表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

103/375

78.5話:風が吹く国へ

※お知らせ

本作はしばらくの間、毎日「朝6時」と「昼12時」の2話投稿を予定しております。

通勤・通学のお供に、そして昼休みに、物語をお楽しみいただければ幸いです。

一筋の白煙が、春の空に滲んでいく。


 羽鳥港の沖合に、異国の黒き蒸気船が静かに停泊していた。船名は「アシュランド号」。もとはアメリカ海軍に所属していたスループ艦である。それを、常陸藩が自費で購入し、福沢諭吉の監修のもと、横浜を経由して羽鳥まで曳航・改修したものであった。


 この艦には、象徴的な意味が込められている。西洋列強と伍する覚悟、そして開国に対する“覚醒”の印――。


 艦の甲板では、春の海風を受けながら、四人の男たちが海を見つめていた。


 吉田松陰、佐久間象山、武市半平太、そして岩崎弥太郎。


 彼らは、常陸藩の命を受け、清国・上海へ渡る代表団である。ただの視察ではない。交易と、政治と、未来を見極めるための、大いなる航海である。


「これが……蒸気の力か」


 武市が低く唸った。巨体を持つ艦の心臓部――ボイラーから吹き出す蒸気の音が、時折、鈍い響きをもって空に漏れる。


「海風と蒸気が混ざる匂い、悪くない。まるで、時代の転換の匂いだ」


 佐久間象山が目を細めて呟いた。彼は、長らく幕府の枠組みのなかで開明を訴え続けてきた学者だが、今や常陸藩にその知を提供する立場にある。


「先生。私たちは、正しい道を歩んでいるのでしょうか」


 その言葉に、振り返ったのは吉田松陰。真っすぐな眼差しには、迷いと覚悟が同居していた。


「攘夷とは、ただ刀を振るうことではない。己が眼で、異国の“現実”を見て、なおそれでも誇りある道を選ぶことだ。上海で、それが見えるかもしれん」


 象山は頷いた。


「上海の租界では、英国・仏国・米国が好き放題している。あの光景を見た時、人は二つに分かれる。“恐れ”、刀を抜く者と、“学び”、未来を築く者にな」


 「俺は、後者でありたい」


 小声でそう言ったのは、岩崎弥太郎だった。


 まだ若い。だが、その目には確かに、海の向こうの“可能性”を見つめる強さがあった。土佐から常陸へと流れ着いた彼は、商人として、語学者として、そして将来の夢を胸に、この航海に参加することを志願した。


 「お前、船に乗ったことは?」


 武市が尋ねると、弥太郎は真面目な顔でうなずいた。


 「ありません。でも……学びたいんです。世界がどれだけ広く、常陸がどれほど小さいかを」


 「いや、常陸は小さくない」


 松陰がそう返した。


 「この藩は、“日本を動かす気概”を持っている。どの藩よりも早く議会をつくり、試験で官吏を選び、教育と技術を惜しみなく民に与えている。そういう藩だからこそ――我々が海を渡るのだ」


 遠くから鐘の音が鳴った。出航の合図だ。


 港には、晴人の姿があった。


 「――行け」


 その声は届かないはずだったが、甲板に立つ松陰は、微かに口元を緩めた。


 かつて、罪人として投獄され、死を待つしかなかった己が、いまや蒸気船に乗って海を渡る。


 その背に、誰かの夢が乗っている。その想いが、海の彼方に向かって進み始めた。

蒸気のうねりが船体を震わせる。錆色の煙が風に乗って東へ流れ、羽鳥の空をゆっくりと曇らせていった。


 その煙を見上げながら、艦内の一室では岩崎弥太郎が主君――常陸藩政庁の長・藤村晴人から託された文書を、繰り返し読み込んでいた。


 「……砂糖精製器、鉛管、空気ポンプ……ふむ。蒸留器は、どんな形式を選べばよいか……」


 船室の机には、分厚い紙束とともに、手描きの図面や英語の解説書が広げられている。いずれも晴人がこの上海行きのために用意させた、「日本にまだ存在しない技術と製品」の設計資料であった。


