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はるかな物語外伝2「一週間」  作者: 東久保 亜鈴
8/13

第7話 想い

翌朝、悠美の目覚ましが5時を告げ、悠美は、眠い目をこすりながら布団から這い出した。


「うぅ、寒い…。」


自分の家と違ってひろい木造家屋なので部屋の中も冷え冷えし、寒さもひとしおだった。


横の布団で寝ている春彦を見ると、春彦は気持ちよさそうに布団にくるまって寝息を立てている。


「まあ、気持ちよさそうに寝ていること。」


悠美は小さな声でそう言うと、そーっと布団を足元にたたみ、鴨居につっておいた制服に着替え始めた。


電気は春彦が眩しいといけないので常夜灯だけだったが、暗さに目が慣れたせいか苦にならない。


「じゃあ、春ちゃん、行ってきますね。」


悠美は寝ている春彦に小声で話しかけ、通学用のバッグを持って、静かに客間を出て、途中にある洗面所で身支度を整えると明かりのついている居間に入った。


居間のテーブルの上には、すでに朝食の用意が出来ていた。


「悠美さん、起きた?」


悠美の気配に気が付いたのか、台所からキクが入って来る。


「はい、キクさん、おはようございます。

 朝食の準備をしていただいて、すみません。」


「何言っているの。

 遠慮しないの。

 手と顔は洗ってきた?」


「はい。」


「あら、素敵な制服ね。

悠美さんの学校はセーラー服なのね。」


悠美の学校の制服は、濃紺のセーラー服でブルーのリボンが胸元に巻いてあった。


スカートの下は黒いタイツ、髪の毛はえんじ色のリボンのついた髪留めで、後ろで留めてあった。


「ちょっと、立ち上がって見せて。」


キクは、眩しそうに悠美を見た。


セーラー服姿の悠美は、その細い身体が一層あか抜けて見えて、どこか気品のあるお嬢様のようだった。


「本当、素敵ね。」


うっとりと眺めているキクに悠美は恥ずかしそうな顔をしていた。


「そんなことないですよ。」


悠美が小声で言うとキクは我に返ったような顔をした。


「あら、ごめんなさい。

 つい見惚れちゃったわ。

 でも、制服を汚しちゃうといけないわね。

 いま、エプロンを持ってきてあげる。

 座って待ってて。」


そう言うとキクは居間から出て行った。


入れ替わるように、春吉が居間に入って来た。


「悠美さん、おはよう。

 朝早くてたいへんだね…!?」


そう言って悠美の方を見た途端、頭の先から電気が走ったようなショックを受けた。


眼の前の悠美は、セーラー服姿でおしとやかに正座し、また背筋がピンと伸びていて、なにか近寄りがたい雰囲気だった。


「あ、春吉さん。

 おはようございます。」


悠美は、にこやかな笑顔を見せて春吉に挨拶をした。


「あ、ああ…。」


春吉は、答えにならない声を出し、呆然と立ち尽くしてしまっていた。


「おじいさん、ぼーっとしていないで。

 横を通してくださいな。」


キクがエプロンを持って、入り口のところで立ち尽くしている春吉を押しのけるように居間に入って来る。


「あ、す、すまん、すまん。」


春吉は我に返ったように、頭を掻きながら、居間を出て行った。


「まあ。

 おじいさんには刺激が強すぎること。

 でも、本当に悠美さんのセーラー服姿、素敵よね…。」


キクもまた、惚れ惚れする様に眺めながらエプロンを手渡した。


「うちには女の子供がいないから、おじいさんも若い女の子なんて見たことないのよ。

 しかも、制服姿!

