第6話 加茂の流れに
その日の昼過ぎに、悠美と春彦、そしてキクの3人は、病院に舞の見舞いに訪れた。
舞の名前が掛っている病室に入ると、サキがベッドの横の椅子に座っていた。
病室は4人部屋で、舞のベッドは窓際にあり、舞は、上半身を起こし、枕を腰あてにして、ぼーっと外を眺めていた。
サキが3人に気が付くと、舞の肩を小突いて3人が来たことを教えた。
「春彦ちゃん、悠美、こっちこっち。」
サキは、春彦と悠美を手招きし、立ち上がると自分の座っていた席に春彦を座らせ、キクの方を向いて挨拶を交わした。
「立花さんもわざわざ見舞いに来ていただきすみません。
悠美。
廊下に椅子があるからキクさんに持ってきて。」
「はい」
「いえ、とんでもない。
あ、悠美さん、椅子は良いから」
キクが挨拶を返している時も舞は窓の外を見ていた。
「お母さん?」
春彦がそう呼ぶと、舞は初めて気が付いたように、春彦と悠美それに悠美の肩越しにキクを見た。
そして、キクの方に力なく会釈すると、春彦の方に目を落とした。
「お母さん、具合はどう?」
春彦が心配そうに尋ねる。
「ごめんね、春彦…。
お母さん、ちょっと…具合が悪くなっちゃって…。」
舞は、次の言葉が出ずに黙ってしまった。
「具合はいかがなんですか?」
キクがサキに話しかけた。
「ええ、昨日よりだいぶ落ち着いてきましたわ。
ただ、薬のせいもあって、あんな調子で。
今日は朝からボーっとしているんです。」
「無理もないですわ。」
サキとキクの小声の会話を悠美はじーっと聞き耳を立てて聞いていた。
「悠美?」
「は、はい。」
不意に舞に名前を呼ばれ悠美は慌てて舞の方に目線をやり、舞の顔をまじまじと見つめた。
(舞ちゃん、やっぱり顔色が悪いし、げっそりやつれている。)
悠美はそう思った。
「昨日は一晩中、春彦に付いていてくれたんだって?
ありがとう…。
お義父さんやお義母さんがいるから大丈夫と思ったのだけど、悠美までいてくれたって聞いてほっとしたわ。
春彦…、寂しがったり、泣いたりしなかった?」
「ええ、大丈夫。
春ちゃん、すごくいい子だったから。」
悠美は、春彦が泣いたことは伏せていた。
「そうなんだ。
春彦は強かったんだ。
悠美がいてくれたから、寂しくなんてなかったもんね。」
舞は、片手で春彦の頬を撫でて言うと、春彦は、黙って頷いた。
「春彦…、ごめんね…。
お前の弟か妹が……。」
舞は、悲しそうな顔をして言った。
「ううん。
僕は早くお母さんが元気になってくれれば、それでいい。」
春彦は、力強く言った。
「優しいね、春彦は。」
舞はそう言うと悠美の方を見上げた。
悠美は、舞が何を言いたいのか分かった気がして黙って頷いた。
「明日から学校に行かなくちゃね…。」
舞は、再び春彦に目をやった。
「ええ、舞さんが元気になって退院するまで、ちゃんと春彦ちゃんを預かるから大丈夫よ。
学校も、私とあの人で送り迎いするから大丈夫。
だから、安心して身体を治して頂戴ね。」
キクが、優しく声をかけた。
「お義母さん、すみません。
大変でしたら、学校を休ませても…。」
「大丈夫よ。
こっちは気にしないで。」
「春彦ちゃんだけじゃなくて、悠美も一緒に立花さんのお宅にご厄介になるのよ。
キクさん、遠慮なく悠美をこき使ってくださいね。」
「おばあちゃんってば!」
悠美は、泊ることが正式に許可されたと知ってほっとした。
「そうなのよ。
悠美さんたらお料理とかできるんでびっくりしちゃったわ。」
「悠美…。
いつも、ありがとうね。
何かあると、ついつい頼ってしまって……。」
舞の眼から一筋の涙が零れ落ちた。
「舞ちゃん。
そんなこといいから、早く元気になってね。
舞ちゃんの卵焼きやコロッケカレー、私も春ちゃんも楽しみにしているんだから。」
「うん。
でも、あなた、学校とかあるんじゃないの?」
「大丈夫よ。
ちゃんと通えるから。」
舞は話をしている最中もずっと春彦の手を握り締めていた。
