六 継承する者
黒蛇帝ヴァルター・グラーフがこの世界を去ったのは八月も末のことだった。
彼はもう四十三歳になっていたので、旅立つのは時間の問題と思われていたが、いざその時が訪れてみると黒城市民の喪失感は大変なものだった。
ヴァルターは剛直な武人として知られ、情に厚い人柄は誰からも尊敬され、好かれていたのだ。
ましてや彼の部下である第二軍の兵士たちは、人目をはばからずに泣いて悲しんだ。
黒蛇帝はこの世界を去るに当たって、二週間ほどかけて、すべての部下たちを自室に呼んで別れの挨拶をした。
彼は一人ひとりに声をかけたかったようだが、さすがに一万人近い全兵士が相手では時間がかかり過ぎるため、やむなく一度に二十人ほどの集団を招き入れることで我慢するしかなかった。
黒蛇帝の最期は静かなものだった。
彼はアスカと戦った時と同じ、艶消し黒の金属鎧を身につけ、折れた愛剣を誇らしげに腰に吊るしていた。
黒蛇帝が何故剣を折ったのか、多くの者が知りたがったが、彼は決してその経緯を語ろうとはしなかった。
執務室に呼ばれた二人の副官が入ってくると、立って窓の外を眺めていたヴァルターは振り返ってにかりと白い歯を見せて笑った。
「では、後のことはよろしく頼む」
それが彼の最後の言葉だった。
次の瞬間、その肉体はきらきらと光る金色の砂となって崩壊し、後に残ったのは身につけていた軍服と鎧、そして折れた剣だけであった。
* *
『黒蛇帝逝く』
その知らせは瞬く間に黒城市に知れ渡った。
その夜、市内の食堂、居酒屋、バー、とにかく酒を出す店はことごとく、押し寄せた市民で満員になった。
彼らは顔も知らない者同士、口々に「ヴァルター様に乾杯!」と叫んで酒を呷ったのである。
涙を流した者も多かったが、市民たちは決して悲嘆にくれていたわけではない。
彼らは知っていたのだ。
ヴァルターの魂はウエマクと一つになり、第二軍と黒城市民を見守ってくれるということを。
だが現金なもので、一週間も経つと兵士や市民たちの関心は〝次の黒蛇帝〟へと移っていった。
十二月末には王立魔導院の幻獣召還式(卒業式に当たる)が行われ、そこで新たな黒蛇帝が誕生するはずだった。
各新聞は、今年の院生の有望株を似顔絵入りで詳しく紹介した。
それらの絵入り新聞は、飛ぶように売れまくった。
ちなみにこの時代、新聞は木版刷りで基本的に黒一色であったが、第一面だけは多色刷り(カラー)の大きな絵が入るというスタイルだった。
速報性が求められる新聞で、この一面の絵をいかに上手く、かつ早く彫り上げるか、各社はお抱えの絵師や彫り師を叱咤激励して競い合った。
何しろその絵の出来によって、新聞の売り上げが天と地ほども違ってくるのだから当然である。
木版刷りの新聞は、せいぜい数百部刷るのが限界で、その価格はそう安いものでもなかった。
市民たちはお金を出し合って辻売りの新聞を買い求め、仲間同士で回し読みをするというのが普通であった。
新聞社と契約して配達してもらうのは裕福な家に限られ、出来のいい一面の絵は切り取られて、額に入れて飾られることが多かった。
なお、ケルトニアやイゾルデルといった先進国では、すでに鉛活字を使った活版印刷が始まっていたが、まだごく一部に過ぎず普及期には入っていない。
各新聞社の予想では、本命がプリシラ・ドリー、対抗がエギル・クロフォードというのがもっぱらな見方だった。
報道によれば、プリシラはドリー伯爵家の娘だが妾腹の子で、母親はノルド人だという。
北方民族の血をひくだけに女性としては大柄で、あらゆる武術に秀で、特に弓の腕前は教官を凌ぐという評判である。
各社がプリシラを第一候補に押したのは、前黒蛇帝が武人として名高かったことと無関係ではないのだろう。また彼女が黒蛇帝になれば、四帝のうち三人が女性ということになり、前代未聞の事態となる。
男装した長身の美女・蒼龍帝フロイア、愛らしい姫(性格は真逆だが)・赤龍帝リディアは、いずれの市民からも熱狂的な支持を受けていたから、黒城市民が期待したとしても不思議ではない。
一方、対抗馬と目されたエギル・クロフォードは農民の子であるが、入学して十二年、あらゆる学問教科において一度としてトップを譲ったことがない秀才であった。
武芸においても、プリシアには及ばないものの、決して見劣りするような成績ではなかった。
同様のことはプリシラの学業についても言えることで、要するに二人は甲乙つけがたかったのである。
黒城市民は夜な夜な絵入り新聞を片手に飲み屋に集まり、どちらが次の黒蛇帝にふさわしいか口角泡を飛ばして語り合った。
もちろん、第二軍の兵士たちも似たようなもので、兵舎の話題はその一点に尽きると言ってよかった。
全市をあげた興奮状態は黒城市に限ったことであり、他の古都や田舎の町村ではそう大きな関心は惹かなかった。
だが、ただ一か所の例外がある。
それは魔導院――特に当事者である十二年生たちであった。
* *
魔導院では〝舎監長〟を院生が務めるのが習わしとなっている。
舎監は寄宿舎の管理人という意味だが、魔導院の場合はそれだけではなく、一種の自治組織のようになっていて、舎監長ともなれば院生側の代表として教師や審問官との交渉権も有していた。
いわば〝生徒会長〟のようなもので、その選出は全院生の投票で行われる。
舎監室は寄宿舎の男子棟と女子棟を結ぶ、渡り廊下の中央にある。
二室の続き部屋で廊下側が会議室、奥の方が舎監長室になっている。
その舎監長室のテーブルで、プリシアがお茶を飲みながら溜め息をついていた。
「どうしたんだい?
