9話:闇を裂く声――開国と帳簿のはざまで
朝の空気が張りつめていた。
水戸城下に広がる藩庁の奥、重厚な書院造の一室に、晴人は呼ばれていた。
障子を透かして差し込む光は、まだ弱々しく、庭の白砂に斑の影を落としている。
縁側にかかる松の枝が、かすかな風にゆれていた。
部屋の中央には、藤田東湖が座していた。
いつも通りの和装だが、その眼差しには、これまでにない緊張の色が宿っていた。
「……晴人どの、そなたには一つ、国の話をせねばならぬ」
語りかけは静かだったが、その言葉の重みは明白だった。
脇には、広げられた文書が一通。
英語と漢文が並記された不自然な様式。それを目にした瞬間、晴人は息を呑んだ。
「これは……まさか」
「ああ。江戸より急報が届いた。ペリー艦隊、再来」
東湖は目を伏せ、口を結ぶ。
東湖が机の上に、外国製の羊皮紙を滑らせた。
「……条約草案が示された。開国、通商、そして下田と函館の開港が求められておる」
晴人の喉がひりついた。
その言葉――彼が“未来”で何百回と目にしてきた、歴史の重大な分岐点のひとつだった。
「……日米和親条約、ですね」
「なに?」
東湖がわずかに身を乗り出す。
晴人は、はっとして口元を押さえた。
「……失礼しました。つい、口が滑りました。ですが、これは“始まり”にすぎません。欧州諸国もこれに続き、幕府はさらなる要求に晒されていくはずです」
「どういうことか」
東湖の目が細くなる。晴人は静かに立ち上がり、書類に目を落とした。
開港。片務的な最恵国待遇。外国人の行動範囲の設定――表面上は“平等な条約”に見えるが、その本質は違った。
「これは、“交易”の皮をかぶった、支配の導入です。今は下田と函館だけかもしれませんが、いずれ関税自主権も奪われ、外国人の不逮捕・不処罰(治外法権)まで進んでいくでしょう」
東湖の眉がぴくりと動いた。
「――幕府は、それを、受け入れたというのか」
「そうです。開戦を避けるため、という大義のもとに。ですがそれは、“国の魂”を売ることに等しい」
部屋の空気が一段と冷たくなった。
東湖はしばらく沈黙していたが、やがて低く呟いた。
「……水戸が、黙して見過ごすべき局面ではあるまいな」
「はい。ただ、刀を抜くのは簡単です。でも、国のために必要なのは、正しい“内政”と“信頼”です」
「内政?」
「藩の中に、不正があります。支援物資の帳簿に、奇妙な改竄が見られます。実際に届けられていない場所にも『済』の印が……」
東湖は視線を上げた。
「それを確信しているのか」
「まだ調査の途中ですが、裏を取れる目星はあります」
晴人の声に、迷いはなかった。
国の外から迫る“条約の闇”と、藩の内にある“帳簿の闇”。
それらは違う姿をしていながら、本質は同じだった――
「民を犠牲にして、自分たちの利益を優先する者がいる限り、この国は守れません」
障子の外で、風が強まった。
松葉が舞い、庭の白砂をさらっていく。
東湖は立ち上がり、静かに縁側へと歩み出る。
背中越しに、晴人へ言葉を投げた。
「……その“声”、しかと受け取った。動け、晴人どの。お主の行動が、民にとって真の“防人”であるならば、我もまた、これを支えよう」
その声に、晴人は深く頭を下げた。
未来の記憶は、過去を変えるためにある。
だが、変えるのは記憶ではなく、“行動”だ。
晴人の手は、拳を握っていた。
それは、黒船の砲火に怯える者ではなく――
不正と向き合い、国を正そうとする者の拳だった。
藩の奥書院を後にした晴人は、その足で町へと向かった。
陽はすでに高く、石畳を照らす光がじりじりと肌を焼く。
だが晴人の額から流れる汗は、気温だけが原因ではなかった。
(この状況で、物資の不正か……)
藤田東湖から“動いてよい”と告げられた今、迷いはない。