 舞さんがこの家に出入りするようになって、あの人も随分と若い女性に免疫が出来たと思うけど、それが無かったら今頃心臓発作起こしているわ。」


キクは真面目な顔をして言った、


「まあ。」


悠美は照れ笑いをした。


「あら、いけない、いけない。

 早くご飯とお味噌汁を持ってこないと、学校に遅れちゃうわね。

 そうそう、何も聞かなかったけど、朝食はご飯でよかったかしら。

 若い子だからパンの方がよかったかしら?」


「いいえ、私、ごはんもパンも両方好きです。」


「まあ、よかった。」


そう言って台所からご飯の盛ってあるお茶碗とお味噌汁の入ったお椀を持って来て悠美の前に並べた。


ご飯とお味噌汁からは温かそうな湯気が立ち、美味しそうだった。


「さ、召し上がれ。」


「はい、いただきます。」


悠美はそう言うとお味噌汁を一口すする。


「わぁ、このお味噌汁、美味しいです。」


キクは美味しそうに食べている悠美を見て、微笑んだ。


「そういえば、春彦ちゃんはまだ寝ているの?」


「はい、まだぐっすり寝ています。」


そういうと、悠美はご飯茶碗と箸をおいて、キクに向き合う。


「すみませんが、春ちゃんのこと、よろしくお願いします。」


そういうと悠美は深々と頭を下げた。


「まあ、そんなこと。

 大丈夫よ。

 それより、ご飯食べちゃわないと時間が無くなるわよ。」


「え?

 きゃあ、たいへん。」


悠美は大急ぎで朝食を食べ終え、再度、身支度を整え、鞄を持って玄関に向かって行った。


玄関に行くと悠美の靴が真ん中にきちんと置かれていた。


「まあ、ありがとうございます。」


「それは、私じゃなくて、おじいさんね。」


キクは笑って言った。


「じゃあ、春ちゃんをよろしくお願いします。

 行ってきます。」


「はい、いってらっしゃい。」


そう言って、悠美はあわただしく飛び出していき、キクはその後ろ姿が見えなくなるまで見送っていた。


「しかし、なんだな、ここら辺では見かけないしっかりした娘さんだな。」


キクの後ろから春吉の声がした。


「まあ、あなたも開いた口が塞がらないのだから。

 それに“この辺では見かけない”じゃなくて、“最近では見かけない”じゃないの?

 あんまり、じろじろ見ちゃダメですよ。」


キクは冷やかすように言った。


「え?

 ああ、その、なんだ。」


春吉はしどろもどろになりながら逃げるように家の中に入って行き、キクはその姿を見てお腹に手を当てて笑っていた。


春彦はそれから少し経った7時ごろ、悠美の目覚ましで目を覚ました。


悠美は自分が起きた後、目覚ましの時刻を春彦の起きる時間に合わせセットし、枕元に置いておいたのだった。


悠美から良く言い聞かされていた様に、自分で枕元に置いてある洋服に着替え、洗面所で手と顔を洗って居間に行くと、春吉とキクがニコニコしながら春彦を迎え入れた。


「春彦、おはよう。」


「春彦ちゃん、おはよう。

 良く寝られた?」


「うん。

 おはようございます。」


「よく一人で起きられたな。

 起こしに行こうか、おばあさんと相談していたんだ。」


「うん。

 悠美ちゃんが目覚ましをかけていってくれたから、それで起きれたんだ。」


「そうか、そうか。」


春吉は眼を細めて頷く。


「春彦ちゃん、朝はご飯でいいの?