「春彦の手、温かいわ。」
心なしか舞の頬に少し赤みが差して来た。
少ししてからサキは悠美を促して帰ることにした。
「さあ、悠美。
ひとまず、引き上げましょう。
お前は、明日からの準備があるでしょ?」
「そうだったわ。
帰って荷造りしないと。
じゃあ、舞ちゃんはゆっくり休んでね。」
「舞、あとで敏子さんが来ると思うから、何かあれば言いなさい。」
「はい。」
キクも舞の身体を気遣って、春彦の肩に手をやった。
「じゃあ、私達もこれで帰りましょう。
春彦ちゃん、お母さんをゆっくり休ませなくっちゃ、ね。」
キクがそう言うと、春彦は頷いた。
「お母さん、早く元気になってね。
待っているから。」
「うん。」
舞はそう言うと、もう一度、春彦の手を名残惜しそうに握ってからゆっくり手を離した。
皆が病室の出口に向かった時、悠美が不意に舞のベッドに戻り、舞の肩を抱きながら何やら耳打ちをすると、舞は最初、驚いたように目を見開いたがすぐに「うんうん」と頷いていた。
病室の外では、春彦達が待っていた。
「どうしたの?」
サキが悠美に尋ねる。
「えへへ、内緒。
ちょっと内緒話を。」
「ふーん。」
「で、サキさん、舞さんの具合はいかがなんでしょうか。」
「ええ、体の方は1週間は安静が必要だそうです。
その後も予後としてあまり無理しないようにとのことです。
あと、問題なのは栄養失調と心の回復だそうで、2週間くらいは入院して体力をつけた方がいいそうです。」
「2週間ですか…。」
「長くなりますので、春彦ちゃんを預かるのたいへんでしょう。
我家と交互に預かっても構わないのですが。」
「いえ、春彦ちゃんのことは大丈夫です。
ただ、ここまで大事にさせてしまって、申し訳なくって…。」
キクはそう言いいながらうな垂れる。
「そんな、キクさんのせいじゃありませんよ。
いろいろなことが重なってしまったっていうことです。
もう自分をお攻めにならないで。」
「はい。
ありがとうございます。」
キクはそう言うと、何か手に温かいものが触れた気がして、手を見てみると、春彦がキクの手を掴んでいた。
「まあ、春彦ちゃん。
ごめんね、おばあちゃん、大丈夫だから。」
キクは心配して手を握ってくれた春彦に笑顔を作って頷いて見せた。
「じゃあ、春ちゃん、あとで行くからね。」
「うん。」
病院を出たところで2組、サキと悠美、キクと春彦は別れ、お互いの家に向かった。
「悠美、さっき、舞に何て言ったの?」
サキが病室を出る時悠美が舞に耳打ちした内容について尋ねた。
「え?
ああ、あれ?
“春ちゃんが、お父さんが居なくなって、守らなくちゃいけないお母さんまでいなくなっちゃって、寂しくて泣いてたの。
舞ちゃんには、まだ春ちゃんがいるんだから、早く元気になって春ちゃんのところに戻ってあげてね。“
って。」
「ふーん、そんなこと言ったの。」
サキは、なにか考え事をしていたが、それ以上、何も言わなかった。
家に帰ると悠美は急いで荷造りを始めた。
「悠美、あなたちゃんとできるの?
立花さんに迷惑かけてはだめよ。
お洗濯は、どうするの?
まさか、洗濯までしてもらうつもりじゃないでしょうね。
で、本当にちゃんと学校に行けるの?
いくら推薦が決まっているからって、卒業できなかったら意味がないからね。
お昼のお弁当はどうするの?
夕飯は、どうするの?
一度、家に帰って来て、食べて戻る?
電車賃は?
お小遣いは?」
悠美の母親の敏子が悠美にくっついて何かと質問攻めにする。
「大丈夫よ。
ちゃんと電車の時間を確認したから。
お洗濯は、洗濯機を借りて春ちゃんと私の分だけ別に洗わせてもらうし、ご飯は外で食べるわよ。
それに、一度家に帰って食べたら、夜中になっちゃうわよ。」
「電車賃やご飯代は?」
「うーん、それが困ったわ。
お年玉いくら残っているかしら。」
「馬鹿言ってないの。
そのくらいちゃんと出してあげるわよ。
荷物詰め込むバッグはあるの?」
「ありがとう!
バッグ?