 紙の端には、達筆でこう記されていた。


 ――「学びを携えて帰れ。武士たる者、戦ばかりが能ではない」


 それは、弥太郎にとって大きな意味を持つ言葉だった。


 彼はたしかに武士であり、常陸藩の士分に列せられている。だが、その本領は商才と語学にあり、藩内でも特異な存在だった。かつて土佐で冷遇された自分が、今こうして、未来の藩の命運を担って異国へ向かう――。


 「……俺にできることを、やるまでだ」


 呟く声に、迷いはない。


 ――今回の“交易団”と銘打った渡航。その実態は、岩崎弥太郎に託された極秘任務にあった。


 上海、そして租界を介して欧米から、“日本にまだ存在しない物資や技術”を、直接持ち帰る。

 単なる商取引ではない。常陸藩が独立的な技術基盤を築くための、“文明の採集”だった。


 「こういうのは……本来、幕府がやるべきことだろうがな……」


 低く呟いたのは、部屋の隅に胡坐をかいていた佐久間象山であった。船の微かな揺れに合わせ、裾を直しながら目を細めて言う。


 「国が動かぬなら、志が動けばよい。常陸は、その志を持っている。お主も、誇るがよい、弥太郎殿」


 「……はい」


 自然と、背筋が伸びる。


 自分は士であり、しかも学ぶ者であり、商う者であり、動く者――。

 それを認めてくれる場所が、常陸にはあった。


 そんな弥太郎に、階段の上から声がかかる。


 「岩崎殿。進捗はどうだ?」


 振り向けば、吉田松陰が降りてくるところだった。

 その手には、晴人が添えた資料の束が握られていた。


 「いよいよですね、松陰先生」


 「……うむ。渡航に備え、船内の積荷は一通り確認した。あとは人の覚悟だけだな」


 そう言って書類に目を落とす松陰の指が、ある一項目で止まる。


 「これは……ガルバノメーター?」


 「はい。電流の微細な変化を計る機械とのことです。まだ日本では製作も困難ですが、今後の医学、通信、技術開発の要となると」


 「なるほど……すでに“火”から“電”へ、というわけか」


 松陰の目が静かに細まる。


 「今の我々にとって、これは火花のようにしか見えぬだろう。だが、時が満ちれば――これが国を照らす灯火となる」


 「まったく……あの晴人という男は、どこまで先を見ているのか」


 そう漏らしたのは象山だった。


 「医療器具、写真機材、蒸気機関の制御部品……この調達リストだけでも、五年先、十年先を見越しての内容じゃ。しかも、それを素人ではなく、武士であるお主に託すあたり……」


 「志がある人間には、立場など関係ない。あの人が示してくれたのは、そういう“未来”です」


 と、弥太郎は静かに答える。


 「己が武士であることを誇りにしながら、商うこと、仕えること、動くことに何の恥もない……その姿勢を学びました」


 「……いい答えだな」


 松陰が微かに笑った。


 「我々は、目撃することになる。世界が、どれほど広く、そして変わり続けているのかを。だがそれを語れる者と、伝えられぬ者とでは、大きな差がある」


 「そのために、見てまいります。できるだけ深く、広く。そして……正確に」


 弥太郎は、懐から折り畳まれた和紙の手紙を取り出し、胸元でそっと握る。


 それは、晴人が船出の前夜に彼だけに手渡した一通だった。


 文面の内容は簡潔だった。


 ――「未来は、“君”たちがつくれ。私は“土”を用意した。それを“耕す者”が必要だ」


 その言葉の意味を、弥太郎は深く、静かに噛みしめていた。

陽光は、すでに西へ傾き始めていた。

 黒く塗られたアシュランド号の外壁が、その斜光を受けて鉄のように鈍く光っている。


 その甲板の隅――、岩崎弥太郎は風を受けながら、海図と船旅日誌を広げていた。筆先が震えぬよう、片手で紙端を押さえながら、何行もの英文を日本語に訳し、それをさらに備考欄へ書き込んでゆく。


