82話:初夏の常陸、返済の狼煙(のろし)
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『水戸藩から始まる幕末逆転録 ~俺、公務員だけど、日本を救います~』は、
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1861年5月――常陸の地にも初夏の気配が色濃くなり、羽鳥の田畑は若緑の光を帯び始めていた。
朝。羽鳥政庁の議場には、いつになく重苦しい空気が漂っていた。
「……では、改めて確認させていただく。藤村殿、先日統合された諸藩の債務、総額66万7000両。それを――」
議長席に座る石岡の旧家老・秋山内膳が、資料を掲げながら言った。
「――“一年半以内に、全額返済する”と、本気で言われるのか?」
議場全体が静まり返った。
藤村晴人は、政庁側の席に腰を下ろし、まっすぐに秋山の目を見据えて頷いた。
「はい。そのつもりです」
反応はさまざまだった。どよめく者、苦笑を漏らす者、腕を組んで黙り込む者――。だが、誰もがその真意を問いたげな顔をしていた。
「66万両など、今の羽鳥の年収で換算すれば20年はかかる額ですぞ」
そう口を開いたのは、笠間藩出身の論客・河合甚兵衛だった。白髪交じりの額をしかめ、眉間に皺を刻む。
「仮に全額返済できたとして、その間の行政運営や軍備はどうするのです? 民の生活に皺寄せが行くようなことがあっては本末転倒ですぞ」
当然の懸念だった。
藤村は立ち上がり、準備していた巻物を広げて、議場中央の演壇に進み出る。
「では――その方法を、すべてご説明いたします」
※
ざわつきが静まり返ったのを確認すると、藤村は一枚の地図を広げた。常陸南部全域の産業分布図である。製塩、酒造、和紙、鉄鉱、銅鉱、陶磁、麻織、養蚕、木炭――それぞれの拠点に赤い印が打たれていた。
「まず一つ目。課税の柱を変えます。これまで我が藩では、土地に対する年貢が財政の中核でしたが、今後は“事業課税”――商業、鉱業、製造業から得られる利益に対して税をかけていきます」
「年貢を減らす、ということか?」町人代表のひとりが声を上げる。
「そうです。土地税は段階的に減税し、浮いた資金を活用して商いに回してもらう。事業が育てば、税も入る。藩の経済構造を“蓄える”から“回す”へと転換させます」
「……それで税収が減ったら?」
「そこは“徴税の透明性”で支えます」
藤村は続けて、もう一枚の紙を掲げた。
「徴税官の資格制度を創設します。知識と倫理に基づいた徴税者を登用し、藩による監査制度を導入します。帳簿は公開し、検査結果も報告される。これにより、不正と腐敗を防ぎ、徴収の信頼を得ます」
数名の議員が目を見開いた。
「まるで……幕府の勘定所のようだな」
「いいえ」藤村はすぐに否定した。「幕府は“上”が“下”を締め上げて管理していました。羽鳥では、町人や百姓の代表が査閲に参加し、“下”から“上”も監査できる仕組みを導入します」
それは、羽鳥が掲げる“自治”の中核だった。
議場に、少しずつ期待のざわめきが戻ってきた。
「さらに三つ目――我々は“羽鳥公庫”を設立します」
場が再び静まった。
「公庫?」
「はい。藩営の信用供与機関です。事業者には無担保で融資を行い、利子で財源を補完します。単なる金貸しではなく、育てるための融資です。公庫は商人組合と協力して管理し、返済が滞った場合も、事業再建のための支援を行います」
議員たちは顔を見合わせた。
「民間に金を貸し、利子で藩を支える……」
「まるで、商業国家のようだ……」
それは前代未聞の制度だった。だが、前代未聞であるがゆえに、新しい可能性をはらんでいた。
その時、ひとりの町人代表――江戸帰りの商人、堀江忠三郎が手を挙げた。
「――言いたいことはわかった。だが、あんた、結局のところ……返せるのか?」
静まり返る場内。
藤村は、ゆっくりと視線を堀江に向けた。
「――返してみせます」
その声は、静かだったが、芯のある声だった。
「この一連の制度は、目先の返済だけでなく、羽鳥の未来の“型”を作るための布石です。短期で見れば無謀でも、長期では“生きる道”になる」
「たとえ誰にも信じてもらえなくても、やるしかないんです。これが――公務員の意地ですから」
重苦しい空気のなかで、ほんの一瞬だけ、誰かの息を呑む音が聞こえた。