この前、修学旅行で1週間行ってたじゃない。
その時持っていったスーツケースがあるから、それに詰めて、あと勉強道具とかも。
大きな肩から掛けるバッグもあったからそれも使うわ。」
「そ…う。
あ、あと洗面道具やお化粧品は?
何か、足りないものは?」
敏子は急な話で、半分気が動転しているようだった。
さらに心配する敏子に、悠美は笑って頷いた。
「大丈夫だって、お母さん。
それより、サキちゃんが立花さんのところに何か手土産でもって行きなさいって言ってたわよ。」
「え?
たいへん。
そうよね、まさか手ぶらでなんてわけにはいかないものね。
ちょっとお義母さんと相談してくるわ。」
敏子は、バタバタと悠美の部屋を出て行った。
「まったく、私をいくつだと思っているのかしら。」
そう言いながら、悠美は自分を心配してくれる母が嬉しかった。
荷造りが一段落すると悠美は、母親の敏子に尋ねる。
「そうだ、今日は光ちゃんいる?」
“光ちゃん”とは、南雲光一、悠美の6歳上の兄のことで、悠美は小さな時から「光ちゃん」と呼んでいた。
「光一なら、部屋で昼寝してるわよ。」
「ラッキー!
荷物を運ぶのを手伝ってもらおう。」
すると部屋のドアの外から声が聞えた。
「何、がたがたやっているかと思ったら、なんだ、その荷物?
家出でもするのか?」
声の主は光一だった。
光一は、身長が170㎝位の細身で、黒縁のメガネをしていた。
光一は昼寝をしていたが、荷造りする音と敏子と悠美の会話で寝てられず、起き出して来たので、起き抜けの寝ぐせのついた髪の毛と眠そうな顔をしていた。
「そうじゃないのよ。」
そう言って、敏子は事の顛末を光一に言って聞かせた。
「ふーん、それで、この荷物なのか。」
「そうなのよ。
で、光ちゃん、お願いがあるんだけど。」
悠美は猫なで声を出した。
「まさか、この荷物を立花の家に運ぶのを手伝えっていうのか?」
「そのとおり♪」
悠美は、にこやかな顔をして言った。
「やれやれ。」
光一は可愛がっている悠美の頼み事を断ることが出来なかった。
それに運転免許を持っていて、父の清志の車を良く運転していた。
「ここから、立花の実家までだと、道が空いていれば車で1時間もかからないか。」
「ちょっとした気分転換のドライブになるでしょ?」
「ちょっと?
そんな距離じゃないだろう…。
まぁ、しょうがないな。」
「やったぁ、光ちゃん大好き。
今度、ジュースおごるね。」
「俺、ビールの方が良い。」
「何言っているの、私はまだ未成年なんだから。」
「はいはい。
じゃあ、この荷物、もう車に運んでいいかな?
あ、母さん、今日車あるよね?」
「ええ、あるわよ。
お父さん、町会の集まりで皆さんと宴会中だから。」
「そりゃー、車には絶対に乗れないな。」
そう言って光一は悠美の荷物を車に運んだ。
「くれぐれも、立花さんには迷惑を掛けないようにしなさい。」
「はい、おばあちゃん。
行ってきます。」
そう言って悠美は常吉とサキ、それに敏子の見送りの中、光一の運転する車で家を後にした。
「2週間か?」
運転しながら光一が話しかける。
「うん、体調の回復を見てだって。」
「舞さんもたいへんだったな。」
光一も小さな時からちょくちょく、春繁と舞に遊んでもらっていたので二人のことを慕っていた。
「そうなのよ。
顔色も悪いし、げっそりやつれていたし。」
「そうなんだ。
今日、お前のこと送って行ったら、帰りに様子を見に寄ってみるかな。」
「そうして。
母さんもあとで行くって言ってたけど、舞ちゃん、光ちゃんの顔見ればきっと喜ぶから。」
「ああ、わかった。
お前も春彦のこと、ちゃんと面倒るんだぞ。」
「わかっているわよ。」