 それともパンにする?」


「ご飯でいいです。」


「じゃあ、今よそってくるから、牛乳でも飲んでいて。」


「はーい。」


春彦がご飯を食べていると春吉が話しかけた。


「春彦。

 今朝は、儂が学校のある駅まで送って行くが、帰りは駅でおばあちゃんが待っているから、一緒に帰って来なさい。

 時間は4時ごろかな?」


「うん。

 今日は6時限だから、片づけをして帰るとそのくらい。」


「じゃあ、ちゃんとおばあちゃんの言うことを聞くんだよ。」


「はーい。」


「おお、いい返事だ。

 お前は本当に良い子だ。」



春吉はニコニコ笑って春彦の頭を撫でた。


「ほら、おじいちゃん、食べている時にそんなことして。

 春彦ちゃん、ご飯食べられないじゃない。」


キクが笑って春吉を止めさせた。


朝ごはんが終わり、身支度を整えた春彦と春吉は一緒に家を出る。


「じゃあ、行ってきまーす。」


「はーい、行ってらっしゃい。

 帰りは駅で待っているからね。」


「うん、わかってる。」


春吉は、春彦を小学校のある駅まで送って行き、そのまま職場に出勤するつもりだった。


二人が乗った電車は年季の入っている車両で、全て4人掛けのボックス席で、通勤通学の時間帯だったが、席も空いていて、二人並んで座ることが出来た。


対面には通学途中の女子高生の二人組が楽しそうにおしゃべりしている。


(やはり、悠美さんは別格かな)


悠美と比べると眼の前の女子高生は幼く見え、いけないと面ながら、ついつい比較してしまう春吉だった。


その横では窓際に座った春彦が、車窓の風景を飽きることなく眺めていた。


その姿を見ていると幼い時の春繁の姿が春吉の脳裏にかぶる。


「ねえ、お父さん。

 あれ、海?」


電車の窓の外で、木々や建物の切れ目からキラキラ輝く海をみて春繁が声をかける。


「そうだよ、海だ。

 もう少し走ると、もっと風景が開け、海が良く見えるよ。」


「ほんとー?」


そう言うと春繁は、また、車窓の外の風景に目をやる。


春吉は、息子の春繁が春彦くらいの年の時、電車が好きな春繁を当てもなく電車に乗せていたころを懐かしく思い出していた。


春彦の小学校のある駅に着き、改札口を出たところで、春吉は春彦に今一度尋ねる。


「春彦、ちゃんと学校までの道はわかるのか?」


「うん、少し遠回りだけど、家の方に向かって行って、途中から小学校に行く道に曲がるから大丈夫。」


「そうか…。

 じゃあ気を付けてな。」


「うん、おじいちゃん、行ってきまーす。」


「ああ、行ってらっしゃい。」


そう言って別れたのだが春吉は気になって、結局、春彦に見つからないように跡をついて春彦が小学校の門に入るまで見届け、来た道を戻り始めた。


「さて、駅はどこだったかな。」


春吉は、春彦に気を取られていて、帰り道を覚えていなかったのだった。


「はて、困った…。」


キクは、家の片づけを終わらせ、昼過ぎに、春彦を迎えに行く途中で舞の見舞いに病院に寄った。


病室には、昨日と同じようにサキが付き添っていた。


ただ違うのは、舞の様子だった。


舞は、サキよりも早くキクが入って来たのに気が付き、自ら会釈をしてきた。


キクは、舞のそんな素振りを見てにっこりと笑ってベッドの傍に立つ。


「舞さん、こんにちは。

 具合はどう?」


「はい、昨日より良くなりました。

 お腹もすいてきて。」


「そうなんですよ、キクさん。」


横からサキが嬉しそうに口を挟んだ。


「この子ったら、出されたお昼ごはんもペロって食べて、まだ、お腹すいたですって。

 まったく、びっくりしちゃいます。」


「まあ、よかったわ。」


舞の頬もうっすらと赤みがさして、調子は良さそうで、何よりも、目の輝きが変わってきていることだった。


「舞さん?」


キクが何気なしに舞に声をかけると、舞は両手を伸ばし、掌をまえに出し右手と左手の指を交差する様にして伸びをした。


「昨日、悠美に言われたんです。

 私には春彦がいるって。

 だから、早く元気にならないと春彦が寂しがるって。

 そうなんですよね、私にはまだ春彦がいるんです。

 だからくよくよしないで、早く元気にならないとって。」


(それに、洋子にまで連絡を取ってくれて)


舞は横目で人形を見る。


「そうね、そうよ、舞さん。

 その意気よ。」


キクは、舞が精神的に立ち直ったのを肌で感じた。


「そういえばうちの孫は、ちゃんと学校に行きましたか?」


「悠美さん?

