【065】大尉、嫉妬に遭遇する
ヒースコート准将が言うには「頭を冷やさせるために、浴室にぶち込んだ」……とのこと。
なにが起こったのかは分からないが、この状況の発端はわたしにあるらしい。
「なにかあったら、助けてやるから心配するな」
ヒースコート准将の案内で浴室へと連れて行かれた。途中もやはりなにか暴風的なものが直撃したかのような荒れっぷりだった。
大きな鏡にステッキが突き刺さり飛び散り、洗面台にはひびが入るなどして、床にさまざまな破片が飛び散っている。
浴室のドア前で、ヒースコート准将に「さあ、一人でいけ」と背を押された。
そしてふと思った。
ヒースコート准将の顔の殴打跡って、閣下が付けたのかな……。
ヒースコート准将って、メチャクチャ強いんだけど。
……で、浴室のドアノブに手を伸ばしたら外れた。
ドアノブさん、お疲れ様でした……じゃなくて! なんでドアノブが外れるんですか! 安普請なら分かるけど、ここ宮殿ですから。
そしてドアの隙間から水が。
今日何度目かの「一体何が?」という疑問をいだきながら、体当たりしてドアを開けて浴室へ。
閣下はタキシード姿のまま、立って浴槽でシャワーを浴びている。
蛇口とシャワーの両方が全開になっているらしく結構な広さがある浴室の床が水浸し。
湯気らしきものが皆無……というか、寒い。もしかしなくても水?
水浸しの床をばちゃばちゃという音を立てて閣下に近づくと、
「誰も入るなと命じ……」
前髪をかきあげながら、そう言われた。
浴室に来ちゃ駄目って命令下されていたのですか。ヒースコート准将教えてくれなかった。が、いまは愚痴を言っている場合ではない。
「申し訳ございませんでした」
企業の謝罪会見並に頭を下げる。
視線の先には浴槽から勢いを持ってあふれ出す水。
きゅっきゅという音が聞こえ、蛇口から出てくる水音が弱まる。シャワーはまだ全開みたいだが。
「……」
「……」
シャワーが溢れかえった浴槽の水面を叩く音だけが響く。
閣下が満足されるまで、このまま頭を下げていてもいいのだが、閣下はずっと水を浴びている状態。
北国の二月終わりの水なんて、身を切るように冷たい。
「閣下。お体に障ります」
勝手に頭を上げて、水シャワーは止めましょうと声を掛けた。
もともと血の気の薄い閣下のお顔は、最早血の気が引いているといってもいいほど。
「そうかもしれないな」
閣下はシャワーのコックを捻り止めてくださった。だが、まだ水で満たされた浴槽から出てきてくれない。
「大尉」
「はい、閣下」
「キースから注意を受けたか」
「はい」
失った恋人のことを思い出してしまったという告白付きの、普通に叱責されるよりもキツい叱責をくらいました。
「サー……マルムグレーンからは、なにか言われたか?」
サー? ん? サーって? いや、そこは問題じゃない。いまは閣下のご質問に答えるのだ。
「初任務としては問題ないと言われました」
多分そんな感じだったと思う。
早朝の列車乗り込みに関しては「二度とするなよ」と、ここに来る前に半眼で重ねて注意されたが。
「そうか。では、わたしが大尉に言うことはなにもない」
一度かきあげたけれど、シャワーで再び下りてしまった焦げ茶色の髪。
いつもはしっかりと撫でつけられている髪が、濡れて顔にかかっていて、不思議な感じだ。
「あの……」
閣下が少し目を細められた。視線で射貫くってこういうことを言うんだ。声が出ない。
頬に伸びた閣下の手の平は、当たり前ながらとても冷たい。
「大尉。いろいろと言いたいことがある」
「お叱りを受けるのは当然ですが、その前にお着替えください」
叱られるのはいいのですが……いや、良くないんだけど、叱られて当然のことをしたので。だが叱る相手がずぶ濡れで冷え切っているのは困る。
「……」
閣下は頬に伸ばしてた手を離し、浴槽から出てこられた。
「着替えて、温かいものをお飲みください。叱責はそのあとお願いいたします」
閣下が両手で髪をかき上げ、いつものように顔に一切髪が掛からない状態になり、
「わたしはイヴを叱責したいのかな?」
”ふふ……”という小さな笑いをこぼしたあと、そう尋ねてきた。
「違うのですか? 小官は作戦行動の」
「小官ではない。いまは”わたし”だ、イヴ」
そういう状況じゃないのは分かるが、名前を呼ばれて、恥ずかしさに顔に血がのぼって熱くなる。
なんで照れるんだ、自分! 名前なんてずっと呼ばれて生きてきたじゃないか!
