1話:歴史の扉が開く日
蝉の声が耳をつくように響く、蒸し暑い夏の昼下がりだった。
俺――藤村晴人、三十一歳。
市役所に勤めて八年目、部署は地域振興課。以前は財政課や防災課にも所属していた経験があり、行政施策、地域開発、災害対策、予算編成と、広く浅く業務に関わってきた。
とはいえ、出世頭というわけではない。ただ真面目に、日々の仕事を積み重ねてきた――そんな、どこにでもいる地方公務員だ。
この夏、珍しく取れた長期休暇。俺は迷わず、かねてから興味のあったソロキャンプに出かけた。場所は茨城の奥山。山の奥深く、川音が聞こえる静かな沢のほとりにタープを張り、ひとりで焚き火を囲んでいた。
何もかも忘れ、静かに一人で過ごす数日間。
それが、心の中に巣食う「このままでいいのか」という漠然とした問いを、少しでも癒してくれる気がした。
結婚の予定はない。高齢の母と暮らし、日々の暮らしに不満はないが、未来に希望があるかと問われれば……口をつぐむしかない。
――本当に、このままでいいのか?
そう考えながら湯を沸かし、コーヒーを淹れていたそのときだった。
地面が、ぐらりと揺れた。
「……地震?」
最初は軽い揺れだった。しかし、それは数秒後に突如として激しさを増し、タープがはためき、足元が崩れるように波打つ。
「うわっ……!」
体が横倒しに転がり、iPadやiPhoneが飛び出す。ザックがひっくり返り、モバイルバッテリーやライターも地面に散らばる。
頭を打ったかもしれない。視界が白く染まり、世界がひっくり返ったような感覚とともに、俺は意識を手放した――。
* * *
次に目を覚ましたとき、俺は草むらの中に横たわっていた。
夏らしい暑さではあったが、湿気は薄く、空気はどこか澄んでいた。
鳥のさえずりが近くで響く。蝉の声ではない。周囲を見渡すと、自然しかない。
そして遠くには、木造の塀と、城のような構造物。
不意にぞっとした。
違う。ここは――俺の知っている茨城の山奥ではない。
急いで持ち物を確認する。
iPadとiPhoneは無事。ソーラー式モバイルバッテリー、紙ノート、小型ナイフ、予備食料、救急セット……。
文明の利器は手元にあるが、この場所には、文明の片鱗すらない。
「嘘だろ……」
その日は動かず、林の中で一日を過ごした。人の気配はある。遠くから牛車の音がした。人の話し声が聞こえたが、耳慣れないイントネーションと文語調の日本語。
江戸時代――?
俺は何かの冗談かと思った。しかし、火を焚く匂い、足音、風、遠くに見える建物。すべてが“本物”の感触だった。
初日は、ただ震えていた。
タイムスリップ。
信じがたい現実だが、それ以外に説明のつかない状況だった。
* * *
それから半年。
俺は林の奥地に小さな隠れ家を作り、村人に見つからないように生活を続けた。
持参した物資と、最低限の知識で自炊し、川の水で飲料を確保し、現代知識と照らし合わせながら季節を乗り切った。
電化製品は温存した。必要最低限だけ充電し、ほとんどは機内モードで保持。
文明の象徴とも言えるiPadとiPhoneは、今や切り札だった。
だが、これを見せるべきか否か――ずっと迷っていた。
それよりも重要だったのは、この半年で分かってきたこと。
ここは水戸藩。時代は安政年間――つまり、間もなく安政の大地震が起きる時代だということ。
そして、地震によって命を落とすはずの人物の名が、俺の脳裏に焼き付いていた。
藤田東湖。
水戸藩の尊皇攘夷思想を支えた人物。
彼が健在だったならば、水戸藩の運命も、もしかすると日本の近代化も、まったく違ったものになったかもしれない。
俺は決めていた。
半年間の潜伏を終え、藤田東湖を助ける。
それが、この時代に来た俺の“始まり”になるのだと。
朝露に濡れた葉が、風に揺れて小さく音を立てる。ここは山深く、人の気配のない谷間――俺、藤村晴人が半年ものあいだ、ひっそりと暮らしてきた隠れ家だった。
最初は市役所職員としてソロキャンプに来ただけのつもりだった俺が、江戸時代と思しき世界にタイムスリップし、ここで“生き延びる”という選択をして半年。
テントは当初のまま使っていたが、木の枝や竹で周囲を覆い、現地の布でカムフラージュ。ぱっと見ではただの薪置きにしか見えないよう工夫してある。
服装もジーンズやポロシャツのままだとあまりに目立つ。近隣の農村にこっそり通い、野菜の手入れや荷運びなどを手伝って、古着や布を少しずつ手に入れた。最初のうちは筆談や身振り手振りで話し、少しずつ言葉も耳に馴染んでいった。