 もう、手のかからないお子さんで。

 それに、悠美さんがいると家の中が明るくなって。

 春彦ちゃんも元気に学校行きましたよ。」


「そうですか。

 すみませんが、もうしばらく、お願いします。」


「お義母さん、すみません。

 春彦だけじゃなくて悠美まで。

 いろいろご負担をお掛けして申し訳ありません」


サキと舞がキクに頭を下げるとキクはびっくりして手を横に振った。


「滅相もない。

 本当におじいさんと二人っきりで暗かった家の中が、二人が来てくれたおかげで明るくなって。

 あの人ったら、それはそれは悠美さんを気に入ってしまって。

 あ、ごめんなさい。」


変なことを言ってしまったと思いキクはサキに謝った。


それを聞いて、舞が笑いだした。


「お義父さん、悠美みたいな若い娘が家の中にいて、さぞ、ドキドキしてるんでしょうね。」


「そうなのよ、聞いて、聞いて。

 今朝だってね、悠美さんのセーラー服姿を見て、固まっちゃっているよ。

 ほんと、石頭の朴念仁が。」


「まあ!」


サキがびっくりした顔をしてから、笑い始めた。


しばらく、悠美の話で盛り上がった後、キクは春彦を迎いに行くので席を立った。


「お義母さん、春彦に伝えてください。

 “お母さん、すぐに元気になるから、待っていてね”と。」


「はい、ちゃんと伝えますよ。

 だから、ゆっくり休んで、たくさん食べて、早く良くなってね。」


「はい。」


キクが病室を出ようとすると、サキが見送りにと言って一緒に病室を出てきた。


「びっくりしましたわ。

 身体はともかく、目の輝きが戻ったようで。

 よかったわ。」


「そうなんですよ。

 今日、病院に来たらいきなり『くよくよしているのは昨日まで。今日から頑張る』って言って。

 やっと母親の眼に戻って、ほっとしました。

 先生も気力が出てくれば、退院も早いだろうって。

 まだまだ、若いですしね。

 なので、本当に申し訳ないのですが、二人をお願いします。」


「はい、それはもちろん。

 責任もって、お預かりさせていただきます。

 でも、悠美さん、本当に良い娘ですね。」


「ええ、祖母の私が言うのもなんですが、怖いくらいによく気が付いて。」


「まあ。」


“でも、本当にそうかも”とキクは心の中で思った。


キクが、春彦と待合わせの駅に着くと、しばらくして春彦がやって来た。


「おばーちゃーん!!」


「あ、春彦ちゃん、こっち、こっち。」


キクは春彦と手をつないで歩き始めた。


「今日、舞さんのところに寄って来たのよ。」


「お母さん、どうだった?

 元気になっていた?」


「ええ、とっても。

 ご飯が足りなくって、お腹空いたって。」


キクはそう言いながら笑って見せ、春彦も笑顔になっていた。


「やった!

 じゃあ、きっと退院も早いね。」


「そうね。

 そうそう、舞さんがね、早く元気になるから、待っていてねって。」


「うん。」


「明日は、帰りに寄ってみようか?」


「うん!!」


春彦は嬉しそうに頷いた。


やはり春彦には舞が一番なんだろうなと無邪気に喜ぶ春彦を見てキクは思う。


「そうそう、春彦ちゃんは菓子パンとか好きなんじゃない?

