「あなたは飾りです」と言われた側室候補は、辺境の男爵に求婚されました
「レティシア、あなたはただの飾りです。それ以上でも、それ以下でもありません」
皇太子アレクシスの言葉は、宮廷舞踏会の華やかな音楽にも負けないほど鮮明に私の耳に響いた。周囲の視線が一斉に私に向けられたことを感じる。首筋に汗が一筋伝う。
「もちろんです、殿下。このレティシア・フォン・クラウスは、殿下のご意向に従います」
笑顔を絶やさず、完璧な礼儀作法で応じる私。けれど心の中では、剣で突き刺されたような痛みを感じていた。
私は伯爵家の次女として生まれ、幼い頃から政略結婚の駒として育てられてきた。皇太子の側室候補として選ばれたときは、家族全員が歓喜に沸いた。父は私の肩を叩き、「家の名誉だ」と何度も繰り返した。
けれど、宮廷に入って三ヶ月。皇太子の心に留まる女性は一人もいない。彼は誰に対しても冷淡で、特に側室候補たちには「飾り」と公言することに何の躊躇もなかった。
舞踏会が終わり、私は自室に戻るとベッドに倒れ込んだ。
「お嬢様、大丈夫ですか?」侍女のマリアが心配そうに声をかける。
「ええ、大丈夫よ。慣れたことだもの」
マリアの心配そうな顔を見て、強がりの笑顔を浮かべる。でも心の中では、何度目かの屈辱に耐えていた。
「お嬢様は、皇太子様よりもっと素敵な方に値します」マリアの真摯な声に、胸が熱くなる。
「ありがとう、マリア。でも、これが私の運命なの」
ベッドに横たわり、窓から見える夜空の星を眺める。星々はいつも変わらず輝いている。その不変さが羨ましかった。
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翌朝、宮廷の庭園で過ごしていると、見知らぬ男性が私に近づいてきた。厳つい顔立ちに、日に焼けた肌。宮廷の華やかな貴族とは一線を画す、無骨な雰囲気を醸し出している。
「レティシア・フォン・クラウス嬢でしょうか」
低い声で話す彼の目は、まっすぐに私を見つめていた。
「はい、そうですが...あなたは?」
「ルーカス・フォン・ヴォルフ。北部辺境ヴォルフ男爵領の領主です」
彼は丁寧に頭を下げた。北部辺境—雪と氷に覆われた厳しい土地だと聞いていた。野蛮な異民族との戦いが絶えない場所。なぜそんな辺境の男爵が私に話しかけてきたのか、理解できなかった。
「ご用件は何でしょうか?」
私の問いに、彼は真剣な眼差しを向けたまま、静かに口を開いた。
「あなたに求婚したいのです」
一瞬、耳を疑った。周囲の庭師たちが作業の手を止め、こちらを見ている。
「...冗談ですか?」
皇太子の側室候補である私に、辺境の男爵が求婚するなど。そんな非常識な話があるだろうか。
「決して冗談ではありません。真剣です」
彼の表情に嘘はなさそうだった。しかし、それはより一層奇妙に思えた。
「失礼ですが、初対面の私に求婚するとは...」
「初対面ではありません」彼は静かに言った。「あなたは覚えていないでしょうが、私たちは十二年前に会っています」
十二年前—私が八歳の頃。記憶を探っても、この男性との出会いは思い出せない。
「申し訳ありませんが...」
「思い出せなくても構いません」彼は微笑んだ。その笑顔は意外と優しく、無骨な印象から想像できないものだった。「ただ、お返事をいただく前に、一度だけ私の領地をご覧いただけないでしょうか」
突拍子もない展開に戸惑いながらも、好奇心が湧き上がってきた。皇太子から「飾り」と公言された私に、真摯に求婚する男性。そして十二年前の謎の出会い。
「いきなりのお誘いですので、すぐにお返事はできません」慎重に言葉を選ぶ。「少しお時間をいただけますか?」
「もちろんです」彼は丁寧に頭を下げた。「三日後、再びお伺いします」
彼が去った後も、私の頭の中は混乱していた。辺境の男爵との結婚—それは皇太子の側室になるよりも身分が下がることを意味する。家族は激怒するだろう。けれど、「飾り」ではなく一人の女性として見てくれる人がいるということ。その思いが、心のどこかで温かさを感じさせた。
その夜、夢を見た。雪に覆われた森の中で迷子になった幼い私。寒さと恐怖で震えていると、一人の少年が現れる。彼は私を背中に乗せ、安全な場所まで連れて行ってくれた...
