【060】大尉、テーブルの下に隠れる
レオニードと乾杯して食事がスタート。
「特務大使閣下」
「レニューシャと呼んでくれて構わないよ」
「レニューシャですか?」
なぜわたしが、お前を愛称で呼ばなくてはならないのだ?
というか、お前いま、エヴゲーニーって名乗ってるよね? エヴゲーニーの愛称ってさすがにレニューシャじゃないよね? ルースの愛称や略称は、原形を残していないこともあるので断言できないけれど。
「レオニードの愛称だ」
……だから隠せよ! お前はエヴゲーニー・スヴィーニン特務大使だろうが! レオニード・ピヴォヴァロフじゃないだろ!!
「レオニードの愛称ですか」
「そうだ」
「特務大使閣下を愛称で呼ぶなど恐れ多い」
「それは残念だな。気が向いたらいつでも呼んでくれていいよ」
煩いですよ、レオニード。わたしにコンソメスープの味を堪能させなさ……おや? コンソメスープか。薬は入ってないみたいだな。
マルムグレーン大佐から聞いた話では、酒の次に薬が入っている可能性が高いのはスープ。ただしポタージュ系なんだそうだ。コンソメスープはレイプドラッグの味を誤魔化し切れないし、変色するので避ける傾向にあると聞いたのだが……いや、安心しちゃ駄目だ。
……そもそも、わたしに薬を盛って、どうこうしようという強者がいるかどうか。
「そうなのですか」
レオニードとの食事ですが……相手が共産連邦幹部だと知らなければ、とても楽しい時間です。そりゃあロミオ諜報員だもん、会話だって上手よなあ。
それにしても異国の言語で、こうも滑らかに初対面の相手に、会話を弾ませることができるとか……これだから有能は困る。
「そうだ、イヴにはお礼を言いたくてね」
お前にお礼を言われるようなこと、してませんけど?
「その驚いた表情もとても魅力的だね」
「そうですか?」
意味分からん。とりあえず肉を切って口へ運ぼう。
「わたしが感謝しているのは、ツェサレーヴィチ・アントン殿下を庇ってくれたことだ」
ふあ?
共産連邦としては、閣下が死んでくれたほうがいいのではないのですか?
なにか裏があるのか! 裏があるのか! 正直に言え! レオニード。
「ツェサレーヴィチ・アントン殿下とは、リリエンタール閣下のことでよろしいのでしょうか?」
我が国で閣下のこと、アントンにその敬称付きで呼ぶ人あまりいません……というか、その名前ですと、一定の年代以上の人にとって仇敵になっちゃうので。
「そうだよ」
「リリエンタール閣下の盾になるのは、軍人としては当然のことですので」
「そうだよね。でもイヴが羨ましいよ」
やばい、こいつが何を言っているのか、まったく意味が分からない。
……きっと諜報部員あたりなら、意味が理解できるのだろうけれど、共産連邦と閣下の関係なんて、ほとんど知らないからなあ。
ちゃんと閣下のことを知らなくては……と思うが、レオニードの口の軽さからして、関係を知らないのが功を奏していると思われる。
「羨ましい……ですか?」
「ああ。わたしが幼い頃、まだルース帝国は健在でね。ウラジミール宮殿にお越しになった、ツェサレーヴィチ・アントン殿下に頭を撫でられたことがあったんだ。そして”よく仕えよ”とお声を掛けてもらったことがあるのだよ。結局仕えることはできなかったのだけれど、あの幼い頃に刻まれた記憶の所為で、ツェサレーヴィチ・アントン殿下を尊く思う気持ちはあるのだよ」
初めて聞いたわ、その話。本当かどうかは知らないけれど。でも嘘ついても、わたしには確かめようない……と、思ったか! レオニード。
これでもわたしは、閣下に直接真偽を聞くことができるのだ!
「特務大使閣下は、貴族でいらっしゃいましたか」
真偽の程はさておき、ルース帝国時代にウラジミール宮殿で閣下に会っているということは、高貴な生まれだと解釈すべきだろう。
手配書にレオニードは元貴族だと書かれていないので、嘘だとは思うが……でも、指先の欠損という目立つ身体的特徴も書かれていないくらいだから、貴族ということもあり得る。
「いや、貴族ではないよ」
「そうなのですか。失礼いたしました」
えー。貴族じゃない子供の頭を、閣下が撫でるの?
それはないんじゃないかなあ。
だってルース帝国といえば、超が付くほどの絶対君主制。つい最近まで絶対君主制だった我が国だって、余程名門の貴族の子弟でもない限り、王族には近づけませんでしたよ。今もそうだけどね。
例外はわたしのような士官だけど、レオニード小さい頃だったんでしょ? ということは、貴族なんじゃないの?