だが、踏み込めば“誰か”の利権を暴くことになる。
その“誰か”は、時に刃より鋭い。
向かったのは、町の納屋町にある臨時の物資集積所だった。
瓦が落ちた土蔵の脇に、板を継ぎ足しただけの事務所が立っている。
数名の役人が帳面を手に出入りしており、昼下がりにもかかわらず、そこだけは異様な活気に満ちていた。
晴人は身分札を見せ、受付に通された。
「お待ちしておりました、晴人さま。御台帳、すぐにお出しします」
対応に出てきたのは、まだ若い書記の男。
だが、どこか落ち着かない様子で、視線が晴人と資料とを行き来していた。
(……何かを警戒している)
晴人は礼を述べ、受け取った帳面を静かに開いた。
中には、各町内への支援物資の配分記録が詳細に記されている。
炊き出し用の米、芋、干し魚、薪、布類、薬草――。
「ふむ……」
数字を追いながら、晴人の眉が次第にひそめられていった。
一見、整然とした帳簿。
だが、よく見ると“決まった地域”だけ、供給量が多すぎる。
(特に北西の三町――桜町、稲荷町、御幸町……)
しかもそのうちの二町は、晴人自身が見回った地域だ。
「……この三つの町、実際にこれだけの物資、届いていませんよね?」
書記は一瞬、目を泳がせた。
「……私どもは、記録に基づいて配分しておりまして……」
「では、なぜ実数と違う記録が“記録に残る”んです?」
詰問口調ではなかったが、晴人の声には明確な圧があった。
若い書記はたじろぎ、視線を落としたまま言葉を濁す。
「……すみません。私では何も……」
「分かっています。あなたが書いたとは言っていません」
晴人は、帳面を閉じた。
「ただ、これは“どこか”で数字が操作されている。しかも、書式や筆跡まで模してある。――巧妙です」
そこに、後方の帳場から小さく咳払いが聞こえた。
振り返ると、黒紋付きの羽織を着た初老の男が、書類を手にして佇んでいた。
「これはこれは……晴人さま。視察とはご熱心なことで」
男の名前は神崎庄兵衛。
藩の財務方に籍を置く中堅役人で、物資調整の責任者の一人だった。
「神崎さん……」
「まさか、我々を“疑って”おられるわけではありますまいな?」
その言葉は、笑みと共に放たれたが、声の裏に硬さが滲んでいた。
晴人は表情を変えず、静かに応じる。
「疑う、というより、“確かめている”だけです。いま、町では“届くはずの物”が届かない。現場の混乱を収めるためにも、実態を把握せねばなりません」
「なるほど、それはご立派だ。ですが、晴人さま……」
神崎は、書類を閉じて目線を鋭くした。
「“信頼”というものは、疑いの目からは生まれませんぞ」
「――だからこそ、“透明性”が必要なのです」
その言葉に、部屋の空気が変わった。
神崎は一歩、晴人に近づく。
「何が“正しさ”か。民の声か、それとも……“秩序”か」
「両方です。どちらかを切り捨てれば、この国は崩れます」
しばし睨み合う二人。
だが、晴人はその眼差しの奥に、明確な“恐れ”を読み取っていた。
(……この人は、自分の保身で動いてる。組織や体制の崩壊を恐れている)
その恐れが、数字を歪め、帳簿を偽り、“実態”を覆っていた。
晴人はそっと頭を下げた。
「本日はこちらで失礼いたします。……ですが、また参ります。確認できた情報は、東湖さまに上申する所存です」
神崎はそれ以上何も言わなかった。
背を向け、集積所を出た晴人の呼吸は少し荒くなっていた。
風が、強くなってきていた。
西からの風――海を渡り、黒船の残した気配を連れてくる風だった。
(……まずは、“町”から正す)
この町の支援体制を透明に。
帳簿と物資を一致させ、誰が、何を、どこへ流したのかを“見える化”する。
それができれば、次は藩政。
そして、幕府との交渉――開国か否か、その岐路へ。