目を覚ますと、心臓が早鐘を打っていた。あれは夢ではなく、記憶だったのではないか?
「馬鹿な話だわ」
父の怒声が書斎に響き渡る。予想通りの反応だった。
「辺境の男爵との結婚など、考えるだに愚かしい。皇太子の側室になる機会があるというのに!」
「でも父上、殿下は私を...」
「黙りなさい!」彼は拳で机を叩いた。「お前は家の名誉のために選ばれたのだ。個人の感情など関係ない」
部屋を出る時、母が小声で言った。「あの男爵に会うだけでも、どうかしら」
母の言葉に驚いて振り返ると、彼女はかすかに微笑んだ。「十二年前...あなたが森で迷子になった時のことを覚えていますか?」
その言葉で、断片的な記憶が蘇ってきた。家族での狩猟旅行。私は好奇心から一人で森に入り込み、道に迷ってしまった。
「あの時、あなたを助けてくれたのは辺境伯爵家の若き跡取りだったのよ」
「ルーカス...」その名を口にすると、記憶がさらに鮮明になってきた。
「彼は命の恩人なのね」
「ええ」母は静かに頷いた。「彼の父は二年前に他界し、彼が男爵を継いだと聞いています。若くして重責を担うことになったのでしょうね」
三日後、ルーカスは約束通り現れた。彼の姿を見た瞬間、心臓が高鳴るのを感じた。
「十二年前のことを思い出しました」私は率直に告げた。「あなたが命の恩人だったなんて...」
彼は照れたように首筋をさすった。「大げさな...僕はただ、困っている人を助けただけです」
「それでも、お礼も言わずにいたなんて...」
「いいえ、あなたは言いましたよ」彼は優しく微笑んだ。「『ありがとう、私の英雄様』と」
その言葉に、顔が熱くなるのを感じた。幼心に憧れていた記憶が鮮明に蘇ってきた。
「それで...私の求婚についてはどうお考えですか?」
彼の真摯な眼差しに、胸が締め付けられる思いがした。
「正直に申し上げます」私は深呼吸した。「皇太子の側室になることは家の名誉ですが、私自身は...飾りにされることに疲れています」
ルーカスは静かに頷いた。「分かります」
「あなたの領地を見てみたいです。そして...あなたのことをもっと知りたい」
彼の顔に明るい表情が広がった。「では、一週間後に出発できますか?往復で約一ヶ月の旅になります」
「はい」私は迷わず答えた。
帰り道、マリアが心配そうに言った。「お嬢様、辺境は厳しい土地だと聞きます...」
「分かっているわ」私は空を見上げた。「でも、飾りではなく、必要とされる場所に行きたいの」
その夜、皇太子に謁見を求めた。
「辺境の男爵からの求婚を検討しているのですか?」アレクシスは冷ややかな笑みを浮かべた。「面白い。飾りが自分から消えていくとは」
彼の言葉に傷ついたが、表情には出さなかった。
「殿下のお側にいても、私は常に飾りです。けれど、誰かの傍らでは、私も必要な存在になれるかもしれません」
「行きたいなら行くがいい」彼は手を振った。「こちらとしても、不満のある飾りは必要ない」
そして一週間後、私はルーカスと共に北へ向かう馬車に乗り込んだ。未知の世界への旅が始まった。
「寒くありませんか?」
ルーカスが心配そうに私の方を見る。首都から北に二週間、風景は徐々に変わり、緑豊かな平原から雪を抱いた丘陵地帯へと移り変わっていた。
「大丈夫です」私は温かい毛皮のマントを引き寄せながら答えた。「こんな景色、初めて見ます」
馬車の窓から見える風景は息をのむほど美しかった。白銀の雪に覆われた森、氷の結晶が太陽の光を受けて輝く湖。子供の頃に読んだ絵本の中の世界が目の前に広がっているようだった。
「もうすぐ領地に到着します」ルーカスが言った。「緊張していますか?」
「少し...」正直に答える。「皆さんに受け入れていただけるか心配です」
彼は優しく微笑んだ。「心配いりません。あなたの優しさと強さは、きっと皆に伝わります」
ルーカスの領地、ヴォルフ男爵領は予想以上に活気に満ちていた。街の入り口では、住民たちが列を作って私たちを出迎えてくれた。子供たちは興奮した様子で花を投げ、大人たちは温かい微笑みで頭を下げる。