「それと、悠美がいないと皆が寂しがるから、たまには帰って来いよ。」
「えー、お嫁に行くみたいなこと言わないで。」
「たしかに。」
それには、ふたりとも車の中で吹き出してしまった。
立花の実家の近くに来ると、車窓から見える風景が、それまでは、住宅地が多かったのが、風景が農村地帯に変わってきたようだった。
隣接する家までの距離も離れ、左右、遠くに山並みも見えてきた。
「ここらへんは、のどかな田舎だよな。」
「そうね。
でも、静かでいいところ。」
「俺には、無理だな。
やっぱり都会の喧騒の中がいいや。」
「何、都会ぶってるのよ。」
そんな話をしながら、光一の運転する車は立花の実家の前に着いた。
「まだ、トンボがこんなに」
悠美は車を降りるとあちらこちらに赤トンボが飛んでいるのが見えた。
そして、門の傍に虫網を地面に置き、春彦がしゃがみ込んで何かをしていた。
ただ、その顔は無表情で、眼には冷たい光が宿っているようで、悠美は一瞬、顔を曇らす。
「春ちゃん。
ただいま」
悠美に声を掛けられ、春彦は飛び起き、驚いた顔をして悠美の方を見る。
「あ、悠美ちゃん、お帰り。
光ちゃんも、こんにちは。
おじいちゃんとおばあちゃんに悠美ちゃんと光ちゃんが来たって言ってくるね」
春彦は、笑顔で話しかけると、虫網を持って家の中に入っていった。
「おー、元気だな。
お前がいるから、元気ってことかな」
光一は春彦の後ろ姿を見ながら、可笑しそうに笑っていた。
「そうね…」
悠美は、春彦がしゃがんで何かをしていたところに行き、地面を見て顔を曇らす。
(春…、あの子…)
荷物を下ろし、春吉とキクが休憩していけという勧めを、舞の病院に寄りたいからと丁重に断ると、車に乗り込んだ。
「春彦、元気出せよ。」
「うん、光ちゃんも気を付けてね。」
「おう、じゃあ。」
春彦と短い会話を交わし、光一は車を走らせた。
「さてと、春ちゃん、荷物を部屋に運び込むのを手伝って。」
「うん。」
悠美は客間に荷物を運びこみ、制服など皺になるものをハンガーにとおし、鴨居にかかっている鴨居かけに掛け、その他、一通りの用事を終わらせ、春彦と居間に行く。
居間には、春吉とキクが笑顔で二人を迎えた。
「荷物の紐解きは終わったのかな?」
「はい。」
そう言って悠美は畳の上に座り丁寧にお辞儀をした。
「しばらく、お世話になりますが、どうぞ、よろしくお願いします。」
悠美の口上を聞いて春彦もあわてて悠美の横にちょこんと座って、同じようにお辞儀をし、「よろしくお願いします。」と春吉たちに向かって言った。
「そんな、かしこまらなくていいから。」
「そうよ。
二人とも、ここを自分の家だと思って使ってちょうだいね。」
「ありがとうございます。」
今度は悠美と春彦は声を合わせて返事をした。
「さて、もう5時を回っているか。
春彦と悠美さん、お風呂が沸いているから入りなさい。
悠美さんは昨日、今日と忙しかったから疲れているだろう。」
「いえ、大丈夫です。
夕飯の支度、手伝わせてください。」
そう言って悠美はキクの方を見る。
「今日はね、お寿司にしたの。
お寿司と言っても買ってきたのを並べるだけなのよ。
それにお吸い物も買ってきたから、支度は大丈夫。
だから、お風呂に入って頂戴。」
キクは、笑顔で悠美に言った。
「そうですか…。
じゃあ、春ちゃん、お風呂に入ろう!」
「え?
悠美ちゃんと?」
今度は春彦が飛び上がった。
「何言ってんのよ。
パジャマ出しておいてあげるから、先に入りなさい。」
「はーい。」
春彦は思い違いに照れ臭さを感じた。
春彦がお風呂に入っている時、悠美は台所のキクのところに顔を出した。
「悠美さん、家に来てからお茶も何も出していなかったわね。
ごめんなさい。
お茶でも、どう?
