79話:信、波紋のごとく
一陣の風が、湖の向こうから吹き抜けた。
琵琶湖の水面は陽光を反射してきらめき、春の霞が薄く空を覆う。彦根城下の町は、まだ朝の気配を残していたが、藩邸の奥座敷には、既に一人の男が静かに目を通していた。
彦根藩主、井伊直弼――。
茶を好み、和歌を嗜み、そして多くを語らぬ男。
だがその静けさの裏には、なおも鋭く政情を見据える眼があった。
「……羽鳥政庁、か」
机上には数冊の冊子。表紙に「羽鳥式地券台帳控」「年別収支総計」などと記された写本が並んでいる。これらは、近江商人・大和屋清兵衛を通じて密かに取り寄せたものだ。正規の手段では到底手に入らぬ帳簿群。だが、直弼は“声を上げずに学ぶ”という手法において、一流であった。
「奉行所でも、ここまで詳細には……」
帳簿の筆跡を追う目は、鋭い。
町人、農民、藩士すべての収入と支出、年齢、職種、家族構成までが記され、しかもそのデータは貨幣だけでなく米・労働力など多様な単位で補足されている。
「人の動きが、金の流れと同じように記されておる。……まるで、生きた体内図だな」
その声は低く、誰に語るでもなかった。だが、その目には深い驚きと、微かな羨望さえ宿っていた。
「直弼様、茶のご用意が整っております」
襖の向こうから、側近の家老・脇坂が声をかける。
「うむ、そこへ置いておけ。……それより、羽鳥から戻った商人は、もう参っておるか」
「はい、間もなく到着とのこと。商いの道中話を含め、様々な噂を携えておるようです」
「よかろう。まずは、この目で確かめたことを整理せねばな」
直弼はゆるりと湯呑を手に取り、口元に運ぶ。その動作にも、無駄はない。
「……時代が動いておる」
ふと、つぶやいた言葉には、重みがあった。
「静かにしておれば、風の音はよく聞こえるものだ。時に、嵐の中で最も多くを学べるのは、黙して観る者かもしれぬな」
風が襖を揺らし、遠くで鳥の鳴く声がした。
やがて、間を置かずして、商人が通された。
「彦根藩よりお呼び出しとのことで、恐れながら参上つかまつりました」
姿を見せたのは、大和屋清兵衛――。近江一帯に広がる商流の中でも、一際深く羽鳥商会と接点を持ち、常陸の動きを肌で感じている男だった。
「うむ。茶を一服、そして語るがよい。羽鳥にて、何を見、何を聞いたか」
「はい、畏まりました。……まずは、羽鳥政庁にて行われている、商税の徴収制度でございますが――これがまた、驚くほどに“合理”にてございまして……」
商人は語った。
羽鳥で見た帳簿の正確さ、徴税官と帳簿役の分離、検査と監査の二重構造、そして徴収結果の“公開掲示板”による民への透明性――。
「公然と民に帳簿を見せる、とな」
「はい。しかも、不明点は書状にて質問でき、七日以内に回答が義務づけられております。……まるで、儒家の礼法に則った政治でございます」
「……政治が民を導く道であれば、信を得ることが肝要だ。……理屈だけでは動かぬが、信があれば民は動く。なるほど、常陸の者ども、よく見ておる」
直弼は、再び帳簿に目を落とした。
その視線の奥には、焦燥ではない。
ただ、静かなる意志――“学ぶ”という強さがあった。
「常陸は学べば強くなる。逆に言えば、学ばぬ藩は、取り残される」
彼の背筋が伸びた。
家老が静かに口を開く。
「殿、我らもまた――地券台帳の整理を進めるべきかと。浅井郡、犬上郡の村役人を集め、羽鳥式の写しを見せつつ、新たな登記法を試みては……」
「……よかろう。ただし、“我が物顔”にはするなよ」
「はっ」
「常陸を嗤う者は、今も多かろう。だが、いずれ気づく。誰が“学んだ”かを。そして、誰が黙して“見ていた”かを――」
琵琶湖の水が、風に揺れる。
その静寂の中で、井伊直弼は一枚の和紙を取り出し、自らの筆で、墨を入れ始めた。
“常陸式地券台帳・導入試案”。
それは、彼が自ら動くという意志の表れであった。
語らずとも、風を見て、時を読む。
それが、井伊直弼という男の“戦い方”であった。
薄墨のように霞む夜空の下、江戸城西の丸に隣接する彦根藩上屋敷。その奥座敷では、蝋燭の灯が小さく揺れていた。
