二十四 願望
美しい小部屋の扉をノックする音がした。
「マリウスです」
耳に馴染んだ声が聞こえてくる。
「入って、鍵はかけてないわ」
ユニが応えると、いつもの笑顔が顔をのぞかせた。
「おや、ワインですか? 珍しいですね」
マリウスが少し驚いたような顔をする。
ユニは小さなテーブルの上に、午後の宴会の残り物と思われるオードブルの皿を置き、ワインを飲んでいた。
彼女とマリウスは、形式上アッシュの随行員となっていたので、お客様扱いで王城の中の一室をそれぞれ与えられていたのだ。
ちなみに、ライガは式典に連れて行けなかったので、宿の厩でお留守番をしていた。
「そうなのよ!
ちょっと聞いてくれる?
王城にはビールどころか焼酎も置いてないんですって!
信じられる?」
ユニはむくれている。
彼女が飲んでいるワインは年代物の高価な一本のはずなのだが……。
「そういうものを注文するユニさんの神経の方が信じられませんよ」
マリウスはにやにやしてユニの向かい側に腰かけると、背中に隠していた瓶を卓上に置いた。
「何それ?」
ユニの目がきらりと光った。
「ケルトニア酒です。
カシルのお土産――って言うか、アンダスン議長からのいただき物ですよ。
こんな上物は帝国でもなかなか手に入りません。さすがにカシルですね」
「ああ、あの時のね……」
バーリー評議員邸での会談の翌日、彼女たちはアンダスン議長に申し出て、彼の孫だという召喚士が入院している病院を訪れた。
アッシュが治癒魔法で昏睡していた若者の手当てを行ったのだ。
ただ、召喚士の皮膚の損傷はあまりに激しく広範囲だったため、アッシュの絶大な魔力をもってしても、その再生には時間がかかることが宣告された。
結局、彼はなお一か月以上の安静が必要とされ、入院が継続することとなった。
それでも、この若者は〝助かった〟のだ。
アッシュの診立てでは、彼はほとんど死にかけていたらしい。
医師からも匙を投げられた孫の命を救われたアンダスン議長は、その礼をしたいと申し出たが、アッシュもユニもそれを断った。
非常時だったとはいえ、二人とも彼の孫を本気で殺そうとしたのである。
涙を浮かべた祖父から礼を受けるほど、彼女たちは鉄面皮ではなかった。
その代わり、二人の女性が無類の酒好きであることをマリウスが耳打ちし、ちゃっかりとこの酒を手に入れていたのであった。
彼は自分の部屋から小さなグラスを二つ持ってきていた。
それをテーブルの上に並べ、美しいカットガラスの瓶を傾けて、琥珀色の液体を三分の一ほど注いだ。
ユニは手渡されたグラスをしげしげと眺め、その匂いを嗅いだ。
かなり度数は高そうだったが、あまりアルコールの刺激臭は感じない。
それどころか、蜜のような甘い匂いと果物を思わせる華やいだ香りとが、同時に鼻孔をくすぐった。
口に含むと、焼酎よりも遥かにきつい。
だが口の中には嗅いだとおりの蕩けるような甘味、そしてリンゴやナシのような果物の香りがふわっと広がる。
呑み込むと強い酒は喉を熱く焼き、最後に煙のような残り香が鼻孔に上がってきた。
「美味しい!
ケルトニア酒って初めて飲んだけど、これ凄いわね。
帝国では普通に飲んでるものなの?」
「ええ、こんな上物じゃありませんけどね」
「でも、帝国はケルトニアと戦争しているんでしょ?
どうやって輸入しているの?」
「戦争と貿易は別なんですよ。
相手国から金を取れるんですから、戦略物資以外はお互いどんどん輸出をしていますよ。
それに帝国の国内でもケルトニア酒を醸造しているんです。
もっとも安かろう、まずかろうで、あまり人気はありませんけどね」
* *
二人は酒を酌み交わしながら、久しぶりにゆっくりと話をした。
王都に到着して以来、参謀本部と情報部合同の聴取が連日行われ、前日の準備を除いてろくに顔を合わせる暇もなかったのだ。
この時間、アッシュはレテイシアの私邸である王宮に招かれているので、彼女たちはもう用済みであった。
二人とも窮屈な正装を脱ぎ、ひと風呂浴びて部屋着に着替えていた。
「あーあ、明日からはまた連日の聴取かぁ……。
多分、二週間は続くわね」
ユニが溜め息をつきながらグラスを呷る。
「ユニさんはいいですよ。
僕なんてその後に山のような報告書と情報分析書を書かされるんですよ。
おまけにカシルとの交渉にも引っ張り出されるでしょうね。
今から気が重いですよ……」
「あらまぁ……。あんた、すっかり参謀本部の一員ね。
いいかげん正式に軍に入ったら?」
「まさか!