口に合うかわからないけど、お饅頭もあるわよ。」
「ありがとうございます。
でも、夕飯が近いので、また後でいただきます。
それより、お寿司並べるのを手伝いしますね。」
「まあ、いいわよ。
今日はゆっくりしていて。
それはそうと、明日は何時に家をでるの?」
「はい、ここを6時に出ようかと思っています。
早くて済みません。」
「いいえ、この前話したように、うちは朝早いのよ。
5時には起きているから。
この時期5時に起きても外は真っ暗なのにね。
でも、6時も真っ暗よ。
たいへんじゃない?」
「いえ、大丈夫です。」
「じゃあ、朝ごはんは5時半ごろでいいかしら?」
「いえ、朝ごはん何て、とんでもない。
学校の近くのパン屋さんで買いますから。」
「そんなこと言わないの。
家に居る時は、私の子供と一緒、ね。」
「キクさん。」
悠美はキクの優しさに感激していた。
結局、悠美がお寿司を並べていると春彦がお風呂から上がってきた。
「悠美ちゃん、お風呂空いたよ。」
「はーい。」
「悠美さん、本当にもういいから、お風呂に入って頂戴ね。
春彦くんは、お風呂上り麦茶でいいかな?」
キクも、だんだんと春彦たちの扱い方に慣れてきていた。
「じゃあ、遠慮なく、お風呂いただきますね。」
「はい、そうしてね。」
その会話を聞いて春彦は不思議に思った。
「ねえ、なんでお風呂いただきますっていうの?」
「え?」
悠美は一瞬言葉に詰まった。
それを見て、キクは横から口を挟んだ。
「春彦ちゃん、それはね、昔は今と違ってお風呂がある家とない家が普通にあったの。
それで、お風呂のない家にお人がお風呂のあるうちの人のお風呂を借りて入っていたの。
だから、“いただきます”て言う言葉が残ったの。
その方が丁寧に聞こえるでしょ?」
「へえ、そうなんだ。
じゃあ、その昔は銭湯なんてなかったんだね。」
「え?」
キクと悠美は、思いもしなかった春彦の反応に返す言葉が見つからなかった。
「まいったなぁ、あんな切り返しをしてくるなんて。」
悠美は湯舟に浸かりながら、春彦の言った言葉を思い出していた。
「でも、面白いな、春ちゃんて。
繁おじさんの影響かしら、それとも、舞ちゃんの影響かしら。
そう言えば、舞ちゃん、どうしたかな。
あのおまじない、効いてくれるといいんだけれど。」
お風呂から出ると悠美は、さすがにパジャマでは気が引け、グレーの上下のスェットに着替えた。
そして、持ってきたドライヤーで髪を乾かし、後ろで束ね、最近学校でブームになっているオイルを顔に塗った。
「これって、おばあちゃんも気持ちいいって言ってたな。
あとで、キクさんにも貸してあげよう。」
悠美が居間に入って行くと、すでに全員集まってテレビを見ていた。
悠美が居間に入って行くと、テレビを見ていた春彦はすぐに悠美に気が付き、悠美の方を向いた。
春吉も悠美に気が付いて声をかけた。
「悠美さん、お風呂どうだったかな?
温まったかな?」
「はい、とても気持ち良かったです。
それにとっても温まりました。」
「そうか、あ…。」
そう言いながら春吉は悠美を見て、一瞬、言葉を忘れ、見入ってしまう。
改めて見ると悠美は、しなやかな黒髪を後ろで束ね、顔は丸みを帯びた輪郭、眼は大きく二重瞼で、唇は健康的なピンク色をしており、誰が見ても美人と思える顔立ちだった。
また、洋服だと体のふくらみが分かりにくく、特に悠美はどちらかというと着痩せするタイプだったので、スエットだと胸や腰回りなどのふくよかな身体の線が浮き彫りになっていいたのと、風呂上がりにオイルを塗ったせいか、血色の良い頬が一段と悠美を際立たせていた。
「?」
悠美がどうしたのだろうと春吉を見ると、キクがすかさず「あなた!」と声をかけた。
その言葉に、春吉はハッとし、ゴホンと咳払いをした。
「い、いや、うちのお風呂は、自慢の風呂で、気持良かったかなって。」
「はい、とっても。」
春吉がぎくしゃくした言葉で声をかけたが、悠美は嬉しそうな顔をして頷いた。
「じゃあ、悠美さんも麦茶でいいかしら。」
キクが笑いながら立ち上がると、「私も」と悠美が続いた。
「その恰好、寒そうね。
この辺りは、夜は寒いのよ。
ちょっと待っていて。」
キクは、スェット姿の悠美を見てそう言うと居間を出て、しばらくすると黄色の花柄の半纏を持って戻ってきた。
「これ、綿入れ半纏なの。
温かいわよ。
それに舞さん用なの。
舞さんが来ると寒い時に必ず羽織っているのよ。
クリーニングに出したばかりで、きれいだから着てみない?」
「まあ、ありがとうございます。
舞ちゃんのなら、喜んでお借りします。」
悠美はニコニコ笑いながら半纏を羽織ってみた。
「わー、温かい。」
「そうでしょ。
よこれば、ここにいる間は、使ってちょうだいね。」
「ありがとうございます。
代わりにと言ったらなんですが、キクさん、顔にオイルとかつけています?」
「いいえ、私は普通のローションだけよ。」
「いま、私の学校で顔につけるオイルが流行っているんです。
それをつけると肌荒れ防止で、しっとりするんですよ。
私も今付けているんです。
ちょっと触ってみませんか?」
そう言って悠美は頬をキクの方に差し出した。
キクは、そーっと頬を触ると大げさな顔をした。
「まあ、ほんとにしっとり、プルンプルンね。」
「そうなんです、おばあちゃんにもつけてあげたら好評で、買ってきてって。
キクさんも後でつけてみませんか?」
「え?
