77話:秩序と進化のはざまで
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おかげさまで多くの読者様に応援いただきながら連載を続けてまいりましたが、本日をもちまして本作のストックが尽きました。そのため、毎日4話更新していたスケジュールを、今後は朝6時・夜6時の1日2話更新に変更させていただきます。
楽しみにしてくださっている方には申し訳ありませんが、引き続き丁寧に書き進めてまいりますので、これからも変わらぬご愛読をよろしくお願いいたします!
また、現在以下の作品も毎日21時に1話更新中ですので、ぜひそちらも併せてお楽しみください。
『この手に、癒しと富を。』
『追放されたホビット、世界を旅して英雄になりました』
『ミッドナイト・ブレイカーD×M(デモンズ×メモリー)』
それぞれ違ったテイストでお届けしていますので、まだ読んでいない方はぜひチェックしてみてくださいね!
羽鳥政庁の議場には、朝から重たい空気が垂れ込めていた。分厚い障子を通して微かに射す冬の陽光すら、今は冷たく感じられる。
常陸藩が掲げた新たな統治制度――「藩政参与制」の是非を問う日。壇上には晴人が立ち、その下には士族・町民・農民から選ばれた評議員たちが並ぶ。左右の傍聴席では、各地から集まった改革派の志士や藩外の客人たちが息をひそめていた。その中には、常陸藩士の武市半平太と清河八郎の姿もあった。
「本日をもって、我が常陸藩は“藩政参与制”を正式に発足させる。すべての役職は、試験と実績に基づいて選任されるものとする」
晴人の宣言が響くや、議場にざわめきが起きた。老年の士族らが視線を交わし、小声で何事かを語り合っている。春人はその様子を正面から受け止めた。
「これまでのように、生まれや家柄が役職を保証する時代は終わる。今後は、その責務を果たせる者にのみ、藩の政を担ってもらう」
言葉は平静だったが、その背後には明らかな覚悟があった。壇上の晴人の眼差しは、動揺する士族だけでなく、後方の庶民代表へも向けられていた。
「これは、士族の価値を否定するものではない。むしろ、職務によってこそ、士族の誇りは真に輝くはずだ。地位に安住せず、働きによって民を導いてほしい」
「ふざけるな!」
後列から怒声が飛ぶ。立ち上がったのは、羽鳥の古参士族である松浦某。中老格の彼は憤然とした表情を浮かべ、言葉を重ねた。
「百姓や町人と肩を並べろというのか? 彼奴らと同じ試験を受け、我々が審査されるなど――屈辱だ!」
議場に再び波紋が走る。だが春人は一歩も引かなかった。
「屈辱ではない。試されるべきは、志と責任感、そして民を想う心だ。それがなければ、どれほどの家柄でも政には携われない」
沈黙が場を支配した。
武市半平太は、傍聴席からそのやり取りを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……真っ向勝負、か。やりおるな、藤村殿は」
隣の清河八郎が唇を歪める。
「敵を増やすぞ。士族の誇りを揺さぶることは、時として反乱の種にもなる」
「だが、言葉に迷いがない。奴は自分が火中にいると知りながら、なおも前に出る覚悟がある」
「理想家にしては、肝が据わっている。……いや、肝だけか?」
「それはこれからわかることよ。ワシらが踏み込み損ねた“次”の時代に、あの若者が風穴を開けられるかどうか――な」
晴人は議場に向けて、再び口を開いた。
「我々が目指すのは、民とともにある藩だ。士族が民を導く存在であるならば、その覚悟と資質を、自らの行動で示してほしい」
「そんな理屈で、何百年の秩序を壊すのか!」
別の士族代表が立ち上がり、拳を握りしめた。
「ならば問う。この参与制が始まれば、我ら士族にどんな未来がある?」
晴人は、まっすぐに相手を見つめた。
「努力し、試験を受け、役職につけば、これまで以上に重い責任と裁量が与えられる。だが、怠れば――それ相応の立場に落ちる」
騒然とする空気の中、晴人の声だけが真っ直ぐに貫いた。
「変わるべきは、“誰が上か”ではない。“どう生きるべきか”だ。士族であろうと、町人であろうと、この常陸の地に生きる者として、ともに藩を治め、守っていく。その覚悟のある者に、道を開きたい」