いくら何でも、帝国からの亡命者を国の中枢に入れるわけがないでしょう。
……でも、アリストア様を除けば、僕はどの参謀よりもよく働いていると思いますよ」
「――で、そのカシルとの交渉だけど……どうなると思う?」
急にユニの顔が真剣になった。
マリウスはちびりと酒を舐めると、チェイサー(水)を口に流し込んだ。
「恐らく……王国はカシルに国家召喚士を派遣することになるでしょうね。
多分、第八駐屯所のギリアム中佐あたりに白羽の矢が立つと思いますよ。
資料を見ましたけど、彼の幻獣のヌエって、白虎ラオフウを小型にしたような化け物じゃないですか。
あれだけの雷撃能力を持っていたら、一万の軍勢を相手にできるでしょう。
それにサイクロプスを合わせたら、ほとんど一個軍に匹敵する戦力です」
「でも、王国軍が動くとなると、帝国との全面戦争の口実にされかねないんじゃない?」
マリウスは何か考え込みながら、掌の中でグラスを温めている。
「あくまで建前ですが……ギリアム中佐は軍籍を抜けて、傭兵のような身分でカシル政府に雇われる形になるでしょうね。
アリストア様から聞きましたが、親書によるとすでにカシルは十人以上の召喚士を抱えているそうです。
ほとんどがオークらしいですが、オーク一体でも一個小隊くらいの戦力にはなります。
それにハーピーという上空偵察能力が加われば、もとから雇っている傭兵と合わせて、ちょっと無視できない部隊が編成できるでしょう」
ユニは溜め息をついた。
「結局、あたしのやったことは何だったのかな?」
「そう卑下したもんじゃありませんよ。
あなたが〝悪魔の舌〟を発見しなければ、アッシュさんがそれを破壊することもなかったんです。
もし生贄と召喚のシステムを温存したままカシルと交渉が行われたなら――ユニさんは怒るかもしれませんが、恐らく王国はそれを黙認したと思いますよ」
「――そんな!」
「いえ、間違いなくそうなったでしょうね。
現在、軍の一番の悩みは国家召喚士の不足です。
孤児の命でそれを贖えるなら、王国は表面上渋々と、内心では喜んでカシルの肩を持ったでしょう。
その程度には、軍は非情なんですよ。
ユニさんはその可能性を潰した上で、両政府を交渉の場に引きずり出したんです。
結果としてあなたが孤児たちを救ったんです。もっと誇っていいですよ」
「そんなものかしら……」
ユニはグラスの中で琥珀色の液体をくるくる回しながらつぶやく。
「これで辺境に出現するオークは減ると思う?」
マリウスは少し首を傾げた。
「それは僕の専門外ですが……普通に考えれば、激減するでしょうね。
もっとも今すぐにではなく、その影響が現れるのは数か月から半年ほどかかるでしょうけど」
「そうなると〝オーク狩り〟という商売もなくなるのかしらね?」
「それはどうでしょう?
あの人買い――アッシュさんは〝幽鬼〟だと言っていましたが、彼らは未だ健在です。
数は減ってもオークの出現は続くんじゃないですか?」
ユニはグラスを空にすると、また新たな一杯を注いだ。
「〝オーク狩りのユニ〟と言ったら、辺境でも一目置かれるまでになったのよ。
その看板を下ろすことになるとしたら……少し淋しいわ。
辺境にはたくさんの二級召喚士が流入しているけど、いざとなれば彼らには軍という逃げ道があるし、傭兵という選択肢もあるから、そう問題にはならないでしょうね。
あたしは……辺境が好きだから、そうはなりたくないわ。
多分、畑を荒らす害獣を狩ったり、薬草づくりでどうにか暮らしていけると思うの。
それとも……」
「それとも?」
マリウスが先を促す。
「……結婚してみようかしら?」
マリウスが酒にむせて咳き込んだ。
「なっ、何をいきなり!」
「あら、召喚士は結婚するな、子どもを産むなって言われるけど、別にそれを禁じられているわけじゃないのよ?
最近、ロゼッタの幸せそうな顔を見たり、ヨーコさんの出産があったりで、あたしも考えちゃうのよ。
いいかげん結婚して落ち着いてもいいかも……って」
「ユニさんこそ落ち着いてください!
いいですか、結婚って一人じゃできないんですよ?」
ユニはむっとした顔でマリウスを睨んだ。
「あんた、あたしをバカだと思ってない?
それくらい知ってるわよ!」
「だったら、結婚相手にあてはあるんですか?」
ユニの顔がたちまち真っ赤になった。
肩がぷるぷると小刻みに震えている。
「あああああ……………………………………あんたねぇっ!
もうっ、死ねっ!」
〝げしっ〟という鈍い音がした。
ユニが素足でマリウスの脛を蹴り飛ばした音だ。
「痛っ、やめてくださいよ!
図星だからって、そんなに怒らなくても……。
あっ、またっ!
痛いですってば!」
げしっ!
げしげしげしっ!
「ちょっ、ホント止めてっ……!
部屋着でそんな足を上げたら見えちゃいますって!」
「うるさい! うるさい! うるさいっ!!」
「あーーーーっ!
ユニさんお風呂のあと下着つけてないでしょう?
いろいろマズいです! はしたないです!
今すぐ止めてください!
「うるさいっ、見るな変態っ!
このっ、このこのこのっ!
ばかぁーーーーーーーーっ!」
ユニの怒声とマリウスの悲鳴は、扉を通して廊下にまでも聞こえていた。
普通ならば、何事かと人が駆けつけるところだ。
だが、通りかかった王城つきの侍女たちは、顔を見合わせて思わず忍び笑いを洩らした。
部屋の中から聞こえてくる男女の声には、どこか楽し気な響きがあったからだ。