「皆さん、とても歓迎してくれているわ」驚きを隠せない私に、ルーカスは誇らしげに言った。
「この地は厳しいですが、人々の絆は強いんです。新しい男爵夫人候補をみんな心待ちにしていました」
その言葉に、頬が熱くなるのを感じた。まだ何も決まっていないのに、既に「夫人候補」として扱われることに戸惑いを覚える。
男爵城は、首都の宮殿のような華美さはなかったが、がっしりとした石造りで、厳しい自然に耐えるように建てられていた。中に入ると、意外にも暖かく、暖炉の火が心地よい温もりを部屋中に広げていた。
「お疲れでしょう」ルーカスが言った。「今日はゆっくり休んでください。明日から、領地をご案内します」
案内された部屋は、シンプルながらも快適だった。窓からは雪に覆われた森と、その向こうに広がる山脈が見える。
「お嬢様、温かい湯を用意しました」
現地の侍女、エリザが優しく声をかけてくれた。彼女は私と同じくらいの年齢だが、既に二人の子供の母親だという。
「ありがとう、エリザ」
湯船に浸かりながら、今日見た風景や人々の笑顔を思い返す。皇太子の宮廷では、私はただの「飾り」。けれど、ここでは一人の人間として歓迎されている。その違いに、胸が熱くなった。
次の日から、ルーカスは領地の隅々まで私を案内してくれた。厳しい冬を生き抜くための工夫が随所に見られる街並み。共同で使う温室では、雪の中でも野菜が育てられていた。
「ここの人々は、自然と調和して生きることを学んできました」ルーカスが説明してくれる。「春には山の薬草を採り、夏には作物を育て、秋には保存食を作り、冬に備えるのです」
「素晴らしいわ」感嘆の声を上げる。「皆さん、とても賢くて勤勉ね」
三日目、薬草師のアンナという老女に会った。彼女は私を見るなり、不思議そうな顔をした。
「あなた、薬草の才能がありますね」
驚いて彼女を見つめる私に、アンナは続けた。
「その手と目を見れば分かります。感覚が鋭い。薬草を見分ける才能があるわ」
子供の頃、確かに植物に興味があった。庭で様々な花や草を育て、時には秘密の薬を作って友達に分けたりもした。けれど、貴族の娘として、そのような「下賤な」興味は抑え込むよう言われてきた。
「少し教えてもらえますか?」思わず尋ねる私に、アンナは満面の笑みを浮かべた。
「もちろん、喜んで!」
それから毎日、午前中はルーカスと領地を回り、午後はアンナから薬草の知識を学んだ。雪解け水で育つ特別な薬草。傷を癒す軟膏の作り方。発熱を抑える茶の調合法。
一日一日と過ぎていく中で、私は自分が変わっていくのを感じた。宮廷での厳格な礼儀作法や表面的な会話ではなく、ここでは実用的な知識や技術が尊ばれている。そして何より、私自身が「役に立つ」という喜びを感じられた。
「レティシア」ある日、ルーカスが真剣な顔で私を呼んだ。「明日、特別な場所へお連れしたいのですが」
「特別な場所?」
「ええ、私がなぜあなたを選んだのか...その理由が分かるかもしれません」
その夜、不思議な期待と緊張で眠れなかった。窓から見える星空は、首都では見られないほど鮮明で美しかった。その星々のように、ここでの日々は一つ一つが輝いていた。
「着きました」
ルーカスが馬を止めた。私たちは朝早くから乗馬で山の中を進んできた。周囲には雪に覆われた松の木々が静かに佇んでいる。
「ここが...?」
「もう少し先です」彼は私の手を取った。「気をつけて」
狭い山道を進むと、突然視界が開け、小さな渓谷が現れた。驚くべきことに、渓谷の中は雪がなく、緑の草や色とりどりの花々が咲き誇っていた。中央には小さな湖があり、湯気が立ち上っている。
「温泉があるので、この場所だけ雪が溶けているんです」ルーカスが説明した。「ここは私たちの家の秘密の場所。代々の当主だけが知っています」
「信じられないわ...こんな楽園が」私は息を呑んだ。「まるで魔法みたい」
