十八 残酷な決断
一つ目鬼の知能は決して高くはない。
それは巨人族との最も大きな違いであった。
この怪物が後ろ回し蹴りでハヤトを吹っ飛ばしたのは、左腕に鳥籠を抱き、重い金棒を持った右腕にライガがぶら下がっていたので、単純に足しか使えなかったからだ。
だが、その足でうるさいオオカミを蹴り殺したことで、彼の愚鈍な頭でも〝足で攻撃すればよいのだ〟ということが理解できた。
拳でも足でもいい、攻撃を続けさえすれば、この目に見えない壁がいつかは崩壊する。
サイクロプスは頭が悪くても、そのことを本能的に嗅ぎ取っていた。
何度でも蹴ってやる。そして右腕の金棒でうるさいオオカミを追い払えばよいのだ。
怪物は醜い顔に笑みを浮かべ、猛然と防御障壁を蹴り、踏み潰そうとした。
それまでのオオカミたちの奮戦で障壁への攻撃が小康状態となり、どうにか踏み堪えていたマリウスが再び苦悶の表情を見せる。
金棒による攻撃も酷かったが、サイクロプスの蹴りはそれ以上に重い衝撃を与えてくる。
何しろあの巨体を支えるだけの足である。太腿は巨木のように太く、踵は岩のようにかたい。
防御障壁は怪物の蹴りにも耐え続けたが、そのたびに魔導士の体内からごっそりと魔力が奪われていく。
彼にとっては急速に血を抜かれているようなものだ。
マリウスは額に脂汗を浮かべ、こみ上げる吐き気と眩暈に耐え、立っているのがやっとという状態だった。
拳や金棒による攻撃の時は、どうにかオオカミたちにも阻止することができた。
しかし腕よりも遥かに太い足となると、彼らもお手上げだった。
どうにか噛みついても、怪物は気にも留めずに足を振って蹴りを放つ。
そうなると、オオカミたちは口を離して飛びのかねばならない。
噛みついたままでいると、彼らの身体が防御障壁に叩きつけられ、下手をすると圧死しかねないからだ。
体重のあるライガやトキですらそうなのだ。援護に入ったヨミたち女衆では、足かせにもならない。
それでもオオカミたちは諦めなかった。
跳ね飛ばされても、金棒で殴りかかられても、しつこく何度でも足に噛みつき、牙をたて、肉を食いちぎった。
だが、一時的に出血を強いることができても、この怪物には再生能力がある。
巨人族よりは再生スピードに劣るが、それは十分な脅威であった。
オオカミの牙が穿った穴も、肉を噛みちぎった傷口も、いつの間にか血が止まり、新しい肉が盛り上がって塞いでしまうのだ。
そして、徒労に近い戦いをずっと続けてきたライガとトキの疲労は、限界に近づいていた。
すでに何十回目の攻撃になるのか、もはや分からない。怪物のふくらはぎに喰いついたトキに金棒が振り下ろされた。
トキは口を離してすばやく身体をひねり、飛びのいて攻撃を避けようとしたが、一瞬足がもつれてしまった。
そのわずかな隙が命取りとなった。
逃げ遅れたオオカミの腰のあたりに、容赦のない金棒の一撃が叩きつけられた。
『ぎゃんっ!』
悲鳴をあげてトキが弾き飛ばされ、草むらに倒れる。
障壁の中では、ユニが金切り声を上げている。
もう彼女はヒステリー状態になっていて、叫んでいる言葉も意味不明のものだった。
『トキ! 無事か?』
吼えるライガに応えるように、トキが三本足でよろよろと身を起こした。
右の後ろ足は地面を踏みしめておらず、ぶらぶらと揺れている。
彼は苦痛に顔を歪めながら声を振り絞った。
『大丈夫だが足を折られた!
もう攻撃に参加できない――すまん!』
『無事ならいい!
下がっていろ!』
ライガの声には、安堵と絶望の色が混じっていた。
トキの怪我は命に関わるものではない――それはよかった。
だがハヤトがやられ、トキが離脱した今、もうサイクロプスに立ち向かえるオスは、ライガただ一頭になってしまったのだ。
それでも彼は、不敵な面構えで吼える。
『心配するな!