晴人は拳を握りしめ、町の中心部へ歩を進めた。
その夜、城下の屋敷に再び招かれた晴人は、灯りの消えかけた廊下を静かに歩いていた。
行灯の火は小さく、風の通り道に震えていた。
日中の熱気がまだ柱に残っているものの、静寂の気配がそれを飲み込んでいる。
(あの神崎という男……この藩の“血管”を握っているのかもしれない)
物資と帳簿。それが結ぶ流れを遮断すれば、たちまち町は混乱する。
だが、このままでは、民は黙って搾取されるだけだ。
畳の間に通されると、東湖が静かに腰を下ろしていた。
文机の上には、茶と筆、そして今日の日付が記された報告帳。
「……戻ったか」
「はい。想定通り、帳簿に不正の形跡がありました。
三町への支援物資が過剰に記録され、実際には配送されていない分もあります」
東湖は小さく頷いた。
「証拠は?」
「手元に写しを残しました。筆跡、配分比、重複する物資。
明らかに、内部の者が“分かるように”調整していた痕跡があります」
「神崎か」
晴人はうなずきかけて、少し言葉を濁した。
「断定はできません。ただ、少なくともあの現場に“正す意志”はありませんでした」
東湖は湯を注ぎながら、晴人をじっと見つめた。
「お主は、藩政に何を求めているのだ」
その問いは唐突だったが、重かった。
「正しさです。人が生きていける場所を、偽りで塗り固めないことです」
「……それが“正義”か」
東湖の声音がわずかに低くなる。
「わしも、そなたと同じく“正しさ”を望む。だがな、晴人どの。
“正義”は、時として“秩序”を壊す。特に、この国のような脆い体制においてはな」
晴人は言葉を飲み込んだ。
――正しいことが、いつも歓迎されるとは限らない。
それどころか、“正しすぎる”行動は、既得権益を持つ者たちにとっては毒となる。
「東湖さまは……処分を、されないのですか?」
東湖は目を伏せた。
「神崎の背後には、上士の家系が連なる。名家まではいかぬが、財政方の網の中に深く根を張っている」
「……では、見逃すのですか」
「いや、動く。だが、切り方がある」
その一言に、晴人は目を見開いた。
「処分はせぬ。ただ、“包囲する”。――そなたが“民の目”として動け」
「民の目、ですか……?」
「うむ。今、お主が始めている“供給状況の見える化”、あれを本格化せよ。
神崎が何かを動かす前に、“動けなくする”のだ。帳簿を、民が読むようになれば、嘘は書けぬ」
「……民に、見せてしまって、いいのですか?」
「よい。民が愚かであると、誰が決めた?」
東湖の目がわずかに光を帯びた。
「“支配する側”が民を見下すとき、国は滅ぶ。
それを、わしはこの目で見てきた。
そして、そなたがそれを変えるために現れたのなら――それは、天意かもしれぬ」
「……天意、ですか」
「わしは、まだ“信じ切る”ことはできぬ。だが、お主が嘘をついていないことだけは、分かる」
そう言って、東湖は立ち上がり、書院の襖を開いた。
そこには夜の庭が広がっていた。
松の黒い影が石畳に落ち、月がぼんやりと薄雲に霞んでいた。
「民が飢え、武士が腐り、そして外国が牙をむく。
今の日本は、かろうじて立っておるが――足元から、崩れ始めておる」
その背に、晴人は静かに問いを重ねた。
「東湖さまは……どうするおつもりですか?」
東湖は答えなかった。
ただ、月を見つめたまま、こう呟いた。
「誰かが、“覚悟”を問われるときが来る。
わしではないかもしれぬ。お主でも、ないかもしれぬ。
だがその時、誰かが前に出ねば、この国は沈む」
その言葉は、夜風の中で溶けていった。
晴人は、拳をゆっくり握った。
国を救うのは、剣でも言葉でもなく、“行動”の積み重ね。
今はただ、ひとつずつ――