 「……速度、平均七ノット。針路、南南西。天候、曇り、微風……」


 呟くような記録。誰に命じられたわけでもない。だが、これが必要になると彼は知っている。

 次に続く者のために。あるいは、自らがまた新たな航路を拓くときのために。


 と、その肩に、木綿の羽織がふわりと掛けられた。


 「冷えるぞ。陽が落ちる」


 声をかけたのは武市半平太だった。


 「ありがとうございます。……つい、筆が止まらなくて」


 「真面目だな、お前は。だが、それでいい。武士が筆を持つのも、戦と同じことだ」


 「武士と商人は両立しますか?」


 ふと、弥太郎が問いかけた。


 「俺のような身分からすれば、“士たる者が銭を数える”などと眉をひそめる者も、まだまだ多くて……」


 武市はしばらく黙っていたが、やがて短く笑った。


 「されど、戦わずして国は守れぬ。食わずして民は生きられぬ。ならば、銭もまた“戦の道具”だろう。お前のしていることは、戦と同じだ」


 「……武市先生」


 「恥じるな。銭を稼ぐことも、品を選ぶことも、異国の言葉を学ぶことも――そのすべてに“志”があれば、それは武士の道の延長にある」


 弥太郎は、深く一礼した。


 風がまた、ゆるやかに吹く。


 遥か前方には、うっすらと陸影が見えてきていた。大陸――清国、そして上海。


 「弥太郎、下へ降りろ。着岸まであと数時間だ。最終確認をする」


 佐久間象山の声が、甲板下から届くと、弥太郎は急ぎ立ち上がり、資料一式を胸に抱えて艦内へ向かう。


 艦の船室――。


 そこでは、松陰、象山、武市が、それぞれの手帳と荷物を整えていた。

 室内には、晴人が用意した「交渉用の覚書」「寄港先案内」「貨幣換算表」などが丁寧に束ねられている。


 「さあ、準備は整ったか」


 松陰の声に、弥太郎がうなずく。


 「はい。現地通貨は銀元中心。上海の英租界では英語が通じますが、仏租界ではフランス語、清人の官吏相手には満州語と漢文が基本だと聞いております」


 「通訳は?」


 「現地協力者として、長崎の通詞崩れだった者が一名、港で合流予定です」


 「よし。言葉があれば耳となる。商材があれば目となる。そして、志があれば――」


 「……舵となります」


 弥太郎が、静かに言葉を継いだ。


 象山が微かに目を細める。


 「その通り。今日からお前は、単なる“随行者”ではない。常陸の代表であり、使者であり、舵である」


 「……はい」


 その一言には、重みがあった。


 書類の山を整える。確認する。積荷の中身、購入予定リスト、調達用の現地価格表――すべてを頭に叩き込み、万一の喪失に備え、控えを分け、分散させる。


 海を越えるとは、物を運ぶことではない。責任を背負うことだ。


 「それにしても……お前のような若い者が、この場にいるというのは、奇跡かもしれんな」


 象山がぽつりと呟く。


 「ただの商人では務まらぬ。士気を持ち、学問を知り、銭勘定もできる。加えて、忠義の心がある――。そんな者が、土佐では日陰者として冷遇されていたとはな」


