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81話:迫る裂け目、分かたれる世界

【お知らせ】

『水戸藩から始まる幕末逆転録 ~俺、公務員だけど、日本を救います~』は、

夏休み期間(8月8日〜17日)のあいだ、更新ペースを 1日2話 → 1日4話 に増やします。


いつもお読みいただいている皆さま、ありがとうございます。

この機会にさらに物語をお楽しみください。

今後ともご愛読のほど、よろしくお願いいたします。

政庁の書院には、春の陽射しを遮る障子越しに、ほんのりと柔らかな光が差し込んでいた。


 書架の並ぶ一角、文机に向かって静かに筆を走らせているのは、羽鳥政庁の執政官、藤村晴人。その机の上には、整然と並べられた報告書と、黒檀の硯箱。それらを照らすのは、天井に吊るされたガラス製のランタン――西洋式の石油灯である。


 部屋の空気は、どこかほのかに異国の香りを帯びていた。


 その香りの主は、彼の背後で茶を運んでくる一人の女性だった。


 「お茶です、旦那様」


 静かな声とともに膝をついたのは、斎藤お吉。かつて下田の花街で名を馳せた芸者であり、異国の外交官ヒュースケンとの関わりを経て、日本と異国のはざまで数奇な人生を歩んできた女性である。


 今は、羽鳥政庁に雇われ、藤村晴人の身辺を世話する係として仕えていた。


 茶の用意はもちろんのこと、食事の手配や衣服の管理、時には彼の疲れを察して背をさすったり、訪問者の応対に立つこともある。政庁の内でも、藤村の私的空間にまで立ち入ることを許された数少ない存在――それが、斎藤お吉だった。


 お吉は、錫の茶器から湯気の立つ茶をそっと盃に注ぎ、机の端に置くと、控えめに身を引いた。だがその所作には、古都・下田で培った洗練された美しさが今なお宿っていた。


 晴人は短く礼を言うと、ひとくち啜る。煎茶のやわらかな渋みが、舌の奥にじんわりと広がった。


 「お吉」


 「はい」


 「先月、アメリカから戻った福沢からの報告――まとめてくれたか?」


 「ええ、こちらに」


 お吉は袂から、一通の封書を取り出した。巻紙を綴じた簡素な文書だったが、その中身は、アメリカの政治と社会を巡る重大な内容が記されている。


 晴人は封を切ると、目を走らせ、眉をわずかにひそめた。


 「……始まったか。南北戦争」


 声が低く落ちる。


 1861年4月12日――アメリカ南部の連合軍が、サムター要塞を砲撃したことで、アメリカ合衆国は南北に分かれて全面的な内戦に突入した。


 この戦争の背後には、国家の産業構造と奴隷制という根深い問題が横たわっていた。


 福沢諭吉が現地で収集した情報によれば、共和党のリンカーン新大統領は、南部の奴隷制を否定し、北部の資本主義と工業化を支えるために、国家統一を掲げていた。一方の南部は、綿花の輸出と奴隷労働による農業経済に依存しており、独立をも辞さぬ構えで武装蜂起に踏み切ったのだ。


