【032】中尉、閣下を堕とす
もちろん閣下をお通ししましたよ。
本当に車軸が折れたのかどうかは分からないけれど、車軸が折れたから代車の用意できるまで家で休ませて……という申し出、断りようないから。
というわけで、ステッキを持った閣下が、我が家にいるよ!
我が家は特筆するところのない、一般的な中流階級。家だってごく普通。
白い腰板とマスタードの壁紙が貼られた壁。白のドアや窓枠、モスグリーン地に白で大きめに花柄が描かれているカーテン。
家財道具もそんなに質の悪いものじゃないけど、超一流品とかじゃない。
完璧なまでに、普通の中流階級の家。
唯一の救いというべきか、真面目なメイドが二人いるので、掃除は行き届いているけれど、グレーのカシミアのダブルチェスターコートを脱いだら、タキシードを着てるような閣下がいらっしゃると、ちぐはぐというかなんというか。
現在来客用のソファーに座ってもらってますが、違和感が仕事しすぎて困る。違和感よ、聖誕祭期間なんだから休んでいいんだぞ。
粗相があったら困るのでマリエットは下げた。メイドはもう一人いるが、そっちも部屋から出ないように――投げっぱなしの告白したあとなので、合わせる顔がない状態だが、メイドに任せるわけにもいかない。
「閣下。何かお持ちいたしましょうか」
応接室に通したのはいいのだが、室内は非常に寒い。だって極寒の北国の夜ですよ。冷え切って当然。
使っていない部屋を暖められるほど、燃料に余裕はないので、未使用の部屋は冷え切っている。
だが閣下は家に入る前にコートを脱がれた。
「いいや」
閣下、コート着てくださっても……紳士は人の家の中で、コート着て歩かないよなー。
「冷えるようでしたら……応接室ではなく……」
現在、ストーブが焚かれている部屋は両親の部屋とわたしの部屋だけ。
まさか両親の部屋に閣下を連れて行くわけにはいかない……わたしの部屋も……駄目だ! 貴人を招くような部屋じゃない。
「中尉」
いつの間にか閣下、ソファーから立たれて、すごく近くまで来てる。顔が近いです、閣下。
「なんでしょう、閣……」
言い終わる前に口を塞がれた。
手とかじゃないよ、顔が近すぎ……いや、顔がすぐ側。
あれ? あ……キスされてるよ! ちょっとお待ちくださ……。
咄嗟に腰を引いて逃げようとしたのだが、頭と腰を閣下に押さえられて動けなくなり、そのままキスを。
いや……本気出せば、拘束は解けるよ。解けるけど……。
ドアがノックされたら、拘束が解けた。
「閣下、用意が整いました」
なんとなく遠くに聞こえるオルフハード少佐の声。
「中尉。明日、わたしの自宅を訪れるように。家族には立ち往生していた際に避難させてもらった礼を渡したいのでと言っておくがいい」
閣下はそう言われると、もう一度キスをしてきた。
体が硬直してしまったが、見送らないというわけにはいかないので、重い体を引きずり、外へ出て馬車が見えなくなるまで見送る。
自分の部屋に戻る気にもなれず、寒い応接室で何をするでもなく黙って時間を潰し、帰宅した両親に閣下の馬車が立ち往生して、少しだけ家に入れたことなどを伝えてから部屋へと戻った。
…………一体なんだったんだ!
