【035】代表、待ち人ではない待ち人来ず
〔エンペラトリース〕は予想通り、皇后という意味でした。セレドニオ君が使っている言語においての皇后。
誰か会場にいる人の名前なのかな? などと呆けてみましたが……残念なことですが
ジョゼ・ゴメス選手が〔エンペラトリース〕と呼びかけた相手はわたしでした。
「わたしの渾名が皇帝だから、伴侶であるイヴを皇后と呼んだのだ」
そのように閣下が仰ったのですが、わたしの皇后はともかくとして、閣下の皇帝は渾名なのでしょうか? いやまあ、御本人が即位していないと仰っているので皇帝ではないのですが……普通「皇帝」と呼ばれて自分の渾名だと思う人って、そうそういないよねー。
「アントンは幼年学校時代から、渾名は皇帝だったからな」
「定着させたのは、わたしたちですがな!」
幼年学校からのお知り合いであるお二方がそのように……アイヒベルク閣下も「教官が皇帝って言ってた」っぽいことを仰ってたなあ。
「あの人は生まれる前から皇帝呼びされていましたから」
ベルナルドさんが言うには胎児のころから「皇帝」とババア陛下さまに呼ばれ「トニー坊やとエンペラー、どちらで呼ばれたい」と物心ついたときに、ババア陛下さまにそう言われ、
「どちらも嫌だと答えたところ”エンペラー坊や”と呼ばれるはめになったので、トニー坊やにしろと訂正した」
大変だったんですね、閣下。
閣下が生まれる前から皇帝呼びされていた話題は楽しかったのですが……話をもどしてジョゼ・ゴメス選手がわたしに声をかけてきた理由ですが、ピューサロ伍長の棄権を判断したわたしのタオル投げ入れ。
あのタイミングで投げ入れたわたしの目の良さに感動し、是非とも手合わせして欲しいと ―― 閣下が間に入ってくださり、通訳をしてくれた。
相手は筋骨隆々のヘビー級ボクサーですので、とてもわたしの拳で沈められない……と思いたい。きっと無理。無理なはず。無理ということにしておきたい!
これでも女子の端くれなので、男性ヘビー級ボクサーを拳で沈めたくなんてない。
もちろん任務でしたら、拳で沈めてそのまま凍死しやがれ!(我が国限定) ですけれど。
その申し出ですが引き受けました ―― きっとわたしの拳は効かないと思いますが、回避し続けてダウンを取ればいいので。
いや……まあ、途中途中殴ってみますが、きっと効かない。……多分効かない。
金メダリストとの試合を閣下が許可してくださったのかって?
「実力はイヴのほうが遙かに上だ」
閣下の目にもわたしのほうがジョゼ・ゴメス選手よりも速いので、問題なく勝てると映ったようだ ―― 通訳してから耳打ちして下さった。
閣下がそのように仰るならば!
「受けると伝えていただけますか」
「分かった」
閣下のご期待と信頼にはできる限り応えたいしね!
ただしジョゼ・ゴメス選手はもう競技は終わったが、わたしはこれから競技なので、わたしの競技が終わってから ―― オリュンポス終了後ならばと。
「リング側にはオディロンを置いておくからな」
「閣下……」
タオル投げ入れではなく、オディロン投入ですか……以前もそんなことがあったような。
ちなみに勝負を受けた理由の一つは「金メダリストより速いヤツ(強いとは言わない)が他の国にはいるんだぜ!」と見せつけたい!
強いとは言わないが、ダウンは絶対に奪われない!
我が国のピューサロ伍長が弱かったわけではないことを、世に知らしめたいのだ!
「キースには叱られると思うがな」
「…………」
忘れてた……いいえ、嘘つきました。忘れてなどおりません。試合を申し込まれたとき、脳裏を過ぎるどころか「受けるんじゃねえぞ!」と脳内のキース大将は怒鳴っていたのですが……それでも受けたかったのです。
「一緒に叱られようではないか」
「よろしいのですか? 閣下」
「もちろん」
人間、相手が悪意を持っていないと分かっていても、ぶちのめしたくなるときがあるのですよ!
