十九 癒しの手
ユニたちと一つ目鬼の間に降り立ったのは、エルフの娘だった。
黒く艶やかでまっすぐな髪、その頭の両側からは、長く尖った耳が突き出している。
長袖の綿シャツに半袖の丈夫そうな上着を合わせ、下半身には裾を絞ったズボンに軽そうなハーフブーツを穿いている。
背中にはユニとよく似た背嚢(バックパック)を背負い、その両脇には弓と矢筒が括りつけられていた。
軽装だが、狩人のような動きやすそうな格好だった。
エルフは無造作に立ち、見下ろすように笑顔を浮かべているのだが、へたり込んでいるユニからは逆光でよく表情が見えなかった。
それでもユニには彼女の正体がすぐに分かった。
一年以上前のことだが、彼女とは何か月も一緒に旅をし、ともに戦った仲間だったからだ。
「アッシュ……。アッシュなのね!」
ユニが大粒の涙をこぼしながら叫んだ。
龍の灰――それはこのエルフの名前を、人間の言葉に直訳したものだ。
エルフ語を発音できないユニとマリウスは、彼女を気軽に〝アッシュ(灰)〟と呼んでいたが、エルフの娘は王国から遥かに遠い西の森に住む、エルフの若き女王だったのだ。
* *
アッシュによってマリウスの最後のカウントは遮られたが、すでに防御障壁は消滅していた。
それなのにサイクロプスは襲ってこなかった。
怪物は愚鈍ではあったが、それだけに動物的な勘が鋭かった。
彼はエルフの娘から隠しようもなく伝わってくる、凄まじい魔力に恐れを抱いていた。
下手に手を出したら一瞬でやられる――それは怯えではない、確信だった。
だが、彼が胸に抱きかかえている鳥籠の主はそれに気づけない。
召喚主とその幻獣という関係でありながら、彼らの結びつきはあまりに希薄だった。
もしライガがそのような脅威を感じたとすれば、ユニであったら即座にオオカミを引かせただろう。
召喚士は鉄の鳥籠の中からユニを指さし、怒りに任せた大声で攻撃の命令をくだす。
ユニたちは初めてその姿をはっきりと認識した。それはまだ成人したばかりといってよい、若い青年だった。
サイクロプスは召喚主の命令に逆らえなかった。
単眼の怪物は自らを鼓舞するように、遠吠えにも似た咆哮をあげ、重い鉄棒を振り上げた。
アッシュはその声に反応し、初めて一つ目鬼の方に向き直った。
その途端にサイクロプスの動きがぴたりと止まる。
大きな一つ目には恐怖の色が浮かんでいた。
「感動の再会の場面だぞ、無粋な奴だな……」
エルフの娘はぼそりとつぶやき、次いで周囲を見渡した。
青白い顔に脂汗を浮かべ、ようやく立っているマリウス。
泣き叫び続けて声が枯れ、地面にへたり込んでいるユニ。
舌をだらりと長く垂らし、ぜいぜいという荒い息をしている疲弊したオオカミたち。
折れた後ろ脚をぶらぶらさせ、三本足で立っているトキ。
そして、草むらに横たわってぴくりとも動かないハヤト。
アッシュは険しい表情でサイクロプスに視線を戻した。
「私の友人たちをずい分と痛めつけてくれたようだな。
貴様は太古の昔、巨人族の娘に化けて彼らの種を奪い取った、汚らわしい一つ目蛇の末裔であろう?
そのような下賤の輩が太陽のもとで我が物顔で立っているとは虫酸が走る!