「実際、魔法のようなものかもしれません」彼は静かに言った。「この湖の水には特別な力があります。病を癒し、傷を早く治す力が」
湖の周りに近づくと、見たこともない植物が目に入った。青い光を放つ小さな花。透明な実をつける低木。
「これらは全て、この特別な環境でしか育たない薬草です」ルーカスが説明する。「我が家は代々、これらを使って特別な薬を作り、領民たちを助けてきました」
「素晴らしいわ」感動のあまり、言葉が出なかった。
「けれど、父が亡くなってから、私はうまく薬を作れていないんです」彼は申し訳なさそうに言った。「感覚的なものなので、書物だけでは伝わらない部分があって...」
そして彼は真剣な眼差しで私を見つめた。
「アンナが言っていた通り、あなたには才能がある。もしかしたら、あなたならこの薬草の力を引き出せるかもしれない」
「私が...?」
「十二年前、あなたを森で見つけた時、あなたは迷子になっていたにも関わらず、薬草を集めていました。そして、『これは熱を下げる薬』『これは痛みを和らげる薬』と教えてくれた」
その記憶が鮮明に蘇ってきた。確かに私は迷子になる前、珍しい植物を見つけては集めていた。
「当時の私は驚きました。こんな小さな女の子が、薬草の知識を持っているなんて」ルーカスは優しく微笑んだ。「その時から、いつかあなたに会いたいと思っていました」
彼の言葉に、胸が熱くなる。「でも、なぜ今まで...?」
「父が亡くなり、男爵を継いだ後、ようやくあなたを探す余裕ができました。そして、あなたが皇太子の側室候補になったと知り...」
「急いで求婚しに来たのね」私は笑った。
「そうです」彼も微笑んだ。「無謀だとは思いましたが、運命だとも感じたんです」
私は湖の周りの植物を見渡した。不思議と、それぞれの効能が感覚的に分かるような気がしていた。子供の頃の記憶が甦ってくる。祖母が教えてくれた薬草の知識。貴族として抑え込むよう言われていた、私の本当の興味と才能。
「試してみたい」私は決意を固めた。「これらの薬草を使って、何か作ってみたい」
ルーカスの顔に喜びが広がった。「本当ですか?」
「ええ」私は頷いた。「ここには...私の魂が呼びかけられているような気がするの」
その日から、私はアンナと共に特別な薬草の研究を始めた。温泉湖の周囲で採取した薬草を使い、様々な薬を試作する。最初は失敗の連続だったが、日々研究を重ねるうちに、少しずつコツを掴んでいった。
ある日、高熱で苦しむ子供のために作った薬が効果を現した時、村中が喜びに沸いた。
「レティシア様のおかげです!」子供の母親が涙ながらに感謝してくれた。
その言葉に、心の底から喜びを感じた。宮廷での「飾り」としての日々では決して味わえなかった、人の役に立つ喜び。
「あなたの才能は本物だ」アンナが嬉しそうに言った。「もっと多くの人を助けられるようになるわ」
ルーカスとの関係も、日々深まっていった。彼は私の才能を尊重し、応援してくれる。共に領地を巡り、住民の健康状態を確認する日々。薬草について語り合う夜。
「レティシア」ある夕暮れ、彼は城の高台から夕日を眺めながら言った。「もう一月が過ぎました。そろそろ首都に戻る時期ですが...」
緊張した面持ちで彼を見つめると、彼は深く息を吸った。
「正式に求婚させてください。あなたをこの地の男爵夫人にしたい」
その瞬間、風が吹き、私のドレスが風になびいた。まるで背中を押されるように。
「ルーカス...」名前を呼ぶと、自然と涙があふれてきた。「はい、喜んで」
彼の腕の中に飛び込む私。この二週間で、私は本当の自分を取り戻した気がした。飾りではなく、必要とされる人間として生きる喜び。そして、一人の女性として愛される幸せ。
「帰ったら、両親に正式に挨拶します」ルーカスが言った。「皇太子にも、改めて申し出ます」
「ありがとう」私は彼の胸に頭をもたせかけた。「心配しないで。きっとうまくいくわ」
けれど心の中では、父の怒りや宮廷の反応を想像し、不安も感じていた。それでも、この場所で見つけた自分の居場所と幸せは、もう手放したくなかった。
