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幻獣召喚士2  作者: 湖南 恵
第四章 白狼の娘
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十四 懺悔

 エーファのその後について、語ることはそう多くない。


 二人は娼館を出ていったんヨーコの部屋に戻った。

 エーファは化粧を落とし、普段着に着替えて夜を待った。そしてヨーコに伴われて閉店間際の近所のレストランを訪ね、老夫婦にエーファの弟子入りを頼み込んだ。


 突然のことに驚きながらも、レイチェルはその申し出を喜んでくれた。

 一方、夫のトマス(料理長)は渋い顔でなかなか「うん」と言わなかった。

 そこで、ヨーコはエーファに料理を作らせ、その腕前を見てから決めたらどうかと提案した。

 レイチェルの口添えもあって、どうにかトマスの許可を貰い、エーファは店の食材を使って料理に取りかかった。


 馴れない厨房ということもあり、時間はかかったが料理ができあがり、最初のスープが三人の座るテーブルに運ばれてきた。

 意外にも、それは昨夜ヨーコたちに出されたメニューと同じものだった。


 エーファは配膳しながら『自分なりに精一杯再現してみたけど、どうしても味の決め手が分かりませんでした』と正直に告白し、『だからこそ、あたしはそれをどうしても知りたいんです』と訴えた。

 出されたスープを試飲した三人は驚いた。少なくとも常連客であるヨーコには、味の違いが分からなかったのだ。


 一方、レイチェルは一口食べて感嘆した。

「あらまぁ、よく一度食べただけでここまで作れたものね!

 とても美味しいわ。……でも、やっぱりうちの味とはちょっただけ違うかしら」


 トマスはしかめっ面でスプーンを口に運んだ。そして、何かを確認するように二度、三度と味を確かめ、ますます渋い顔になった。

「うちの味とは違う? 当たり前だ!

 そう簡単に真似されてたまるか。こちとら六十年も鍋を振ってるんだ。

 ……だが、くそっ! ヨーコさん、何なんだこの娘は?」


 料理はコースだったので次々に出てきたが、トマスは二皿目からは手をつけなかった。

 ただ腕を組み、ぶすっとして「見れば味なんぞ分かる!」と言っただけだった。

 ヨーコとレイチェルは残りの料理を美味しくいただいた。食べ進むうちに、ヨーコにもやっと〝いつもの味とは少し違う〟ことが分かってきた。

 それは本当に微妙なのだが〝何かが足りない〟というもどかしさを感じさせる、とても大切なものだった。


 すべての料理を出し終わり、エーファが食器を下げて洗い物をしようとすると、トマスが声をかけた。

「片付けは俺たちがやるからいい。それよりちょっと来い」

 エーファはエプロンの裾で手を拭いながら厨房を出てきた。緊張しているのか顔色が真っ白になっている。


「そこへ座れ」

 トマスの指示で大人しく椅子にかける。

「あんた、そんな威張らなくっても……」

 レイチェルが諫めるのを「お前は黙ってろ!」と遮り、彼はエーファを睨みつけた。

「エーファと言ったな。あんた、どこに泊まっている?」

「ヨーコさんの部屋に居候しています」

「なら、明日うちに来い。二階に一部屋空きがあるから、そこを片付けて自分の部屋にしろ。ベッドは今日のうちに運んでおいてやる。明日は水曜で休みだからちょうどいいだろう。