いいの?」
キクと悠美が話で盛り上がっていると、春彦が台所入って来て悠美の半纏の端を引っ張った。
「ねえ、お腹が空いた。」
「あ、ごめんね。
いま持っていくから。」
キクがそう言うと、悠美がすかさず声をかけた。
「キクさん、私持っていきます。」
「じゃあ、私お吸い物を用意するわね。」
悠美とキクは大慌てで夕食をテーブルの上に並べて言った。
「まったく、食事を忘れて、なにやっとんじゃい。」
春吉が憮然した顔で言うとキクが言い返した
「だって、女同士の話ってあるんですよ。
家で舞さん以外と話をしたことないんですもん。」
キクの楽しそうな声やキクの気持ちがわかったいるので春吉は、それ以上何も言わなかった。
「さあ、じゃあ食べよう。」
春吉の一声で、皆声を揃えて「いただきます。」を言うと、悠美は眼を輝かせて春彦の取り皿を手にした。
「わあ、このトロ、イカ、エビおいしそう。
あ、貝もある。
春ちゃん、イクラもあるよ。
ほら、こんなに大きな卵焼きも。」
悠美は、きゃあきゃあ言いながら、春彦に寿司を取り分けていた。
「春彦ちゃん、ワサビ大丈夫って言ったからさび抜きにしていないのよ。」
キクが感心したように言う。
「そうなのか。
春彦も大人かな。」
「でも、この前、ワサビ食べて泣いていたじゃない。」
「だってあれって、悠美ちゃんが我慢大会って言ってワサビを追加するからだよ。」
春彦はむくれた顔をした。
「あら、僕もやるっていったじゃない。」
悠美はすました顔をした。
「う、でも、あれは、あの量は反則…だ。」
「まあまあ、もういいじゃない。
今日は美味しく食べましょうね。」
悠美の笑顔に春彦は静かに頷き、寿司を一つ頬張った。
悠美と春彦のやり取りを春吉とキクは飽きもせずに眺めていた。
「しばらくは、こんなにぎやかな食卓かしらね。」
キクが嬉しそうに言うと、春吉も嬉しそうに頷いていた。
にぎやかな夕食が済み、片付けを済ました後、悠美と春彦は春吉とキクにお休みの挨拶をして部屋に戻った。
「夕飯、美味しかったね。
おばあちゃんの手作りも美味しいけど、お寿司も美味しいね。」
春彦が、満足そうな声を上げた。
「そうね、ほんと、お腹いっぱいになっちゃった。
春ちゃん、ちょっと背中を押して。」
悠美は前屈の姿勢を取って春彦に声をかけた。
「え?
うん。」
春彦は、後ろから悠美の背中を押した。
「毎日、ストレッチをやらないと、すぐに太っちゃうのよ。」
「え?
だってこんなに細いのに?」
幼い春彦は、まだ、女性の扱いを心得ているわけではなく、ありのままの感想を言った。
「まあ、ありがとう。」
悠美の声は明らかに喜んでいた。
「今度は開脚前屈。
また、押してね。」
それから、腹筋背筋の脚持ちなど、たっぷりと春彦は悠美に付き合わされた。
「本当はね、お風呂に入る前にやりたかったんだけどね。」
「でも、お風呂上がりの方が、体が柔らかくなるって言うじゃない?」
「そうだけど、汗かくでしょ?
寝る時は汗をお風呂で流した方が気持ちいいじゃない。」
「そうだね。」
「じゃあ、今度は春ちゃんの背中を押してあげる。
まずは、足を揃えて。」
「ええ、いいよ。」
「いいから、いいから。」
そう言われ春彦はしぶしぶ前屈をした。
「えい!」と悠美は背後からのしかかるように身体押し付けると、春彦の体はぺたんと脚に付く。
春彦は、背中に悠美の胸の柔らかさと息がかかるくらいに近づいた悠美のいい香りを感じた。
「あら?