首都への帰路は、来た時よりも早く感じられた。馬車の中で、ルーカスと未来の計画を語り合った。温泉湖の薬草を使った薬の研究。領民たちの健康を守るための取り組み。そして二人の家庭。
「到着しました、お嬢様」
馬車が止まり、見上げると伯爵家の邸宅が見える。胸が締め付けられる思いがした。
「一緒に行きましょう」ルーカスが私の手を取った。
玄関で私たちを出迎えたのは、予想外にも母だった。
「おかえりなさい、レティシア」母は優しく微笑んだ。「ルーカス様、ようこそ」
母の態度に安心したのも束の間、書斎から父の怒声が聞こえてきた。
「帰ってきたか!馬鹿者め!」
怒り狂った父が書斎から出てきた。彼の顔は怒りで赤く、手には新聞が握られていた。
「父上...」
「黙れ!」彼は新聞を私に投げつけた。「見てみろ!お前のせいで我が家の名誉が...!」
新聞には大きな見出しがあった。「皇太子側室候補、辺境男爵と密会の末失踪か」
「これは...」
「皇太子殿下は激怒されている。お前が勝手に辺境に行ったことで、宮廷中の笑い者だ!」
ルーカスが一歩前に出た。「伯爵様、これは誤解です。私は正式にレティシアに求婚し...」
「黙れ、辺境の野蛮人!」父は叫んだ。「娘を誘拐同然に連れ出しておいて、何を言うか!」
「父上!」私は声を上げた。「ルーカスは私の命の恩人です。そして、私は彼の求婚を受け入れました」
父は愕然とした表情で私を見つめた。「狂ったか?皇太子の側室になる機会を捨てて、辺境の男爵夫人になるだと?」
「はい」私はしっかりと答えた。「私はもう、誰かの『飾り』にはなりたくありません。ルーカスの側では、私は必要とされる存在になれる」
「出て行け」父は低い声で言った。「お前はもう、私の娘ではない」
「伯爵様!」ルーカスが抗議の声を上げたが、私は彼の腕を取った。
「いいの、ルーカス」私は父に向き直った。「分かりました、父上。ただ、最後に一つだけ」
ポケットから小さな瓶を取り出し、父に差し出した。「これは父上の関節痛に効く薬です。辺境の特別な薬草から作りました」
父は瓶を見つめたが、受け取ろうとはしなかった。
「レティシア」母が静かに言った。「時間をあげなさい。きっと分かってくれるわ」
母は私を抱きしめ、耳元でささやいた。「幸せになりなさい。あなたらしく生きて」
そして、ルーカスに向かって頭を下げた。「娘をよろしくお願いします」
邸宅を後にする時、振り返ると母が窓から手を振っていた。涙が頬を伝う。
次に向かったのは宮殿だった。皇太子に直接会い、誤解を解いておく必要があった。
宮廷に入ると、かつての同僚たる側室候補たちが私を見て囁き合っている。「あれが辺境に逃げた令嬢よ」「野蛮人と結婚するらしいわ」「哀れね」
そんな視線に慣れていた私は、まっすぐ前を向いて歩いた。ルーカスが隣で静かに歩いている。
「レティシア・フォン・クラウス」皇太子の執務室で、アレクシスは冷ややかな笑みを浮かべた。「戻ってきたか。飾りの位置が恋しくなったか?」
「いいえ、殿下」私は丁寧に一礼した。「正式にご報告に参りました。私はルーカス・フォン・ヴォルフ男爵の求婚を受け入れました」
「ほう」アレクシスは興味深そうにルーカスを見た。「辺境の男爵か。北部の守りを任せているが、よくやっていると聞いている」
「ありがとうございます、殿下」ルーカスは頭を下げた。
「それで」アレクシスは私を見つめた。「飾りよりも辺境の男爵夫人の方が良いとでも?」
「はい」私は迷わず答えた。「私は殿下の飾りではなく、北部の人々の役に立つ存在になりたいのです」
意外なことに、アレクシスは笑った。「面白い。お前には、他の候補者にはない芯の強さがある」
彼は立ち上がり、窓の外を眺めた。「北部は守りが重要だ。異民族の侵攻に常に備えねばならない。良い男爵夫人がいれば、領民の士気も上がるだろう」
そして私たちに向き直った。「結婚を認めよう。ただし、条件がある」