机に向かう井伊直弼は、筆を置き、目を閉じる。濃茶の綿入れを羽織ったまま、背筋を伸ばした姿は、どこか僧のような静けさをたたえている。
「……春嶽か」
ぽつりと呟いた名は、越前福井藩主、松平慶永――号して“春嶽”。政事総裁職という要職を預かりつつも、若手の才覚に目を向け、保守と開明の板挟みで難しい均衡を保つ人物である。
「幕府の中で、いま最も“理”を語れる男だ。ならば、聞くに値しよう」
直弼の言葉に、側に控えていた中老・長野主膳が静かにうなずいた。
「羽鳥領の地券制度、すでに民部の役人たちの間でも話題となっております。田畑・山林・町屋までを一枚の地券に束ね、課税根拠を明瞭にする手法は、まさに次代の礎かと」
「帳簿も見たが、あれは武家が作る代物ではない。民の目線で設計されておる。――いや、“民の未来”の目線で、か」
直弼の目が静かに細められた。彼の内心に去来するのは、ただ羨望ではない。
それは、覚悟の揺らぎでもあった。
「我が井伊が長く守ってきたのは、秩序と規範。その根が腐れば、いくら“開明”を唱えようとも、ただの雑木林に過ぎぬ」
彼は続けて言った。
「だが、羽鳥は“根”から変えようとしておる。しかも、それを“民の納得”という土で支えようとしておる。……時代が変わるとは、こういうことか」
その夜、井伊直弼は筆をとった。
宛名は、政事総裁職・松平春嶽の下に設置された調査役――いわば、幕府内における政策監査の実務を担う参謀格の人物。
墨の香をたてながら、直弼は筆を走らせた。
――常陸藩羽鳥領における新地券制度の実施手法、及び課税運用による財政効果を調査されたし。
――徴税・登記・相続・取引等への波及の可能性も含め、導入可否について意見を求む。
――我らが時代の舵取りを誤らぬように。
冷たい夜気の中、封をし、重ね箱に収めたその書状は、長野の手によって、即夜の便で伝馬町役宅へと届けられた。
翌朝には、早くも幕府内部で密やかな話題となり始める。
「井伊様が……羽鳥の制度を?」
「まさか、表立って動くお方ではあるまい。だが、この“黙して学ぶ”という姿勢こそが、かえって幕閣に動揺を呼んでいる」
春嶽配下の調査役――勘定吟味役から登用された若き官僚・橋爪慎蔵は、書状を読み終え、ふう、と小さく息をついた。
「殿(春嶽様)からは“羽鳥を否定するな、だが真似もするな”と以前命じられていたが……いよいよ転機だな」
江戸城本丸から西の屋敷へ戻る途中、橋爪はふと、羽鳥出身の役人――晴人という男の名前を思い出していた。
※
その日の夕刻、井伊は江戸城登城を終え、屋敷の座敷で一人、囲炉裏にあたりながら湯を啜っていた。
目の前には、羽鳥領の帳簿複写がある。手書きによる詳細な地券登録。課税対象ごとの資産価値、取引履歴、所有者確認印。
「……これは、もはや“国の簿冊”だな。藩のものではない」
直弼の視線が、そこで止まる。
“相続優先権に関する註釈”。
子が居ぬ場合、妻や姉妹、甥や姪への承継を認めた補則。これまで“武家の家”が守ってきた男系相続の原則を崩すその発想に、井伊は思わず、唇を引き結んだ。
「……このようなものが、百年早く現れていれば、佐和山も、潰えはせなんだかもしれぬ」
呟いたその声には、過去への痛みが滲んでいた。
彦根藩の前身――佐和山城の落日。それを思い出さぬはずがない。
「されど、我らは“今”を担う者。ならば、この手で守るしかあるまい。未来のために」
井伊直弼は、静かに帳簿を閉じた。
蝋燭が燃え尽きる寸前、その灯りはなお、屋敷の静けさを照らし続けていた。
春の雨が、静かに羽鳥の大地を濡らしていた。
政庁の中庭では、竹の葉から滴り落ちる水音が、時間の流れをゆるやかに刻んでいる。雨脚は細く、風もなく、空一面を覆う雲はどこまでも灰色だった。それでも、政庁の空気は妙に引き締まっていた。
会議室には幹部がそろい、珍しく“緘口令”が敷かれていた。
「――彦根より、使いの者が参っております。井伊家中、長野主膳からの書状でございます」
報告の声を上げたのは、浅尾主税。かつて勘定所で奉職していたが、今は羽鳥政庁の記録局長として、新制度の管理全般を担う実務の要である。
