十五 白狼の娘
柔らかに吹き渡っていた南寄りの風が、ふいに北東からの風に変わった。
池の水面に口を近づけ、ぴちゃぴちゃと水を飲んでいたオオカミは顔を上げて鼻をひくつかせた。
風向きが変化すれば、運ばれてくる匂いも変わる。鼻面を空に向けてそれを確認するのは本能であり、意識してする行為ではない。
少し冷たく強めの風からは、興味深い情報が感じ取れた。
そのオオカミ――ロキはゆっくりと振り返った。筋肉のしなやかな動きとともに真っ白な毛並みがうねり、陽を浴びて銀色の光の波を生じさせる。
白狼の視線の先には、一心に水を飲んでいる仔オオカミの姿があった。
体長は四十センチくらい、まだ生後三か月くらいに見える。大型獣の子特有のもこもこした太い足、やっと立ったばかりの耳が愛らしい。毛並みは白に近い薄い灰色で、子どもながらロキに負けない美しさがあった。
「おい、ヨーコ」
ロキが声をかけると、仔オオカミはぴくんと耳を動かして顔を上げた。
「何? お父さん」
黒目がちの大きな瞳が真っ直ぐに見つめ返してくる。
「風が変わったのには気づいていただろう? 匂いを嗅いでみろ」
ヨーコと呼ばれた仔オオカミは素直に目を閉じて鼻を上空に向ける。
ロキは優しく教え諭した。
「色々な匂いがするだろう?
忘れるな。風向きが変化した時には必ず匂いを確認するんだ。意識せずにできるよう習慣づけろ。
――どうだ、何か気づいたか?」
「……私やお父さんとは違う、別のオオカミの匂いがする」
「何頭だ?」
「三……、いえ四頭だわ。一頭は私と同じ子どもだと思う。残りは……大人みたいだけど、よく区別ができないわ」
「いいさ。それだけ分かれば上々だ。
オスとメス、二頭ずつだな。大人は二頭だけだ。残りは子どものオスとまだかなり若いメスだな。多分、家族だろう」
「どうするの?」
「さっきまでは南風だったから、向こうはとっくに俺たちに気づいているだろう。
ちょっと挨拶に行くぞ。ついてこい」
巨大な白狼はゆったりと歩き出し、深い草叢を掻き分け、緩い坂を登っていく。小さな仔オオカミは、その後をちょこちょこと追っていった。
* *
二頭のオオカミが水を飲んでいたのは、すり鉢状の低地に水が溜まった小さな池だった。
そのすり鉢の縁に当たる坂の上にロキが姿を現すと、その少し先にはすでに一頭のオオカミが待ち構えていた。
巨大なロキよりは少し劣るが、そのオオカミも三メートルを超す、十分に大柄な個体だった。黒灰色の毛並みで精悍な面構えをしている。落ち着いた態度からも、男盛りで己の力に自信を持っていることが感じられた。
二頭は黙ったままゆっくりと歩み寄った。耳をぴんと立て、ゆっくりと尻尾を振って敵対する意思のないないことを示しながらも、相手には服従するつもりのないことを互いに示している。
彼らは互いの顔を突き合わせて「ふんふん」と匂いを嗅いだあと、今度は尻の臭いを嗅ぎ合う。オオカミは肛門周辺の臭いを嗅ぐことで、相手の性的な成熟度から年齢を、さらにはその実力までを推し量る。
二頭のオオカミは実力的にほぼ互角、白狼は経験に勝り、黒灰色のオオカミには若さがあった。
「俺はライガだ。後ろにいる三頭は俺の群れだ」
相手の年齢に敬意を表して、若いライガの方から挨拶をする。
「俺はロキという。後ろのチビは娘のヨーコだ」
途端にライガは疑わし気な顔をした。
「娘? あんたの年齢でか……。
母親はどこにいるんだ? ほかにオオカミの匂いはしなかったぞ」
ロキは落ち着いている。
「母親も群れもおらん。俺はずいぶん昔に群れを捨てた一匹狼だ」
そう答えながら、白狼は『さて、どう説明したものか……』と心を悩ませた。
「母親がいないって……あの子どもは生まれて三月がいいところ、離乳して間もないはずだ。誰が乳を与えていたって言うんだ?」
案の定、ライガは追求してくる。ロキは草地に腰をおろして「まぁ、座れ」と声をかけたが、警戒しているライガは立ったままだ。
「若いの、ライガと言ったな。お前は〝召喚〟というのを聞いたことがあるか?」
「あ? ……ああ、異世界の人間に呼び出されるっていうあれか? 話だけなら聞いたことはあるが、それが何か関係あるのか?」
「ほう、知っているのか? 若いのに感心だな。
ならば話が早い。信じるかどうかはお前の自由だが、俺は三日前までその〝召喚〟をされていたんだ」
これにはさすがにライガも驚いた。だが、この年かさのオオカミは真面目な表情で、落ち着いて話している。嘘の匂いは感じられなかった。
