海の向こうには異世界が広がっている。
何かやりたいことなんてなかった。行きたいところなんてなかった。
突然言い渡された十連休を家で過ごすのがどこか勿体なくて、宛のない旅行に行くことにした。無論、一人である。
勿体ないというより、嫌だったのかもしれない。そこには当たり前の日常しかなくて、面白くなくて、どこまでも現実的で。そういったものに溢れた場所にいたくなかったのかもしれない。自分の常識が一切通用しないような、価値観が変わるような、そんな劇物のような体験を望んでいるのかもしれない。
どこに行こうか迷ったが、なんとなく、海が見えるところに行こうと思った。
どうせ夏には仕事が立て込み、のんびり海水浴なんてものは出来ないだろう。その分、今のうちに見ておこうと思った。
あまり経験のないフェリーに乗り、海を渡る。目指す場所は、九州の外れにある小さな島だ。なぜそこに行くかと言えば……特に理由なんてない。とにかく遠くに行きたかった。
正直海上なんてものはスマホの電波も通らないし、やることと言えば、景色を見ることか酒でも飲んで眠ることしかない。
甲板に上がり、ビールを飲みながらぼーっと景色を見ていた。
見渡す限りの海原と青い空は水平線の向こうで一つになっていた。浮かぶ雲は形を変え、流されていく。通り抜ける潮風は生臭いが、爽やかで悪い気分ではない。
悪くないビアガーデンではあるが、一つ不満を言うのなら、強い風のせいで肴や空き缶が飛ばされないように気を使わないといけないところか。
数時間何も考えずに海を見ていたが、どうやら酒を飲み過ぎたようだ。気が付けば、眠ってしまっていた。
◆
目を覚ました頃には、すっかり辺りは真っ暗となっていた。
この時期だと夜風は寒く、完全に体が冷えてしまった。体を丸め、撤退するべく後片付けを始める。
「――うん、帰るのはまだ先になりそう」
ふいに声が聞こえた。どうやら甲板には俺以外に人がいたようだ。
遠巻きに見ると十代くらいの女性のようだが、暗くてよく見えない。
「……だからまだ先だって……え? ……ああ、はいはい。じゃあ十日後くらいには戻る。うん、約束する。それまでには何とか……」
何やら誰かと込み入った話をしているようだ。一人だし、電話か何かだろう。しかしここであまり聞き耳を立てると、不審者と間違えられるかもしれない。ここは、立ち去るのが吉だろう。
そう判断した俺は、足を踏み出す。
その瞬間、カーーンという甲高い音が響く。何たるミステイクか。まとめていた空き缶を蹴ってしまった。
おそるおそる少女を見てみると、バッチリ目が合ってしまった。黒色の髪に雪のような素肌。相当若く見えることから、学生だと思われる。
盗み聞きバレてしまった気がして、気まずくなり会釈をする。そして、そそくさと甲板を降りるのだった。
◆
翌朝、フェリーは島に辿り着いた。
建物はほとんどなく、コンテナが詰まれているだけの質素な港には人が多く集まっていた。なんでも、船の乗り入れは一日一便だけらしい。このフェリーで運ばれてくる乗客や荷物を待っているのだろう。
天候は晴れ。海は透き通るようなエメラルドグリーン。日射しは強いが、空気は乾燥していて不快感は少ない。都市部よりよっぽど過ごしやすい。
最初こそ歩こうと思ったが、さすがにそれは厳しいかもしれない。
旅行に来て早々疲れるのはさすがに勘弁したい。少し高めのレンタカーを借り、島を散策することにした。
「鍵はつけっぱなしでいいですよ」
業者のオジサンが言った。
「え?」
「ここ、島でしょ? 住民の顔なんてみんな知ってるし、逃げ道もないからね。わざわざ車盗もうなんて思う人はいやしないよ」
「そうなんですか?」
「ああ。実際にドライブがてら止まってる車を見てみるといい。みんな鍵をつけっぱなしですよ」
半信半疑だったが、車を走らせると納得した。
窓全開放、鍵さしっぱなし、挙げ句、エンジンかけっぱなし……。駐車した人の頭に、確かに盗まれるという考えは存在しないようだ。
十数分後、宿泊予定の民宿に到着する。
飯は出ないが、破格の値段で泊まれるということで予約していた。
見た目はかなり古い。民家の敷地にあるコンクリート製の納屋、その二階を宿泊場所として改造しているようだ。周囲はサトウキビ畑に囲まれ、海も見えない。しかしながら、一泊二千五百円という魅力はそれを大きく上回っていた。