議場に張り詰めた緊張が、次第に沈黙という形で広がっていく。
晴人の言葉が、ひとつひとつ心の奥に沈んでいくようだった。
議員席の前列――中堅の士族代表である伊東源一が、ゆっくりと立ち上がった。年の頃は四十代半ば、かつては藩校で剣術と兵法を教えていたという、理知と実践を兼ね備えた人物だ。
「藤村様……いえ、晴人様」
その呼びかけに、わずかに場がざわめいた。士族が、名前を呼ぶような親密さで語りかけたことが、古い感覚に波紋を落としたのだ。
「我らは、決して楽をしてきたわけではありません。代々、民を守り、訓練を怠らず、戦に備えてきた……。それが士族としての務めであり、誇りでもありました」
晴人は静かに頷いた。伊東は続ける。
「しかし、時代は変わりつつある。我が家の息子など、槍よりも帳簿に興味を持ち、書き物に明け暮れております」
場内から、くすくすと笑いが漏れた。それは嘲笑ではなく、どこか温かな共感のような空気を生んでいた。
「変わらぬことこそ武士の道と思っておりました。だが、変わらねば守れぬものもある。民の生活、政の仕組み、そして我らの在り方も」
伊東の言葉に、複数の士族が視線を交わす。中にはうなずく者もいれば、難しい顔を崩さない者もいた。
その後方、控席に座っていた武市半平太が小声で呟いた。
「……剣で民を導く時代は、形を変えようとしているのかもしれんな」
その隣で、清河八郎が皮肉げに笑う。
「終わりと見るか、新たな形を探すか……。どちらも、命を懸ける覚悟が要る」
その時、議場の後方扉が開き、一人の若者が駆け込んできた。
「報告――! 下妻にて、若き町民集団による試験応募者数、五十名を超えました!」
場が再びざわつく。下妻は常陸藩西部の農商中心地域。武士が中心でない土地から、多くの民が“政に参与する意志”を持って現れたという事実が、場に新たな衝撃を与えていた。
晴人は、それをあえて声に出さず、静かに目を閉じた。
「……もう、始まっているのだ」
独白のように洩らした声は、傍らに控えていた藩政局筆頭・河上がしっかりと聞き取っていた。
「民が、変化を受け入れようとしています。我らの役割も、また変わらねばならぬ時なのでしょう」
「変わることを恐れるな。武士であることは、変わらず誇りだ。だが、誇りだけでは藩は動かぬ。力も、知も、志も要る」
晴人はそう答え、ふたたび前を向いた。
「本日をもって、藩政参与制は正式に始動する。役職への門戸は、すべての藩人に等しく開かれる。士族も町人も百姓も、試験を経て、政に加わる。だが――誤解してはならない。士族を否定するのではない。我らは、支える者としての士族の誇りと責任を、なお重く見る」
再び静寂。
だが、その空気は先ほどまでの冷ややかさとは違っていた。
議場の片隅、長机の脇で控えていた藩吏が、ひとつの帳面を広げる。そこには試験制度の概要、参与制の段階的施行案、各地域の人員配置などが記されていた。
「……徹底しているな」
清河が呟いた。
武市は小さく息を吐き、目を細めた。
「藤村晴人。常陸という小さな藩を舞台に、ここまでやるとは……。ワシらが考え、成し得なかったことを、現にやってのけようとしている」
「だからこそ危うい。力ある士族を敵に回せば、軋轢は避けられぬ」
「それでも進むならば……それはもう“志士”ではなく、“導く者”の道だ」
そして、議場に戻る。
士族の一人、初老の加賀美が立ち上がり、無言のまま深々と頭を下げた。
続いて、町民代表の若者が涙を浮かべて頭を下げる。
下妻から来たという農民代表が、泥のついた足袋のまま、両手をついて頭を下げた。
そのすべてを、晴人は黙って受け止めた。
新しい秩序の夜明けは、まだ遠い。
だが確かに、いま――その歩みが始まった。
冬の陽が、議場の高窓から斜めに差し込んでいた。陽の傾きは時の移ろいを示しているが、この場に集う者たちは、それに気づかぬほどの緊張の只中にあった。
床に敷かれた絨毯の上に、一枚、木製の札が落ちていた。それは「士族席」と記された名札だった。いつの間にか誰かの袖から滑り落ちたのか、それとも意図的に置かれたのかは誰にも分からない。