 「この戦争は、ただの国内紛争ではない。近代国家が、何を犠牲にしてでも守る価値があると信じる“理念”と“経済”の衝突だ……」


 晴人はそう呟き、報告書を伏せた。


 「日本も、いずれ問われる。何を守り、何を捨てるべきか。その選択の時が、必ず来る」


 お吉は黙って彼を見つめていた。晴人の視線の先は遠く、まだ見ぬ未来を睨んでいるようだった。

雨は止み、羽鳥政庁の中庭にかすかな陽光が差し込んでいた。

 薄雲を透かした春の光が、白壁の回廊に淡い影を描く。

 その静けさの中、政庁書院では、藤村晴人が茶卓の前で背筋を伸ばして座っていた。


 傍らには、一冊の報告書と、桜の花びらがあしらわれた和菓子が載った皿。湯呑から立ち上る湯気の奥に、小さな気配があった。


 「お茶、入れました」


 そっと膝をつき、茶を置いたのは斎藤お吉だった。


 かつては下田の芸者。異国の外交官との間に、苦くも数奇な縁を持ち、その後、流転の末に羽鳥へ辿り着いた女――今は政庁に雇われ、主に晴人の身の回りの世話を担っている。


 「ありがとう、お吉さん。助かるよ」


 「いえ、こちらこそ。……今日は、難しいお話を読まれてるんですか?」


 「少しね。これは、昨年アメリカから帰国した福沢諭吉さんが、内々に届けてくれた報告だ。あの国で、何が始まろうとしているのか――その記録さ」


 晴人は、淡く燻された匂いのする和紙に視線を落とした。


 「アメリカ、ですか」


 「そう。四月の初め、南部の州が反旗を翻し、ついに戦争が始まった」


 お吉は驚いたように目を見開いた。


 「戦、ですか? ……あの国の人たちも、そういうことを?」


 「ええ。もっとも、これは“内乱”だ。北部と南部、同じ国の中で主張が割れ、ついに銃火を交える事態になった」


 報告書には、詳細な地図とともに、各州の動向が記されていた。

 奴隷制を維持したい南部諸州と、それに反対し合衆国の統一を守ろうとする北部州の対立。


 「リンカーン大統領が就任して間もなくのことだ。南部は“アメリカ連合国”を名乗って独立を宣言し、サムター要塞を攻撃した。これが引き金となって、北部も宣戦布告を余儀なくされた……という流れだ」


 「なんだか……お芝居の世界みたいですね。同じ国なのに、国を割るなんて」


 お吉の声には、遠い過去への戸惑いと、どこか親しみに似た感覚が混ざっていた。


 「確かに、信じがたいかもしれない。でも、原因ははっきりしている。“奴隷制”だ」


 晴人の声には、静かな重さがあった。


 「アメリカ南部では、黒人を“財産”として扱っている。農園を動かすために、彼らを買い、売り、働かせる。それに対して、北部では産業化が進み、自由労働と資本による社会へと移行しつつある。考え方も、暮らし方も、国の中で真っ二つに割れているんだ」


 お吉は、沈黙した。


 やがて、ぽつりと口を開く。


 「……人を、財産にするなんて、そんなこと……」


 「そう思う人が北部には多い。リンカーンも、“人間はすべて自由であるべきだ”と訴えて大統領になった。だが南部にとっては、それは生活の破壊を意味する。だからこそ、剣を取った」


 報告書の一節が目にとまる。


 ――“この争いは、単なる国内の政治的衝突ではない。『自由』という理念と、『経済的現実』が正面から衝突している。アメリカ合衆国は、二つの『正義』によって割れようとしている”――


 晴人は、しばしその言葉に沈黙した。

 現代で聞き慣れた言葉が、ここではまだ未来の混沌の中にある。


 「……藤村さま?」


 お吉の呼びかけで、彼は小さく目を瞬かせた。


 「いや、ごめん。少し考え事をしていた」


 「難しいお話でしたら、お耳汚しでしたらすみません。でも……少し、わかる気がしました。生きるために、手放せないものと、守りたいものがぶつかるって、ありますよね」


 「うん。まさに、そういうことなんだ」


 お吉の瞳に、一瞬、遠い海の匂いが宿る。


 下田で、初めて“異国の人間”と触れたときの驚き。

 笑い合い、酒を酌み交わし、それでも最後に手を伸ばせなかった、あの記憶。


 「……その国、どうなってしまうんでしょうか」


 「簡単には終わらないだろう。恐らく、これは長い戦になる。だが、希望もある」


 晴人は、そう言って報告書の最後の頁を指でなぞった。


 そこには、福沢諭吉の筆跡で、こう記されていた。


 ――“未だ混乱の最中にあれど、合衆国における自由民の活力と、知の広がりは驚くべきものあり。我国にとって、学ぶべき点多し”――


 「学ぶべき点、ですか……」


 「ええ。争いの中にも、“選び取ろうとする力”がある。制度も、信念も、決して一朝一夕にはできあがらない。だが、歩む意志がある限り、そこに“形”は生まれる」


 お吉は静かに頷いた。


 茶の湯気が、ふたたび細く立ちのぼる。

 その向こう、遠き大洋の彼方では、銃声とともに、新たな時代が胎動を始めていた。

静寂に包まれた書院の一角。障子の外では、春を知らせる微かな風が庭木の若葉をそよがせていた。


 藤村晴人は、机の上に広げた資料の上に手を置いたまま、しばらく動かなかった。


 アメリカの内乱――南北戦争。

 福沢諭吉から届いた報告書には、開戦の経緯だけでなく、両陣営の社会構造、思想の断絶、さらには経済的背景までが記されていた。


 「……自由のための戦争、か」


 呟いた声は、誰にも届かぬよう低く。


 晴人の胸中を占めていたのは、彼らの“正義”と“矛盾”が入り混じる構図だった。北部は奴隷制に反対し、合衆国の一体性を守るために戦っている。一方で、南部は“生活と文化の存続”をかけて武器を取った。