 「常陸は、与えてくれました。生まれでなく、志で評価してくれる場所を」


 「うむ。ならば、応えてみせよ。晴人殿の期待に」


 その言葉に、弥太郎は静かに頷いた。


 ――彼が持ち帰るのは、ただの物資ではない。

 “未来”そのものだ。


 その夜。アシュランド号は、静かに黄浦江ファンポージャンの河口へと進入した。

 港の灯りがちらつき、遠くに西洋風の屋根が浮かび始める。


 上海に、着く。


 租界の喧騒。戦争の爪痕。英国の圧政、フランスの思惑、清国の苦悩。

 それでも――。


 岩崎弥太郎の目は、少しも揺れていなかった。


 彼の背に、常陸がある。日本の“目”として、彼は見つめる。

 そして、記す。


 この旅の一歩一歩が、いずれ“新しい日本”の礎になることを信じて。

黄浦江を上っていくアシュランド号は、やがて上海の外港――呉淞ウースン沖に錨を下ろした。入港には清国側の許可が必要であり、港湾税を含む書類を整え、手続きを待つ間にも甲板は慌ただしく動いていた。


 「こちら、常陸藩の渡航文書と停泊申請書。清国海関の書式に倣って翻訳済みです」


 船室の片隅で、弥太郎が象山に資料を手渡す。布製の文書袋の中には、交渉記録用の筆記具、地図、そして銀元や西洋銅貨など多国通貨が仕分けされている。


 「これが……すべて、お前一人で?」


 象山が感嘆の声を漏らす。


 「はい、羽鳥の政庁から出発する直前、すべて整えてまいりました」


 「恐るべき若者よ。松陰、お前の弟子のような顔をしておるが、これはもう商隊長である」


 「そう見えるか? いや、そうあるべきだな」


 松陰は笑いながらも、目の奥に緊張を宿していた。

 眼前に迫る上海――それは夢にまで見た「異国の扉」であり、そして、日本が学ぶべき「世界の現実」が詰まった場所だ。


 やがて、港湾役人の小舟が接舷した。


 その船頭に混じっていたのは、風呂敷包みを背負った一人の日本人――。


 「お久しゅうございます、皆様。長崎よりまいりました、奥村清蔵と申します」


 通詞の男は、少し緊張しながらも丁寧に頭を下げた。

 肌は浅黒く、瞳は鋭い。異国語に通じる通詞でありながら、どこか旅慣れた野性味を纏っている。


 「奥村殿、こちらこそ。これより英仏租界へと赴くが、準備は?」


 「すべて整っております。英租界の案内人も手配済み。仏租界の通行証もございます」


 弥太郎は、港湾許可証を奥村に託し、全員が荷をまとめて艦を降りた。


 上海上陸――。


 最初に彼らを迎えたのは、港に並ぶ夥しい帆船群と、混成された民族の喧騒だった。

 中国語、英語、フランス語、ヒンディー語、オランダ語――それらが渦巻く空間に、彼らは足を踏み入れる。


 「……まるで、世界の縮図のようだな」


 松陰が呟いた。


 「“西洋の圧政”などという言葉だけでは、この現実を覆えせぬ」


 象山の顔には、苦みが滲む。


 彼らが向かう先、英租界の一画にはレンガ造りの建物が並び、舗装された道に馬車が走っていた。街角のカフェでは紅茶とスコーンの香りが漂い、西洋人が新聞を広げながら談笑している。


