十七 白狼亭
ライガの背に乗ったユニの視界には、白城市の高い城壁と、周囲に拡がる新市街の背の低い街並みが飛び込んできた。
「何だか久しぶりね、ちょっと懐かしいわ」
『やけに嬉しそうだな』
「あら、分かる? あそこには美味しい店がたくさんあるのよ」
ライガと軽口を交わし、ユニは振り向いた。そこにはヨミを先頭とした群れのオオカミたちが従っている。
「あたしとライガは白城市に入るわ。一泊するだけだから、みんなはいつもどおり野営してちょうだい。
朝には出るつもりだから、王都側の郊外で待っていてちょうだい。
母さん、みんなのことをお願いね」
『分かったわ。ユニもハメを外して呑み過ぎないようにね』
そう言ってヨミは群れの方に戻っていった。
これからねぐらの確保、食糧の調達といった役割分担を決め、明日までの行動予定を確認し合うのだ。
ライガがいない間はヨミが群れのリーダーであり、それはライガに次ぐ実力者であるハヤトも認めていることだった。
いつもならユニたちと群れはこのまま別れる。だが、この日はヨミと入れ替わるようにヨーコが群れから出てきた。
「ん? ヨーコさん、どうかしたの?」
ユニはヨーコが元人間で召喚士だったことを知っているので、彼女を〝さん〟付けで呼んでいるのだ。
『ねえ、ユニ。明日、出発前に少しだけ時間をもらえるかしら? ちょっと話したいことがあるのよ』
「いいわよ。話だったら別に今だっていいけど?」
ヨーコはちらりと群れの方を見て、首を振った。
『いえ、みんなのいないところで話したいの。それじゃ明日、お願いね』
オオカミはそれだけ言うと、群れの方に戻っていった。
ユニは白城市に向かいながらライガに訊いてみた。
「ヨーコさんの方から話があるって、珍しいわね。ライガは何か知ってる?」
『いや、何も聞いていないな』
「トキと喧嘩でもしたのかしら?」
『それはないな。あれは完全にヨーコの尻に敷かれている。ヨーコを怒らせるような勇気はないだろう。
……まったく、誰に似たのか、我が息子ながら情けない』
「そうなの? まぁいいわ。深刻そうな感じじゃなかったし、どうせ明日になれば分かることよね」
ユニはそう言って、この問題を頭の隅へと追いやった。
ライガは足を速めて街道に戻り、そのまま新市街の街並みに入っていく。
久しぶりの訪問であるが、新市街の雑多な光景は以前と変わりがない。それなのにユニはある違和感を覚えた。
街がざわついているのはいつものことだが、そこに妙な緊張や不安が感じられるのだ。
まだ日は落ちていないから人々は忙しく働いており、しゃがれ声の呼び込みや、値引きを求める買い物客の声が響いている。
ユニは違和感の正体が掴めないまま、新市街を抜けて城門にたどり着いた。
彼女はライガの身体を滑り降りると、入城審査に並んでいる数人の列の後ろについた。
列の先では審査を担当する事務官が椅子に座り、入城を希望する者の身分を確認して許可証を発行している。
そして大きな城門の両側には、ハルバートを持った門衛が二人、警備に当たっていた。
門衛は兜をかぶり、王国の標準装備である革鎧を着装している。革鎧の胸当てには金属のプレートが嵌め込まれ、陽光を浴びてきれいなコバルトブルーに輝いている。
軍隊では武器や防具が汚れていることを神経質なくらいに嫌う。もちろん戦場ではそんなことを気にしていられないが、こうした警備に当たる兵隊はピカピカに装備を磨き上がることを要求されるのだ。
「……え、青? 何で白城市の門衛が青い装備になってるの?」
白城市は白虎帝が率いる第一軍の牙城であり、兵士のプレートは白色のはずである。青色は蒼城市の第四軍が使用する装備なのだ。
頭の中を疑問符だらけにしているユニは、やがて順番となって審査の事務官の前に立った。
召喚士の場合は国から身分証明書が発行されており、そこには登録された幻獣の情報も書き込まれているから、それを提出するだけで主従ともに入城が許可される。事務官は身分証の内容とユニたちを見比べただけで許可証にサインをしてくれた。
ユニはその事務官の横で直立不動の姿勢を保っている若い門衛に声をかけた。
「ねえ、あなた第四軍の兵士でしょう。何で白城市の門衛をやってるの?