 うちの近くにパン屋さんがないから、そこのパン屋さんで、明日の朝ごはん用に買って帰りましょう。」


キクは駅前にある美味しそうな匂いの漂ってくるパン屋を見つけていった。


「わーい、悠美ちゃんも菓子パン好きだよ。」


「まあ、やっぱり。

 悠美さん、どんなパンが好きか知ってる?」


「うん、わかるよ。」


「じゃあ、パン屋さんで春彦ちゃんの分と、悠美さんの分を買って帰りましょう。」


「はーい。」


キクは春彦に手を引かれるようにパン屋に入って行った。


パンを買ってレジで並んでいる時、キクは病室で舞が尋ねたことを思い出した。


「そう言えば、悠美はどうしてます?」


舞がキクに尋ねた。


「え?

 ええ、変わりなく元気で、お手伝いや春彦ちゃんの面倒見てくれているわよ。

 でも、なぜ?」


「いえ、あの子、あの人に初めて会った時から“繁おじちゃん、繁おじちゃん”て言って、慕っていたんです。

 初めて会った時は、悠美はまだ幼稚園児だったので、遊んでくれる優しいおじさんに見えただけかなと思っていたのですが、中学校、高校と上がるうちに、あの人を見る悠美の眼は何て言うか、そのキラキラして、全力で恋をしている乙女の眼で見つめていたんですよ。」


舞は、面白そうに言った。


「まあ、悠美さんが、春繁を?」


舞は頷いてから、少し考えるような目をした。


「それだけ夢中で恋い焦がれていたあの人の匂いのする家で大丈夫かなって、ちょっと思っただけです。

 でも、あの家で暮らしていた時のあの人のこと知らないし大丈夫かと思うのですが、まだ、あの人が逝って数か月ですもの。」


舞は、悠美が春繁にどんなに思いを寄せていたか、同性なので痛いほど良く判っていたが、元気にふるまっている今の悠美の心の中は、どうなっているのか計り知れなかった。


「…。」


「実は、春繁さんがお亡くなりになったあと、2日間、悠美は学校も行かず、何も食べずに、部屋に閉じこもって泣き続けていたんですよ。」


サキがため息をつくように言った。


「2日間も…。」


「そうなんですよ。

 どうにかなっちゃうかなって心配していたら、告別式で踏ん切りがついたのか、その次の日から普通に戻ったのですが。」


「そんなことが…。」


キクは、その話が妙に心に残った。


その日、悠美が学校から帰って来ると、いつものように春彦が悠美にまとわりつくようにして話し始める。


「ねえ、2階にお父さんの部屋があるんだよ。」


「うん、知ってるわ。」


「秘密基地みたいで面白いんだ。

 悠美ちゃんも行かない?」


「え?

 ううん、行かない。」


「えー、どうして。」


悠美は、春繁の匂いのする部屋に行けば、悲しい思いが込み上げてくる気がした。


「どうしても、よ。」


「えー、行こうよ、ねえ、行こうよ。」


春彦は、なおも悠美に一緒に春繁の部屋に行こうとせがんだ。


そして、そのやり取りが何度か続いた後、突然、悠美がきつい口調で言った。


「行かないって、言っているでしょ!!」


悠美のきつい口調を聞いたことがなかった春彦はあまりのことに声も出ずに立ちすくんだ。


悠美は、あ然としている春彦の顔を見て、我ながら大人げないことをしたと、はっとした。


「ご、ごめんなさい。」


春彦は、まだ、びっくりして声も出なかった。


「ごめんね。

 今日は、行きたくないの。

 また、今度ね。」


悠美は取り繕うように言うと、春彦の頭を撫で、笑顔を見せた。


「う、うん。」


頭を撫でられ、春彦はやっと声を出すことが出来た。


「ん、もう。

 “ごめん”て言っているでしょ!」


そう言うと悠美は春彦の脇に手を入れくすぐり始めた。


「な、なんでー。」


春彦は、何で急にくすぐられなくてはいけないのかわからなかったが、笑いながら逃げ出すと、悠美は「待て、待てー。」と春彦を追いかけまわしていた。


「……。」


そんな悠美と春彦のやり取りを、悠美の態度を、キクは、病院で聞いたことを思い出し、複雑な顔をしてみていた。


但し、いつもと違ったのはその時だけで、その後、夕飯の手伝いや、夕飯の時間、お風呂と前日と同じようににぎやかだった。


「じゃあ、おやすみなさい。」


「はい、おやすみなさい。」


悠美と春彦が仲良く部屋に戻るのを見送りキクは思った。


(春繁の馬鹿。

 舞さんと悠美さんにこんなに慕われているのに、あなたったら、何で逝ってしまったの。)