「条件、ですか?」
「北部の守りを強化してほしい。特に、冬の間の兵士たちの健康管理を」アレクシスの眼差しは真剣だった。「辺境の冬は厳しい。毎年、多くの兵士が病で倒れている」
その言葉に、私とルーカスは顔を見合わせた。温泉湖の薬草。私の薬草の才能。
「お任せください、殿下」私は自信を持って答えた。「私たちには特別な薬草があります。兵士たちの健康を守ってみせます」
アレクシスは満足げに頷いた。「期待しているぞ、レティシア。もはや飾りではなく、帝国の重要な一部となるのだから」
宮殿を出る時、ルーカスが私の手を強く握った。「素晴らしかったよ」
「ありがとう」私は深く息を吐いた。「でも、父上が...」
「時間をあげよう」彼は優しく言った。「君の才能と決意を見れば、きっといつか理解してくれる」
辺境への旅路は、今度は希望に満ちていた。途中、野に咲く薬草を見つけては採取し、車中でルーカスと研究する。北部の守りを強化するため、兵士たちの健康を守る薬の開発計画を立てる。
「私たちの結婚式はシンプルにしましょう」ルーカスに提案すると、彼は驚いた顔をした。
「君は伯爵令嬢だ。盛大な式を望むかと...」
「いいえ」私は首を振った。「私が欲しいのは、領民たちと共に喜び合える温かな式。豪華さよりも、心の繋がりを感じられる式が良いの」
彼は満面の笑みで頷いた。「僕もそれが一番嬉しい」
春の訪れとともに、ヴォルフ男爵領は新たな命で満ちあふれていた。雪解け水が流れる小川。芽吹く草木。そして、私とルーカスの結婚式の準備。
「レティシア様、こちらの花はいかがでしょう?」エリザが春の最初の花を持ってきてくれた。
「綺麗ね」私は笑顔で受け取った。「ブーケにぜひ使いましょう」
城下町は活気に満ちていた。結婚式の喜びを、領民全員が分かち合おうとしてくれる。広場では祝宴の準備が、教会では装飾が進められている。
「お嬢様」アンナが私を呼んだ。「温泉湖の薬草が満開です。今が採取の好機かと」
「ありがとう、アンナ」私は彼女と共に馬に乗り、湖へと向かった。
春の湖は、冬とはまた違った美しさがあった。湖の周りには色とりどりの花が咲き誇り、湖面には花びらが浮かんでいる。
「春の薬草は、活力を与える力が強いの」アンナが教えてくれる。「兵士たちの疲労回復に最適よ」
私たちは慎重に薬草を採取し、保存方法や調合法について話し合った。アンナの知恵と私の感覚が合わさると、より効果的な薬が作れることが分かってきていた。
「あなたは天性の薬草師だわ」アンナが嬉しそうに言った。「男爵様が見つけてくれて良かった」
「私こそ、ここに来ることができて幸せです」心からそう思った。
城に戻ると、使者が待っていた。
「レティシア様、首都から手紙です」
差出人を見ると、母からだった。早速開封する。
「親愛なるレティシア、結婚式の知らせを聞きました。おめでとう。父はまだ頑固ですが、少しずつ和らいでいます。あなたが送ってくれた薬のおかげで、関節痛が良くなったようです。まだ認めてはいませんが、時々あなたの名前を口にするようになりました...」
手紙を読み終え、安堵の涙が頬を伝った。「良かった...」
結婚式前日、城の前庭で最後の準備を確認していると、突然の騒ぎが聞こえてきた。
「何事?」私が尋ねると、衛兵が走ってきた。
「レティシア様!首都からの馬車が来ています!」
「首都から...?」不思議に思いながら城の入り口に向かうと、そこには見覚えのある馬車が止まっていた。
「まさか...」
馬車から降りてきたのは、母だった。そして...父も。
「父上...」信じられない思いで彼を見つめる。
父は少し気まずそうに咳払いをした。「娘の結婚式に出ないわけにはいかないだろう」
その言葉に、堪えていた感情が溢れ出た。「父上!」
駆け寄って父を抱きしめる。最初は硬かった父の体が、少しずつ柔らかくなり、やがて彼も私を抱きしめ返してくれた。
「あの薬...効いたよ」彼はぶっきらぼうに言った。「もっとあるなら、いただきたい」