己にふさわしい地の底へ還るがよい!」
彼女の口から不思議な歌声が流れたかと思うと、サイクロプスの周囲に風が巻き起こった。
取り囲んでいたオオカミたちが、巻き添えを恐れて慌てて飛び下がる。
エルフが何か恐ろしい魔法を発動させたのを感じたのだ。
サイクロプスの周囲に発生した風は、渦を巻きながらどんどん強くなり、あっという間に凄まじい竜巻となった。
それだけではない。
殴りつけるような暴風は周囲の大枝を砕き、さらには地中から巨岩を巻き上げ、竜巻の中へと吸い込んでいったのだ。
このあたりにはサクヤ山の噴火の際、降り注いだ噴石が無数に埋まっている。
それらが竜巻に巻き込まれることで、猛烈な速度でサイクロプスの巨体に襲いかかったのだ。
容赦のない巨岩の激突で肉が抉れ、嫌な音を立てて骨が砕かれる。
裂けて先の尖った大枝が槍のように飛んできて、ぶすりと突き刺さる。
オオカミたちがいくら噛みついても、ほとんど無視していた怪物が苦痛の叫びを上げた。
それでも、巨人族の血に由来する再生能力が傷を塞ぎ、折れた骨をつないでいく。
呆れるほどに頑丈な身体であった。
アッシュは少し感心したように「ふん」と小さく鼻を鳴らす。
「大したものだな……。
では、これならどうだ?」
再び彼女の口から、短い歌声が流れた。
今度は竜巻の周囲の数か所から巨大な炎の柱が噴き上がり、やはり竜巻の中へと巻き込まれていく。
竜巻は炎の渦と化し、その内部を高温で焼き尽くそうとした。
サイクロプスの分厚い肌が焼けてめくれ上がり、肉が爛れ、溶けた脂がしたたる。
その再生能力が内部から必死に身体を修復していく。
焼け爛れていく勢いに再生が追いついていないが、それでも致命的なダメージからは巨体を守り抜いていた。
ただし、それはサイクロプスに限っての話だ。
怪物は身体をかがめ、両腕で鳥籠を抱きかかえて召喚士を守っていたが、渦内部で上昇していく熱は、容易く人間を蒸し焼きにするだろう。
熱せられた空気が人間の気管に入っただけで、口を、喉を、肺を焼き、絶命することが必至である。
サイクロプスは大きく咆哮すると、鳥籠を抱きかかえたまま炎の渦へと突進した。
強烈な風が壁となって脱出を阻み、炎が脚に絡まって引き止めようとする。
まともにぶち当たる炎風がたちまち剥き出しとなった肉を焼いて炭化させ、たちまち白いあばら骨やてらてら光る内臓までもを露出された。
それでも怪物は苦痛に満ちた咆哮を上げながら、信じがたい意志を見せて魔法の竜巻を強引に抜け出した。
地獄の炎を突破したサイクロプスの全身から白い煙をあがり、周囲に脂が焦げるような嫌な臭いを撒き散らかした。
そして、怪物は脱兎のごとく逃げ出した。
全身の皮膚を失い、身体の奥深くまで焼かれたというのに、どこにそんな体力が残っていたのだろう。
それは呆れるような速さで、ライガたちに追撃を断念させた。
そもそも疲労が限界に達していたオオカミたちには、追いかける気力が残っていなかったのだ。
サイクロプスが抱きかかえていた鳥籠の中で、ただの人間に過ぎない召喚士が無事で済んだのか――ユニたちには見当もつかなかった。
* *
「ふう……」
アッシュはサイクロプスが姿を消した森の方を見やり、〝やれやれ〟といった息を吐いた。
「呆れるほど頑丈な奴だったな。
巨人族の血が混じっているだけのことはある……。
ユニ、無事か?」
彼女は振り返ってユニに手を差しだした。
ユニはその手を掴むと、エルフを引きずり倒す勢いで引っ張った。
「痛っ、痛い!
どうしたんだ?」
中腰になったアッシュは、彼女の手を支えに身を起こそうとするユニと、顔を突き合わせるような態勢になった。
「何だ? ユニ……泣いているのか?」
ユニは涙を拭おうともせずに、しゃがれ声で叫んだ。
「お願いアッシュ!
ハヤトを助けて!」
「ああ、そうだったな……」
エルフは縋りつくユニの手を優しく引き剥がすと、振り返って倒れているハヤトの方へと歩いていった。
ユニもどうにか立ち上がり、よろめきながらその後を追う。
アッシュは倒れているオオカミの側で膝をつき、その胸に耳を押し当てた。
ハヤトは口から血泡を垂らし、半分開いた目は白く瞳がなかった。
そして、呼吸は完全に止まっていた。
エルフは頭を上げると、ユニの方を見た。
ユニは声が枯れ果て、喉が詰まったのか声が出せず、ただ訴えるような目から涙をぼろぼろと流し続けている。
「微かだが心臓がまだ動いている。
何とかなるだろう」
彼女は両手をハヤトのひしゃげた胸に当て、また不思議な歌を口ずさんだ。
その歌は数秒で止み、エルフはゆっくりと手でオオカミの身体を撫でていく。
「本当に治せるんですか?」
遅れてやってきたマリウスが、酷い顔色のまま訊ねた。
ユニも「うんうん」とうなずいている。
「エルフの言葉で〝龍の灰〟は『すべてを癒す者』を意味する……君たちにはそう教えたはずだがな。
与えられた名によって、生まれつきこの身に授かったのが治癒魔法なんだ。
だから部族の者たちは、私を〝癒しの手〟と呼んでいる。
任せておけ」
彼女はただハヤトの身体を撫でているだけのように見えたが、やがて目に見えるような変化が現れた。
サイクロプスに蹴り潰され、ぼこりとへこんでいた胸がみるみる盛り上がる。
やがて〝がはっ!〟という咳き込む音をあげ、動かなかったハヤトが口から大量の鮮血と、どす黒い血の塊を吐き出した。
「ハヤト!」
『あんた!』
『父ちゃん!』
ユニが悲鳴を上げ、覗き込んでいたミナと姉妹が同時に叫んだ。
「心配するな。肺に溜まっていた血を吐かせただけだ。
見てごらん。呼吸が戻っただろう?」
アッシュはハヤトの家族の方を見て、優しく声をかけた。
エルフはオオカミたちと直接言葉を交わせるのだ。
彼女の言ったとおり、血を吐いた後にハヤトの胸が大きく上下し、やがて弱々しくも規則正しく動き始めた。
「折れて肺に突き刺さっていた肋骨は抜いてつなげた。
損傷していた肺や内臓も治したから、もう心配はいらないよ。
ただ、血を失い過ぎている。体力が回復して動けるようになるまで二日はかかるかな」
ミナとジェシカ、シェンカの姉妹は、ホッとした表情で、その場にべたりと伏せた。もう立っていられないほどに疲れていたのだ。
「そういうわけだから、ユニ。もう泣き止め。
――って、え?」
アッシュが振り返ると、ユニはマリウスに抱きかかえられていた。
「安心して気絶したみたいです」
マリウスが苦笑しながら説明する。
「まだトキの治療が残っているのに、仕方のない奴だな。
それにしても、彼女はこんなに泣き虫だったかな?