こんなでくの坊、俺だけで十分だ!』
ライガの威勢のいい言葉とは裏腹に、現状が絶望的なことは誰もが理解していた。
それでもオオカミたちは、誰一人文句を言うことなく、舌を垂らし荒い息をこらえ、震える足を踏みしめて再び敵へと向かっていった。
* *
仲間たちが苦戦する中、大木の根元でぴくりとも動かなくなったハヤトのもとへは、ミナとジェシカ、シェンカの姉妹が駆けつけた。
ミナはハヤトの首の後ろを咥えると、自分よりも重く大きな夫の身体を、ずるずると引きずって戦場から引き離した。
サイクロプスから距離を取った草むらに移動させると、ミナは覗き込むようにしてハヤトの顔を舐める。
「父ちゃん、目を開けてよーー!」
「お願いー、息をしてーー!」
ジェシカとシェンカはその両脇で泣き叫んでいる。
ライガと遜色のない巨体を誇り、人間に媚びを売らないため怖がられることが多いハヤトだったが、ジェシカとシェンカにとっては娘を溺愛する甘い父親に過ぎなかった。
その威厳と逞しさは、姉妹の自慢であった。
激しい戦いをよそに、その場は沈痛で犯しがたい空気に包まれる。
――やがて、ミナはハヤトを舐めるの止め、きっと顔を上げた。
その表情は娘たちが見たこともないほどの獰猛な怒りに満ちていた。
『あんたたち、父ちゃんはもう助からない。
あばら骨が一本残らずへし折れて、肺に突き刺さっているわ。
――だから、諦めなさい!
それより、みんなの加勢に行くわよ!』
ミナは厳しい声で娘たちを叱り飛ばすと、猛然とサイクロプスめがけて立ち向かっていった。
『分かった!』
『父ちゃん、待ってて!』
姉妹もまた、牙を剥き出しにして母親に続く。
彼女たちは父親を振り返ることもしない。
その顔はもう、ふざけてばかりいる子どものそれではない。
立派な若いオオカミの顔だった。
オオカミたちは家族の死に怯まない。
自らの死も恐れなかった。
彼らはただ〝群れを守る〟ということしか頭にない。
そのために死んでしまう者も群れの構成員なのだから、ひどく矛盾した考えではあるが、オオカミたちはそれが当然だと思っている。
そして、ユニは彼らが認めた群れの仲間だった。
だったらその仲間を守るために、例え全員が死ぬような結果となったとしても、それは〝仕方のない〟ことなのだ。
* *
だが、ユニはオオカミたちのように割り切ることができない。
彼女は群れの一員ではあっても人間であり、しかも何の力もない若い娘に過ぎないのだ。
彼女は障壁の見えない壁に縋りつき、どんどんと拳で叩きながら泣き叫んだ。
「マリウス! お願いだから障壁を解いて!
早くハヤトの手当てをしなくちゃ、死んでしまうわ!
トキだって添え木をしないといけないのよ!
お願い! ここから出して!」
見えない壁を隔てたほんの目と鼻の先に、サイクロプスが振り回す金棒を避けたライガが着地した。
彼は〝べっ〟と噛みちぎった怪物の肉を吐き捨て、血まみれとなった凄まじい表情で後ろを振り向き、吼えた。
『マリウス!
その馬鹿女の横っ面を張り倒して黙らせろ!』
もちろんユニが通訳しない限り、その言葉はマリウスには届かない。
だがマリウスは、ライガの言っていることが何となく理解できた。
そして、自分にはオオカミの言葉が分からないが、ユニが近くにいる状態ならば、マリウスの言葉がオオカミにも届くということを思い出した。
彼は泣き喚いているユニに向かって怒鳴った。
「ユニさん、あなたに言われなくても、もう障壁は解除します!」
案の定、ライガが驚いた表情でこちらを振り返る。
ユニの頭の中を通してマリウスの言葉が聞こえている証拠だ。
彼はそれを確信すると、今度はライガの顔を見据えて大声で呼びかけた。
「ライガ、よく聞いてくれ!
このままじゃもう防御障壁は維持できない。
限界まで粘ったとしても、魔力切れを起こしてぶっ倒れるだけだ。
そうなったら、僕はただのお荷物になってしまう。
だからその前に自分から魔法を解除する!
これから五つカウントを取る。ゼロになったら障壁は消滅するから、ユニさんを乗せて逃げてくれ!
君たちは防人村へ向かうんだ!