ひょっとしてアスカが来ているのかしら?」
その言葉に若い兵士はぴくんと反応した。
「貴様っ、連隊長殿を呼び捨てにするとは何者だ!」
そう叫ぶなり、彼は事務官の机から書類をひったくった。
「何だ、辺境の召喚士か。たかが二級召喚士風情がなぜ連隊長のお名前を知っている? しかも呼び捨てにするとは馴れ馴れしいにもほどがある。
おいっ、事務官。こいつの入城許可は取り消せ! 間諜の疑いもある。別室で取り調べるぞ!」
あたふたしている事務官の前で、ユニがぷちんと切れた。
「ちょっと待ちなさいよ。召喚士風情? 〝ふぜい〟って何よ風情って? あんた、しまいにゃ泣かすわよ!」
「何だと! 生意気な女め、痛い目を見なくては礼儀も弁えないか!」
「そっちこそ〝ひよっこ〟のくせに生意気だわ!」
ぎゃあぎゃあ騒ぎだす二人の横で、ライガは無関心に欠伸をしている。やがて騒ぎを聞きつけたのか、門衛の控室から上官らしい下士官が顔を出した。
「何を騒いでおる! ……おや、そのオオカミは……ああ、やはり。ユニ殿ではありませんか」
親し気に呼びかける男に、若い門衛はきょとんとした表情になる。ユニも男の顔に記憶がなく、怪訝な顔をしている。
門衛は恐るおそる上官に訊ねた。
「あの……もしかして軍曹殿のお知り合いですか?」
「いや、私このおじさんのこと知らないわよ」
すかさず横から口を挟んだユニに、軍曹は笑い声をあげた。
「ああ、それは見覚えがないでしょうな。ですがこっちはよく覚えておりますよ。
自分はあの黒龍野会戦で第四軍の派遣軍に参加し、アスカ隊長のもとで戦いました。
ユニ殿が大隊長と轡を並べて奮闘され、帝国の魔女が放った爆裂魔法から守ってくださったことは生涯忘れません。あの戦いに参加した者は皆同じはずですよ」
懐かしそうな笑みを浮かべてそう言った軍曹は、若い兵士に向き直って叱りつけた。
「おい、ハンス! この方は今俺が言ったとおり、黒龍野会戦で第四軍一万の命を救った恩人である!
ついでに言えば、アスカ連隊長殿の親友だ! よく覚えておけ!」
〝鬼より怖い〟と恐れられる先任軍曹に怒鳴られた若者は、たちまち直立不動の姿勢で敬礼をした。
「召喚士殿っ! 知らぬこととはいえ、大変失礼いたしましたっ!」
ユニは鼻をひくつかせて、「分かればいいのよ」と言って門衛に鷹揚にうなずくと、軍曹に向かって怪訝な表情を見せた。
「それにしても軍曹さん、これはどういうこと? 何で第四軍が白城市の警備をしているの?」
軍曹はぽりぽりと頭を掻いた。
「それが……詳しいことは緘口令が出ていて言えんのです。もっとも、自分たちもほとんど事情を知らされておりませんが……。
とにかく、白城市の治安をわれわれ第四軍が担っていることは事実です。それを除けば、この街に特に変わったことはありませんし安全です。
安心してお入りください」
「それじゃ、あと一つだけ。アスカは来ているの?」
軍曹はわざとらしく天を仰いだ。
「それも軍機であります。……ただ、今現在ここに居られぬことだけは確かです」
ユニは少し考え込んだ。彼女の後ろの列はもうだいぶ伸びていた。待っている人々の表情には苛立ちが浮かんでいる。
これ以上、ここでぐずぐずしているわけにはいかなかった。
「分かったわ。お仕事の邪魔をしてごめんなさい。
あんたも、これからは口の利き方に気をつけるのよ。女だからとか二級召喚士だからって、居丈高になっちゃ駄目よ。そんな男はモテないわよ!」
ユニは素早くライガの背に飛び乗ると、城門の中へと進んでいった。
* *
城壁内の旧市街に入ると、そこは新市街など比べ物にならないほどの寒々とした雰囲気だった。
分厚い雨戸を閉め切って休んでいる店も多く、人通りもまばらである。
時折、見回りの兵士が通り過ぎるが、いずれも胸に青いプレートをつけた第四軍の兵士だった。
それでもユニはどうにか宿を見つけ、部屋に荷物を放り込んで食事に出かけた。
しかし彼女のお気に入りだった飲み屋は軒並み閉まってた。素敵に苦いエールやむっちりとした食感の豚足を出す店も〝臨時休業〟の札を下げてしんとしている。