経営主のお婆ちゃんに挨拶をすると、ドギツイ方言で雑談を投げかけて来られた。もちろん、何を言っているのかは一切分からん。しかしそこは社会人。会社で培われた愛想笑いと相づちで軽やかに躱しきり、部屋へと案内される。
六畳一間の和室は、タンスと冷蔵庫、エアコン、テレビだけが置いてある質素なものだった。至るところに染みがあり、畳なんていつから使っているのかもわからない程に年期が入っていた。まあ、値段を考えれば当然かもしれない。
聞けば他にも宿泊者がいるらしい。地元の人は安全だろうが、旅行者はその限りではない。貴重品を持ち、部屋の鍵をしっかりと締め、さっそく車で散策へと出かけた。
……が、ここは島である。
外周なんて一時間もあれば回りきってしまい、娯楽施設もほとんどない。あるのは小土産屋や飲食店ばかりか。バナナボートなんてものもあったが、少々高い。
初日にしてやることがなくなってしまった俺は、見晴らしのいい高台にある神社で景色を楽しむことにした。
ベンチに座り全貌を見下ろす。見事なまでに畑の緑と海の碧が広がっていた。風は少々強いが、涼しく心地よい。どうやら俺しかいないようだ。夏前だからか、観光客も少ないのかもしれない。でもこの絶景を独り占めできるのは悪くない気分だ。
しかし、現実はそう甘くはなかった。
よく見ると、境内の気の影に誰かが立っていた。こんな辺鄙なところにいったい誰が……そう思い注視してみると、そこにいたのはフェリーで見た少女だった。
彼女は俺に気付くと、笑顔で会釈をしてきた。条件反射的に会釈を返し、視線を景色に戻す。
知らない人にもきちんと頭を下げるとは、今時珍しい子なのかもしれない。一人ってところは若干気になるが、まあ、事情なんて人それぞれだろう。俺も一人だし。
「――こんにちは」
突然声をかけられた。振り返ると、件の少女が横に立っていた。
「あ……こ、こんにちは……」
実に情けない挨拶を返すと、少女はごく当たり前のように俺の横に座った。
「何をしているんですか?」
「何って……景色見てるんだけど……」
「そうだったんですね。……ああ、確かに。凄く綺麗です……」
少女は感嘆の声を漏らしながら景色を眺める。
しかし、俺は景色どころではなくなってしまった。
(……なに、これ……?)
激しい困惑が俺を襲う。
これはいわゆる、逆ナンというやつだろうか……。どうすればいいのかさっぱりわからん。
これからどうすればいいのか悩んでいると、少女は話しかけて来た。
「船の甲板にいた方ですよね?」
「え? あ、はい……」
「ああやっぱり。あの時以来ですね」
「そ、そうですね……」
哀しいかな、明らかに年下の少女に敬語を使ってしまう。
恥を捨てて真実を告げよう。
俺は、童貞だ。
彼女なんてものがいたこともなく、もちろん女性経験などない。そんな男が少女から話しかけられて、ぺちゃくちゃと会話できるはずもなかった。
しかし解せない。
見た目も中の下程度しかない男にわざわざ話しかける意味とは。美人局にしてはやり方が遠回し過ぎる。イタズラにしては手が込み過ぎてる。それとも、超がつく程の純粋純朴少女なのだろうか……。
彼女の真意を色々想像していると、少女は再び俺に顔を向けた。
「そう言えば、まだ名前を言っていませんでしたね。私、ナギです」
「ナギ……さん……」
「ナギでいいですよ。オジサンは?」
「え? え、ええと……」
無言のプレッシャーがヤバい。それよりノーマルにオジサンと言われたことに若干のショックを受ける自分がいた。そうか……俺はオジサンになってしまったのか……。
時の流れを痛感していると、少女――ナギが助け舟を出してきた。
「……ごめんなさい。いきなり名前を聞くのは失礼でしたね」
「い、いや……そんなことは……」
「では、教えてくれるまでオジサンと呼ばせていただきますね」
(それは失礼じゃないのか……)
と、心の中だけで苦言を呈する。
ナギはこっちの話なんて一切聞くつもりもなく、ひたすらに話しかけまくって来た。やれ練習がめんどくさいだの、やれ地元の店は美味しいだの、実に取り留めのない話だ。しかし、どうやらこの島は初めてくるようだ。となれば、親族か知人友人……その類がいるのかもしれない。
「……ってことがあったんですよ。どう思います?」
「え……? あ、ええと……確かにそれは……アレだね……」
「ですよね? それで、その後も……」
……これ、会話が成立してるのか?