え、なに? なに! なにが起こったの! 親愛のキスとかじゃなかったと……思うよ。生まれて初めてあれ、あれ……閣下、あれはどういう意味……。
ここで眠れなくなるような女の子なら可愛いんだろうけどなーと、ベッドの上で一人恥ずかしがって転がっているうちに、眠ってしまっていた自分に軽く絶望した。カーテンの隙間から差し込んでくる、朝の弱い日差しを浴びて目を覚まし……いや、ほら、わたし、軍人だから、何処でもすぐ寝られるんだ、軍人としての適性があるんだ。うん、そういうことにしておこう。
来いと言われた以上、閣下のご自宅を訪問しないという選択肢はないのだが、着ていく服がない。
ニートの「美容院に着て行く服がない!」どころの騒ぎではない。
ニートはいいだろ。ネットでポチることが可能なんだから。この世界には、そんな便利なシステムはないし、あったとしても、わたしの体格に合う服など……。
閣下のご自宅を訪問して失礼にならなそうな手持ちの服――軍服着て行くことにしました。制服って便利でいいね。
毛皮の帽子を被り、チャコールグレーのロングフレアコートを着て、貴族のお住まいが立ち並ぶ道をひたすら歩く。
昨晩のキスに関しては、できる限り考えず。
考えたって、考えたって……。
何が起こったのかも理解できぬまま、気付けば閣下のご自宅の裏口に到着。
初見の衛兵から、初めて訪れた夜の時の如き対応を受け――女か? の部分で、受話器を持っている兵士の動きが止まり、全身を上から下まで確認して「う゛……え……おんな?」と、死にかけた鶏の断末魔のような絞り出す声を聞いてから邸内へ。
門から邸に移動するために馬車に乗り込む。
「……」
この馬車、裏口に向かってないぞ。
「どこへ向かっているのだ?」
「正面玄関です。寒いかもしれませんが、もうしばらくかかりますので、我慢してください」
「何故?」
裏口から入ったのに、ぐるりと邸を半周して正面へ向かうだと!?
「何故と聞かれましても、ベルナルドさまより、そのように言い付かっておりますので」
「ベルナルドさまとは執事のことか?」
執事がベルナルドという名前なのは知っているけれど、他にもベルナルドがいるかも知れないからねえ。閣下の邸、使用人が大勢いるからな。
「はい」
使用人は執事の命令には逆らえないよねー。
「そうか。手間を掛けさせるな」
「いいえ」
正面玄関から入らなくてはならない理由がある……あるか? もしかしたら、裏口でなにか対策会議じみたものが行われているとか? ……ないよなあ。
閣下の邸を半周し、やっと正面玄関にたどり着く。
馬車を降りてコートを脱ぎ、腕に持ちかえると、待機していたらしい従僕が玄関を開けてくれた。
「お待ちしておりました」
執事のベルナルドさんが出迎えてくれたのだが、裏口から入れば簡単なことだったんじゃないかなあ。
「閣下がお待ちです」
そして連れて行かれた先は礼拝堂だった。
重厚な扉を押し開けて中へ。埃ひとつ落ちていない赤い絨毯。その絨毯にステンドグラスが鮮やかな色を落としている。
祭壇の前には黒い服を着用した閣下がいて、正面の高い位置に飾られている十字を見上げている。
足音を消して近づくのもおかしいが、あまり大きな足音を立てるのも……そんなことを考えながら祭壇のほうへと近づいた。
「来たか、中尉」
「はい、閣下」
コートを抱きしめるようにして持っているわたしに、閣下が向き直る。
閣下……その格好……どこぞの貴族の結婚式の立ち会いでもなさるのですか?
閣下の黒い服は、完全に聖職者のもの。
それも立襟で、生地もよく見かける神父さまのものとは一線を画している、光沢ある高価そうなもので、首から下げているオレンジ色のストラは……聖教の階位の中でもかなり高位の聖職者しか身につけることを許されない色。
オレンジのストラを下げている人って、教皇にもなれるくらい、教会では偉い人だと教わってますが……閣下、実は偉い聖職者だったのですか? まさか閣下が礼拝堂でコスプレするとも思えないから……。
オレンジ色のストラに気を取られていたら、閣下に抱きしめられた。
「閣下?」
後頭部のあたりを撫でられ――閣下のお顔が近づいて……キスされた。
何度も角度を変えて……
唇が離れたところで、言わなくては。
「閣下、ここは祭壇前です」
閣下、お気を確かに! 閣下、聖職者なんですよね? そのオレンジ色のストラを身につけている人って、祭壇前でこんなことをしちゃ駄目な人種ですよね? いや、祭壇前じゃなくても、しちゃ駄目な人種だったはず。
閣下がわたしの右頬に触れ、親指で額の傷をなぞる。
「中尉。そちらが告白したのだから、責任を取って欲しい」
「責任……とは?」
「中尉とわたしの愛情は同じものだ。だから結婚しよう……返事は?」
「ふ……ふぁ? あ、は、はい? 小官でよろしければ、喜んで……」
ストラと僧服が擦れる音がし、閣下がストラを祭壇に投げ捨てた。ストラはぱさりと軽い音を立てて祭壇に落ちた。それ投げ捨てていいものではないのでは――それを横目に閣下にキスされているのだが、い、いいのかな……。




