【061】大尉、潜入する
閣下のご登場はレオニードたち共産連邦側にとっても、予想外過ぎる出来事だったらしく、個室とその入り口の見張りなどは全ていなくなっていた。
パウダールームに入り着替えようとしたのだが、背中のボタンを手早く全て外せる気がしなかったし、いつ誰が入って来るか分からないので、ゆっくりと着替えている余裕はない。
ドレスを引き裂くのは簡単だが、このドレスからなにか情報が得られるかもしれないので、無傷で残すべきだろう。
コートをはおり、先ほど身を隠していたテーブルクロスを剥がし、着てきたフロックコート類を包み小脇に抱えて逃げた。
建物の外に出て、急ぎ帰路につく。
想定外の出来事が起こったので、わたしへの監視はなくなった……と思うが、独身寮付近にレオニードの配下がいる可能性もあるので、憲兵と合流することは避け、また司令部などには立ち寄らず、馬車も使わずまっすぐ帰るのだ。
夜道を早足で歩き、日付が変わる少し前に無事に到着した。
宿直に「お疲れ」と声を掛けられ ―― 本当に疲れたよ。
部屋に戻り、試行錯誤しながらドレスの留め具を外し、畳んで通勤に使っている大きな鞄に詰めてからシャワーを浴びる。
日付をまたいで帰宅した時は、早く寝たいので翌朝にシャワーを浴びるのだが、今日はシャワーを浴びないで寝ないという選択肢はない。
あっちこっちレオニードに触られたから、嫌なんですよー。
体を洗って眠りについてから四時間後。
「クローヴィス大尉。電話です」
朝の四時半過ぎに電話だと、用務員が起こしに来た。
この世界、電話は一般に普及していないので、どんな時間に掛かってきても非常識ではない。
大体重要な呼び出しだからね。
「誰から」
「オイゲンと名乗りましたが」
オイゲンって、エヴゲーニーのアディフィン読みじゃないか。
「分かった」
電話に出た所、五時半に専用列車で帰るので、その前に駅まで来て見送って欲しいと……見送りだけなら断るところだが、持ち去った拳銃も返却してくれるのだそうで。
国民の税金で賄われている武器ですので、取り返してこなくては。
顔を洗って着替え、化粧はそこそこ、食堂でパンを四つほどコートのポケットに突っ込んで外へ。今回は独身寮を出てすぐにタクシー馬車を拾えはしなかった。時間が時間ってこともあるんだけどね。
まだ薄暗い空の下、パンを食べながら歩きタクシー馬車を捜す。
馬車の車輪の音が聞こえたので振り返ると、タクシー馬車が。ただし、誰かが乗って……ってデニスだ!
デニスが馬車に乗って出かけるとしたら、駅以外ない。両手を高く上げて振ると気付いてくれたようで、馭者に停車するよう指示してくれた。
「姉さん、どうしたの?」
「中央駅までいかなくちゃならないんだ」
「じゃあ乗って」
やはり行き先は中央駅だったんだな。それで、なんでこんな朝早い時間に、タクシー馬車に乗って中央駅を目指しているんだ? デニス。
「専用列車が出るから見に行くんだ」
「共産連邦のヤツか?」
「そう。今日特務大使が帰るんだよ。今日は俺、日勤だけど、遅刻しないなら、どれほど早く出勤しても問題ないからね」
デニス、お前の欲望に忠実なところ、姉さん大好きだよ。
そして、ここで会えてよかったよ、デニス。
「パン食う?」
「もらう」
馬蹄と車輪の音をBGMに、デニスに専用列車について聞き ――
「気付かれないように、専用列車に乗り込みたいの?」
「ああ」
「姉さんが潜入捜査とか、無理あり過ぎじゃない? なに? そんなに人手足りないの、うちの国」
共産連邦の脅威に対しては、慢性的に人手不足だよ。
総人口約二億人の共産連邦に対し、我が国の人口は四八○万人だからね。
単純な兵力で比較しても、歴然通り越して絶望だ。
共産連邦の徴兵可能男性兵 ―― 十八から四十九歳はおおよそ五八○○万人。余裕で我が国の人口越えてくるからな。っていうか十倍以上。