◆
それから数日間、行く先々でナギと遭遇することになった。
確かに狭い島ではあるが、それにしても遭遇率が高すぎる。もしや、ストーカーなのか? だとするなら相当な物好きだと思う。どうせストーキングするなら、もっといい男だったり金を持ってそうな人物にするべきだろう。
しかしながら、たった一人で島に来た身分としては、若い女性とこうして過ごすことが出来てラッキーなのかもしれない。仮にずっと一人のままだったら、おそらくとっくに予定を切り上げ帰っていただろう。
これだけ頻繁に会い、それはかとなく会話をすればさすがに慣れるというもの。
対女性に対してレベル1でしかなかった俺は、ナギのおかげレベル10くらいまでは成長していた。
「それでな、上司が俺に言うんだよ。“期日は三日。できないじゃない、やるんだ”って」
「うわぁ……オジサンも大変そうだね……」
……これほど話す間柄になったにも関わらず、俺の呼び方は未だオジサンである。
それはいいとして、気になることもあった。
ここ数日、やはりナギは一人で行動しているようだ。宿泊場所があるのかさえ分からない。いつも俺が帰るまで話しかけ、俺が立ち去るのを見送る。車で送ろうとしたが、頑なに拒否されていた。
どこか妙ではあるが、今のところ犯罪的な感じはない。
今日だって海岸沿いに座り、昼間から夕方までどうでもいい話を繰り返していた。
空は茜色に染まっているが、東の空は徐々に紺色に変わりつつある。星はまだ見えないが、白い月は夜を待ちわび待機している。翠色だった海は黄昏の光を反射させ、綺麗なオレンジ色の光の礫を放っていた。
「……あのさ」
「ん? なぁに?」
思い立ち、しゃべり続けるナギに聞いてみることにした。
「ナギって、一人でここに来たのか?」
少しだけ俺の顔を見続けた彼女は、視線を真正面に向け小さく頷いた。
「お父さんとお母さんとかは?」
「……いないよ。私が小さい頃に、死んじゃったから……」
これはマズったかもしれない。
「……ごめん、変なこと聞いて」
「気にしないで。お婆ちゃんがいるし」
「お婆ちゃんのところに住んでいるの?」
「お婆ちゃんが来てくれたんだよ。これが凄く怖くてさ。色々教えてもらったんだけど、ケンカばかり」
「へえ……。でも、一人でこんなところまで来て大丈夫? 心配してるんじゃないか?」
「どうだろ。送り出したのはお婆ちゃんだったし」
「まあ、若い頃の旅ってのはいい経験にはなるけど……」
(さすがに危ないだろうに……)
そしてナギは空を見上げた。
「私って、これまで誰かから言われて来た通りにしか生きていなかったんだ。何も疑問なんて持たなかったけど、ある日思ったの。本当にこれでいいのかなって。だから、今回の旅は私から提案したんだ。もちろんお婆ちゃんは反対したけどね。でもどうしても必要だって言い張ってたら、最後は認めてくれたの。その時、初めて自分の足で人生を歩いた気がしたんだ」
「自分の足で……人生を……」
どこか、胸に刺さるものがあった。
俺なんかよりずっと年下であるはずのナギの方が、よっぽど大人に見えた。
何も考えずに就職して、何も考えずに毎日を過ごして、言われたことをへこへこ頭を下げながらこなすだけの毎日。もちろん、金を稼ぐためには仕方のないことだというのは分かっている。
……でも、果たして俺は、自分の足で歩いているだろうか。自分から動くなんてことはせず、妥協と怠惰を積み重ねているだけじゃないだろうか。
ナギを見ていると、自分が恥ずかしく思えた。
するとナギは、俺に笑顔を向けた。
「……そして私は、オジサンと出会った」
「え? 俺?」
「うん、オジサン。最初はよくわからなかったけど、今は確信してるんだ。オジサンは、私が探していた人だって」
言ってる意味が全然分からない。運命の人みたいな話なのだろうか……。