キクは、小さくため息をつくと、居間の電気を消して寝室に向かって歩いて行った。


その夜は雲一つない晴天で、大きな月ぽっかりと夜空に浮かび、その光が煌々と家を照らしていた。


春彦の父親の春繁が逝く数週間前の土曜日。


悠美はいつものように春彦一家のアパートに遊びに行くため、電車を降り改札口を出ると、数メートル先を春繁が歩いているのを見つける。


すぐに追いつこうかと思ったが、思いとどまり、そのままの距離を保ったまま、歩いていく。


春繁は身長が180センチ近くの長身で、細身に見えるが均整の取れた体形をしていた。


(繁おじちゃん、やっぱり格好いいな。

 素敵だなぁ)


春繁の後を悠美はそんなことを思いながら目を輝かせて歩いていたが、駅が遠くなり、人波がまばらになって来るのを見計らって、小走りに春繁に駆け寄り、その左腕に抱きついた。


「繁おじちゃん!!」


「わ、ビックリした。

 悠美か。」


春繁は、すぐに悠美とわかり、白い歯を見せて笑う。


その笑顔が、また悠美の恋心に火をつけていた。


「繁おじちゃん、繁おじちゃん。」


そう言って、まるで駄々っ子のように笑顔で春繁の左腕を振り回しながら抱きしめた。


春繁の腕は筋肉質で弾力があり、悠美は好きだった。


春繁の方は、着痩せして見えるタイプで華奢に見えたが自分の左腕に当たる悠美のふくよかな胸の柔らかさに、どぎまぎしていた。


「繁おじちゃん、今日は早かったね。」


悠美は春繁の腕を離すまいとしっかり抱きついたまま言った。


「え?

 いつもと一緒だよ。

 でも、今日は悠美が遊びに来るって聞いていたから、一目散に会社を出たんだよ。

 悠美の方こそ、今日、遅かったんじゃないか?」


いつの間にか周りの木々や家並みが夕日で赤く染まっていた。


「うん、今日は大学の推薦のことで放課後に先生から話があったの。」


「お?

 それでどうだって?」


「私が、へますると思うの?

 もちろん、大丈夫ですよー。

 このまま、晴れて繁おじちゃんと舞ちゃんの後輩になるんだ。」


「おお、嬉しいな。

 悠美が後輩か。」


春繁が目を細めて悠美を見る。


「ほんと?」


「ほんとさ。」


「じゃあ、今晩、また大学のこと話して聞かせて。」


「ああ、いいとも。

 学食のコロッケカレーが絶品でさ。

 カツカレーも捨てがたいんだけどな。」


「もう、食べることばっかり。

 しかも、カレーだけ?」


「いや、そんなことないよ。

 ラーメンも上手いんだぞ。」


「やっぱり、食べ物ばかりじゃない!」


悠美は、そんな春繁を見ながら、笑っていた。


「今日は、また泊まるんだろ?」


「え?

 “また”とは何?