闇に包まれた帳簿の奥にある、“真実”を照らす火を灯していくしかなかった。
その日、町の広場に、一枚の“紙”が貼り出された。
粗末な板張りの掲示板に、にじんだ筆文字でこう記されていた――
> 【今週の支援物資配分記録】
> 桜町:米三俵、干し魚六十尾、薪十二束
> 稲荷町:米二俵、干し芋八十斤、薬草袋三つ
> 御幸町:支給停止(在庫調整のため)
> 町内ごとの追加要望は、炊き出し場か巡回隊まで
掲示されたのは、晴人が東湖の命を受けて“開示”を進めた物資配分の第一報だった。
「なんだこりゃ……?」
通りかかった年配の男が、眉をひそめながら近づく。
「おい見ろ、うちの町、こんなに届いてたか? こんな魚、食ってねぇぞ」
「おかしいよな、こないだも、干し芋ぜんぜん回ってこなかったし……」
数人の町人が立ち止まり、声をひそめながらも“何か”を感じ取っていた。
やがて、誰ともなく言った。
「……こりゃあ、どっかで“抜かれてる”ってことじゃねぇのか?」
その声は、町に広がる不信の芽だった。
だが同時に、それは“監視”という名の光を生む一歩でもあった。
その様子を、晴人は少し離れた軒先から見つめていた。
炎をあげるわけでも、声を荒げるわけでもない。
だが、静かに広がっていく波紋は、確実に“止まっていた空気”を動かし始めていた。
(これで、誰もが“帳簿”を意識する)
晴人は心の中でそう呟いた。
物資がいつ、どこへ、どれだけ届いたか。
それを記し、誰もが見られるようにする。
それだけで、不正の余地は狭まる。
もちろん、反発も予想された。
案の定、その日の夕刻。
神崎庄兵衛の使いと名乗る若い役人が、晴人の元を訪れた。
「晴人さま。配分記録を“外部に晒す”という行為は、混乱を招く恐れがあるとのことです。どうか、掲示の継続は慎重に……」
言葉は丁寧だったが、眼差しは鋭かった。
(抑えに来たか)
晴人は静かに答えた。
「掲示は、民に“秩序を守らせる”ためのものです。
“知らされない”ことこそ、混乱の種になる」
若者は言葉を失い、しばらく立ち尽くしていたが、やがて黙って頭を下げた。
――その背を見送りながら、晴人は思う。
(これはもう、“個人”の問題ではない。藩の、いや、この国の根の話だ)
そして、翌朝。
水戸城下の一角で、もうひとつの動きがあった。
藩政記録に名を連ねていた中間役人のひとりが、“役職を辞す”と申し出た。
理由は「体調不良」。だが、内情を知る者は誰もが察していた。
表立って罪に問われることはなかった。
だが、物資配分の担当からは外され、周囲の目も冷ややかだった。
(東湖さま……こういう“やり方”で、動いたんですね)
断罪ではなく、排除でもなく、“存在ごと動けなくする”。
名を残さず、争いを避けながら、“正しさ”を貫くやり方。
それは、晴人の知るどの時代よりも――慎重で、誇り高い方法だった。
その日の夜。
晴人は自ら帳簿を手にし、町の見回りに出た。
歩く先々で、人々が少しずつ口を開き始めているのを感じた。
「見ましたよ、掲示板の記録。あれ、本当なら、うちに来てない分があるはずなんですけど……」
「次の配分、見直されるんですかね」
「晴人さま、ありがとうございます」
あの静かだった町が、今、ゆっくりと“声”を取り戻していた。
誰かに指示されるのではない。
自分たちの手で、自分たちの暮らしを守ろうとする、初めの一歩。
――それは、国を変える前に、まず“町を変える”という誓いの実践だった。
夜風が吹き抜ける。
空には星が瞬き、東の地平線に、かすかな月明かりが戻りつつあった。
晴人は空を見上げ、そっと呟いた。
「……この道の先に、光があるなら。何度でも、踏み出そう」
その言葉は、帳簿の闇を照らす決意であり――
やがて迫る“開国”という嵐へ向けた、ひとつの覚悟だった。