 言うまでもないが、仕入れと仕込みで朝は早いし、夜は遅い。ちゃらちゃら遊ぶ暇なんかないと思え。いいな!」


 憮然とした顔でそう言い放つと、彼は片付けのために厨房に入っていった。

 エーファは涙をぼろぼろと零し、ヨーコとレイチェルに代わるがわる抱きついた。


      *       *


 翌日、エーファは〝狼亭〟に引き移った。引っ越しと言っても彼女の荷物自体は大してなく、半分物置になっていた部屋の掃除の方が大変だった。

 〝狼亭〟は老夫婦のレストランの名前である。「オオカミのように腹を空かした客でも満足させる」という意味でトマスが名付けたものだった。

 もともとヨーコがこの店に通うようになったのも、店名に〝狼〟が入っているのを気に入って、ふらりと立ち寄ったことがきっかけだったのだ。


 エーファはまずウェイトレスとして店に出て接客を担当することになった。客が途切れれば食器洗いや銀食器を磨くのが仕事である。

 営業が終わってからは、夜遅くまでトマスの厳しい指導を受ける日々を過ごしたが、それこそがエーファの望むことであり、至福の時間だった。


 彼女は職業としての料理人の修業をしたことがなく、すべては母親に仕込まれ、自分で工夫を加えた自己流のものだったから、まずは基本から叩き込まれた。

 エーファはこれをあっという間に自分のものとし、すぐに食器洗いに加えて野菜の皮むき、肉や魚の下処理といった仕事を任されるようになった。

 エーファは貪欲に知識を吸収していき、下働きをしながらもトマスの技術を目で盗むことを怠らなかった。


 ヨーコはほぼ一日おきに狼亭を訪れ、食事をしながら彼女の働きぶりを偵察していった。

 トマスは有能で熱心な弟子を得て、傍目にも分かるくらいに若返っていた。


 エーファは店に出る時にはきちんと化粧をして、ヨーコに買ってもらったきれいな服に可愛らしいエプロンを合わせて働いたので、その美しさはたちまち評判となって彼女目当ての客が増え、店自体にも活気が漲った。


 彼女は常連客の顔と名前をすぐに覚え、巧みな話術でその心を掴んでいった。身だしなみやマナー、基礎的な教養を磨いてきた日々は一つとして無駄にならず、エーファは今さらながらヨーコが先を見通していたことに気づいて感謝の念を抱くことになった。


 三か月もすると、エーファは徐々に料理の一部を任されるようになっていった。

 その分、接客は再びレイチェルが担当するようになり、若い娘が目当ての客からは不評を買ったが、逆に彼女の手料理が食べられると聞いて新たな客層がつくことでそれを補った。


 一方ちょうどその頃から、ヨーコが狼亭を訪れる頻度が目に見えて減っていった。

 ほぼ一日おきに顔を出していたのが週に一度となり、時には半月以上も間が開くこともあった。たまに訪れても彼女はどこか元気がなく、疲れたような表情を見せることが多くなった。


 エーファはそんなヨーコを気遣ったが、何しろ店は忙しかった。そして料理の修業はそれ以上に楽しく、彼女は夢中になっていたので、ついついヨーコのことは忘れがちになっていった。


      *       *


 ――いつしか季節は冬になっていた。気がつけば、エーファが狼亭で働くようになって半年の時が過ぎていた。

 ヨーコはもう、月に一度来店すればいい方だった。エーファはもちろん、レイチェルも元気のない彼女を気遣ってはいたが、いつの間にかその状態に馴れていったのも事実である。


 店とヨーコが間借りしている馬車屋は歩いて十分ほどの距離だったので、エーファは休みの日に何度か様子を見に行ったが、いつもヨーコの姿はなかった。

 家主である馬車屋の話では、この三か月というもの、ヨーコは毎日のようにどこかに出かけていて、数日部屋を開けることも珍しくないということだった。

 ロキもまた、半月以上姿を消すことがたびたびあるらしい。


 そんなある日、久しぶりにヨーコが狼亭に顔を見せた。

 エーファは喜びながらも心配して、今までどうしていたのか問い質したが、ヨーコは疲れたような表情で笑うだけで、何も答えなかった。


 食事を終えて支払いを済ませた時、ヨーコはエーファの顔をじっと見つめていた。

 そして小さく吐息を洩らしてから、にこりと柔らかな笑顔を浮かべた。それはかつてヨーコがよく見せた、人を安心させるような、何ともいえない表情だった。


「ねえ、エーファ。明日はお休みでしょう? 大事なお話があるんだけど、うちに来てくれない?」

 エーファは一瞬だが躊躇した。休みの日は厨房を借りて、料理の勉強や工夫に専念できる大切な時間である。今は一分一秒でも無駄にしたくない――そんな思いが頭をよぎったのだ。

