二 父兄参観日
ユニはアスカ邸に滞在中、ある計画に加わっていた。
それはフェイが発案したもので、その内容は「アスカとゴードンの仲を進展させる」というものだった。
「だって、どう見てもゴードンはアスカに気があるようにしか見えないもの!」
彼女は鼻を膨らませてそう主張すると、干果実をたっぷり使ったケーキを口に入れた。
ユニも追随して大いにうなずく。
「ええ、誰の目にも明らかね。
それに、アスカだってまんざらじゃないような感じがするわ」
ケーキの製作者であるエマ女史も、自分の焼いた菓子の出来栄えを確認するように、一切れ口に運ぶ。
当然ではあるが、合格らしい。
エマは家令(執事のようなもの)なので直接料理などしないのだが、お菓子作りだけは頑としてメイドに任せようとはしなかった。
彼女はケーキの焼き加減には満足したものの、溜め息を洩らした。
「そうですねぇ……。
私はアスカお嬢様には、もっとちゃんとした家柄のご子息を――と思っていましたが……。
お嬢様はもう四十に近くなっていますもの。お子を産むことを考えれば、一刻も早い方がようございます。
ゴードン様のこのたびのご活躍は、軍でも高い評価を受けているとか……。
あのお方がいらして四か月ほど、思ったより悪い方とも思えません」
三人三様の思惑は違ったが、とにかく「あの二人を何とかしてくっつけよう」という方針が決まったのである。
父兄参観日にアスカとゴードンを呼び、二人がフェイの親代わりであり、近く結婚するのでは……という噂でも立てば、いくら奥手のゴードンでも、朴念仁のアスカであっても動かざるを得なくなるだろう。
――それがフェイの考えた具体案で、ユニとエマもこれに賛同したのだ。
彼女たちはアスカたちが躊躇したら説得する役目であったが、案に相違してアスカがかなり積極的に乗ってきたので、その必要もなかったのである。
* *
救済学院の中等部は、小学部と別棟になっている。
小学部は暮らしの貧しい家庭でも、子どもたちに教育の機会を与えることをモットーに運営されていたが、中・高等部は義務教育ではないので、一般の私立学校と変わらなかった。
つまり、公立学校よりも比較的豊かな家庭の子どもたちが集まり、高度な教育がなされてる場である。
財政的にも中・高等部の利益が高く、それで小学部の不足分を補っていた。
アスカが中等部を訪れるのは入学式以来であった。もちろん、教室に入るのは初めてである。
彼女は生徒たちが座る教室の後方に立って、小学部よりも新しく、清潔な建物を物珍しそうに眺めていた。
一方、その隣に立つゴードンはがちがちに緊張していた。
アスカは自前のスーツとタイトなひざ丈のスカート姿であったが、ゴードンは軍の第二礼装を着ていた。
* *
ゴードンは臨時とはいえ、軍の教官であるから制服が支給される。
ただ、それは一般的な戦闘服であり、階級のない彼に礼装までは用意されなかった。
第二礼装は公的な場に出るのに恥ずかしくない格好だと考えられている。
いま彼が着ているのは、背格好が似ている同僚のラムゼイ少佐から借りたものだった。
少佐は事情を聞くと、いきなりゴードンの腹を殴りつけた。
本気ではなかったものの、不意を突かれたゴードンは「うっ」と呻いて身体をくの字に折った。
ラムゼイはすかさず彼の大きな背中に覆いかぶさるようにして肩を抱き、耳元に口を近づけ、小声でささやいた。
「貴様っ、連隊長とデートだと? 何ていう命知らずな奴だ!」
「いや、デートじゃなくて学校の参観日だよ!」
少佐は彼の言い訳を完全に無視した。
「いい、皆まで言うな! 任せておけ、礼装は貸してやる。
その参観が終わったら、食事をするんだろうな? 俺が飛びきりの店を教えてやるからな!
それといいか、このことは絶対誰にも言うな!
聞いたのが俺でよかったぞ。
もし、こんなことが誰かに知られたら……」
「ど……どうなるんだ?」
ゴードンがごくりと固唾を呑んだ。
ラムゼイ少佐はにやりと笑った。
「夜道に気をつけることになるだろうな……」
* *
ゴードンの緊張している様子に気づいたアスカが小声で注意する。
「おい、もう少し肩の力を抜け。引きつった顔をどうにかしろ! フェイに笑われるぞ」
「ななななな、何を言っている。
俺が緊張なんかするものか!
……だが、この制服おかしくないだろうな? ほかの父親はみんな三つ揃いとかダブルのスーツだぞ?」
アスカは思わず微笑んだ。
「それはもう朝から十回以上言ってるぞ。
心配するな、どこもおかしくはない。
それにお前を見る男の子たちの目を見たか?
みんな尊敬と憧れの目できらきらしているぞ。
女の子も……まぁ、『悪くないわね』という顔だ」
「そっ、そうか? ならいいんだ」
ゴードンは大きく深呼吸をし、少し落ち着いたようだった。
「そう言えば、アスカのスーツはよく似合っているな?