溜め息なんて君らしくもない」
声の主は、執務机の方から聞こえていた。
書類の束が積み上げられた机に向かって座っている若者――舎監長のエギル・クロフォードだった。
栗色の少し長めの髪は、生まれつきでカールしている。
優し気な目、常に微笑みを湛えた口元、背はそう高くはないが、その若々しい肉体にはしなやかな筋肉がしっかりとついていた。
美少年と言ってもいいが、決してひ弱な印象はない。
エギルは成績抜群であるばかりでなく、細かな気配りができて面倒見もよいため、特に下級生から慕われていた。
彼が舎監長に選出されたことは、誰もが当然と受け止めていたのだ。
一方、不機嫌そうにテーブルのソファに腰かけているプリシラ・ドリーは指名制の副舎監長に就任していた。
正副の舎監長は必ず男女の組み合わせであることが決められていたので、プリシラが任命されたのもまた必然であった。
ノルド人の血が入っているという彼女は背が高く、美しい金髪を長く伸ばしていた。色白で彫りの深い、はっきりとした顔立ちで、これまた美少女といってよい。
ただ彼女の場合、線の細いエギルと違って肩幅が広く、全体に骨太でがっしりした印象があった。
背が高いといってもアスカや蒼龍帝ほどではなく、百七十五センチくらいだ。胸が大きい割にウエストは引き締まっており、足はすらりと長い。
彼女は見た目どおり姉御肌で大雑把な性格だった。
だから細かなことに気がつき、雑事も几帳面にこなすエギルが舎監長であることに、正直彼女は感謝していた。
「どうしたもこうしたもないわよ!
みんな黒蛇帝があたしかあんたかで、馬鹿みたいに浮かれて騒いでるじゃない?
午前中だって休み時間に下級生の女の子たちが押しかけて、『あたしたち、応援してますから、頑張ってください!』って言いにきたのよ。
頑張ったら四帝になれるとでも思っているのかしら? まったく!」
エギルは小さく笑って彼女をなだめる。
「まぁまぁ、可愛いじゃないか。
君は相変わらず女子にもてるね、羨ましい限りだ。
――だけど、確かにこればかりは蓋を開けてみないと分からないからね。
リディア先輩のこと、覚えているだろう?」
現赤龍帝のリディアは、彼らの三年先輩だった。
「忘れるもんですか!
先輩が赤龍帝に選ばれた時はおったまげたもの!
みんなてっきり舎監長だったジェイコブ先輩だと思ってたものね。
正直、リディア先輩みたいな無茶苦茶な人が、重責の四帝なんか務まるのかって、みんな心配してたわよ。
でも立派にやっているみたいなのよね、赤城市ではすごい人気らしいわ」
「そうみたいだね。
四帝になる時には先代の記憶が受け継がれるっていうから、それで〝化ける〟って先生が言ってただろう?
今の僕たちの成績が絶対ではないってことだろうね。
案外リデルあたりが黒蛇帝に選ばれるかもしれないよ」
プリシラは同級生のリデルの姿を思い浮かべた。彼女は十八歳になった今でも小学生と間違えられるほどの童顔で背が極端に低い。
「さすがにそれはないでしょう!
あの子に命令される第二軍の兵士が可哀そうだわ」
「僕も黒蛇帝はごめんだね」
エギルは溜め息をついた。
「だって、あのヴァルター様の跡を継ぐんだよ?