――士族とは何か。
その問いが、議場を包む沈黙の底で、静かにうねっていた。
その静寂を破ったのは、若い士族の声だった。
「質問があります」
立ち上がったのは、名を瀬川信吾という二十代の若者で、代々武家の家に生まれ育ったが、近年は文事に長け、町方との懸け橋を志していた人物である。
「……仮に、試験に町人や百姓が合格し、政務に携わるようになったとして。我々、士族は――今後、どのような責務を担うのでしょうか」
晴人はその目を見て、まっすぐに応じた。
「武士は変わらず、藩を支える柱だ。だがこれからは、血筋ではなく“力と志”でその柱を太くしてもらいたい。戦の技だけでなく、政を担うための知識も学ばねばならぬ。刀に加えて、筆を執る勇気を持ってほしい」
「……では、それができなければ、武士としての資格を失うのですか」
「否。我らは断じて、武士を否定するものではない。むしろその矜持こそ、藩の根幹としてこれからも必要だ。ただし、それは“責任ある地位”としての武士だ。名ばかりの士であってはならぬ。家を継いだ者ならばなおのこと、民を導く義務がある」
瀬川は、目を伏せながら小さく頷いた。
その横で、老齢の士族、日下部玄斎が重々しく立ち上がった。白髪交じりの丁髷に深い法衣をまとい、かつて藩政改革に抵抗し筆を折ったとされる重鎮である。
「若き者が己の道を問い始めるなら、老いた者もまた、立ち位置を見直す時なのかもしれんのう」
彼は振り返り、士族席に座る仲間たちを見渡す。
「皆、聞こえたか。もはや刀を振るうだけでは、守れぬ時代が来ておる。ならば、我らもまた――守るために変わろうではないか」
低く、だが重みのあるその言葉に、多くの士族が小さく頷いた。
やがて議場内の空気は、少しずつ変わっていった。武士たちは、変化を恐れていたわけではない。ただ、自分たちの“誇り”を否定されるのではと、無意識に構えていただけなのだ。
その頃、晴人は壇上に据えられた巻物を開いていた。そこには、試験制度と参与制の詳細な計画が記されている。実施は段階的に進められ、まずは郡単位での試験運用、次いで藩政全体へと広げる予定だ。
「この計画において、試験の監督官は士族から選出される。つまり、民の声を聞き、政の形を示す役割は、武士の責務だと私は信じている」
その一言に、会場の空気がぐっと締まった。
そして再び、あの清河八郎が椅子から身を乗り出すようにして言った。
「藤村晴人。お前が示す道は、武士を捨て去ることではなく、武士を“進化”させる道なのか」
晴人は頷く。
「そうだ。刀は鞘に収めたままでも、正義は示せる。筆で政を担っても、武士の志は失われぬ。むしろ今こそ、誇りある士族の出番なのだ」
すると武市半平太が口を開く。
「だが、それは容易い道ではないぞ。旧き武士道に生きた者たちには、とてつもなく高い壁となる」
「承知している。それでも、今を生きる者の責務として、新たな世を築かねばならぬ」
そのやりとりを、議場の隅で聞いていた町人の代表・中村庄兵衛が、堪え切れずに声を上げた。
「晴人様! 武士がそう言ってくださるなら、我ら町民も、力を尽くします。政を学び、役目を果たせるよう、日々努力いたします!」
その言葉に呼応するように、農民代表の若者もまた立ち上がった。
「百姓だって、国を思う心は同じだ。勉強します。試験を受けて、役目を果たします。どうか、門戸を閉ざさぬでください」
晴人は、深く頷いた。
「閉ざすことはない。むしろ、開かれた扉こそが、我が藩の力となる。誠実に、まっすぐに、進もう」
その瞬間、議場の空気がふっと和らいだ。
張り詰めていた緊張が、ほんの少しだけ解けたような気がした。士族、町人、百姓――身分の壁が確かに存在するその場に、ひとつの“希望”が芽吹いたのだった。
――それは、静かな夜明け前の風のように。
討議が続く中、外の空はすでに冬の夕暮れ色に染まりはじめていた。高窓から射し込む陽光は朱色を帯び、議場の壁面に長く影を落とす。
それでも、誰ひとり席を立たなかった。士族も、町民も、百姓代表も、ただ静かに晴人の言葉に耳を傾けていた。
壇上に立つ晴人は、深く息を吸い、開かれた帳面をめくる。その手には、常陸藩の未来を託す制度設計の草案が握られている。