何だか以前と印象が違い過ぎるんだが……」
マリウスは肩をすくめた。
「今回のユニさんは見事に役立たず――というか、お荷物でしたね。
でも、ハヤトがやられるまでは、ちゃんと機転も利いてたんですよ。
多分、仲間を失いそうになって思考が停止しちゃったんでしょう。
〝頭が真っ白になる〟ってやつですよ」
「……ふん」
アッシュは少し不満そうな表情を浮かべた。
「それはユニの魂がオオカミたちに同化してきた証拠だろうな。
あまりいいことではないんだが……」
彼女はそう言うと立ち上がり、脚を折ったトキの手当てに向かった。
エルフの治癒魔法によってトキの砕けた脚は元どおりになり、こちらはすぐに歩けるようになった。
家族であるヨーコとロキは大喜びだ。
「このチビちゃんは誰かな?
前にはいなかったと思うが」
真っ白なオオカミは尻尾を振り、エルフの疑問に元気よく答える。
『僕、ロキだよ!
去年生まれたんだ。
お姉ちゃんはエルフのお姫さまだよね?
ジェシカ姉ちゃんに話を聞いたことがあるよ!
お姫さまは凄いんだね、父ちゃんを治してくれてありがとう!』
「もう姫ではなくて、王なんだがな……。
そうか、ロキというのか。
私はアッシュだ。よろしくな」
彼女はそう微笑みかけながら、ロキの瞳をじっと見つめた。
そしてわが子に寄り添っていたヨーコの方に目を向けた。
「なるほど、そういうことか……切ないものだな」
アッシュは納得したようにつぶやいたが、それ以上何も言わなかった。
* *
ユニは気絶したまま、ぐっすりと眠ってしまった。
もっとも、それはマリウスやオオカミたちも似たようなもので、アッシュとロキを除く全員がその場にへたりこみ、泥のような眠りに落ちていた。
エルフの治癒魔法でも、彼らに蓄積した疲労を取り去ることはできないらしい。
アッシュはユニたちが眠ってしまうと、一人姿を消してしまった。
ユニたちが目を覚ましたのは夕方近くのことで、それも戻ってきたアッシュに起こされたからだった。
起き上がったユニとマリウスは、だるさの残る身体でのそのそと食事の用意に取りかかった。
一頭だけ元気だったロキが、群れが眠っている間にウサギを五羽も獲ってきていた。
空腹のオオカミたちにとっては〝おやつ〟程度にしかならない量だったが、彼らは健気なロキを存分に褒め、獲物を分け合った。
ユニとマリウスは、防人村からの援助物資である軍の糧食(固いクッキー)を口に押し込み、沸かした湯で淹れたコーヒーで流し込んだ。
アッシュは自分の背嚢からエルフの焼き菓子を数枚取り出して口に運ぶ。
「その背嚢、どうしたの?
前は肩掛けバックを使っていたわよね」
ユニが二杯目のコーヒーを啜りながら尋ねた。
「ああ、ユニが背負っているのを見て、両手が使えて便利だなと思ってね。
里に帰ってから自分で作ったんだ。いい出来だろう?」
彼女が自慢するだけあって、その背嚢はまるで職人が作ったような出来栄えだった。
ユニはカップから口を離して溜め息をついた。
「エルフは手先が器用でいいわね。
あたしは縫物が苦手なのよ。魔導院ではいつも居残りさせられたわ。
――それはそうと、まずはお礼を言わなくちゃね。
助けてくれてありがとう!
そして、ハヤトの命を救ってくれたことも!
この恩は一生忘れないわ」
アッシュは含み笑いをして首を振った。
「友人の危機を目の当たりにして何もしなかったとしたら、私はどうして王たり得よう?
気にしないでくれ。
それにユニからは〝何でもする〟という言質を取ったからな。
十分な収穫だ」
ユニも笑い返す。
「恐いわね。
でも、この恩を返すためなら、本当に何でもするわ。
――それで、ここからが本題よ。
西の森のエルフの王であるあなたが、どうしてこんな所にいるのかしら?」




