第1話 突然の別れ
春彦が小学校3年に上がる春休みの時、立花一家は春繁の実家の近くのアパートに引っ越した。
「アパートなんかに引っ越さないで、どうせだったら、一緒に住めばいいのに。」
休みの日に、春繁、舞、春彦は春繁の実家に遊びに来ていた。
春繁の父親の春吉は、当初、アパート住まいに反対し、実家に一緒に住むことを望んでいた。
「そうすれば、毎日春彦に会えるし、毎晩、舞さんと晩酌が出来るし、儂は嬉しいんだが。」
「まあ、そんなこと言って。
舞さんが困っちゃうじゃないですか。」
春繁の母親のキクが呆れて言うと、舞が笑いだした。
「そんなことないですよ。
お義父さんの晩酌のお付き合いなら、毎晩でも。
それにお義母さんにも、いろいろお料理を教えてもらいたいし。」
「じゃあ、今からでもアパートなんてやめて、ここで一緒に暮らせばいい。」
「親父、そんな無茶言わないでくれよ。
ここから電車で2駅のところに引っ越したんだから。
それでも、会社まで1時間30分以上かかるんだよ。」
春繁が少しむくれたように言った。
春繁自体、近い将来、春吉の跡を継いで実家に入り、守っていくつもりでいたし、舞にもそう説明していた。
ただ、仕事の区切りとタイミングを考え、後1年は会社勤めをするつもりで、その間、実家近くのアパートに住み、春吉たちとの距離を縮めておくつもりだった。
「まったく、めんどくさい奴だな。
今の仕事なんか、すぱーっと辞めちまえばいいのに。」
春吉が口を尖らせた。
「まあまあ、お義父さん。
これからちょくちょく春彦と遊びに来ますから。」
舞が、春吉を宥めるように言った。
「それに、このままと言う訳にはいかないだろう?
春彦の勉強部屋とか、増築を考えなくちゃ。」
春繁は家を見回して言う。
「まあ、それは、勝手にやってくれ。
なあ、春彦。
この家は広くて良いだろう?」
春吉は舞の隣で美味しそうにお菓子を食べている春彦を見ていた。
「うん。
僕、このお家のお風呂が大好き。
凄く広くて、窓から遠くまで景色が見えるし。」
「そうだろう。
近くの林に行けば、夏はカブトムシとかクワガタ、それ以外の昆虫もたくさんいるし、小川にお魚も泳いでいるから、魚釣りもできるぞ。
そうそう、カニもいるぞ」
「うん。
それに、おばあちゃんのご飯、すごーく美味しくて大好き。」
春彦は万遍の笑みを浮かべて言った。
「まあ、春彦ちゃん、嬉しいこと言って!
今晩、何にしましょうね。
春彦ちゃんの好きな物言ってね。」
キクは、嬉しさで顔を崩していった。
「まあ、あんたったら。
私のご飯とどっちがいいの?」
「え?
おばあちゃんのご飯!!」
「ま!」
舞は、冗談で悔しそうな顔をしていった。
「あははは、そりゃあいいわ。」
「春彦、明日からご飯がどうなるか覚えておきなさい。」
「じゃあ、春彦君だけ家に住めば?」
「えー!?
それは、嫌だ」
そういう会話で、立花の実家は笑い声が絶えなかった。
それから数カ月、夏休みも終わり、季節は秋に向かっていた頃、春彦も転校した学校に慣れ、週末は必ずと言っていいほど、一家で春吉の家に泊りがけで遊びに行っていた。
また、平日、舞は変わらず自宅で翻訳の仕事をしていたが、時間があればキクに料理を教えてもらったり、平穏無事な日々を送っていた。
ただ一人、悠美だけは遠くなったと不平を漏らしていた。
「もう、なんでこんな遠くに引っ越したの?
電車で1時間以上もかかるのよ。
まあ、ここは自然が多くて気持ちいいけど。
でも、遠いわ!!」
悠美も高校3年生になったが、相変らず、春繁たちのところに遊びに来て春彦と遊んだりしていたが、さすがに、泊る回数は減っていた。
皆、このまま立花の実家に合流し、楽しい生活がずっと続くと信じて疑わなかった。
春彦が小学3年の9月のある日のこと、春繁はいつものように会社に行く身支度を整えていた。
「ねえ、お父さん、今度の休みは魚釣りだからね。
忘れてないよね。」
「おお、忘れるもんか。
大きいマグロを釣りに行くぞ。」
「おー!