ユニは途方に暮れた。こんなことなら城壁内に入らずに、オオカミたちと野宿した方が百倍ましだった。
彼女は仕方なく宿に戻ろうとした。宿には食堂が併設されているから、そこで何か適当なものを詰め込んで、強い酒でも飲んで寝てしまおうと思ったのだ。
ある建物の前を、とぼとぼと歩いて通り過ぎようとした時、ユニの目に看板の文字が飛び込んできて、彼女はそこが料理屋であることに気づいた。
路地に面した店の窓からは、暖かい光が洩れている。石造りの建物にはびっしりと蔦が這っていて、艶やかな緑の葉を茂らせている。秋になれば真っ赤に紅葉して、さぞかし美しいだろう。
ユニは明かりに惹かれる蛾のように、ふらふらとその店に吸い込まれていった。
扉を開けると、途端に「いっらしゃいませー!」という元気のいい声が出迎えてくれた。
可愛らしいエプロンドレスを着た若い娘が声を追いかけるようにやってきて、ユニを空いているテーブルに案内する。
引かれた椅子に腰をおろして店内を見渡すと、二組の客が食事を楽しんでいるだけで、夕食時だというのにほかに客がいない。
あとは奥の方の安楽椅子に、白髪頭の老婦人が座って居眠りをしているだけだった。
「何にしましょう」
給仕の娘がにっこりと笑ってメニューを差し出す。見たところまだ十五、六の少女と言っていい年頃だ。
「私、この店は初めてだから、お任せするわ。何かお薦めの料理をちょうだい。
それとビールがあったらお願い」
娘は「かしこまりましたー」と元気よく答え、厨房へ入っていく。
彼女はすぐに戻ってきて、ユニの前に木製のジョッキを置いた。
木製ジョッキは小さな樽のような頑丈な造りだが、有体に言えば野暮ったい。主に田舎で使用されるもので、都会ではガラスや陶器が当たり前である。
「木のジョッキなんて珍しいわね。まるで辺境みたい」
「そりゃあ、うちは田舎料理が評判の店ですからね」
給仕の娘はちょっと得意そうだ。
「今日のお勧めはクリームシチューだそうです。パンは黒と白で選べますが、いかがなさいますか?」
「お店で黒パンなんか出してるの? 面白そう、黒でお願いするわ。
ねえ、この街どうしちゃったの? 第四軍の兵士ばかりじゃない。白虎帝や第一軍は何をやってるのかしら」
彼女は厨房に向けて「黒パンでーす」と声をかけてから、ユニの席に身を寄せて耳元に顔を近づける。
「それが私たちにも分からないですよ。
一週間前、エラン様(白虎帝)が真夜中に軍を率いて出立されたらしいんですけど、別に帝国が攻めてきたなんて話も聞きませんし……。私たちは演習かなって思ってたんです。ちゃんと衛兵や見回りの兵隊さんは残していましたからね。
それが一昨日、突然第四軍がやってきて街を占拠したんですよ。噂では第一軍の人たちは武装解除されて、白城に軟禁されているそうですよ。
でもその第四軍も、少しの兵を残してすぐに出ていっちゃたんです。誰も兵隊さんたちがどこへ行ったか知らないんですよ。不思議でしょう?」
娘は声を潜め、すらすらと澱みなく説明してくれた。多分、何度もこの話をしているのだろう。
「第一軍の兵士を軟禁しているですって? それじゃ両軍の間で戦闘が起きたの?」
「いえいえ、第一軍の兵隊さんはまったく抵抗しなかったそうです。まるであらかじめ命令されていたようだって、見てた人が言ってました。
第四軍の兵も別に乱暴はしませんし、『危険はないから普通に生活しろ』って言うばかりで、私たちには何も教えてくれないんですよ。
でも、みんな何かあるんじゃないかって怖がって、店を閉めちゃった人もたくさんいます。出歩く人もめっきり減りましたからね。
そのせいか知りませんけど、王都からもぱったり人が来なくなったんですよ」
ユニは眉根を寄せて考え込んだ。
「本当に何があったのかしら……。ねえ、あなたは第四軍の入城を見たの?」
給仕の娘は勢い込んでうなずいた。
「そりゃあもう! 二階の窓の隙間からこっそりとですけどね」
「軍を指揮していたのは蒼龍帝だった?」
「はいはいはい! フロイア様でしょ? もうっ! それはそれは、すっ、てっ、きっ、でしたよぉ!