「……この場をもって、“藩政参与制”を正式に施行する。第一段階として、羽鳥・水戸・下妻の三郡において、試験制度と参与人事を導入する」
再び、議場がざわめいた。
「試験制度……?」
「町人が政に携わるってことか……?」
「本当に実施するのか、それを……」
その声の中には驚きと困惑、そして微かな期待が入り混じっていた。
晴人は語る。
「今回の制度導入は、段階的に実施する。第一期は十五歳以上を対象とした初等試験。内容は読み書き算術、法令の理解、そして論文。試験を通過した者は“補助参与”として藩政の現場に立ち、実務を学ぶ」
筆頭町吏の一人が、驚いた顔を見せた。
「士族の子弟だけでなく……百姓や町人も“論文”を?」
「その通りだ。身分を問わず、公の場で考えを表す力は必要だ。“書く”ことは、“考える”ことに通ずる」
その言葉に、かつての寺子屋師匠であった年配の町民が小さく頷いた。彼の目には、遠い昔、自らが教えた教え子たちの顔がよみがえっていた。
晴人は続けた。
「第二期は、補助参与の中から実務に耐える者を選抜し、藩政局や各郡役所の“参与見習い”として登用する。最終的には、政庁の補佐職や郡政官へと昇格することもあるだろう」
この段階に至り、士族席の一角がざわついた。
「参与見習いにまで……町人が?」
「郡政官を町人が務めるなど、聞いたことがない!」
その声に対し、晴人は静かに答えた。
「政を動かすとは、民を知ることだ。町を知り、田を知り、人々の暮らしを知る者が加わることこそが、政を支える柱になる。士族の矜持を失わず、民の声を得る――その両輪が藩を動かす」
その言葉を受けた士族のひとり、初老の男が立ち上がる。名は芹沢周蔵、代々藩校に勤めてきた学者肌の人物である。
「お尋ねいたします。藩政を担う参与とは、“殿”の代行者ではなく、民意の代弁者と解すべきなのでしょうか?」
晴人は即座に首を振る。
「どちらでもない。“参与”とは、民の声を聞き、士の技を用い、政の全体を見通す者。藩主や政庁の代理でもなく、民の代弁でもない。志と技により、この藩の未来を構築する“共治者”だ」
静寂が落ちた。
共治者――。
それは、新しい時代の響きだった。
その沈黙を破ったのは、控席にいた一人の若者だった。額に泥がついたままのその青年は、名を佐吉といった。下妻の農民代表としてこの場に呼ばれていたが、最年少であり、誰も彼の発言を予期してはいなかった。
彼は一歩、壇に近づく。
「藤村様……俺は、百姓です。読み書きも、やっとできるくらいです。でも、村をよくしたい。年貢がきつくて、母ちゃんが寝込むのを見るのは、もう嫌なんです」
晴人は、その目を見つめ返した。
「村をよくしたい。母親を助けたい。その想いがあるなら、学べ。試験を受けてみよ。そして、村のために“書き”、藩のために“語れ”。道は開かれている」
佐吉は、ぎゅっと拳を握りしめ、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます!」
拍手が起きた。それは、武士の席からではなく、町人たちの控席からだった。
ひとつ、またひとつ、手を打つ音が広がっていく。
やがて、士族の一角からも、小さな拍手が聞こえた。
誰かが勇気を持って手を叩き、周囲もそれに倣うようにして、議場全体に“共鳴”が生まれていく。
その中心にいた晴人は、何も言わなかった。ただ一人、深く、静かに頭を垂れた。
拍手の音がやがて止み、議場に再び静寂が戻る。
そこへ、政庁の吏員が進み出た。
「晴人様、参与制第一期の試験日程と運用マニュアル、すでに羽鳥郡役所には送付済みです」
「よろしい。では、羽鳥より始めよう」
晴人は、扉の外に視線を向けた。
その視線の先――政庁の前庭には、すでに集まり始めた若者たちの姿があった。頭巾を脱ぎ、鉛筆を握りしめ、見よう見まねで帳面に何かを書いている者たち。
その中には、かつて刀を握っていた若き士族もいれば、商家の娘、農家の少年の姿もあった。
「この藩が、新しい形で歩み始める第一歩だ」
誰に言うでもなく、晴人はそう呟いた。
――変わらぬ誇りと、変わる勇気を胸に。
新しい常陸藩が、今ここから幕を開ける。