スカート姿は初めて見たから、ちょっと驚いたぞ。
いや! 驚いたと言うのはそういう意味じゃなくてだな、その……」
顔を赤くして慌てるゴードンの脇腹に、容赦のないアスカの肘が飛んだ。
「ばかっ!」
父兄たちの中でも飛びぬけて背が高く、目立っている二人の様子をちらりと確認したフェイは、頭を抱えて溜め息をついた。
「ほかの父兄に注目されてるっていうのに、なに二人していちゃついてるのよ!」
* *
授業参観は滞りなく進んだ。子どもたちは張り切って手を挙げ、先生の質問にハキハキと答えて両親にいいところを見せようと頑張った。
そんな中でもフェイはひときわ輝いていた。質問によどみなく答えるだけでなく、彼女は鋭い質問を返し、先生の解説に対して自分の考えを堂々と述べたのだ。
周囲の父兄たちから「ほお~」という感嘆の声が上がり、アスカとゴードンが得意満面であったのは言うまでもないだろう。
「おい、アスカ。
あれで十二歳ってのが、俺はいまだに信じられんぞ!」
我慢できずに小声でささやくゴードンを、アスカは再び軽く肘で突いて黙らせる。
そしていきなり彼の耳元に唇を近づけた。
「そういうことは、家に帰ってから直接フェイに言ってやれ!」
ゴードンは思わずびくりと身体を震わせた。
アスカの吐息が顔にかかり、鼻にいい匂いが香ったからだ。
ゴードンはなぜか俯いてしまい、その後は大人しくフェイの様子を見守ることとなった。
* *
一時間目の授業は理科で、二時間目は体育だった。
今日は父兄参観の特別授業と言うことで、午前中のこの二時限で終わる予定である。
そしてその後、少しよい店で親子水入らずの昼食を楽しむというのが慣例となっていた。
父兄たちは教師の案内で、外の運動場に設けられた観覧席に座って子どもたちを待つ。
生徒はいったん男女に分かれて体操着に着替え、それから外に出てくる手順である。
父兄たちは思い思いに一時限目での、自分たちの子どもの様子などを嬉しそうに話し合っていた。
十分ほど経つと、体操着姿の男の子たちが先生に率いられて運動場に現れた。
すぐに女の子たちも出てくるのだろう……父兄たちの誰もがそう思っていた。
ところが、十分経ち、十五分経っても女の子たちは現れない。
いくら女子の着替えは時間がかかると言っても、ちょっと度を越していた。
次第に父兄席のざわめきが大きくなってくるなか、校舎の方からただならぬ物音が聞こえてきた。
悲鳴――それも子どもだけではない、女教師の金切り声や男教師の怒鳴り声も混じっている。
「おい!」
ゴードンが声をかけるまでもなく、アスカも立ち上がっていた。
二人は無言で校舎の方へと走り出した。
* *
騒ぎの音を頼りに二人が現場に駆けつけると、そこは混沌としていた。
地面に倒れ伏している女教師、しゃがみ込んで泣きじゃくっている女の子たち、それを必死でなだめる者、あれこれ指示を叫ぶ校長らしき年配者。
アスカは見覚えのあった校長の元に詰め寄った。
「何が起こった!」
校長はアスカの姿を前にして、明らかに顔色を変えた。
「あああ、ノートン少将!
もっ、申し訳ありませんっ!」
そのあまりな慌てように、アスカの方の顔色も変わった。
「まさか、フェイの身に何かあったのではあるまいな?」
校長はがたがたと震えながら、どうにか状況を説明する。
「なっ、何者かがフェイさんを拉致しました。
生徒たちを校庭へ誘導する途中を襲われ、フェイさんを攫って連れ去ったようなのです……」
「貴様らは――それを黙って見逃したのかっ!」
普段は無口で物静かなアスカが、鬼のような表情で怒鳴った。
「ひいっ!」
アスカよりもはるかに背が低い校長は、思わず頭を抱えてうずくまる。
蒼城市の有名人――蒼龍帝に次ぐ英雄と言ってよいアスカが保護者であることは、学院にとってまたとない広告効果があった。
事実、今年の中等部の入学希望者は例年の五割増しだったのだ。
そのアスカの養女が授業中に誘拐されたとあっては、学院の管理体制が問われるというレベルの打撃ではない。
少なくとも校長の首が飛ぶことは間違いないだろう。
校長はアスカの怒りに怯えてろくに返事もできない状況に陥ったが、それが伝染したのかアスカも途端におろおろし始めた。
彼女はすぐ側についていてくれたゴードンの腕にすがりついた。
「どっ、どうしようゴードン、フェイが攫われたぞ!
あああああ、私が側についていればよかったのに!
フェイは無事だろうか? 酷いことをされていたらどうしよう――」
〝ばしっ!〟
その途端、小気味のいい音が響いた。
「なっ!」
赤くなった頬を抑えてアスカが呆然としていると、ゴードンが怒鳴りつけた。
「馬鹿野郎!
お前が狼狽えてどうする!