すらっと背がお高くて超美人! 憧れるわ~!
それで、お隣にはアスカ様もいらっしゃったの! ピカピカの鎧をお召しになって、まるでフロイア様をお守りする騎士みたいだったわ!」
娘の顔は上気して頬が赤くなり、目がとろんとしている。蒼龍帝とその騎士の悪名は、この白城市の少女たちにも轟いているらしい。この娘もフロイアやアスカの薄い本を持っているに違いない。
「おいメイナ、そろそろ料理があがるぞ! 女将を起こしてくれ」
おしゃべりに夢中になっている給仕に、厨房から少し苛ついた声が飛んできた。
彼女はぺろりと舌を出し、「いっけなーい」と言って席を離れていった。
メイナと呼ばれた娘は奥で居眠りをしていた老婦人のもとへ行き、肩をそっと揺さぶった。
「お婆ちゃん、起きて。父さんが味見してくれって」
舟を漕いでいた老女は目を覚まし、「おやおや」と言いながら立ち上がった。
八十歳をとっくに越しているように見えるが、少し腰は曲がっているものの足取りはしっかりしている。
彼女たちが厨房に姿を消してしばらくすると、給仕の娘がお盆を持って戻ってきた。
深めの皿にたっぷりとよそわれたシチュー、黒パンとバターの入ったバスケット、小さなサラダボウルが、ユニの前に並べられる。
すでにビールを飲み干していたいたユニは、さっそくスプーンをとり、シチューを口に運んだ。
「美味しい!」
思わず小さな声が出る。山羊の乳とバター、そしてチーズをたっぷり使ったクリームシチューだ。ジャガイモ、タマネギ、ニンジン、そして緑の豆がごろごろと入っている。肉は生肉ではなく、羊の塩蔵肉を戻したもののようだが、ふんわりと柔らかくて口に入れた瞬間にほろほろと崩れていく。羊特有の臭みもまったくなかった。
薄くスライスされた黒パンは、ライ麦の香りと微かな酸味がほどよく、焼いてそう時間が経っていないせいかあまり固くない。添えられたバターも山羊のもので、塩気が強くて食が進む。
ユニは飢えたオオカミのようにがつがつと料理をたいらげた。食べ終わって「ふう」と満足の溜め息をついた。
我に返って周囲を見回すと、もう客はユニ一人になっていた。
給仕の娘はお盆に空になった食器を片付け、パンくず一つ残していないのを確認すると「うんうん」と満足そうにうなずいて厨房へと下げに行った。
それと入れ替わるように、老女が食後のお茶と小皿に載せたパウンドケーキを運んできた。
彼女が持つお盆には、なぜかお茶のカップが二つ載っている。老女はユニの前に一つ、そして空いている向かい側にもう一つを置き、「よいしょ」と言いながらその席に腰をおろした。
「うちの料理はいかがでしたか?」
老婦人はにこやかな笑顔を浮かべて訊いてきた。どうやらユニは彼女の話し相手に任命されたらしい。
「すばらしかったわ!」
ユニは心からの賛辞を贈る。
「味がとても濃厚で、美味しいのはもちろんだけど、何て言うか……すごく懐かしい感じがしました」
「それはよかったわ。あなた、辺境から来たんでしょう?