 泊まっちゃ迷惑なの?」


悠美は、演技で悲しそうな顔をして見せると、春繁は少し慌てた仕草を見せた。


「そんなことないよ。

 それどころか、悠美がいると、舞も春彦も喜ぶから、大歓迎さ。」


「繁おじちゃんは?」


今度は駄々っ子のような顔をして見せた。


「当然、大歓迎さ。」


春繁は悠美にウィンクをして見せた。


「よーし、ならば、泊ってあげよう。」


そう言いながら、悠美は春繁の左腕を振り回し、ご機嫌な声を出した。


悠美は、よく春繁たちのアパートに泊まるので、常に着替えを1セット置いていたので、軽装だった。


それから、しばらく二人は屈託のない話をしながら歩いていく。


春繁は相変わらず左腕に当たる悠美の胸の柔らかさと、悠美の何とも言えないいい香りに胸の鼓動が早くなる気がした。


(小さい時から遊んでいた従妹に何考えてんだか。)


春彦は自嘲気味に笑った。


「?」


悠美は不思議そうに、そんな春繁の顔を覗き込んだ。


「いや、そんなにくっ付くと、汗臭いんじゃないかって気になって。

 だいぶ涼しくなって来たけど、今日も背広着て歩き回っていたから。」


「ええ?

 繁おじちゃん、臭くないわよ。

 その逆、いい匂いするもん。」


悠美の言う通りで、春繁はタバコも吸わず、男としては珍しく男臭ささがなく、そんな春繁の匂いを悠美は好きだった。


「そんなこと言ったら、私の方かな、汗臭いの。

 今日、暖かかったでしょ…。」


悠美は気にするように自分の腕や脇をクンクンと嗅いでみた。


「あはは、大丈夫だって。

 悠美の方こそ、いつもいい香りだから。」


春繁が、笑い飛ばすと悠美は安心したような顔をした。


「あ、今日はお揃いじゃない?」


悠美に言われ、春繁は改めて自分の服装と悠美の制服を見比べた。


悠美は、濃紺のセーラー服に青いスカーフに黒タイツ、春繁はというと濃紺の背広の上下に青のストライブのネクタイをしていた。


「なるほど、似てるな。」


春繁がそう言うと悠美は嬉しそうに鼻歌を歌うように前を見る。


その日の悠美は長い黒髪を後ろになびかせ、また、前髪をピン止めし、形のいいおでこを出していた。


(悠美は、やっぱり美人さんだな)


卵型の輪郭の顔立ちに、目鼻立ちがぱっちりしている悠美を見ながら春繁はつくづく実感した。


「あ、あれ、舞ちゃんに春ちゃんだ。」


悠美にそう言われ、春繁も前を見ると、買い物袋を下げ、春彦の手をつないで歩いている舞たちの後姿が見えた。


「舞ちゃーん、やっほー!」


周りに人影がまばらなのを良いことに、悠美は大声で舞の名前を呼び、左手を振ったが、右手はしっかりと春繁の左腕に絡めていた。


舞は振り向くと、春繁と悠美を見て、何やら春彦に声をかけると,その場で立ち止まり、歩いてくる春繁と悠美を待っていた。


「まったく、悠美ったら。

 そんなにくっ付いたら、繁さん、困っちゃうわよ。」


「あら、なんで?」


「なんでって、あなた、高校3年生でしょ。」


「うん。

 だから?」


「だから、女の子で…。


「で?」


「う……。」


(若い女の子が、道の真ん中で男の人に抱きつくように腕を組んで…)


と言おうと思ったが、自分も春繁に良くやるし、悠美の嬉しそうな眼を見ると、舞はとうとう言葉に詰まり、そんな舞を見て春繁は笑いだした。


「や、春ちゃん、こんにちは!」


「悠美ちゃん、こんにちは。」


悠美の興味はすぐに春彦に移り、春繁の腕を離して、春彦を抱きしめた。


「わ、悠美ちゃん、く、苦しい。」


そう言いながらも春彦はまんざらではなかった。


「じゃあ、手をつないで行こう。」


悠美はそう言うと春彦の手を握って歩き始めた。


「まったく、悠美ったら。」


舞は、悠美の天真爛漫さに参ったように、笑いながら悠美と春彦の後姿を眺めていた。


「まったくだ。」


春繁も、同感だと言わんばかりに頷いて笑う。


「繁さん、少しは悠美にどきっとしたりして?