書状を受け取りながら、藤村晴人は湯呑の茶を啜った。
「井伊直弼からの書状か」
「はい。名目は“法規と帳簿様式の照会”とありますが、文面の節々から察するに……」
「導入検討の下準備、だな」
静かに告げた晴人に、会議室の空気が少し動いた。
「まさか、あの井伊直弼が……」
武断派の旗手とも言える彦根藩主が、羽鳥の制度に興味を示す――そんな展開は、わずか数ヶ月前ですら想像すらできなかった。
しかし今や、羽鳥は“異端”ではなく、“先進”の地と見做されている。
「……それほどまでに、羽鳥式地券制度が注目を集めている、ということか」
千坂登が眼鏡越しに書状を覗き込みながら呟いた。羽鳥帳簿制度の設計者のひとりである彼は、書状の文面を見てすぐに意図を察していた。
「文面を見る限り、彦根は真剣です。単なる形式だけを求めているのではない。制度そのものの“運用”と“定着”に強い関心を抱いている」
「模倣したいのだろうが……それで同じものができるとは限らん」
そう呟いたのは、農政局の古参、仁木孫兵衛だった。
「この制度がうまくいっているのは、“村ごとの話し合い”と“記録の公開”を徹底しているからこそ。文書の形式だけ渡しても、それが根付くとは思えん」
「まさにそこが焦点ですな」
千坂が頷く。
「制度とは、ただ整えれば定着するものではありません。受け入れられ、使われてこそ“制度”になる。井伊様が気づいておられるとすれば……やはり只者ではない」
晴人は、雨音に耳を澄ませながら静かに口を開いた。
「……今、羽鳥で動いている制度は、“治めるため”のものじゃない。“生きるため”の仕組みだ」
会議室の空気が変わった。
「民が不安なく生きられるために、土地の所在を明確にし、相続や売買を公にし、争いを防ぐ。だから帳簿がいるし、証明が要る。役所の都合じゃない、民のための仕組みなんだ」
そう語る晴人の声には、重さがあった。現代の知識を背景に持つ彼は、何が制度を支えるかを肌で理解していた。
「井伊がそれを読み取ったなら……こちらも応じねばなるまい」
※
その日の午後、晴人は予定していた視察を取りやめ、政庁の奥にある文庫へと足を運んだ。
本棚に並ぶ帳簿類――村ごとの台帳、地券の発行記録、再発行申請書、副本の照合作業日誌、相続時の民会議事録に至るまで、制度を動かす“背骨”がここにはある。
「……これを他藩で再現するのは、至難だろうな」
手にしたのは、先月の帳簿。ある町人が急逝し、血縁でない女中へと土地を遺す決断がなされた事例だった。町会で討議され、全会一致で承認され、証人の署名と共に記録された一冊。
「“血”ではなく“信”で繋ぐ……そんな相続が、羽鳥では受け入れられつつある」
そう呟いて、晴人は帳簿を棚へ戻す。
令和の公務員として長年行政と向き合ってきた彼にとって、これは“理想”でもあった。
制度が機能するとは、“運用する人間が信頼されている”ということ。
その土壌があって初めて、法は実を結ぶ。
「井伊……あの男も、それに気づき始めたか」
ふと、晴人の顔に微かな笑みが浮かんだ。
その笑みには、警戒と誇りと、わずかな覚悟が混じっていた。
「羽鳥式制度は、もう羽鳥だけのものじゃない。波が広がるなら、しっかりと舵を取らねばならんな」
※
その夜、記録局では浅尾主税が黙々と筆を走らせていた。
照会書への返答案、その根拠となる文書目録、開示可能範囲の明示。事前に決めた“外部対応マニュアル”に従い、粛々と準備が進められていた。
最後の頁に、彼はこう書き加えた。
――羽鳥式制度の要諦とは、“帳簿”に非ず。“信”なり。
筆を置いた浅尾は、ふぅっと息を吐いた。
窓の外では、春の雨がようやく止みかけていた。だが、その雨が残した波紋は、静かに、そして確実に、江戸へ、彦根へ、全国へと広がりつつあった――。
翌朝。
晴人は、政庁の来客室で井伊家の使者を迎えていた。
使者といっても、身なりは地味な町人風であり、帯刀すらしていない。だが、書状の送り主が井伊直弼である以上、ただの使いではあるまい。