「もちろんです!」喜びで声が震える。「たくさん作りましたから!」
母は微笑みながら、ルーカスに向かって頭を下げた。「遅くなりましたが、娘をよろしくお願いします」
「ありがとうございます」ルーカスも深々と頭を下げた。
「それで、この辺境の地はどうだ?」父が周囲を見回した。「思ったよりも...活気があるな」
「ええ、素晴らしい土地です」私は誇らしげに答えた。「特に薬草が豊富で、私の研究にとって理想的なんです」
「研究?」父は驚いた顔をした。
「ええ、父上。私、薬草師になったんです」
彼の表情が複雑に変わったが、やがて小さく頷いた。「そうか...お前にはそういう才能があったのか」
その夜、家族と婚約者と共に夕食を囲み、これまでの出来事や将来の計画を語り合った。辺境の特別な薬草。兵士たちの健康を守る計画。そして、領民たちとの絆。
「皇太子殿下も、あなたの才能を認めているそうだ」父が言った。「辺境の守りには、強い男爵と賢い夫人が必要だと」
「アレクシス殿下も変わったのね」母が微笑んだ。
「変わったのは私かもしれません」私は静かに言った。「自分の価値を知り、本当にやりたいことを見つけたから」
翌日、結婚式が執り行われた。私の願い通り、シンプルながらも温かな式だった。教会には領民たちが集まり、祝福の言葉を送ってくれる。母は涙を浮かべ、父は誇らしげに私の手をルーカスに渡してくれた。
「幸せにしろよ」父はルーカスに言った。「娘が選んだ男だ。期待している」
「はい、必ず」ルーカスは力強く答えた。
誓いの言葉を交わし、指輪を交換する瞬間、私は自分の人生が大きく変わったことを実感した。皇太子の「飾り」から、辺境の男爵夫人へ。形だけの存在から、多くの人の役に立つ存在へ。
「私、レティシア・フォン・ヴォルフは、この男性を夫として愛し、尊び、助け合うことを誓います。健やかなる時も、病める時も、豊かなる時も、貧しき時も、死が二人を分かつまで」
ルーカスの瞳には、深い愛と信頼が宿っていた。「私、ルーカス・フォン・ヴォルフも同じく誓います」
二人の誓いに、教会中から拍手が沸き起こった。
式の後の祝宴は、広場全体を使って行われた。領民たちが持ち寄った料理や酒が並び、音楽と踊りで賑わう。子供たちは花輪を持って走り回り、老人たちは昔話を語り合う。
「こんな温かい結婚式、見たことがないわ」母が感動した様子で言った。
「素晴らしい共同体だ」父も認めざるを得ないようだった。「お前が守るべき価値のある場所だ」
夜が更けると、ルーカスが私の手を取った。「特別な場所に行こう」
彼に導かれるまま、城の最上階へと向かう。そこには小さなバルコニーがあり、領地全体を見渡すことができた。夜空には満天の星が輝き、町には祝宴の明かりが灯っている。
「美しい...」感嘆の声を上げる。
「レティシア」ルーカスが私の両手を取った。「ありがとう。君が来てくれて、この地は本当に豊かになった」
「私こそ感謝しているわ」彼の目をまっすぐ見つめる。「私を『飾り』ではなく、一人の人間として見てくれて」
彼は優しく微笑んだ。「これからも一緒に、この地を守っていこう。君の薬草の知識と、僕の剣で」
「ええ」私も微笑み返した。「そして、いつか私たちの子供たちにも、この大切な使命を伝えていきましょう」
ルーカスが私を抱きしめる。その腕の中で、私は心から安心感を覚えた。皇太子の宮廷では決して得られなかった、本当の居場所。そして、心から愛し、愛される幸せ。
「わたしは、もう飾りじゃない」心の中でつぶやく。「ここでは、わたしはわたしのままで必要とされている」
星空の下、新しい男爵夫人としての人生が始まった。かつて「飾り」と呼ばれた私は今、多くの人々の希望となり、守り手となった。そして何より、自分自身の人生を、誇りを持って生きていくことができるようになったのだ。
─終─
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