 しかし、彼女はその迷いを振り払った。ヨーコは自分の恩人なのだ。その人が大事な話があると言っているのに、断ることなどできるだろうか。


「ええ、分かったわ。最近ほとんどお話もできなかったしね。ヨーコさん、最近元気がないし……。

 あたしね、ずいぶん料理を任せてもらえるようになったのよ! 聞いてほしい話がたくさんあるわ」

「あらあら、話を聞いてほしいのは私の方なのよ。困ったね。

 それじゃ、悪いけど九時頃までに来てくれるかしら?」


「いいけど……午後からの方がゆっくりできるんじゃない? あたし、お菓子を焼いていくわよ」

「ごめんなさい。午後からじゃ多分間に合わないわ。無理を言うようだけど、お願いね」

 ヨーコはそう言うと、笑顔のまま手を振って店を出ていった。冬だというのに、その額に汗が滲んでいたのが妙に気がかりだった。


      *       *


 翌朝、エーファは約束どおり、九時ちょうどにヨーコの部屋を訪れた。

 部屋の扉をノックして「ヨーコさん?」と声をかけても、中からは何の返事もない。

 不審に思ったエーファはドアノブを回してみた。鍵はかかっておらず、扉はすっと開いた。


 エーファが中に入るとヨーコはぐったりとして壁にもたれ、床に座り込んでいた。

「ヨーコさん!」

 慌てて駆け寄って肩を揺さぶると、ヨーコはゆっくりと目を開いた。ぼんやりとした目はなかなか焦点が合わず、かなりの時間を置いてようやくエーファを認め、微笑みを浮かべた。


「……あら、ごめんなさい。私、眠っていたのね。

 最近とても眠いのよ、もう歳なのかしら……やーね」

 ヨーコはのろろのろと身を起こした。


「そんなことより、どうしたのよこの部屋! 一体何があったの?」

 エーファは部屋を見回して叫んだ。


 ヨーコは片付けが苦手で、いつ訪ねても部屋は散らかっているのが常だった。

 それがどうだろう、この部屋にはゴミ一つとして落ちていない。それどころか、テーブルも椅子も、棚も本も、衣裳すらなかった。

 何もかも空っぽで、がらんとした空き部屋にヨーコだけが座っていたのだ。


「ああ……これ?

 実はね、今日限りでこの部屋を引き払うことになったのよ。

 一人で片付けるのは大変だったわ。エーファがいてくれたらよかったのにね。

 私、何度もあなたにお手伝いをお願いしようと思ったのよ。でも、エーファはお料理の勉強でとても忙しいでしょう?

 だから私……頑張ったのよ。ねっ、お部屋……きれいになったでしょ? 褒めてちょうだい」

「引き払うって……ヨーコさん! どこかへ引っ越すの?」


「まぁ……そんなところね。それより大事な話があるって言ったわよね。椅子がなくて悪いけど、そこに座ってくれる?」

 エーファは問い質したいことが山のようにあったが、彼女のただならぬ様子を見て、とりあえずは話を聞くことにした。


 ヨーコはひどく大儀そうに懐から革袋を取り出し、エーファの目の前の床に置いた。置く時に軽い金属音がしたので、すぐにお金だろうと推測がついた。

「……開けてみて」


 ヨーコに促され、エーファは紐を解いて床に中身をじゃらりと広げた。

 窓から差し込む陽光を反射して、エーファの目を金色の輝きが射抜く。そこには少なからぬ量の金貨が塊りを成していた。


「どうしたのよ、こんな大金……?」

 驚いているエーファに対し、ヨーコの口調は物憂げだった。

「三十……四枚――五枚だったかしら? とにかく、それくらいあるはずだわ。本当はもっとあったんだけど、いろいろあってそれだけになっちゃった。

 これ、あなたにあげるから、大事に使うのよ」


「はぁ! なに馬鹿なことを言ってるの?」

 エーファは声を張り上げた。金貨三十五枚もあれば、五年は遊んで暮らせるのだ。ヨーコは頭がおかしくなったのだろうか。

「馬鹿とは何よ、失礼ね」

 ヨーコは頬を膨らませて拗ねたふりをする。


「それはもう、私には必要ないのよ。だからあげるの。

 あなた、将来は自分のお店を持つんでしょう。あ、狼亭を継ぐのかしら? レイチェルたちには子どもがいないものね。

 ……どっちにしろ、きっとまとまったお金が必要になる時がくるわ。その時に使ってちょうだい。

 私は……もう行かなくちゃならないの。もうロキが迎えに来ているわ」


「行くって、どこへ行くのよ? 旅に出るにしたってお金は必要でしょう! それにロキなんてどこにもいないわよ!