昨晩は不本意ながらレオニードにも呼ばれたし、再現ではキース中将にも。だが恥ずかしさなど微塵もなかったのに、閣下に呼ばれるとこんなにも恥ずかしいの!
「レオニード・ピヴォヴァロフに名を呼ばれた時も、このように頬を朱に染めたのか? イヴ」
「いいえ。まさか」
なぜここでレオニードが出てくるのでしょうか。
「本当か?」
「はい」
あいつに名前を呼ばれている時は、些かげんなりしておりました。
「本当に?」
「はい」
これに関しては、きっぱりと言い切ることができます。
そして閣下、はやくお体を温めないと、体調を崩してしまいます。
「キースに名を呼ばれた時は、少し頬が染まっていたが、それは何故だ?」
「上官に名を呼ばれるのは、慣れなかったもので。閣下、はやくお着替えください」
レオニードに「イヴ」呼ばれるのは「ふーん」でしたが、キース中将になるとさすがに「ふーん」では済みませんでした。なんか、閣下とは違う意味で恥ずかしかったんです。平静を装っていたんですが、閣下にはバレてしまいましたか。
そして頑なに着替えることを拒否される閣下。
着替えましょうよ、閣……濡れた閣下に抱きつかれた。
「閣下?」
”抱きしめる”ではなく”抱きつかれる”……なんだろう。あの……
「言いたいことが無数にあったが、イヴの姿を見たら、なにを言っていいのか分からなくなった」
若干わたしに体を預けるようにして、閣下が頬を寄せてそう言われた。崩れ落ちそうな閣下の背中に腕を回して支える。
「小か……わたしは、閣下に叱責されると思ってきたのですが」
「叱責か。わたしは人を叱ったことがないので、この感情は叱責に関することではないだろう」
「叱ったことがない? のですか」
閣下ほどの人ともなると、部下の叱責など良くあること……いや、周囲には優秀な人しかいないから叱責する必要はないのか。
「そうだ」
「では叱責ではないのですね」
服が水を吸って冷たくなってきた。
そして、ややわたしを見上げる形になっている閣下の視線が怖い。叱責ではないと言われたが、閣下のダークブルーの瞳に、恨みとか憎悪じゃないんだけど、なにか負の感情が宿っている気がする。
背中に回された閣下の指先が、服の上から引掻いている。その箇所は、レオニードに触られたところです。
「イヴ」
「はい、閣下」
閣下はわたしの背中に回していた腕を解き、自分の胃の辺りに手を添えられた。
「任務とは言え、イヴがレニューシャとキスをし、食事をしたのだと……嫉妬というものに食い殺されそうになった」
「しっと……」
閣下と嫉妬がまったく結びつかなくて、間抜けな声で、それを復唱してしまった。
嫉妬……閣下が。
わたしがレオニードと食事をして……嫉妬ですか。
「あの、閣下」
胃の辺りに添えた手が、濡れた着衣を掴み、閣下がもの凄く苦しそう。
「目を閉じろ、イヴ」
閣下の冷たい指先が、閉じた目蓋の上をなぞり、
「嫉妬で狂いそうだ」
指先が目蓋から頬、そして唇……で、水浸しの床に何かがぶつかった音が。目を開けていいとは言われていないが、そんなことを言っている場合ではないので、急いで何事かと確認すると、腹部を押さえた閣下が膝をついていた。
「閣下!」
―― 閣下が膝をつかれた原因だが、わたしは低体温症かなにかだと思ったのだが、
「三日後にうちの王さまに戴冠してくださる枢機卿閣下の顔を、傷つけるわけにはいかないからな」
閣下とヒースコート准将の話し合いの最中で、殴り合いになったそうで、その際ヒースコート准将は閣下の顔を避け、腹部に拳を入れたのだそうだ。そう、腹パンです。
腹部に一撃を食らって動きが止まった閣下を浴槽にたたき込み、水をぶっかけたのだそうです。
「……」
「そんな表情をするな、大尉」
わたしがどんな顔をヒースコート准将に向けているのかは分かりませんが、この表情以外にならないのです。
ちなみに閣下は、温かいお風呂に浸かって体を温めていらっしゃいます。




