨を、一本ずつ増やしていくしかない。


 晴人は帳面を閉じ、灯を少し落とした。静けさの中、鍋の蓋が小さく揺れ、遠くで子どもの笑い声が、薄く夜に溶けていった。


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