 一方、通りを隔てた場所では、清国の民衆が粗末な屋台を並べ、子どもが裸足で走り、荷車を引く老人が咳をしながら列に並んでいた。


 「ここが、現実か……」


 弥太郎の手が、無意識に拳を握る。


 その拳を、武市がそっと下ろした。


 「見るのが務めだ、弥太郎。感じるのは、後だ」


 「……はい」


 やがて、一行は“英中交易公司”と呼ばれる交易所へと案内される。

 ここでは各国の商人が清国官吏と通訳を交え、交易品の価格、関税、数量について談合を重ねていた。


 英人の担当官が、書記を伴って姿を見せる。


 「ヒタチ・トレーディング・グループの皆様ですか? 歓迎いたします。我々も、日本との直接取引には強い関心があります」


 弥太郎は一歩前へ出る。


 「常陸藩代表、岩崎弥太郎です。本日は、米・鉄・鉱石・生糸等の取引に加え、当方の特産品に対する査定と、契約可能性の検討にまいりました」


 英語の発音は完璧ではなかったが、意味は十分に通じた。


 担当官が手元の帳簿を開き、交渉が始まる。


 松陰と象山は後方から見守る。だが、口出しはしない。

 “これは弥太郎の戦場だ”――そう心得ていた。


 弥太郎の頭には、すでに羽鳥から託された“買うべきもの”のリストがあった。

 それは軍事物資や工業器具に限らない。


 石炭を効率よく燃やす新型炉。

 写真乾板の製造器具。

 可搬式の印刷機。

 小型蒸気機関の図面と模型。

 そして、教育用の木製人体模型――。


 「それらは、日本ではまだ製造されておらぬ。ならば我らが持ち帰り、模倣するのみだ」


 交渉は、数時間に及んだ。


 最後に、担当官が笑顔で告げる。


 「あなた方のような知識人が、日本から来られるのは稀なことです。我々は単なる“顧客”ではなく、“パートナー”を求めております」


 「我々も同様です」


 弥太郎の返答には、確かな響きがあった。


 その夜。

 一行は仏租界の宿へと戻り、地図と資料を広げた。


 「……まるで別世界でした」


 武市の声に、松陰がうなずく。


 「これが現実だ。そして、それを受け止め、我らの中へ取り込まねばならぬ」


 「“模倣”は恥ではない。必要なのは、“魂を込めた模倣”だ」


 象山の言葉が、ゆっくりと部屋に落ちた。


 その言葉を胸に、弥太郎は再び海図を開く。

 この旅の終わりではない。始まりなのだ。

陽が昇りきる前の上海は、湿った空気と濃い煤煙の匂いに包まれていた。

 海沿いの波止場から続く石畳の通りには、牛車や人力車、異国の軍服を着た男たちの姿が混じり合い、早朝にもかかわらず活気があった。


 岩崎弥太郎は、その雑踏を避けるようにして裏通りの市場へ向かっていた。

 彼の手には、常陸藩の代表として“何を見て何を買うか”の指針が綴られた覚書がある。晴人――いや、晴人様の筆跡で綴られたその一枚一枚は、単なる物品のリストではない。日本という国の未来を見据えた「問い」そのものだった。


 「綿製のフィルター」「鉱石分析用の秤」「温度と湿度を測る欧式計器」……。

 そして、最重要項目として記されていたのはこうだ。


 > 『日本では製造できぬもの、日本に持ち込めぬ思想、それを見て、選び、持ち帰れ』


 通訳を兼ねる現地協力者を伴い、弥太郎は欧商人の店を渡り歩いた。

 上海の英租界では、すでに幕府側が英国と細い貿易線を結んでおり、常陸藩もその“恩恵”を受けている形となっていた。これは将軍後見職である一橋慶喜と、大老である徳川斉昭の後ろ盾があってこそ可能となった“非公式の優遇”である。


 「幕府の代理である一橋家の信頼がなければ、我々がここにいることすらできなかった」


 佐久間象山が前夜の夕餉でそう語った言葉が、今も弥太郎の胸に残っていた。

 交易は独立ではなく連携である。理想だけでは船も動かず、銭も動かない。


 ふと、石畳の隙間に腰を落とす老人と目が合った。顔には深い皺が刻まれ、手には木製の数珠が握られている。

 その隣には、身を寄せるようにして少女が一人。裸足の足先が冷たく濡れていた。


 ――この国も、我が国と同じか。


 上は贅を尽くし、下は飢えに喘ぐ。


 しかし、それでも活気はある。貧しい者も、諦めていない。

 弥太郎は財布から少量の銀貨を抜き、少女の膝元へそっと置いた。少女は言葉もなく、それでもはにかんだ笑みを浮かべた。


 その後も交渉は続いた。

 清国の地元商人、そして租界の英国人や仏人たちとの商談では、常陸藩の名を出すだけでは動かぬ場面もあった。だが、そこに「幕府の信任あり」という一文が加われば、交渉の空気は一変する。