あそこなら雷獣のヌエがいる。あの召喚獣ならサイクロプスを止められるはずだ!」
そして彼は息を吸い込み、大声で叫んだ。
「ごーーーお!」
ライガはマリウスの言わんとすることを即座に理解した。
彼は振り返って群れのオオカミたちに矢継ぎ早の指示を出す。
『みんな、マリウスの言葉を聞いたな?
カウントがゼロになったら――ヨミ! お前がユニを乗せて逃げろ!
ミナはマリウスの野郎を乗せてやれ! ユニとは別の方向に逃げるんだ!
ヨーコはトキ、それにロキと一緒だ! 怪物がお前たちを追う可能性は低いはずだ。トキが手負いでも大丈夫だろう。
ジェシカとシェンカはユニの護衛につけ!
もし追いつかれたら、死んでも時間を稼げ!
何としてもユニだけは逃がすんだ! いいな!』
「よーーーん!」
オオカミたちはライガの言葉に一斉にうなずいた。
こうした緊急時、群れのリーダーの命令は絶対なのだ。
『それで?
あんたはどうするのさ』
ヨミが確認するように夫に問う。
ライガはにやりと笑った。『何を分かり切ったことを』――という顔だ。
『決まっている!
ユニを逃がすため、少しでも時間を稼ぐ!
よじ登ってでもあのデカい目玉を喰い破ってやる!
どうせ再生するんだろうが、さすがに視力を失っている間は追跡できないだろう!』
「さーーーん!」
オオカミたちの会話を聞いたユニが、障壁を叩きながら泣き喚く。
「ライガ! あんた何バカなこと言ってんの!
そんなことをしたら、捕まって簡単に絞め殺されるわ!
ハヤトだけじゃなく、あんたまで死んだら、あたしが生きていけるわけないじゃない!
あんた、あたしを置いて逝く気なの?
お願いだからやめてちょうだい!!」
「にーーーい!」
ライガはユニの言葉を無視してヨミに呼びかける。
『いいな、必ず俺が時間を稼ぐ!
ユニのことを頼んだぞ!』
それは妻への別れの言葉であった。
夫が死を覚悟して、〝ユニを逃がせ〟という最後の頼みを口にしているのが、妻であるヨミには痛いほどに分かった。
『任せて!
だけどあんたも……できることなら死なないで!
ユニが悲しむわよ』
『ふん、無茶を言いやがる……』
「いーーーち!」
マリウスもオオカミたちも、ユニの言葉に耳を貸してくれない。
彼女はその場に座り込み、泣きじゃくることしかできなかった。
そして天を仰ぎ、今度はいるはずのない誰かに向かって叫び声を上げた。
「誰かーーーーっ!
誰でもいい、お願いだから助けて!
あたし、何だってするから、お願いよ!
ねぇ! 誰か助けてよぉーーー!」
しかし、当たり前だがそれに応える者は誰もいない。
マリウスは再び息を吸い込み、最後のカウントを告げるために口を開いた。
同時に、ユニたちを半球状に囲っていた防御障壁が急速に薄れていく――それが人間にもオオカミにも、はっきりと感じられた。
オオカミたちが一斉に身を低くして身構え、残酷な決断の果てを待っている。
そして運命の時が訪れた。
* *
「ゼ――」
マリウスが言いかけた瞬間、それを制するようにどこか上の方から不思議な声が聞こえてきた。
「〝何だってする〟か……。
その言葉、忘れるなよ?」
大きな声ではなかった。
だが、その鈴を転がすような美しい声は、ユニにも、マリウスにも、オオカミたちにもはっきりと聞こえていた。
きれいな発音の、落ち着いた若い女性の声だ。
そして、どこか聞き覚えのある懐かしい声音だった。
マリウスは口を開けたまま、凍りついたように動かない。
オオカミたちの尻尾が自然にぱたぱたと横に振れる。
ユニは呆然として、涙に濡れた顔を上げた。
その場にいるすべての者たちの視線を集め、何者かがユニの目の前にふわりと降り立った。
森の巨木の、かなり上のあたりから飛び降りてきたにも関わらず、その人物はまるで体重を感じさせないように、音も立てずに着地したのだ。
「あああああ……!」
声にならない叫びをあげるユニの目に再び涙が溢れ、頬を伝って流れ落ちた。
こんな所にいるはずのない、彼女がそこに立っていたのだ。