 だが――どちらの側にも、命を懸ける覚悟と信念がある。


 (この構図は……遠い異国の話ではない)


 晴人の思考は、ゆっくりと羽鳥に、そして日本全体に向かっていく。


 かつての幕府。形式としがらみの中にあって、改革の芽を摘み取ってきた保守派。

 そして今、水戸藩政庁内でもなお、“羽鳥方式”に反感を抱く者は少なくない。民を“下”に見る士族。封建の枠組みに安住し、変化を恐れる旧勢力。


 (改革とは、制度を変えるだけでは終わらない。思想と価値観を変えること。そして、それを支える人間を育てることだ)


 戦の始まったアメリカのことを思えば、今、羽鳥が取り組んでいる数々の試み――帳簿制度、地券制度、民兵制度、教育の拡充、印刷技術の開放、商人の自由化――それら全てが、ただの“施策”では終わらないことが分かる。


 「これは……“未来の地図”を描く作業なんだ」


 またひとつ、確信が胸に宿る。


 お吉が運んできた茶もすっかり冷めていた。晴人は立ち上がり、窓際へと歩み寄る。


 外はすでに夕暮れ時。

 空は橙から紫へとゆっくりと色を変え、羽鳥の町の屋根に淡い光を落としている。


 政庁の塀の向こうでは、鍛冶場の音が小さく響いていた。

 新たに作られた農具の製造が始まり、工匠たちの手に火が灯っていたのだ。


 (“武器”ではなく、“生きる道具”を)


 心の中で、ひとつ呟く。

 それは、きっと南北戦争のどちらの側にも欠けていた視点だった。いずれにせよ、銃で奪い、砲で屈服させる先に、真の“統一”はない。


 その時、廊下の奥から足音が近づいた。


 「藤村様、お便りが届いております」


 軽やかな声とともに現れたのは、若い文書係の少女だった。手には、一通の封書があった。


 「ありがとう。どこからだい?」


 「品川宿の本多様より。どうやら、江戸の書物商を通じて入手した米国書簡の写しがあるそうで……」


 晴人は封書を受け取り、開封した。


 中には、粗雑な英語の手紙と、それを翻訳した文面が添えられていた。


 “奴隷解放は正義である。だが、正義の名の下に銃を取ることが、果たして人を救えるのか”


 文面の主は、ニューヨーク在住の日本人商人、あるいはキリスト教宣教師と思われた。そこには、戦場で苦しむ家族の様子や、食糧不足に悩む町の描写が綴られていた。


 「……思想の理想と、生活の現実か」


 静かに呟く。

 その隔たりこそが、争いを生む根である。


 お吉が茶菓子の下膳に来た。晴人はふと、彼女に視線を向けた。


 「お吉さん。……アメリカでは、今、黒人の人たちが“人間として認められるか”どうかで争いが起きてるんだ」


 「人間として……認められるか、ですか?」


 「そう。日本では士農工商があるけど、命の重さは誰もが同じはずだ。だけど、制度がそれを“分けて”しまう。階級や立場が、人の価値を測るものになってしまう」


 お吉は、しばし黙っていたが、やがて静かに言った。


 「……それでも、人の温かさって、きっと“隠せない”ものだと思います」


 「え?」


 「下田のとき、異国の方に冷たくされたこともありました。でも、微笑んでくれた人もいた。その人の手の温かさは、今も忘れられません。だから、きっと、どこかで通じるものがあるはずです」


 晴人は、その言葉に思わず目を細めた。


 制度も、階級も、戦争すらも超えるもの――それは、“人の心”だ。


 (だからこそ、我々の社会は、そこを起点に組み立てなければならない)


 羽鳥での改革が“強制”ではなく、“共有”によって成り立つものでなければ、きっと同じように分断が起きる。


 「ありがとう、お吉さん。君の言葉で、また一つ見えたよ」


 「……いえ。こちらこそ、お役に立てたなら」


 その日の夕暮れ、羽鳥政庁の空は、ほんのりと桜色に染まり始めていた。

日が暮れてしばらく経った頃、藤村晴人は政庁の書庫に足を運んでいた。


 棚には、羽鳥政庁が保管している各国の新聞写本や報告書、翻訳された法律文書、外交記録が整然と並んでいた。その中には、アメリカの南北分裂に関する資料も増えてきており、今や羽鳥政庁の知的中枢としての役割も担っている。