「……それだけの覚悟があるなら、見せてもらおうじゃねえか」
堀江が、やがて微笑んでうなずいた。
その一言に導かれるように、議場の空気は一変していった。
拍手はなかった。
だが、静かに深く、議員たちは資料に目を落とし、藤村の“覚悟”を咀嚼し始めていた。
そのとき、羽鳥の未来は、新たな扉を開きかけていた――。
――五月初旬。常陸藩政庁・第一会議室。
朝の柔らかな光が障子を透かして差し込み、畳の上に格子模様の陰影を描いていた。
その中で、会議はすでに一刻(約2時間)以上が経過していた。
「六十六万両の債務を、一年半で、返済……だと……?」
低く唸ったのは、宍戸藩出身の年寄・小野寺左京だった。かつて一万石の藩の財政を預かっていた経験を持つ人物で、保守的ながら数字には強い。
「それはもはや“夢想”というものではないのか、藤村殿。今の藩収入であれば、年に十二万両がせいぜい。加えて軍備の増強、鉱山開発、商港整備と……」
「すべて承知しています。だからこそ、これまでの“年貢中心の制度”を根底から改める必要がある」
藤村晴人は静かに言った。
その声音には怒りも驕りもなかった。ただ、確固たる意思があった。
「まず、課税体系の再編から始めます。農地への一律課税は縮小し、代わりに“収益”を基に課税する体制へ移行します」
「収益……つまり、商人や鉱山主に、ということか」
口を挟んだのは笠間出身の若手代表・秋元俊太。民間出身でありながら藩政改革派の急先鋒として知られている。
「その通り。これからの時代、産業こそが富の源になる。そしてそれに見合った“負担”を求めるのが、本来の税制です」
「……だが、それでは反発も出るだろうな」
「だからこそ、徴税制度にも手を入れます。徴税官には資格制度を設け、“会計知識と倫理基準”をクリアした者だけを任命する。加えて監査部門を政庁直属とし、横領や不正徴収は即刻罷免とします」
ざわ……と、場が揺れた。
「それは……相当な“痛み”を伴う改革ですぞ」
「痛みなくして再建はありません」
晴人は言い切った。
「“帳簿を偽って得をする”時代は終わった。“公の富を生かして皆で栄える”仕組みにしなければ、この借金地獄からは抜け出せません」
その瞬間、傍聴席にいた町人代表の一人が、ぬっと手を挙げた。
「よろしいか、藤村様。ひとつ、問いを」
「どうぞ」
「――返せるのですか?」
その一言に、場の空気が凍りついた。
声の主は、土浦の有力商人・稲葉宗兵衛。老舗の呉服屋の当主であり、藩内の経済人たちから絶大な信頼を得ている男だった。
「その額――六十六万七千両。米換算で五十万俵を超える。その重さ、百二十万貫以上。あんたは、今ここで“返してみせる”とおっしゃった。だが、ほんとうに……返せるのですか?」
張り詰める沈黙。
幹部たちの視線が、一斉に藤村へと集まった。
晴人は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、まっすぐに稲葉を見据えた。
「――返してみせます。公務員の、意地にかけて」
静かに、だが一言一句を嚙みしめるように発されたその言葉に、ざわめいていた空気がすっと収束する。
「数字は嘘をつきません。今後一年半、羽鳥商会・羽鳥公庫・羽鳥鋳造所・羽鳥航路、そして新たに創設する“藩営信用供与機関”――通称、羽鳥公庫。この五つを中核に据えて、年平均四十万両以上の経済流動を生み出す」
「そして、利子収入と監査済みの徴税制度によって、歳入は年間二十万両以上に増えると見込んでいます」
「不可能ではない。だが実現には“覚悟”が必要です」
その言葉に、会議室の隅で黙っていた一人の藩士が、静かに頭を下げた。
「……我が松岡も、協力を惜しみません」
「土浦も同じく」
「笠間も、支持します」
次々に頭を下げる藩士たち。
そして稲葉宗兵衛は、再び口を開いた。
「……よろしゅうございます。ならば、我ら町人も、その“意地”とやらを信じましょう」
そして、微かに笑った。
「返してみせなされ。藤村様。あんたのその“意地”――拝見させていただきます」
拍手も歓声もなかった。
だが、そこには確かに一つの“合意”が生まれていた。
時代の風が、またひとつ、羽鳥から吹きはじめようとしていた――。
――会議終了後、政庁奥の書院にて。
「……それにしても、一年半で返すとは、大見得を切りましたね」