「ところで閣下。ジョゼ・ゴメス選手の言葉、全て訳しては下さいませんでしたよね」
わたしはシャール宮殿へと戻って、練習のための銃の整備をしながら閣下に尋ねる。
ソファーに腰を下ろし、足を組みこちらを見ている閣下の雰囲気や表情が変わることはなかった。
「いいや。ちゃんと訳したよ、イヴ」
頬杖をつき微笑まれる閣下は、まったく嘘をついているようには見えない。
側にはリトミシュル閣下もアウグスト陛下もいたのだが、お二人も「問題ないぞ」と ―― わたしにこの人たちの嘘を見抜くのはほぼ無理。
でもわたしは気付いてしまったのです。あの時の〔エンペラトリース〕が、正確には〔エンペラトリース?〕と疑問系だったことに。
きっとネイティブなら〔あれ、まじでエンペラトリースなのかよ?〕と、言葉以外の空気を感じ取ったであろう発音だった。
わたしはその瞬間はその空気を逃したが、閣下が近づいてきて通訳して下さったとき、ジョゼ・ゴメス選手は間違いなく「これ本当に女なんですか?」っぽいことを閣下に聞いていた。
長年に渡り何度も言われているので、言葉は分からずともニュアンスで分かってしまうのです。
あの時のジョゼ・ゴメス選手の表情と口調は完全にそれだった。
「別に傷付いたりはしませんが」
「ふむ……でも何も言われていないのだから、答えようがない」
ただ閣下はとてもご機嫌で……。
国外で更に外国の人が大勢いる大会に出場したことで「これ男ですよね」と言われる頻度が高くなった。
言われ慣れているし、他人から見たら男なのは重々承知というか、わたしだって外見は男だよな! としか思わないのだから、そこは別にいいのだ……と思うわたしですが、わたしはわたしが知らないところで傷付いているらしく、閣下がたくさんフォローしてくださるのだ。
実際、フォローされると表現し辛いが、たしかに幸せな気持ちになる。
「そうですか。またわたしの容姿に関してなにか言われていたのだとしたら、閣下に優しくしてもらおうと思ったのですが」
……優しくと言っておきながらですが、閣下はそれほど優しいわけではありません。もちろん意地悪などはしませんし、苦しいわけではないのだが……いろいろと触れて…………嫌ではないむしろ触れられるのは好きだけれど……。
頬杖をついていた閣下が額に手を当てて、先ほどの微笑から一転、困ったように目を閉じて眉間に皺を寄せて、やや天井を仰ぐかのような体勢に。
「この娘は。わたしをこんなにも翻弄して。それがまた心地良いから困る……あれが何か言わなければ、わたしは触れてはいけないのかな?」
「そんなことはございません」
自分の見た目が男なのは分かっているが、ダイレクトに閣下に聞くなよ、ジョゼ・ゴメス選手。
わたしに対する失礼は、避けようのない見た目だから許すが、閣下に対しては許さん!
……という理由で、勝負を受けた。そして圧勝してやる! 逃げるだけですけどね! たまにパンチらしきものは繰り出しますが、逃げ切ってやる。ダウンなんて奪わせないからな!
もっとも明日は競技に出場するので、お前のこと考えるのはここで止めるが!
閣下はソファーから立ち上がり、
「明日が競技でなければ、この場で押し倒していたところだよ」
「残念です」
「この娘は本当に……明日の試合、楽しみにしているよイヴ」
「お任せください!」
わたしの頬にキスをして、そのように。
「練習しておいで」
「はい」
閣下は離れ ―― 既に薄暗いのですが、閣下が庭にガス灯照明を用意してくださったので、これから射撃の練習を庭で行うのです。
「庭はイヴとバックリーン軍曹以外、立ち入り禁止にしている。わたしは室内から見つめているから、周囲のことは気にせずに撃つといい」
個人宅の庭で実弾射撃ですので、周囲に注意を払うのは当然のこと ―― 完全に周囲が注意を払ってくれていますが。
「そうそう、もしも言いつけを守らず庭を歩いているのがいたら、それはわたしの狗だから、撃っても構わんよ」
「……はい」
バックリーン軍曹にも「歩いているヤツがいたらレオニード」ということを伝え、二人で現れるのを待ちながら練習したが、さすがレオニード。危機察知能力が高かったようで、庭に現れなかった。
残念だったわー! 現れたら容赦なく撃ってやったのに!
こんなにもレオニードが来るのを望んだのって初めて! 最初で最後だと思うけど。
そんな練習を経てついに競技に臨む ――
「姉ちゃん! 頑張ってー!」
カリナの声援が聞こえ……どこかから戻ってきたデニスも観客席にいる。姉ちゃん、頑張るからね!