僕には荷が重すぎるな。
あー……でも、君ならそんな重荷なんて軽々と担げそうなんだから、やっぱりプリシラが黒蛇帝になるべきだね」
プリシラは頬をぷうと膨らませた。
「人をゴリラみたいに言わないでよ!」
* *
人々の思いをよそに月日は流れ、いよいよ十二月も末、召喚式の日が訪れた。
儀式当日、十二年生八人のうち、すでに六人が召喚を済ませて幻獣との契約を結んでいた。
それまでのところ、全員が二級召喚士で黒蛇帝どころか一級(国家)召喚士すら誕生していなかった(それが普通であるのだが)。
残るはエギルとプリシラ、必然的に二人のうちどちらかが黒蛇帝になることが確定したことになる。
最も有望視されているプリシラが最後となり、まずエギルが召喚の儀式に臨む。
彼は召喚の間の床に描かれた巨大な魔法陣の中央に立ち、審問官が見守る中、召喚の呪文を朗々と詠唱し始めた。
呪文が進むにつれ、エギルの意識は朦朧としてきた。
暗記された呪文は意識の混濁と無関係に、彼の口をついて流れ出ることを止めない。
やがてエギルの意識は、完全にブラックアウトした。
気がつくと、彼は誰かに優しく包み込まれていた。
まるで母親に抱かれるような幸福と安心感がエギルの全身を満たす。
エギルは一糸まとわぬ全裸だったが、まったく羞恥心は感じなかった。
彼を抱いている者の顔はぼんやりとして定かではない。
豊満な胸がエギルの顔に押しつけられ、その乳首にむしゃぶりついて存分に乳を吸いたいという強烈な欲求が起きる。
それをどうにか押しとどめたのが、微妙な違和感だった。
彼の裸体を抱いている者が衣服を身につけていないことは、はっきりと感じ取れる。
だが、それにしては肌に触れる質感が異質なのだ。
その感触は人肌ではなく、羽毛だった。
ふんわりと温かい空気を孕んだ柔らかな羽毛が、エギルの全身を覆い尽くしているのだ。
母鳥に抱かれる雛は、こんな気持ちを味わうのだろう……彼はぼんやりとそんなことを思った。
『おやおや、あなたでしたか……。
これは予想外でしたね』
突然、エギルの頭の中に声が響いた。
男とも女ともつかぬ、不思議な声音だった。
『まぁ、よいでしょう。
あなたであるなら、それはそれで面白いかもしれません……。
ヴァルターはよき武人でしたが、いささか面白味に欠けましたからね。
さぁ、黒蛇帝の証を受け取りなさい』
その言葉が終わると同時に、エギルの頭の中に意識の奔流が流れ込んできた。
それは黒蛇帝ヴァルターの記憶だった。
武芸の鍛錬に明け暮れた若き日々、第二軍部下たちとの熱い交歓、帝国との戦い、鎧の女騎士との死闘……さまざまな情報が奔流のようにエギルの脳内を駆け巡り、記憶として刻み込まれていく。
あまりの情報量に脳が悲鳴を上げ、彼は頭を抱えて胎児のようにうずくまった。
『やめろ! なぜ僕にこんなことをする!
あなたは僕を守ってくれる母ではないのか?
頭の中に入ってくる意識が、僕を僕でないものに変えていく――助けて! 助けて、お母さん!』
エギルは絶叫した――はずだった。
しかし、不意に気がつくと、彼は元の魔法陣の中央に立っていた。
もちろん、衣服もちゃんと身につけている。
意識を失う前と一つだけ違うことは、彼の傍らに黒い羽毛をまとった大蛇がとぐろを巻いていたことだった。
しゅうしゅうと先の割れた舌を出し入れする音は、審問官たちにも聞こえていた。
ただ、エギルにだけはそれ以上の声が聞こえていた。
それは夢の中でも聞こえてきた、男とも女とも判別できない声であったが、何故か母のような安心感を与えるものであった。
『ようこそ、私のエギル。
あなたを新たな黒蛇帝として歓迎しましょう』
――こうして黒蛇帝エギル・クロフォードは誕生したのだった。
* *
余談であるが、この後に儀式に臨んだプリシラは、タケミカヅチという異邦の武神を召喚して一級(国家)召喚士に認定された。
彼女は軍によって一年の速成教育を受けた後、かねて約束されていたとおり、蒼龍帝フロイアの副官を拝命することになる。
そして、アスカに勝るとも劣らない伝説を築くことになるのであるが、それはまた別の物語である。