あたしもあっちの出身でね、うちの料理はあたしが母から教わったものを都会風にアレンジしたものなの。
でも、あなたは辺境の人みたいだったから、ちょっと味も塩気も濃いめにしてお出ししたのよ」
「ああ、それで懐かしかったのね……。でも私が辺境出身だって、よく分かりましたね」
老女はころころと笑う。
「そりゃあ、あなたの格好を見ればね。あなた、召喚士さんでしょ? 辺境でオークを狩っているのね」
ユニは驚きの表情を浮かべた。
「そこまで分かるんですか?」
「ずっと昔ね、あたしがまだひよっこだったころ、ある料理長さんが教えてくれたのよ。
『料理人たるもの、お客さんの観察を怠るな。よおく見れば、その人がどこの出身で、どんな職業かが分かるようになるものだ。それを見極めて、味を調節するんだ』ってね。
うちの息子も最近やっとそれができるようになったわ」
老女はちらりと厨房の方を見た。つられたようにユニもそちらに目を遣ると、厨房の中にいた料理人が帽子をとってぺこりと会釈をした。
見たところ、まだ四十歳くらいと思われる男だった。
「まあ、料理をしているのは息子さん……なんですか?」
ユニの微妙な表情を見た老女はくすくすと笑う。
「孫の間違いじゃないかって言いたいんでしょ? よく言われるのよ。
あたしは結婚が遅くてね、死んだ主人と一緒になったのは三十五歳のときなの。子どものことは最初から諦めていたわ。
でも、結婚して六年も経ってからあの子が授かったの。そりゃもう、びっくりしたわ。
あれが来ないのも、もう歳だから〝上がった〟と思ってたのよ。だんだんお腹が大きくなっても太ったのねって……。やっと妊娠してるんだって気づいた時には、もう半年が過ぎていたわ」
彼女はお茶を飲んで一息ついた。
「ところで、召喚士さんはうちの店は初めてよね? どこかで聞いて来たのかしら?」
ユニはかぶりを振った。
「いえ、ただの偶然です。でも、こんなに美味しい料理にありつけたなんて、お店の看板に感謝だわ」
「看板?」
不思議そうな顔をする老女を見て、ユニはにこりと笑った。
「看板に〝白狼亭〟って書いてあったわ。このお店の名前なんでしょう?
実は私の連れている幻獣って、オオカミなのよ。
それで、名前が気にいって入ってみたの」
「あらまあ! そうなの?
そのオオカミは外にいるのかしら?」
「ええ、通行人の邪魔にならない物陰で休んでいますよ」
「やだ、どうしよう! あたしそのオオカミ見たいわ!」
「へ?」
突然そわそわする老女の頼みに、ユニは不意を突かれて間抜けな声を出した。
「あのね、うちの店は元々〝狼亭〟っていう名前だったのよ。あたしが弟子入りした先代のご夫婦が付けた名前なの。
あたしが結婚して少し経ったころに料理長だったご主人が亡くなって、あたしが厨房を任されたんだけど、その二年後には奥様も亡くなられたわ。
ご夫婦にはお子さんがいなくてね、それであたしがこの店を継いだんだけど、その時に〝白狼亭〟って名前に変えたのよ」
「なぜ、わざわざ〝狼〟を〝白狼〟に?」
「あたしの恩人の召喚士さんが連れていたのが、やっぱりオオカミだったのよ。
大きくて真っ白な、とても立派できれいなオオカミだったわ。
ああ! 生きている間にもう一度幻獣のオオカミに逢えるなんて!」
彼女はそう言って、胸元からペンダントを引っ張り出して、小さな石にキスをした。
「でも、いいんですか? 食事をするところに獣を入れて……」
「構うもんですか! そろそろ閉店の時間だもの。どうせ掃除をしなきゃいけないんだから。
さっ、お願い! あたしにオオカミさんを紹介して」
老女は我慢できないように立ち上がった。腰がしゃんと伸び、背まで高くなったような感じがする。
「メイナ! 厨房に豚のアバラ骨があったはずだから、一塊り持っておいで!」
彼女は振り返って孫娘にそう命ずると、扉を開けるために入口に向かった。
ユニは彼女の勢いに気圧されたように、頭の中でライガに呼びかける。
「ライガ、ちょっと店に入ってきて。
あなたのファンが骨をプレゼントしたいそうよ」
『それは嬉しいが……いいのか?』
「ええ、女将の許可済みよ」