 晴人は、ひとつの引き出しから薄く綴じられた英文新聞の抜粋を取り出し、机に広げた。

 記されていたのは、アメリカの奴隷解放をめぐる世論の対立と、リンカーン大統領の就任演説の要旨だった。


 “…We are not enemies, but friends. We must not be enemies…”

 ――「我々は敵ではなく、友である。敵になってはならない」


 その一節を読みながら、晴人は深く息を吐いた。


 「敵か、友か……」


 誰が敵で、誰が味方なのか。その線引きは常に流動的で、しかもときに、政治や思想の名のもとに、簡単に“人間”が分類される。


 ――江戸で改革を志した人々も、時代に呑まれ、粛清された。

 ――異国と向き合い未来を夢見た者たちも、保守派から“国賊”と罵られた。

 そして今、アメリカで理想を掲げたリンカーンもまた、国を分かつ火種となっている。


 (理想は、時に人を殺す。けれど、理想がなければ、人はただ生きるだけの存在になってしまう)


 晴人は目を閉じて、ゆっくりと紙に指を走らせた。


 “南北戦争の根底にあるのは、正義と生活の衝突。

 奴隷解放は理念であり、現実ではない。

 理念が現実を変えるには、時間と痛みが伴う。

 我々が羽鳥で為そうとしていることも、同じ道を通るだろう。

 だが、その痛みの中でこそ、確かな未来を手にすることができる。”


 記し終えると、ふと後方に気配を感じた。


 「失礼いたします。お夜食を……」


 静かに障子が開かれ、斎藤お吉が膳を運んできた。


 麦飯と菜の漬物、それに根菜の味噌汁という、慎ましいが温かみのある膳だった。湯気がふわりと立ち上り、書庫の冷えた空気をわずかに緩めた。


 「ありがとう。……いつも気が利くね」


 「藤村様が、こちらに籠もっておられると聞きまして。少しでもお身体を労っていただければと」


 お吉は膝をつき、膳を机に並べながらそっと言葉を添えた。


 晴人は箸を手に取りながら、ふと思いついて尋ねた。


 「お吉さんは……南北戦争の話、どこまで聞いてる?」


 「少しだけ、です。政庁で皆が話しているのを聞きかじった程度で」


 「ふむ。たとえば、“自由のための戦争”って、どう思う?」


 お吉は少し考え、まっすぐに答えた。


 「自由って……自分の心で動けることだと思います。でも、人に押しつけられたら、それは自由じゃないような気がします」


 晴人は、思わず微笑んだ。


 「それ、正解かもしれない。自由というのは、誰かがくれるものじゃなくて、自分で選び取るものだ。でも、奪われ続けてきた人々には、それを選ぶ“権利”すら与えられていなかった」


 「アメリカの黒人の方々ですね……」


 「そう。彼らにとって、戦争は“自由を奪われ続けた歴史”との決別でもある」


 「でも……」


 お吉は、膝の上で手を重ねながら続けた。


 「戦争で得た自由って、喜べるんでしょうか。大切な人を失っても、心から“自由だ”って言えるのか、私には分からなくて……」


 その言葉に、晴人は箸を止めた。


 まさに、それこそが戦争の本質だった。

 勝っても、失う。

 理想を手にしても、心に残るのは痛みと空白。


 (羽鳥は……その道を歩ませてはいけない)


 彼は、改めて心に刻んだ。


 「ありがとう。お吉さん」


 「……いえ。こちらこそ、難しいお話、聞かせていただきました」


 食事を終え、膳を下げた後も、晴人はしばらく机に向かっていた。

 筆をとり、政庁記録用の報告書に、こう記した。


 “アメリカにおける内戦の本質は、統治の問題ではなく、価値観の衝突にある。

 我が羽鳥が、同じ過ちを避けるには、制度より先に、民の心を整えること。

 すなわち、教育・対話・信頼を以て、分断を防ぐ礎とすべし。

 自由は、奪い取るものでなく、育てるものである”


 筆を置いたそのとき、書庫の外から夜警の声が響いた。


 「よいとせぇ〜、よいとせぇ〜……火の用心、火の用心……」


 その声が夜風に揺れながら遠ざかっていく。


 晴人は小さく息を吐いた。


 灯火の揺れる夜、ひとつの国で始まった“裂け目”の戦争。

 その余波は、やがて海を越え、日本の未来にも影を落とすだろう。


 だが今はまだ、この羽鳥という小さな土地で、“争わずに変わる”道を探し続ける。


 それが、彼にできる、現代から来た公務員としての責任なのだから。

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