だけど、お父さん、あの小川にマグロなんているの?」
「いや、今度は、3連休だし海の方に釣りに行こうかと思ってるんだ。
たくさん釣って、おじいちゃんやおばあちゃんに持って行かなくちゃ。」
「え?
海に行くの?」
春彦は興奮気味に言った。
アパートから海まで車で1時間ほどだった。
春繁は田舎暮らしで困らないようにと、小さな車を買って舞と交互に使っていた。
「だから、ちゃんと勉強するんだぞ。
とくに宿題はちゃんと済ましておけよ。」
春繁は笑いながら春彦に話しかけた。
「え?
うっ、うん。」
勉強と聞いて、春彦は言葉を濁して返事をした。
「さあ、二人とも、早くしないと、会社と学校に遅れちゃうからね。」
舞はそんな二人のやり取りを楽しそうに聞いていた。
「はーい。」
春彦はそう返事をすると、玄関で靴を履き、春繁と舞に向かって元気な声をだした。
「じゃあ、いってきまーす。
おとうさん、おさきにー。」
「おおー、いってこい。」
「いってらっしゃい。
気を付けてね。」
二人に送られ、春彦は手を振って元気に学校に向かって行った。
ランドセルを揺らして歩くその後ろ姿を見送って、舞は、笑いながら言った。
「あの子、今度の休みの魚釣り、すごく楽しみにしているみたいよ。」
「ああ、僕も楽しみにしているんだ。
男の子だから、あちこちに連れまわしたくってさ。」
「まっ!
私を忘れないでよ。」
「ああ、当たり前だろう。
舞も一緒に来ればいいのに。」
「うーん、最近ちょっと体調が悪くて。」
舞は微妙な顔をした。
「体調が悪いのか?
大丈夫か?
そう言えば、顔色、少し悪いぞ。」
春繁は心配そうに舞の顔を覗き込んだ。
「大丈夫よ。
それに、今日、お医者さんに行って見てもらうから。」
「そうか?
無理しないで、気を付けるんだぞ。」
舞は頷きながら春繁の顔を見た。
「今日は、早く帰って来る?」
「ああ、特に予定はないからまっすぐに帰って来るよ。」
「よかった。」
「ん?
どうして?」
「どうしても。」
「ふーん、まあいいや。
ともかく早く帰って来るからな。
行ってきます。」
そういうと、春繁は舞を抱き寄せて唇にキスをした。
「いってらっしゃい」
舞も笑顔で春繁を送り出した。
「さあ、あなたは、どちらかしら。
男の子?
女の子?」
一人になり、そっと、自分のお腹を摩すりながら、舞はお腹に話しかけていた。
春繁は、出社してからいつものように午前中、客先周りをし、昼休みに会社に戻って来て、舞の作ったお弁当を食べていた。
(舞は、大丈夫かな。
実家のこととかいろいろあって疲れたのかな。
少しゆっくりさせて、本当は、もう一人子供が欲しいな。)
そんなことを考えながら昼休みが過ぎ、午後の就業時間に入った。
午後は、電話や事務作業などデスクワークがほとんどだった。
昼休みが過ぎ1時間ほど経った時、春繁は、急に胸に痛みを感じた。
それは、突然だった。
「あれ、どうしたんだろう。」
そう考えている間もなく、胸の痛みはどんどんひどくなり、激痛に変わっていった。
「ぐっぅ。」
声にならない声を発して、春繁は胸を押さえて椅子からドサッという音ともに転げ落ちた。
「立花、どうした?」
「立花さん!」
声をかけても春繁は胸を押さえ、苦悶の声を上げるだけだった。
「おい、だれか、医者を、いや救急車を呼んで。」
倒れこんでいる春繁の周りに人垣が出来き、皆心配そうに覗き込んだり、声を掛けたり、フロアー中騒然となった。
「舞…、春…。」
春繁は激痛の中、舞と春彦の顔が浮かんでいたが、すぐに漆黒の闇に飲み込まれていった。