 ああ見えても、ちゃんと身体は成長してるのよ。」


舞が意地悪い顔で春繁を覗き込む。


春繁は先程までの腕に当たっていた悠美の胸の感触を思い出し“知っているよ”とも言えず、「え?そんなこと…。」とごまかそうとした。


「そんなこと?」


今度は、舞が春繁を言い負かす。


「ちょっとね。」


春繁は、指を1センチくらい離して見せた。


「まあ、仕方ないわね。

 これから、どんどん綺麗になっていくわね。

 うらやましいな。」


舞は眩しそうに悠美の後姿を見つめていた。


「ああ。

 でも、お前もきれいだよ。」


「まあ。

 まるで、取ってつけたような言葉をありがとう。」


「こら、へそ曲げるなって。

 僕には、舞が一番さ。」


そう言うと春繁は舞から買い物袋を受取り、右手に鞄とともに下げ、左腕を身体から少し離し舞の腕が入るほどの隙間を開けて見せた。


舞は、それを見て、笑いながら春繁の左腕を悠美のように抱きしめる。


「どうだ!」


舞が嬉しそうな声を上げる。


「もう、最高です!!」


春繁も笑いながら答える。


春繁にとっては舞の温もりが一番だった。


それから、春繁と舞は楽しそうにふざけながら春彦と悠美の後ろを歩いていく。


悠美は、振り返りそんな舞と春繁を見て、嬉しそうに笑った。


悠美は、布団上で両ひざを抱えるようにして、その日のことを思い出していた。


「繁おじちゃん…。

 繁おじちゃんの腕の感触、まだ残っているのよ。

 ……

 繁おじちゃんの匂いもしっかり覚えているのよ。

 繁おじちゃんの笑い声も…。

 ……

 ねえ、どうして……、どうして、一人で逝っちゃったの。

 どんなに…、どんなに名前を呼んでも、もう、『悠美』って呼んでくれないでしょ。

 頭を撫でてくれないでしょ。

 ……

 笑いかけてくれないんでしょ?

 ……

 私、こんなに、こんなに、繁おじちゃんのこと想っているのに…。」


悠美は唇をぎゅっと閉じ、必死になって泣くのを我慢していた。


「……。」


横の布団で寝ていた春彦は、悠美の悲痛な心の声が聞こえ、眼を覚まし、薄目を開けてみた。


悠美の布団の方を見ると、そこには、布団の上に座って、肩を震わせている悠美がいた。


悠美の身体は、まるで蛍の様にぼーっと蒼白く光っているように見え、そして、まるではかなく光とともに消えてしまいそうで怖くなった。


「!

 春ちゃん?

 起きてるの?」


悠美は、春彦の気配に気が付いたが、寝ているのか起きているのか半信半疑だったので、押し殺したような声で言った


春彦は、泣いていた悠美に気を使い、寝たふりをしなければと“ぎゅっ”と目をつぶっていたが、顔の近くに覗き込む悠美の気配を感じ、ひたすら、目を閉じて眠っている振りをしていた。


「心配してくれたのかな?

 ごめんね。

 ありがとう。」


そう呟くように言いながら悠美は春彦の頭を撫でた。


春彦は。悠美の温かな手の感触を感じながらまた眠りについていった。


「おやすみ。」


悠美は春彦が寝たのを確認すると、おでこのキスをして、自分の布団に潜り込んだ。


(繁おじちゃんも、おやすみなさい…)


天井を見上げながら、悠美は心の中でつぶやいた。


春彦の姿を、息子の春繁と被らせる春吉。

春繁の生家で、嫌でも春繁に想いを巡らせる悠美。

失ったものに想いを寄せながら、人は前を向いて生きていきます。

昔誰かに聞いたことがあります。

『人が本当に死ぬのは、その人のことを想う人がいなくなった時』だと。


日に日に元気になっていく舞。

春彦も悠美も、春吉とキクに優しく見守られ、生き生きと暮らしていきます。


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