数字を出せば出すほど、心臓のあたりがキリキリと痛むわ。
だから普段は「共産連邦いっぱい!」で、自分を誤魔化してる。数字は駄目ー。可視化しちゃ駄目ー。
「あ、いや、ちょっと違うんだ。向こうからの接触があって、作戦として」
「分かった。作戦ならそれ以上は聞かないし、喜んで協力させてもらうよ、姉さん。中央駅に入る所から気付かれないルートを教えるよ」
「感謝する、デニス」
「一般人には無理だけど、懸垂100回余裕な姉さんなら行けるさ」
どういう潜入ルートだよ! あと姉さんは懸垂200回でも余裕ですよ! ……中央駅手前でタクシー馬車を降り、デニスからルートを聞く。
「この壁。サポートすれば、姉さんは飛び越えられるよね」
デニスは操車場を取り囲んでいる壁に背を向け、指を組み持ち上げる仕草をする。
見た所三メートル五十くらい。壁の上には有刺鉄線が張り巡らされているわけでもないので、片手が届けば簡単に乗り越えられる。
「余裕でいける」
「あとは俺が中でサポートするから」
他のことはともかく、鉄道絡みのデニスの信頼度は高い。
わたしはデニスに向かって走り、組んだ手の平に足を乗せ、完璧なタイミングで飛ぶ。自宅の塀で練習し合った甲斐があったというものだ……遊んでただけなんだけどさ。
塀から飛び降りる前に、道路側を見ると、デニスがサムズアップしていた。わたしもサムズアップをし、塀から飛び降りた。
デニスに言われた車両の間を抜けて、駅舎に近づく。
そのまま駅舎に入ると駅員に見付かるので ―― 軍服を着ているので、見付かったところで、そう騒がれはしないのだが、今回は事情があるので避ける。
駅舎の赤い鉄柱を登り棒の要領で登り、天井の剥き出しの鉄骨に手をかけて、逆上がりの要領で乗る。
足音に気をつけながら、中腰早足という結構辛い姿勢で、三番ホーム左側の六番線を目指す。
専用列車はホームを挟んだ反対側の五番線。
ホームには共産連邦の人間と思しき者たちが数名、あたりを警戒しながら立っている。
しばらくするとデニスが、しれっと駅員を装い、専用列車の入っているホームへとやってきた。
いや、駅員なんだけどさ、デニス。
警戒している者たちの、殺意ありの視線など何処吹く風。……どころか、話し掛ける。こうしてデニスが注意を引いている間に、専用列車に乗り込む作戦。
「任せて」と言っていたが、本当に大丈夫なのだろうか。
ここはデニスを信じて……どうやら、見張りたちの注意を引いてくれたらしい。
このチャンスを逃すわけにはいかない。ので、するすると鉄柱を伝い降り、専用列車に乗り込む。
デニス、家帰ったら、肉奢るからな。
窓から見えないようにまたもや中腰の低い姿勢で、座席の間を走り抜け、無事にレオニードがいるところまで、気付かれずに到着いたしました。
「失礼します」
レオニードの周囲にいる人たちは驚いているけれどね。
「イヴ」
「特務大使閣下、銃を受け取りに参りました」
さっさと国税を返して下さい。
「見張りをかいくぐってきたのか。凄いな、イヴ」
ほぼデニスのおかげですけどね。
「特務大使閣下」
「まあ、そう焦らなくてもいいじゃないか、イヴ」
レオニードが拳銃を差し出してきたのだが、いや、焦らなくていいといいますか、なんで汽笛の音が! これ、出発を告げる汽笛だよね!
がこん、という衝撃とともに、ゆっくりと蒸気機関車が走り出した。
拳銃に手を伸ばすと、レオニードが笑いながら、さっと躱す。
結構反射神経に自信あるんだが、さすがレオニード! こっちの動きを回避しまくる。
ぼこぼこに顔を殴り付けたいのですが、さすがに多勢に無勢。
駅ホーム側を見ると、デニスがめっちゃ良い笑顔で手を振ってる。
あの瞳は「帰ってきたら、専用列車の内装教えてね」だ。まさに瞳は雄弁に語るだ。そして、そうだな、肉より思い出だよなあ、デニス。
デニスと一緒に作戦立てて乗り込んで良かった。