老女が扉を開けると、ライガが頭を下げ遠慮がちな上目遣いでのそのそと入ってきた。
待ち構えていた老女は「ぱん」と手を打って感嘆の声を上げる。
「まあ、何て立派なんでしょう! 毛色は黒っぽいのね」
そして彼女はいきなりライガの首っ玉に齧りついた。
『おおおっ、何だこの婆さんは!』
ライガは経験したことのない人間の反応に、目を白黒させている。彼に初めて遭った者は、たいてい怖がって後ずさるか固まってしまうのだ。
老女はライガに抱きついたまま、ユニの方に振り返った。
「この子、お名前は何て言うの?」
「えと、――ライガです」
「そう、ライガって言うのね。あたしはエーファよ、よろしくね。さあ、奥へ入ってちょうだい」
エーファと名乗った老女はやっとライガを解放し、ユニの座るテーブルへと誘った。
ライガは戸惑いながらユニの足元までやってきて、その場で床に身を伏せた。
エーファは邪魔になる周囲の椅子やテーブルを押しやると、しゃがみ込んで伏せたライガの頭を撫でた。
しばらくそうしていたかと思うと、彼女はきっと顔を上げた。
「ねえ! ――あらやだ、あたし、あなたのお名前を聞いていなかったわね。私はエーファよ。失礼してごめんなさいね」
「いえ、それは――えと、私はユニと言います」
「そう。ねえ、ユニさん。ちょっとライガに乗ってもいいかしら?」
「はい?」
ユニは『今日のあたしは間抜けた声ばかり出してるわね』と心の中で自嘲した。いったいエーファという老女は何を言い出すのだろう。
「昔ね、あたし何度も白狼に乗せてもらったのよ。もう一度乗ってみたいわ!」
「――だそうだけど、どうする?」
ユニは一応ライガに確認する。
『別にそれくらい構わんが……変わった婆さんだな』
「ライガは構わないと言っています」
エーファはユニの返事が終わらないうちに、ライガの背に跨った。長いスカートを履いているというのに、まったく躊躇せずに足を開き、しっかりと膝でオオカミの背を挟んでいる。
『おお、この婆さん、慣れているぞ』
ライガがちょっと感心したような声を上げた。
エーファは「ぽんぽん」とライガの背を叩き、「さあ、立って」と促す。
ライガは素直に立ち上がった。
ちょうどそこへ、麻袋で包んだ骨の塊りを抱えてメイナが戻ってきた。
彼女は巨大なオオカミとその背に跨っている祖母の姿を見るなり、「ぎゃーっ!」という悲鳴を上げ、骨を床に落としてしまった。
厨房の中では、さっきから料理長が呆れたような顔で覗いていたが、肩をすくめて奥へ引っ込み、洗い物に取りかかった。
「見てよメイナ、手を伸ばせば天井が触れるわよ! やっぱり高いわね~。
ねえ、あんたも乗ってみる?」
孫娘は腰を抜かしたままへたり込み、ぶんぶんと頭を左右に振った。
「ありがとう、もういいわ」
エーファはそう言って、優しくライガの背を叩いた。オオカミが再び床に伏せると、彼女は背から滑るようして降りた。
そして情けない格好で座り込んでいる孫娘のもとに歩いていき、落ちている骨を拾い上げてユニの傍らの床に置いた。
ユニがちょっと持ち上げてみると、かなりの重量があった。八十を超した老女が軽々と持っていたのはちょっとした驚きだった。
エーファはユニの向かいに座ると、上気した顔で「ほう」と息をついた。
「ああ、夢が叶ったわ! 何かいっぺんに昔のことが蘇ってきて……あたし、今夜眠れるのかしら?
ねえ、ユニさんはしばらく滞在するの?」
「いえ、明日の朝には発って王都に向かう予定です」
「そう……。それは残念だわ。
でも、また白城市に来ることがあったら、必ず寄ってね! もちろんライガも連れて。約束よ」
ユニは苦笑しながらうなずいた。
「ええ、必ず」
* *
一年ほど後のことになるが、ユニは再び白城市に来る機会を得て、約束を守ってこの白狼亭を訪問している。もちろん、また美味しい料理にありついた。
ただ、その時にはエーファの姿が見当たらなかった。
孫のメイナの話では、前回ユニが来店した数日後、エーファは眠るように息を引き取ったということだった。
少し悲し気な顔で、もう思い出となってしまった出来事を説明する若い娘の胸では、小さいが凝った細工のペンダントの石が虹色の光を放っていた。