春ちゃん、結構柔らかいじゃない。
子供って、皆柔らかいのかしら?
佳奈ちゃんも結構柔らかかったわよ。」
(悠美ちゃん、佳奈にも手を出していたんだ…)
春彦は半分呆れた。
「あっ、でも、木乃美ちゃんは、硬かったわ。
押したら、ピーピー泣いていたもん。」
(木乃美が可哀想に…)
春彦は思った。
「毎日ストレッチするといいわよ。
春ちゃんも毎日やりなさいね。」
「はーい。」
春彦の返事を聞きながら悠美は真面目な顔になった
「?」
「春ちゃん。
まさかとは思うけど、あの道場に行ってないわよね」
「え?
まさか…」
春彦は、空返事で答えた。
「あと、明日から学校だからね。
忘れ物とかない?
下履きは?
コップは?
テーブルクロスは?
ハンカチ、チリ紙は?
宿題は終わっているよね?」
「うん。
朝、悠美ちゃんに言われて、おばあちゃんと準備しておいたよ。
宿題もちゃんと終わっているし。」
「よーし、えらいわ。
じゃあ、昼間は、ちゃんとおじいちゃんとおばあちゃんの言うこと聞くのよ。」
「うん。」
「私は、朝早いから春ちゃんが起きる頃にはいないから。
夕方には帰って来るわ。」
「はーい。」
「じゃあ、布団に入って、休みましょう。
早く、お布団に入らないと…。」
そう言って悠美は布団の中に入ろうとしている春彦の両脇を後ろからくすぐった。
「うわ、反則、反則だって!」
「じゃあ、早く入りなさい。」
「はーい。」
今度は、春彦がわざと布団から足を出す。
「こら、ちゃんとお布団の中に入らないと…。」
そう言って悠美が春彦の上にのしかかろうとすると、さっと春彦は足を布団の中にひっこめる。
それを2回ほど繰り返すと、悠美は春彦にのしかかり容赦なく春彦をくすぐった。
「タンマ、タンマ、足、ひっこめてるって!」
春彦は悲鳴のような声を上げ、笑いながら身体をよじった。
「何言っているの、私をからかった罰よ。」
そう言って、悠美は春彦が降参するまでくすぐり続けた。
「こ、降参です…。」
悠美は、春彦に馬乗りになったまま笑みを浮かべていた。
「よーし、じゃあ、本当に電気消すからね。」
そう言って悠美は電気を消して布団に入った。
「ねえ、悠美ちゃん。」
春彦が悠美に話しかける。
「ん?
なあに?」
「光ちゃん、運転上手なの?」
「え?
うーん、まあ、上手かしら。」
「いいなぁ。
ぼくも大きくなったら車を運転するんだ。」
「じゃあ、私を助手席に乗せて、ドライブに連れて行ってね。」
「うん、いいよ。
どこでも連れて行ってあげる。」
春彦は眼を輝かせて答えると、悠美は嬉しそうな顔をした。
「うふふふ、それは楽しみだわ。
じゃあ、お休み。」
「おやすみなさい。」
するとすぐに春彦の寝息が聞こえてきた。
悠美は布団から起き上がり、春彦が布団をはいでいないか確認し、そっと部屋から出て行った。
トイレを済ませ、手を洗って客間に戻る途中に、2階に上がる階段があり、その階段の上には春繁の部屋があった。
悠美は、階段の下で立ち止まると、下から階段の上の方を寂しげに見つめ、小さなため息をつくと悠美達にあてがわれている客間に戻っていった。
病院では、面会時間が終わりを迎える頃、舞はベッドの上でうつらうつらしていた。
(悠美に、ああいう風に言われたけど…
わかるんだけど…)
ぼやとした頭で、自問自答していた。
悠美に昼間、春彦がいるのだからしっかりするようにと言われ、確かにその通りで、今の自分には春彦しかおらず、前を向いていかなければいけないことはわかっていた。
しかし、自分が無理をしたせいで、大事なお腹の子を失い、自分自身も体を壊してしまった自責の念が晴れることはなかった。
コトン
枕元の棚に何か音がして、舞は目を開けると、女性が一人、舞の顔を覗き込んでいた。。
「…
悠美…?」
舞が声を掛けると女性は笑顔を向ける。
「何言っているのよ。
妹と姪っこを間違えて」
「…洋子…?」
「そうよ。