「ようこそ羽鳥へ。雨の道中、大変だったでしょう」
穏やかに迎え入れる晴人に対し、使者は静かに一礼し、風呂敷から分厚い書類束を取り出した。
「御礼にございます。彦根藩内における、当座の土地管理の実態と、村落ごとの取引帳簿の写しにございます」
晴人は目を細めた。
単なる形式照会ではない。自らの情報を先に開示することで、相互の信頼を構築しようという意図がある――つまり、これは「交換条件」ではなく、「誠意」だ。
「……拝見します」
書類を手に取り、ページをめくっていく。筆跡からして複数の書き手が関わっている。村役人、書役、帳簿係――現場からの“実務者の声”が添えられていた。
「井伊は、本気か」
思わず口にした呟きに、使者が頷いた。
「殿は申されました。――『武威によらぬ秩序を学ぶときが来た』と」
静寂が流れた。
外では風が竹林を揺らしている。その音が、晴人の胸に残るわだかまりをほぐしていくようだった。
「……ありがとうございます。羽鳥の地券制度について、要点をまとめた資料を用意しております。お渡しできる範囲には限りがありますが、今後のご参考になれば」
「感謝いたします。殿も、貴政庁の誠実な対応を深く受け止められることでしょう」
その言葉に、晴人は胸の奥で何かが静かに燃えるのを感じていた。
自分たちの行動が、遠く離れた大名の価値観をも動かしている――。
それは、奇跡ではなかった。数々の調整と説得、怒号と涙の果てに築かれてきた制度の積み重ねだった。
そして今、それが“学ばれる”対象となっている。
※
使者が帰ったあと、晴人は会議室に幹部を集めた。
机の上には、井伊家から渡された資料と、羽鳥側が用意した情報開示資料、そして照会に対する返答案が広げられている。
「ここまで情報を見せられたら、こちらも中途半端な対応はできん。だが、見せるということは、同時に“責任”も生まれる」
晴人の言葉に、幹部たちは緊張の色を浮かべた。
「もし他藩が羽鳥の制度をそのまま導入し、失敗すれば、その責任の矛先はこちらに向くかもしれん。最悪、制度そのものが否定される危険すらある」
「ですが……それでも、伝える価値はある」
浅尾主税が静かに口を開いた。
「我々は、“隠す”よりも“見せる”ことでこの町を支えてきた。だからこそ民は帳簿を信じ、地券に意味を見出したのです」
「信をもって応ず、か」
晴人はうなずく。
「ならば、我々も“誰にでも渡せる制度”を目指すのではなく、“信じて任せられる相手に託す制度”として、道筋を整えよう」
千坂登がその言葉に続いた。
「情報を段階的に示し、まずは“原理”を理解してもらう。その上で、必要に応じて“実務”の共有へ進む。段階を踏めば、混乱も避けられましょう」
「では、各局で担当を振り分けてくれ。記録局、帳簿局、そして民会監察官室――それぞれ、回答内容と資料を確認し、必要があれば現場からの補足をつけるように」
一同がうなずいた。
羽鳥の制度は、もはや閉じた村落の知恵ではない。
それは、“対話”を経て磨かれた“知のかたち”として、他の藩政にも影響を及ぼし始めていた。
※
夕刻、晴人は一人、政庁の中庭に出た。
春雨の残した湿り気が、まだ石畳に残っている。空はようやく晴れかけていたが、地平にはまだ雲が重く残っていた。
「……これが、変革というものか」
ひとつ息を吐き、空を仰ぐ。
もともと彼は、地方自治の現場で働いていた一公務員だった。
税務と地籍の調整、住民窓口の対応、町内会とのすり合わせ――それら地道な仕事の積み重ねが、令和の彼を育ててきた。
その彼が、今、制度のかたちそのものを“未来へ託す者”になろうとしている。
「俺にできるのは、きっと小さなことだ。だが、その小さなことの積み重ねが、きっと大きな道になる」
雨は止んでいた。
だが、羽鳥に芽吹いた“信の制度”という種は、今まさに芽を出し、他国へ根を広げようとしていた。
やがて、風が竹を揺らした。
音はさやさやと、遠くまで届いていく。
その音に乗せるように、晴人は静かに呟いた。
「見せてやろう。俺たちの、羽鳥のやり方を」
――それは挑戦ではない。信頼への応答だった。