「本当なのか? ……あんたは普通のオオカミに見えるが……。ひょっとしてその白い毛並みはそのせいなのか」
ロキは吹き出した。
「馬鹿、こいつは歳のせいで元からだ。
召喚を知っているなら、〝転生者〟のことも聞いたことがあるだろう?」
ライガは記憶を呼び戻すようにうなずいた。
「召喚の代償に、異世界から人間を連れて帰ることができる……という奴か?」
「そうだ。ヨーコはその〝転生者〟だ。ああ見えて三日前までは人間だったんだよ。
俺がこの世界に帰ってきた時には、ヨーコはあの姿になっていた。だから母親はいないし、あいつはオオカミの乳なんか飲んだことがない」
「おいおいおい、俺にそれを信じろって言う気じゃないだろうな? 頭がおかしくなりそうだ。
おい、そこのチビ助! ちょっとこっちに来い」
ロキの十メートルほど後ろで、地面に鼻面を突っ込んで穴を掘っていたヨーコは、ぴょこんと顔を上げた。
そしてロキの方を見て「いいの?」という顔で首を傾げた。
ロキが小さくうなずくと、仔オオカミは〝てとてと〟と危なっかしい足取りでライガの元にやってきた。
ライガはヨーコの全身の匂いを入念に嗅いだ。
ヨーコの方も、ライガの大きな鼻で突き回されて転びそうになりながら、相手の匂いを嗅ごうと精一杯背伸びをする。
「……ふん」
ライガは鼻を鳴らして顔を上げた。
「どう見てもただのメスガキだな……。
おい、チビ。お前、本当に人間なのか――いや、人間だったのか?」
ヨーコは「くしゅん」と小さなくしゃみをして、不満げに頭を反らした。
「私はヨーコよ、おじさん。〝チビ〟なんかじゃないわ。
ええ、この間までは確かに人間だったけど……ぼんやりとしか思い出せないの」
ライガは再びロキの方を向いた。
「ふむ……三日前まで人間だったとなら、いくら何でもいきなりオオカミの真似はできないだろう。こいつはちゃんとオオカミらしく見えるが……。
一体どういうことなんだ?」
ロキは「ああ」と答え、ライガの疑問を肯定する。
「ヨーコはこの世界に転生する時に、俺の記憶や経験を引き継いでいるんだ。
だからオオカミとして知るべきことはちゃんと心得ている。だが元が人間だけあって、本能的な動きがまだうまくできん。
せっかくの知識に身体の反応が追いついていないんだ。そこは追々経験を積んで、自分のモノにしていかなくちゃならないだろうな」
「あんたの〝娘〟というのは?」
「そこは俺にもよく分からんのだが、現実にヨーコは俺が父親だと信じ込んでいる。
ヨーコが人間だったころは、俺を使役する召喚士だったといくら説明しても、頑として信じないんだ。
第一、こいつの人間としての記憶からは俺のことがすっぽり抜け落ちている。二十年以上も行動を共にしてきたのにだぞ。
ヨーコがオオカミとして目覚めた時も、俺の名前すら憶えていなかったんだ。ただ俺を『私のお父さん』だと言い張るばかりでな……。
どうもこの点に関しては、いろいろと解せないことが多い。転生する際に、誰かがヨーコの記憶に手を加えたとしか思えないくらいだ」
ライガはようやく警戒を解き、ロキの隣りに腰をおろした。
「そんなことを俺に言われてもな……。頭が混乱して眩暈しそうだよ。
だがまぁ、とにかく事情は分かった」
そう言って、彼は改めて自分たちの行動を説明した。
「俺たちは新しい縄張りをつくろうと思って移動しているところだ。子どもたちが大きくなってきたんで、少し広い狩場が欲しいんだ。
そこの水場はあんたの縄張りなのか?」
ロキは首を横に振った。
「いや、俺は特に縄張りを持っていない。水場を使いたいなら好きにしろ。
――ところで、お前の群れは家族か? もし構わないのなら紹介してもらいたいのだが……」
ライガは返事の代わりに振り返り、後ろで待機していた三頭に呼びかけた。
「おい、お前たち。こっちへ来てくれ」
その声に従って、三頭のオオカミはのそのそと近づいてきた。メスとしては大柄な赤茶色のオオカミが先頭で、その後ろに隠れるように母とよく似た毛並みの若いオオカミと、ライガそっくりな仔オオカミが続いている。
「女房のヨミと子どもたちだ。姉がミナで二歳、弟がトキで、こいつはまだ生まれて半年だ。
ヨミ、こちらはロキ。チビ助はヨーコだそうだ」
「ロキだ。よろしくな」
ライガの紹介で白狼は立ち上がってヨミと匂いを嗅ぎ合い、挨拶を済ませた。
子どもたちはと言えば、大人の会話に無関心なトキは自分と同じ仔オオカミに興味津々で、ヨーコと互いのお尻の臭いを嗅ごうとして、くるくると輪を描いて回っている。