お久しぶり」
洋子は舞の妹で大学卒業後、家族の反対を押し切り単身海外を渡り歩いて生活をしていた。
その洋子のただ一人の理解者が舞だった。
舞は、洋子と姉妹仲が良く、洋子が海外に行くときも応援し、洋子の生活が厳しい時、こっそりと資金を提供していた。
一処に落ち着くことなく常にあちらこちらの国を渡り歩いているため、家族の方から連絡を取ることが出来ず、たまに洋子から舞に連絡があるくらいだった。
その洋子が目の前に立っている。
日焼けして活気のある顔、血がつながっているせいか、洋子と悠美は外見も性格も結構似ていた。
「いつ、戻って来たの?」
「今日よ。
それより、大変だったわね。
身体、どう?」
洋子はベッドの横の椅子に座り、舞の手を握る。
「うん、ぼろぼろ」
「弱音を吐くなんて舞らしくないじゃない」
陽子は痛々しそうな顔で舞を見る。
「まさか、繁さんがね…」
「ええ」
舞は洋子がすべての事情を知っていることがわかった。
「大好きな繁さんのことだもの。
全部、私一人でやり遂げたかったの。
でも、でも、そのせいで…
お腹の子を失って、繁さんに合わせる顔がない…」
すこし沈黙が流れた後、洋子が口を開く。
「お腹の子、きっと女の子だったわね」
「え?」
「繁さんに会いたくて、後をついていったんでしょ。」
「そ、そんな」
「繁さん、素敵だから。
お腹の子供も悩んだはずよ。
お父さんに会いたいって、お父さんの方に行きたいって。
でも、お母さんを悲しがらせたくないって。
きっと、優しい良い子。
お父さんに恋い焦がれて、ついて行ってしまったのね。
でも、今頃、繁さんにこっぴどく怒られているはずよ。
せっかくの命を、それに、お母さんを悲しがらせてってね」
「洋子…」
ふと枕元の棚を見ると、博多人形のような瀬戸物で中性っぽいがどことなく女の子風の可愛らしいい人形が置いてあった。
「これ…」
舞は洋子を見ると洋子は微笑み、頷いて見せた。
「空港を出て、駅に行く途中で、ふとお店のショーウィンドウで目が合ったのよ。
そうしたら、この子、連れて行って。
舞のところに連れて行ってって。」
「お人形が?」
洋子は笑顔で頷く。」
人形は舞に優しく微笑んでいるようで、じっと見ていると舞は心が静かになるように感じた。
「そう言えば、洋子はなんで?」
「舞のことがわかったかって?」
舞は不思議そうにうなずく。
「姉妹なんだから、離れていても何でもわかるって」
「ええ?」
「嘘よ。
私たちには最強の姪っ子が付いているでしょ?
私もあの子には逆らえないって」
洋子は面白そうな顔をしてウィンクして見せた。
洋子が帰り、舞は洋子が置いて行った人形を見つめる。
人形は相変わらず優しい顔で舞を見ていた。
「あなたなの?」
人形は何も言わず優しい顔で舞を見ている。
「怒っていない?
せっかくの命を…
それとも洋子が言った通りなの?
繁さんについていきたかったの?」
人形は何も答えなかった。
その夜、舞は夢を見る。
春繁とよく散歩した公園のようなところでベンチに座り、風を感じている。
良い天気で日差しが温かかった。
ふと風に乗って、子どもの声が聞こえる。
「お母さん、ごめんなさい。
私、お父さんにどうしても会いたかったの。
お母さんを悲しませて、お父さんに怒られちゃった。
でも、私、今、お父さんと一緒で幸せ。
お父さん、私の思った通りの人だったよ。
だから、お母さん、悲しまないでね。
ごめんなさい。
いつか、きっと…」
眠っている舞の頬に涙が伝わっていた。
この話を書いている時、かぐや姫の曲が流れていました。
歌詞と本文とは内容が違いますが、何となく、特に舞と洋子の部分は、頭の中にBGMとして流れていました。
立花家に春彦とともに居候する悠美。
悠美に励まされ、前を向いていく舞。
皆、元気になっていきますが、春繁の育った家の中、大好きだった春繁のことを嫌でも思い出し、悠美は複雑な想いを胸に抱きます。