 ――さっきからヨーコさんの言ってることは滅茶苦茶だわ! 本当に、一体どうしたのよ!」


 エーファはヨーコの両肩を掴んでがくがくと揺さぶった。

 その途端、まるで積もっていた埃が舞い上がるように、きらきらとした細かい金色の粉がふわっと飛び散り、ゆっくりと床に落ちていった。


「え、何?」

 エーファは思わず引っ込めた手を凝視した。指先についた金色の粒が見る間に輝きを失って、すうっと消えていく。


「……もうお別れだわ。

 私たち召喚士はね、いつかはこの世界から消えて、幻獣界に転生する定めなの。

 私はロキのいる世界で生まれ変わってオオカミになるのよ。

 ……それでね、ロキのお嫁さんにしてもらうの。可愛い仔オオカミをたくさん産んであげるわ――それが私の夢だったの……」


「そんな――そんな話聞いていないわよ!」

 エーファは大声を上げ、再びヨーコの肩を掴もうとした。しかし、その手はずぶりと突き抜け、ヨーコの肩は金色の砂を舞い上げて、ざあっと崩れ落ちた。


「あら、言ってなかったかしら……変ねぇ」

 力なく笑ったヨーコの顔からも金色の砂がこぼれ始めている。


 エーファはどうしていいか分からず呆然としていたが、徐々に崩れていくヨーコを目の当たりにして、突然これは現実なのだと認識して金切り声を上げた。

 部屋の空気は消えゆく者の尊厳を守るように静かに澱んでいたのに、彼女の場違いな叫びは、生きている人間の情念でその空気を切り裂き、時間すら止めたかに思えた。


「ダメっ、まだ行かないで!

 お願い、消える前に一つだけ教えて!

 どうしてヨーコさんは、あたしに良くしてくれたの?

 なんでっ? わけ分かんないよ!」


 ヨーコは金色の砂をさらさらとこぼしながら微笑んだ。

「うーん……一応ね、昔、私はあなたとアシュリンに救われたから、その恩返しだってことにしていたんだけど……。

 ……でも、本当はね。違うのよ。

 私、一度でいいから〝お母さん〟をやってみたかったの。私たち女召喚士は、母親になることを許されないって言ったこと、あるでしょ?

 だから私は……あなたたち母娘が羨ましくて仕方がなかったのよ。……嫉妬してたのね。

 怒られるかもしれないけど、アシュリンが死んだって聞かされた時、『アシュリンはもういないのだから、代わりに私がエーファのお母さんをやってもいいわよね?』――なんて思っちゃったの。

 ごめんなさい……許されることじゃないわね?

 でも……私、ちょっとの間だけど、楽しくて、嬉しくて、幸せだったのよ。

 私……あなたの幸せだけを願っていたの――ああ、母親でいるって、こんな気持ちなのかしら……ってね。

 ありがとう……そしてごめんね、エーファ。最後に私の我儘に付き合わせて……。

 ……幸せになる……のよ。……は、いつま……も、………ってるわ」


 ヨーコの最期の言葉は、ほとんど聞き取れず、彼女の身体はぐずぐずに崩れ、もはや人間の形を成していなかった。

 エーファは絶叫してヨーコを抱きしめようとしたが、それは無駄なあがきだった。

 ヨーコがいたはずの空間には何も存在せず、ただ床にきらきらと輝く砂がわずかに残るだけで、それすらも光を失って次々と消滅してくばかりだった。


 エーファは床に這いつくばって金色の砂を掻き集めようとしたが、彼女が手にしたのは、抜け殻のように残されたヨーコの衣服だけだった。

 抱きしめた服からはほんのりとした温もりと、花のような香水の香り――そしてヨーコのなまめかしい女の匂いが微かに感じられた。


「ばかっ! 嘘つきっ!

 あたしはおっちゃんたちより先に、ヨーコさんにあたしの料理を食べてほしかったのに、なに勝手に満足して逝っちゃうのよっ!

 なんで謝るの? ヨーコさん謝るようなこと、何一つしてないじゃない!

 あたし嬉しかった……ヨーコさんがお母さんみたいに大好きだったのよ!」


 泣き続けるエーファの目の前に、ふいに金色の砂が一粒、忘れていたみたいに現れてふんわりと舞い落ちた。それは数秒の間、きらきらと輝き続け「ふっ」と笑ったかと思うと、静かに消えていった。

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