フェイを助けたいんだろう? だったら落ち着け!」
ゴードンはへたりこんでいる校長の胸倉を掴んで、無理やり引きずり起こした。
「おい、警衛隊への連絡はどうした?」
「そっ、それはすでに馬を走らせています!」
苦しそうに校長が声を絞り出す。
「学院にまだ馬はあるのか?」
「は、はい。あと二頭は……」
「上出来だ」
彼はまだ呆けているアスカに振り返ると、再び怒鳴りつける。
「いいかげんしゃんとしろ!
お前は学院の馬を借りて家に戻れ!
ユニとオオカミを連れてくるんだ!
これはあいつらの得意分野だぞ、ぐずぐずするなっ!」
アスカは一瞬で我に返った。
「あっ、ああ、そうだな!
分かった。ゴードン、ここは任せていいな?」
「当たり前だっ! 早く行け!」
アスカはすぐさま手近の教師を捉まえて、馬房までの案内を命じて走り去った。
ゴードンは矢継ぎ早に指示を出す。
「子どもたちは親もとへ連れて行け!
この現場は封鎖する!
特に犯人が逃げて行った方向には絶対に近寄るな!
できるだけ足跡と臭いが散らないようにしろ。
救護の先生は呼んだんだな? ちょっと診せてみろ」
彼は倒れている引率の女教師のもとに行き、手早く様子を探る。
「外傷はない。
おそらく鳩尾に一撃喰らったんだろう。
あまり心配いらんが、先生が来るまでそのまま寝かせておけ」
「誰かほかにフェイが連れ去れたのを見た者はいるか!」
彼が怒鳴ると、一人の女教師がおずおずと手を挙げた。
五十代に近い、中年の少し太った女性だった。
「わ、私は最後尾にいましたので、全部見ていました」
ゴードンはほっとした表情で、できるだけ怖がらせないよう声を落ち着けた。
「よし、思い出せることを全部話してくれ。
犯人は二人だけだったのか?」
女教師は慌ててうなずく。
「落ち着け。
ゆっくりでいいから、ちゃんと思い出してくれ。
犯人はフェイを狙っていたのか?
それとも、適当に手近な子どもを攫ったのか、どっちか分かるか?」
女教師はゴードンの真摯な態度に少し落ち着いてきたのか、存外しっかりとした口調で答えた。
「あいつらは最初からフェイちゃんが目的だったと思います。
犯人の一人が『こいつが鎧女の養女か』と言っていたのを、私確かに聞きました!」
ゴードンは浅黒い顔から白い歯を見せてにこりと笑った。
「そうか。
ほかに何か気づいたことはないか?」
女教師はゴードンの笑顔に引き込まれるように、引きつった頬をゆるめた。
「そう言えば……」
「何でもいい。教えてくれ」
「犯人の言葉が……ちょっと変でした」
「変? どういうところか……説明できるか?」
「その……何となくなんですけど、ちょっと訛りがある感じで……。
それも今まで聞いたことがない訛りなんです。
私も長年教師をしていますから、いろいろな地方出身の子どもを相手にしてきました。
でも、そのどれとも似ていない……」
中年の女教師は口に片手を当て、俯いて考え込んだ。
そして、思い切ったように顔を上げる。
「すみません、説明の仕方がこれしか思いつきません。
あの、〝鼻濁音〟ってご存知ですか?」
ゴードンは面食らって口ごもる。
「濁音ならわかるが……何だそれ? 自慢じゃないが俺は学がないんだ」
「そうですね、普通はそんなこと気にしませんものね」
そう言うと、中年女性の顔はいきなり〝教師〟のものに変貌した。
「鼻濁音はその名のとおり、少し鼻にかかった柔らかな濁音なんです。
と言っても分からないですよね?
例えば『蛾が飛んでいる』と言ったとします。
この時、私たちなら『蛾』と『が』で、発音が違うはずなのです」
ゴードンはぶつぶつと「蛾が」「蛾が」と繰り返して、納得したようにうなずいた。
「なるほどな。同じ『ガ』でも音が全然違うな!
だが、そんなこと意識したこともなかったな……。
俺たちはこの言い分けを無意識のうちにしていたってことか?」
彼女はにっこりと笑う。
「そうなんです。
私たち王国民は、こうした発音の使い分けを子どものことから自然と身につけているんです。
でも、あの犯人たちの言葉――『こいつが鎧女の養女か』と言った時、私たちなら鼻濁音を使うはずの『が』が、『蛾』と同じただの濁音だったのです」
ゴードンは「ひゅう」と口笛を吹いた。
「ちょっと聞いただけで、よくそこまで気づくもんだな。先生ってのも馬鹿にできねえ」
「何なら中等部から入り直しますか?
うちの学校は年齢制限がありませんのよ」
「よしてくれ」
苦笑いを浮かべたゴードンだったが、すぐに真顔に戻った。
「それで? 先生の見立てはどうなんだ?」
「書物による知識なのですが……鼻濁音をほとんど使わない地方があると聞いています」
「そいつはどこなんだ?」
この時点でゴードンは、事件のおおよその背景を把握しかけていた。
この中年の女教師は、その背中を〝とん〟と押してくれたのであった。
「イゾルデル帝国です」