縫い直し、染め直し、現代のアウトドアウェアに薄布を重ねるなどして、ようやく町人風の見た目に仕立て直したのが二ヶ月目。
そして三ヶ月目には、町医者の元で一時的に「迷い人」として保護され、身寄りのない旅人として短期間寝泊まりしていたこともある。身元が明かせない以上、そこに長居はできなかったが、町の構造や人々の振る舞いを観察するには十分だった。
そのあいだにも、俺は情報を集めていた。目的はただ一つ――藤田東湖を救うこと。
彼が命を落とす安政の大地震。その前に、彼を屋敷から遠ざけることができれば――あるいは、母親を安全な場所に避難させることができれば、彼の死は回避できるかもしれない。
だが問題は、「いつ地震が起きるか」だ。
江戸時代の暦と現代の暦は完全には一致しないし、東湖が亡くなるのは安政二年十月。換算しても、明確な日付までは分からない。
そのため、俺はできる限り、地震の“前兆”を探すしかなかった。
地面の揺れ、井戸の水位の変化、動物の異常行動――記録や現地観察を通じて知識を蓄えながら、少しでも前もって行動に移せるよう準備を重ねた。
持ってきたiPhoneとiPadは、いまも使える。ソーラーチャージャーを使って、晴れた日だけ限定的に充電。iPadにはオフラインで地図とメモアプリを残してあり、iPhoneでは写真や音声記録も管理できた。
だが、それもいつまで続くか分からない。だからこそ、日々の記録は紙ノートにも写している。ボールペンのインクも残り少ない今、竹のペンと墨を使う練習も始めていた。
「……今日も異常なし、か」
谷の上に設置した風見板が、北からの風を示していた。湿度は昨日より少し高い。川の流れは穏やか。村の動物たちの様子も変わりなし。
俺は一冊のノートに、簡潔にその日の日付と観察結果を書き留めた。
藤田東湖の屋敷についても、すでにいくつかの情報を得ている。水戸城下の東端、石垣の上に構える大きな屋敷。彼の母親は長らく床に臥しており、使用人が頻繁に薬草を求めて町を訪れていた。
俺はその使用人の行動を観察し、薬屋の出入りを記録していた。彼がどこから来て、どの時間帯に現れるか。それを知ることで、いざというときの接触を容易にできる。
とはいえ、まだ時期は早い。動けば目立つし、怪しまれる。あくまで“下調べ”と“信頼の構築”が重要だ。
この半年、俺は現地の人間と何度か小さな交流を持った。荷物運びを手伝った老婆に「異人さん」と呼ばれ、笑われたこともある。祭りで転びそうになった子供を支え、「名もなき旅人さん」と感謝されたこともある。
それだけで十分だった。誰にも怪しまれず、少しだけ「この町にいる」ことが許される。その立ち位置こそが、最大の武器だった。
目立ってはいけない。だが、必要なときには動ける距離にいる。
そして俺には、もう一つの選択肢があった。
――母親を、先に避難させる。
母が屋敷にいなければ、藤田東湖も屋敷にいる理由は失われる。命を落とす可能性が大きく減る。
そのためには、まず母親の信頼を得なければならない。あるいは、使用人を通して間接的にでも、何らかの説得が必要になる。
それが俺の、今の目標だった。
無謀かもしれない。だが、俺はこの半年間で覚悟を決めた。
――この国の未来を、俺の手で救ってみせる。
それは、ある雨上がりの午後のことだった。
ぬかるんだ道を避けながら水戸城下を歩く。雨に洗われた屋根瓦がきらりと光るようで、町の空気は澄んでいた。
俺――藤村晴人は、いつものように城下の観察をしていたが、この日は違った。あの薬屋――藤田東湖の屋敷の使用人が通う薬屋――に、見慣れぬ人物が入っていくのを見たのだ。
背筋を伸ばし、歳の頃は五十代後半か。髷をきちんと整えた武家風の男。使用人というより、もっと上の身分に見えた。
(……もしや、屋敷の親族か?)
様子をうかがっていると、彼は店内で番頭と何やら深刻そうに話していた。薬包紙を手にして出てきたとき、どこか疲れたような面持ちで空を見上げていた。
「……母君のお身体が悪いままでは、あの方も心安らかでおれぬ」
小声だったが、確かにそう言ったのが聞こえた。
藤田東湖の母――その言葉が意味することは、俺が想像していた以上に現実味を帯びていた。東湖自身ではなく、“母親”が屋敷に留まり、動くことができない。彼は母を看ている。ならば、母を避難させることができれば……!