正直言えば、嬉しい。
そりゃナギみたいな若い女の子にそんなことを言われたら嬉しいに決まっている。決まっているが……いくらなんでも暴走し過ぎのような気もする。もし俺が変態野郎なら、間違いなく心に一生ものの傷を負っていたことだろう。
ここは大人として、注意するべきかもしれない。
「ええと……ナギ? あのな――」
「――秘密の話、教えてあげる」
ナギは立ち上がった。
「この海の向こうにはね、異世界が広がってるんだよ」
「い、異世界?」
「それは近くにあるのに、誰も気づかない世界。でも、とっても綺麗で、とっても凄い世界なんだ」
「……」
ナギにふざけている様子はない。
中二病くさい言葉ではあるが、何か胸に響く言葉だった。
考えてみれば、確かにそうかもしれない。誰でも近くに他人はいて、その人達は自分とは違う世界で生きている。人それぞれがそれぞれの世界を持っていて、仕事をして、今を生きている。
もちろんいいことばかりじゃないだろう。努力が報われることがあれば、報われないこともある。不運が続き、人生のどん底を味わうこともあるだろう。
それでも、その世界で何かを得るためには、見つけるためには、歩き続けないといけない。手を伸ばし続けないといけないのかもしれない。その過程の先には、きっと素晴らしい世界が広がっているのだろう。
ナギの言葉を聞いて、柄にもなくそんなことを思った。
……そして、俺も少しだけ足を踏み出そうと思った。積み重ねた妥協の畦道は、ここから変えていこうと思った。
「……じゃあ、行くか!」
「え……?」
俺もまた立ち上がり、ナギの手を握り走り出した。
「オジサン!? どこに行くの!?」
「だから、異世界だよ!」
ナギは一気に表情を明るくさせた。
「……うん!」
私服のまま、靴のまま、切り立った岩場から海へと飛び込む。
水飛沫を上げて海水に浸かると、薄く目を開けた。塩水は目に沁みるが、海面の上に広がる夕陽は揺れ動き、とても美しかった。
異世界は、確かにそこにあった。
ナギは俺の手を引き、海上へと向かう。海を出たら、家に帰ろうと思う。当たり前の日常じゃなくて、きっと新しい毎日が待っている俺の家に。
まずは最初の一歩として、それを教えてくれたナギを家に送ろう。
そのついでに、ご飯でもご馳走して――。
「……ぷはぁッ!」
海上に顔を出し、周囲を見渡す。
しかし……。
「……あれ? ナギ? ナギ?」
彼女の姿は、どこにもなかった。
「あいつ、どこに……」
その時、とあるものが目に留まった。
切り立った崖の上にある、西洋風の城。……そう、城である。欧米の歴史的建造物のようなキャッスルが、そこにあった。
「……なに、あれ……」
つい先ほどまではなかったはずだ。よく見れば、陸地もさっきまでいた島とはまったく違う。
「――オジサン!」
頭の上からナギの声が聞こえた。
見上げた先にいたのは間違いなくナギである。ナギである……が、彼女は、何やら得体の知れない生物の上に乗っていた。
口が尖がっていて、首が長くて、尻尾があって、翼竜のような翼を持つ生命体……。
一言で言えば、ドラゴン。
「……ナギ? それは……」
「これ? ドラゴンだよ? オジサンも絵とかで見たことあるでしょ?」
そりゃそうだが、そうじゃない。
「でもオジサンがすぐにこっち側に行くって言ってくれて良かったよ。もし来てくれなかったら、ダメ軍師の献策に頼るしかなかったわけだし」
「こっち側? 軍師? え? え? ちょっと待って……意味が全然……」
「とりあえず、私の城に来てよ。説明するからさ」
「私の城? あの歴史的建造物みたいな? あれ、ナギの城?」
完全にパニックになっていた俺に、ナギは微笑みながら手を伸ばした。
「でも、もうオジサンって呼べないね。……ようこそ異世界へ。勇者様」
「………………はい?」