料理を食べ終えてコーヒーを飲んでいると、
「あの日のように一曲踊らないか」
曲などないのですが、踊ろう言われました。室長の読み当たってましたよー。さすが室長。きっとレオニードの行動、ある程度把握してるんだろうなあ。
「あの日?」
「踊ればきっと思い出すよ、イヴ」
いや、まあ、分かってるんですけど。さらに欲しかった情報はほぼ手に入ってるんで……でも誘われたからには踊ろう。
なにか新しい情報を手に入れられるかもしれない。
レオニードの手を取り、個室の開けているところでダンスを ―― ああ、個室めちゃくちゃ広いんだ。
「思い出してくれたかな? イヴ」
「もしかして、ブランシュワキ宮殿の?」
「そう、あの時は仮面を付けていたからね」
そうですね。素顔晒していたら、喉笛を切り裂いてましたとも!
「特務大使閣下だとは思いませんでした。てっきり貴族の方だと」
舞踏会に共産連邦のやつらが混じっているなんて、思いもしない……けれど、諜報の世界ではあることなのだろう。
「初めてイヴの手を取った時は驚いたよ。こんな背の高い女性がいるなんて」
くっ! 人口二億人越えのルース帝国にも、わたしのような身長の女はいないのか!
「そうですか」
「だが背の高さも、イヴの魅力だね」
いやいや、わたしとしてはこんな身長は要らなかったんです。士官学校に入学できる程度の身長で良かったんです。
そんなこんなで、一曲分以上をくーるくるレオニードと踊っていると、外がなにやら騒がしくなった。
「なにごとだ?」
レオニードが不思議そうに言いますが、わたしは分かっています。お暇する時間がきたのですよ。
レオニードが素直に帰してくれない可能性もあるので、乱入者を送り込むから、その隙に逃げろとマルムグレーン大佐から命じられている。
乱入者は女王の影武者らしい……レオニードにもう一度会わせてやると言えば、周りの危険を顧みずに突撃すると。
その影武者、たどり着けずに死ぬのでは? と思ったのだが、影武者はそれなりに武術の心得もあるらしく、なにより裏切っているので、死刑は確定している。
そのため、この作戦でもっとも致死率の高い役を振り分けてもよいと……それでいいのかなーと思ったが、マルムグレーン大佐に意見するなんて、とても、とても。
「閣下!」
個室前にいた護衛が室内に飛び込んできた。
すごく慌てているっぽいのだが、女一人が来ただけで、そんなに焦るなよ。その逞しい胸板は飾りか?
「どうした」
「ツァーリです! ツァーリが!」
ツァーリ? ツァーリってルース語で皇帝って意味だよね。
えっと、女王の影武者の名前がツァーリだったり……しないよね。
いやいや、分からんぞ。ツァーリって名前の誰かかもしれない。
「ツァーリ? ツェサレーヴィチ・アントンか」
「はい」
違ったー。閣下だったー。
「邪魔だ」
抑揚の少ない低めの声。間違いなく閣下のお声だ。
閣下いらっしゃるなんて、聞いてませんよ!
「お待ちく……」
なにかが、容赦なく殴られた音が聞こえてきた。
「邪魔するとは、何のつもりだ」
「もうしわけ……ございません」
来ちゃう! 閣下来ちゃう! わたしがここで閣下と顔を合わせても、問題はないが、逃げる素振りを見せないとレオニードに不審に思われる。
正面突破してもいいが、間違って閣下に怪我をさせるわけにもいかないので……そうだ! テーブルの下に潜り込もう! 床までの丈が長いテーブルクロスが掛かっていて良かったよ!
さすがに驚いているらしいレオニードを無視し、テーブルの下に隠れ、ドレスの裾を思い切りたくし上げる。
行儀悪い? 気にしない!
「これはツァーリ」
どうやら閣下が個室に到着したようです。
「レニューシャ、拭け」
赤の分厚いテーブルクロスなので、なにを拭かせているのかうかがうことはできないけれど、きゅっきゅっと音がした。もしかして、ステッキかな?
「ツェサレーヴィチ・アントン殿下。どちらへ?」
足音の感じからして、閣下部屋から出ていくようです。
「シャフラノフの財宝についての話だ。さっさと付いてこい」
閣下はレオニードの返事も聞かずに、部屋から出ていった。
テーブルクロスが持ち上がり、
「名残惜しいけど、お別れだイヴ」
レオニードはキスして去っていった。