(接触するなら、今しかないかもしれない)
賭けだった。が、今までの半年を、ただ見ているだけで終わらせるわけにはいかない。
俺は、薬屋の裏手に回り込み、出てくるその男をあらかじめ待っていた。
「……お話、少しだけ、お耳を拝借できますか」
会釈し、できる限り丁寧に言葉を選ぶ。向こうが警戒するのも当然だ。
「……お主、何者だ」
「旅の中で、数日だけ水戸に身を寄せております。少し前に、奥方様の体調が優れないと聞き、心配しておりました」
「……?」
警戒の色が濃くなる。それでも、俺は一歩も引かなかった。
「知っているのです。近く、大きな“揺れ”が来ることを。水戸を含め、江戸から京まで――大地が震える。屋敷が崩れる。人が――」
「黙れ!」
突然の怒声。
男は顔を紅潮させ、俺の胸倉を掴んできた。
「不吉なことを口にするな。誰かに聞かれたら、打ち首もあるぞ!」
「だからこそ……!」
俺も負けじと、真剣な目で彼を見返す。
「奥方様だけでも、屋敷を離れてください。わずかな間でもいい。郊外の寺でも、旅籠でも構わない。どうか、“それまで”だけでも……!」
男の目が揺れた。
嘘や芝居でなく、俺が本気で願っていると感じ取ったのかもしれない。
沈黙ののち、彼はようやく口を開いた。
「お主は……いったい、何者なのだ。怪しすぎる。……だが、眼の色は嘘をついておらん」
そして言った。
「もしそれが“本当”なら、あの方の身も危ういことになる……」
――そう。
藤田東湖が母と共にいたからこそ、屋敷の崩落に巻き込まれた。
彼は身を挺して母を庇い、そのまま命を落としたのだ。
「わかっておる。……母上を案じるばかりに、あの方は屋敷を離れぬ。病床に寄り添い、湯を沸かし、眠らぬ夜を何夜も重ねておられる」
声が震えていた。彼は、屋敷の者だったのだ。
東湖を心から慕う家臣。
「どうして、そんな未来のことが……」
「申し訳ない。だが、今は言えません。信じてもらうしかない。……ただひとつ、伝えます。あとわずかで、揺れが来る。どうか、母君を先に避難させてください。あの方の命のために」
数秒の沈黙ののち、男は深くため息をついた。
「……わかった。拙者一人の裁量では決められぬが、奥方様の身柄を一時、寺に移すよう掛け合ってみよう。あの方には、理由は伏せてな」
「感謝します。名前は――」
「名乗らなくてよい。お主のことは“風聞の士”として、記録しておこう。……もう一度同じ場所で会うことはないかもしれぬが、今の話、無駄にはせぬ」
男は足早に去っていった。
その背に、俺は深く一礼した。
(これで……一歩前進だ)
雨の名残りが、まだ道の端に小さく残っていた。
俺の足元にも、ようやく道が伸び始めた気がした。
(東湖を救えば――日本が変わる)
静かに、胸の中でそう呟いた。
地震が起きたのは、藤村晴人が水戸城下を訪れてから七日目の夜だった。
あのとき――つまり、藤田東湖に「大地の揺れ」を予感していると伝えたあの日。東湖は直接何も命じなかった。
だがその翌日、家臣の一人が密かに寺を訪れ、藤田の母・登勢のための離れを手配した。理由は「身体の調子が思わしくないので、静養に」という形。
家臣の配慮か、あるいは東湖の無言の意図だったのか。
いずれにせよ、登勢は本家の屋敷を離れ、寺に移された。
――そして、その夜。
「……うっ!」
地面が唸りを上げ、城下町が揺れた。
地鳴りと共に、建物が一斉に軋む音。瓦が砕け、人々の叫び声が響く。
藤田家の母屋の梁が崩れ、一部が大破した。
それでも、登勢がいた離れ――あの静かな寺だけは、被害を免れていた。
夜が明け、藤村は高台からその光景を見ていた。
崩れた町並み。負傷者の列。そして、意外なほど落ち着いた様子の藤田東湖。
その横には、無事だった母・登勢の姿があった。
「……本当に助かったのか」
晴人は、草の上に腰を下ろした。額には汗がにじみ、喉が乾いていた。
その手には、開いたノート。
安政の大地震、水戸藩において藤田東湖が死亡――その記述に、×印が引かれている。
歴史が、書き換わった。
自分がした行動は、ほんの助言に過ぎない。東湖は疑いの眼を向けたし、家臣たちの判断も、確証のない不安に基づいていた。
だが、それでも――
「やったんだ、俺は……。藤田東湖を救ったんだ」
初めて、確かな実感が湧いた。
どんなに努力しても、どんなに真面目に働いても、「社会を変える」なんて夢のまた夢だった公務員生活。
けれど、今なら言える。
俺は、公務員として、命を救った。
* * *
数日後、藤田邸に一人の男が訪れた。
泥のついた足袋に、簡素な着物。だが、どこか品のある立ち居振る舞い。
「お待ちしておりました」
出迎えたのは、あの日と同じ家臣――吉田安右衛門。
奥から現れた藤田東湖は、晴人をまっすぐに見つめた。
「……貴殿の言葉が、我が母を救った。礼を言う」
「いえ、俺はただ……」
「貴殿のような者が、今後もこの水戸藩にとって必要だ。異人か、漂流者か、名などどうでもよい。名乗れ。そなたの名を、正式に記しておこう」
晴人は迷った。
だが、ここが“始まり”だと感じていた。
「――藤村晴人。出身は遠国ですが、仕える覚悟はあります」
その言葉に、東湖はわずかに笑みを浮かべた。
「よいだろう。ならば……まずは、寺に残る母の世話から始めよ」
藤村は深く頭を下げた。
歴史が変わった。けれど、未来はまだ遠くにある。
――今度こそ、この国を、間違えさせないために。
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