斎藤お吉の柔らかな声が、湯気の立つ茶碗越しに届く。彼女は布巾で湯呑を拭きながら、そっと藤村晴人の前に盆を置いた。
茶の香ばしい香りが、ほんの一瞬、会議の緊張を和らげた。
「見得じゃないさ。筋道は立ててある」
晴人はそう答えながら、手元の書類に目を通していた。筆書きでびっしりと綴られた数字、注記、印。各藩の負債一覧から歳入見込み、鉱山の稼働計画に至るまで、彼が“見える化”した計画書の一部だった。
「でも、町人衆もお役人方も、目がまん丸でしたよ。あたし、あんな空気は久しぶりに見たよ」
「……そりゃそうだろうな」
晴人は一息ついて、湯呑を持ち上げた。
お吉の淹れる茶は、いつも不思議と味が深い。茶葉の種類ではなく、水の温度や時間、それにほんのわずかな“気遣い”が違うのだと、彼は思っていた。
「お吉さん」
「はい?」
「ありがとう。助かったよ。会議前に一言、励ましてくれたことも。……地味に効いた」
お吉はきょとんとした表情のあと、ふっと笑みを浮かべた。
「そりゃどうも。……でも、あたしなんかより、あなたの“あの言葉”のほうが、ずっと効いてたと思いますけどね」
「“公務員の意地”?」
「そう、それ。……言葉って、不思議ですね。あの場にいた町人さんたち、口には出さなかったけど、たぶんみんな、心のどこかで納得してたと思いますよ」
晴人は微かにうなずいた。
“意地”というのは、論理ではない。
だが、感情と誇りが交差する点で、最も“人を動かす”力を持っているのもまた、意地だった。
「……でも、ここからが本番だ」
彼は机の横に立てかけてあった板図を取り出し、畳の上に広げた。
それは羽鳥を中心に据えた、常陸諸藩の地図だった。鉱山、港、街道、寺社、米蔵、各藩邸、検地区画――すべてが書き込まれている。
「課税を変える、徴税を変えるって簡単に言うけど、実務は地味で骨が折れる。町単位、村単位での収益把握、事業主の登録制、商業活動の許可証管理……この国に“事業税”という概念を根付かせるには、相当な手間がかかる」
「それでも、やるんですね」
「……やるよ。だって俺は“変えるために来た”んだから」
言葉の端に、どこか決意というよりも“使命感”がにじんでいた。
そして、晴人はもう一枚の書状に目を通す。
それは羽鳥商会からの報告で、長崎経由でオランダ商人との銅取引交渉が進展しているという内容だった。小規模ながら、試験的に銀との交換も視野に入れており、将来的な輸出産業化も見えてきていた。
「銅、鉄、石炭……この三つが稼げるようになれば、藩の財布も変わる。あとは信用制度を整えて、羽鳥公庫で金の流れを“見える化”するだけだ」
「でも、金を扱うって、難しいですよ。どこかで横流しされたり、帳簿をごまかされたり……」
お吉が少し不安そうに言うと、晴人はすぐに答えた。
「だから監査を強化する。徴税官の選定も、試験と誓約書を通じて“信用基準”で選ぶ。悪いことしたら、今度こそ“即アウト”」
「……即アウト」
お吉が笑うと、ふとその笑顔が昔の記憶と重なった。
「前にも言ったけど、あたしね。下田で、外国の役人さんたちの世話をしてたときに、何度も感じたことがあるの」
「どんなこと?」
「“制度”ってね、“信じてる人の数”で決まるんだなって。誰も信じなかったら、どんなに立派な法律でも、ただの紙切れ。でも、信じる人がいれば、それは“力”になる」
その言葉に、晴人は黙ってうなずいた。
「お吉さん……」
「はい?」
「制度を“信じさせる”のが、俺の仕事だ」
言いながら、晴人は静かに筆を取った。
そして、次なる政令案の草案に取りかかる。
その筆先には、江戸でも京都でも見られない、“常陸の新しいかたち”が宿っていた。
遠くから聞こえるは、荷車の軋む音と、鶯のさえずり。
藩を変える者の“静かな闘い”は、こうしてまた一歩を進めていた――。
初夏の風が、羽鳥政庁の格子窓を軽やかに叩いた。湿気を孕みながらも、まだ清涼感のある風は、畳に置かれた紙束をぱらりとめくり、藤村晴人の手を止めさせた。
その日、晴人は政庁の中庭を望む書院にて、三人の重臣とともに一つの議題を巡り、三刻を超える議論を続けていた。
「……再確認する。課税体系を“地代”から“生産ベースの事業税”に移行する。これは、旧来の年貢に依存しない近代的な収税制度だ。課税対象は商業、製造、鉱業……」
「それで、返せると?」