 “幕府の傘の下”にいること。それが、ここでは武器になる。


 五日目、常陸藩は清国側官吏との合同視察に招かれた。

 視察先は、上海郊外にある製陶工房と精製所だった。岩崎弥太郎と松陰、象山が随行し、清側の役人と交流を図る。


 土埃の中、窯から取り出されたばかりの磁器が白く輝いていた。

 だが、工房の内部に入ると、そこにいたのはぼろぼろの衣服を着た少年工たちだった。ひとりは咳が止まらず、もうひとりは顔を上げようともしない。


 「ここには、技術がある。だが、人は守られていない」


 松陰が低く呟く。

 「これを日本に導入するならば、制度と思想も同時に変えねばならぬ。でなければ、“搾取”だけを学ぶことになる」


 視察の後、船室で弥太郎はひとり考えていた。

 日本は何を学ぶべきか。何を拒むべきか。そして、どこへ進むべきか――。


 清国と日本。文化も制度も異なる。

 だが、似ているのは“変化を恐れながら、変化を求めている”という点だった。


 その夜。

 アシュランド号に戻った常陸藩一行は、密かに開かれた報告会を行った。将来の展望、次の航海の可能性、そして技術導入の優先順位。

 弥太郎は、その場でこう提案した。


 「いま我々が手に入れたのは、“物”だけではありません。“視点”です。

 私はこれを、記録としてまとめ、藩内の教育機関と共有したいと願います」


 松陰と象山が同時に頷いた。


 「それこそが、旅の意味だ」


 上海滞在は、こうして終わりを迎えようとしていた。

 幕府の使節は先に英仏側との条約再確認のために離れ、常陸藩の面々は最終積荷の確認を進めていた。


 日誌の最後のページに、弥太郎はこう記した。


 > 『この旅の果てに見たのは、外の世界と、己の内。

 > 交易とは、銭のやり取りだけではない。価値と思想の交差である。

 > 我々は、いまようやく、出発点に立ったのだ――』


 やがて、港に汽笛が響いた。

 アシュランド号が再び出港する時が来た。


 弥太郎は港の石段に立ち、振り返る。

 この地に置いていくものもある。だが、持ち帰るべきものもある。


 “未来”を、背負って。

アシュランド号が再び黄浦江を下る頃、朝霧のような白い煙が上海の街並みに漂っていた。


 出航から四日。外洋を越え、ようやく長崎港の沖合に日本の島影が見えてくると、岩崎弥太郎は艦上で深く息を吸い込んだ。


 「潮の匂いが違いますな」


 呟いたのは、松陰だった。彼の目は港の先、山々の稜線を静かに見つめていた。


 「ええ、やはり……この国は、ただいま、と思わせてくれます」


 弥太郎は穏やかに笑った。

 だがその胸中には、上海で見た光景と、その“濁り”がいまだ渦を巻いていた。


 清国の格差と抑圧。

 欧州諸国の干渉と、それに抗えぬ国家。

 そして、それでも活気を捨てず生きる市民たち。


 「……戻ってからが、本番だ」


 自らに言い聞かせるように、弥太郎は呟いた。


 やがて、アシュランド号は長崎奉行所の検閲を受けつつも、特例として早期上陸を許された。そこにはすでに、常陸藩の迎えと、幕府の監察役が待機していた。


 報告書と積荷は二手に分けられ、重要品は藩の特使によって羽鳥政庁へ直送される。

 一方、弥太郎と象山、松陰らは江戸に向かう途中、まずは水戸――すなわち晴人の元へと足を運ぶこととなった。


 ――羽鳥政庁。


 春を迎えたばかりの敷地には、新たに整備された講堂や技術舎が建ち並び、街道から入ってきた弥太郎たちは、思わず息を呑んだ。


 「……ずいぶんと変わりましたな」


 「この数ヶ月で、ここまでとは……」


 象山と松陰が言葉を交わす横で、弥太郎はまっすぐ、政庁の奥――晴人が待つ執務室へと向かっていた。


 扉が開かれたその先。

 晴人は既に机を立ち、静かに一礼して彼らを迎えた。


 「おかえりなさい、岩崎殿。皆さまも、無事で何よりです」