一方のミナの方は「私はもう大人よ」というすました顔をして、母に続いてロキと挨拶を交わした。
「驚いたな……二年で二頭も子を成したのか!」
ロキの賛辞を受けて、ヨミの顔が誇りに満ち溢れた表情になる。
幻獣界におけるオオカミの社会では、群れに子どもが誕生するのは稀なことだった。だからメスのオオカミは、子を一頭産んでやっと一人前として認められる。
さらに複数頭の子を成したメスは無条件の尊敬を受け、産んだ子が多ければそれだけ群れでの順位も上昇するのである。
夫婦となりながら子に恵まれないまま長い一生を終える者も少なくないだけに、それは残酷な評価であったが、紛れもない現実だった。
「俺とヨーコのことは後で旦那からゆっくり聞いてくれ。説明すると長いなるんでな。
……しかし、そうか……二頭の母親か……」
白狼はぶつぶつとつぶやきながら、何かを考えているようだった。その視線は、じゃれあって取っ組み合いをしているヨーコとトキの姿に注がれていた。
やがてロキは何かを思いついたように振り返った。
「なぁ、ライガ。あんたの群れは家族だけなんだな?」
「ああ。それがどうかしたか」
「子どもが二頭もいるってことは、あと数年もすれば婿なり嫁なりを貰うことになるな?」
「まだ当分先の話だがな」
「なら、ヨーコをトキの嫁にする気はないか? 年も同じだし、ああして遊んでいるのを見ると相性も悪くなさそうだ」
「はあ?」
ライガとヨミが同時に声を出し、互いの顔を見合った。
「おいあんた、突然何を言い出すんだ?
大体あのチビ助は、あんたを父親だと思い込んでいるんだろう? それじゃ、親子で俺の群れに入りたいってことなのか?」
ロキは首を振った。
「いや、ヨーコだけを引き取ってくれればいい。あんたの奥さんは立派な母オオカミらしい。俺が育てるよりも、ずっといい親になってくれるだろう」
ライガは憤慨した。
「どういうことだ!
あんた、あのチビは自分を父親だと信じているって言ったじゃないか。それを捨てるっていうのか?
あれが元人間だからって、今はちゃんとしたオオカミだろう!」
話が見えていないヨミは思わず口を挟んだ。
「ちょっとあんた、一体何の話なの? 〝元人間〟って何よ?」
「うるさい! お前は黙って――ん? 何だこの匂いは……?」
ライガは何かに気づいたように首を傾げていたが、やがてロキの口元に鼻を近づけ、じっくりと匂いを嗅いだ。そして大きな溜め息をついて顔を離した。
「あんたまさか――。
……そういうことなのか?」
ロキは笑みを浮かべてうなずいた。
「気づいたか。ああ、そういうことだ」
ライガは憮然とした表情で家族に向かって「おい、そろそろ狩りの時間だ。もう行くぞ!」と声をかけた。
ネズミの巣穴を見つけ、前脚で土をほじくり返していたトキとヨーコは、泥だらけの顔を上げて不満そうな顔をした。
ヨミは夫の言動が理解できず「どういうことか説明してよ!」と、しきりに噛みついていたが、ライガは聞こえないふりをしている。
ミナだけがすました顔で群れの移動を待っていた。
不満たらたらの家族をまとめたライガは、ロキに向けて吐き捨てるように言葉を投げつけた。
「俺たちは四、五日この水場を中心に狩りをするつもりだ。
その時が来たらチビ助を寄こすがいい!」
そして彼は返事もまたずに駆け出した。ヨミは何度もロキたちの方を振り返っていたが、やむなくその後を追い、子どもたちも両親に遅れまいと続く。
ライガの群れは、池の反対側に拡がる林の方へと消えていった。
「すまないな……。なに、そう長くは待たせないさ」
ロキは見えなくなった後姿にそうつぶやいた。
遊び相手がいなくなったヨーコは、しばらくネズミの巣穴を掘っていたが、やはり一人ではつまらないのだろう、土でまっ黒になった顔で戻ってきた。
「どうだヨーコ、トキとは友だちになれそうか?」
ロキの質問に、ヨーコはつんと鼻面を上げた。
「トキは子どもだわ。何も知らないんだもの、驚いちゃった。
――でも、男の子なのに乱暴じゃないわね。優しい子よ」
「そうか……。じゃあ、大きくなったら嫁にしてくれるように頼んでみるか?」
「あら、それは無理よ」
「どうしてだ?」
「だって私、大きくなったらお父さんのお嫁さんにしてもらうんだもの。それで、たくさん子どもを産んであげるの!」
「そうか……。それは楽しみだな」
「そうよ。だからお父さん、私が大人になるまで待っていてね!」
ロキは得意げな顔をした仔オオカミをじっと見つめていた。その視線は慈愛に満ちたものだったが、どこか寂し気であった。