問うたのは、町民代表の古参――江戸出の商人、安房屋仁右衛門である。
その顔には不安というよりも、疑念と警戒が色濃く浮かんでいた。彼は、常陸諸藩が抱える六十六万七千両もの債務を何より重く見ていた。しかも、それを「一年半以内に全額返済する」と宣言した男が、もとは市井の行政職に過ぎなかったなどと、未だに信じていなかった。
だが、晴人はその疑念に動じることはなかった。
「返せるか? ――返してみせる。“行政の矜持”でな」
そう静かに言い切ると、彼は後ろに控えていた役人に目配せし、一枚の紙を差し出させた。
それは新たに設立予定の機関――**『羽鳥公庫』**に関する草案である。
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公庫とは、民間の貸付では手の届かぬ中小の事業者や商人、農村の改良活動に対して、藩が直接的に低利で資金供与する「信用供与機関」であった。
藩札を裏付けとした信用貸付。
利子による収益で藩の歳入を補完し、さらにその資金でインフラ・鉱山・製造業を育成するという、まさに近代的な「公的金融機関」の構造である。
「羽鳥公庫が機能すれば、藩は間接的に“利益を生む産業”に介入できる。徴税とは別に、利子収入が藩の収支を安定させる。単なる年貢の徴収では、絶対に到達できぬレベルだ」
「……だが、そんな構想、元手はどうする?」
仁右衛門の問いに、晴人はすでに準備していた“答え”を出す。
「金だ」
静かに、その一言を放つ。
「金……?」
「常陸には、いくつかの未開拓の山がある。とくに筑波山系から北へ伸びる加波山連峰、真壁郡の山間には、古くより金を含む土壌があると伝わっている」
数名の町人たちがざわめく。
「小規模な鉱山でも、藩が“公営事業”として投資し、設備と労働力を供給すれば、年間千両以上の純益を確保できる可能性がある」
「しかも……」と晴人は続けた。
「それに副産物として銅、鉄、錫も採れる。江戸で培われつつある“工業技術”を活かせば、精錬と加工も含めて一連の“地場産業”に育てられる。初期投資は羽鳥公庫が担う」
その言葉に、議場は再び静まり返った。
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さらに晴人は、徴税官の資格制と監査制度の導入についても説明を始めた。
「徴税官には“算術”“読解”“記録管理”の三技能試験を課す。合格者には等級を与え、一定の俸給を支払う代わりに、不正時には厳罰をもって臨む」
「……それで、公庫への不正流用を防げるか?」
「完全に防げるとは限らない。だが、“透明に見える仕組み”を作ることはできる。今までは、それがなかった」
この「見える化」という発想は、江戸の町人層にとってあまりにも新鮮だった。年貢や御用金に納得していたわけではないが、“上から与えられる統治”に慣れすぎていたのだ。
「次に、“帳簿”だ」
晴人は、慣れた筆致で引き算の書式を示す。単式簿記ではなく、複式帳簿の形式で整えたものだ。
「これが“羽鳥式帳簿”と呼ばれるものだ。全ての収支は左右の均衡で管理する。“誰がどこから受け取り、何に支出したか”を、帳面上で必ず証明できる」
「……むぅ、それは商人の間でも一部の大店しかやっとらんぞ」
「だからこそ、“藩が手本を示す”。この帳簿制度を、行政文書として公式採用し、税と支出の管理に用いる。これも公庫と同様、“信頼を得るため”だ」
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しばらくの沈黙のあと、町人代表の仁右衛門がぽつりと呟いた。
「……あんた、本当に“役人”だったんだな。武士でも、学者でも、商人でもない。人に仕える者として、筋を通そうとしている」
「――筋だけでは食えませんがね」と晴人が笑うと、場が一瞬和んだ。
しかし、誰もが理解していた。
六十六万七千両という巨債。
一年半という期限。
それを本当に“返せる”かどうかは、彼の制度設計だけでは決まらない。
この国の人々が、「新しい仕組み」を受け入れ、「制度を信じる力」を持てるか――
それこそが、最大の壁であった。
だが、晴人の目に宿る光は揺らいでいなかった。
「――やってみせますよ。見ていてください、“現代の知”がもたらす政の力を」
その言葉を聞いた仁右衛門は、やがて静かに頷いた。