 「ただいま戻りました。お約束の“未来”を、いささかばかり……持ち帰りました」


 深く頭を下げた弥太郎の手には、分厚い報告書と現地資料が握られていた。


 執務室の中央には、急ぎ用意された長卓があり、そこに三人分の椅子と、温かい茶が並べられていた。

 すぐに、弥太郎は自らの記録を一枚ずつ広げていく。


 「これが上海での交渉成立の記録です。そしてこちらが、清国官吏と交わした文書。現地租界における通商可能品目と関税表、さらに欧米商人の見積書……」


 そのすべてに目を通しながら、晴人は一言、一言を確かめるように頷く。


 「……この価格であれば、輸入品として成立する。関税も比較的低く抑えられているし、港の使用条件も悪くない」


 「はい。交渉の際には、幕府側の後押しもありました。ですが、最終的に現地商人の信頼を得る決め手となったのは――我々が“独自の観点”で品を見ていたことです」


 「独自の観点?」


 弥太郎は、懐から小さな木箱を取り出した。中には、精巧な欧式の計量器と、温湿度計が納められている。


 「これらは単なる道具ではありません。精密な“環境制御”に用いるもので、工場や薬局で使われているものです。上海の工房ではすでに導入されており、我が国の産業にも必要だと確信しました」


 「なるほど。これは……薬品製造や鋳造にも応用できそうですね」


 晴人はその器具を手に取り、静かに目を細めた。


 「この旅で、あなたは“物”だけでなく、“仕組み”を持ち帰ってくれた」


 「……はい。そして、“格差”や“抑圧”という、避けて通れぬ課題も」


 弥太郎は目を伏せたまま、なおも続けた。


 「清国の底辺層の暮らしは……ただ見ていられるものではありませんでした。あの地の惨状を他山の石とするならば、我々がこれから築く社会に“見て見ぬふり”は許されぬと感じております」


 沈黙が一瞬、部屋に満ちた。


 だが、晴人は小さく笑った。


 「ありがとう、弥太郎。……この政庁を預かる者として、あなたの目を、言葉を、誇りに思います」


 ふと、松陰が言葉を挟む。


 「晴人殿。我々は、次なる一歩として、この“仕組み”を導入する体制づくりに入るべきかと」


 「はい。既に政庁内に“工芸局”を立ち上げています。そこを中核として、技術移転と研究体制を整える予定です」


 「では、まずは教育ですね」


 象山が頷いた。


 「上海で得た知識は、長として受け取るだけでなく、次の世代へ伝えるもの。師を育て、生徒を育て、町を育てる。そうでなければ、一過性の“土産話”に終わってしまう」


 「まったくその通りです」


 晴人は机に手を置き、真っ直ぐに三人を見た。


 「我々は、学ぶために出航したのではない。変えるために出航したのです」


 やがて、日が傾く。


 その日の午後。岩崎弥太郎は、羽鳥の町を歩いた。

 かつての田畑が区画整理され、瓦葺きの商家が並び、小さな職工場が開きはじめていた。


 ――この町も、変わろうとしている。


 その変化の一部に、自分が関われたのなら。


 振り返れば、遠く政庁の塔が陽に照らされていた。

 そしてその空に、風が吹いていた。


 “外”から戻った者にしか分からぬ、潮の香りをまとって。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!


 異国・上海の地に立つ常陸藩の面々。その視線の先にある「未来」を、少しでも感じていただけたなら嬉しいです。

 もし本作を「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、お気軽にポイント・感想・ブックマークで応援していただけると、とても励みになります!


 皆さまの一つ一つの反応が、次の物語を紡ぐ大きな力になります。

 これからもご期待に応えられるよう尽力しますので、どうぞよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