【029】Eはここにある ―― 第三公子と第十一公子。または神聖皇帝と伯爵
神聖帝国の新首相に就任したゼークトは、神聖帝国皇帝コンスタンティン二世とともに、前政権が機嫌を損ねた海運帝の異称を持つリリエンタールのもとを訪れた。
単独訪問ではなく、護衛と部下合わせて三十名ほどを伴って。
招待を受けたわけではないので、シャール宮殿の正門ではなく裏門から。
由緒ある侯爵家に生まれ家督を継いだゼークトにとって初めてのことだが、不服はなかった。
彼よりも尊貴の生まれである皇帝も不服を表に出してはいない。
シャール宮殿の敷地内で全員ボディチェックを受け、護衛は拳銃は没収されたが佩刀は許された。
宮殿に入ると従僕がやってきて”御案内します”と ―― 彼らは後を黙って従う。
豪奢な宮殿に慣れている彼らは、海運帝の妃とその親族たちのように内装に目を奪われることはなかった。
【ゼークト】
【なんでございましょう、陛下】
ゼークトの半歩前を歩いている海運帝の兄、神聖帝国皇帝が声をかけてきた。
【ここでは陛下と呼ぶな】
【承知いたしました】
【ゼークト、勝算はあるか?】
【正直に申しまして1%もございません……失望なさいましたか?】
【いいや。勝算が10%はある等と言われたら、帰らせるところだった】
【はは、なれば勝算は10%以上と言えば良かった。さすれば帰宅できたのに】
【ゼークト】
【失礼いたしました】
彼らはシガールームに通された ―― 護衛と部下三十人も収容できる大きさだったが、選別を行い五名だけ伴う。
打ち合わせで室内にはその五名を同席させることにしていた。
ならば最初から五名だけを連れていけばよい……とならないのが、階級社会というものである。
革張りの一人がけのソファー、庭園に面している窓から日差しが差し込むシガールームには、数多の異称を持つリリエンタール、世俗からは身を引いているパレ、神聖帝国から独立し大公となったが、いまだ選帝侯であるフォルクヴァルツの三名がすでにソファーに座っており、リリエンタールの側にはアイヒベルクが控えていた。
【首相就任おめでとう、ゼークト】
【ありがとうございます。アウグスト陛下もご即位おめでとうございます】
【名ばかりの陛下というやつだ】
―― よく言う
その言葉が内心を過ぎったのを、見透かしたかのようにフォルクヴァルツがにやりと笑う。その笑みは”わたし如きで溜息をついているようでは、アントンを相手にどうするつもりだ”と雄弁に語るかのような表情であった。
実際のところ、ゼークトはリリエンタールに対してどのように話を持っていき、リリエンタールが個人で所有しているBk118運河の通行量をもとに戻してもらえばいいのか、まったく思いつかなかった。
優秀な部下たちと話し合ったが、相手が悪い。最悪といっても過言ではないどころか、間違いなく最悪の相手。
神聖皇帝はソファーに座ったが、ゼークトは膝を折り頭を下げて前政権の非礼を詫びる。
【ご寛恕を賜りたく】
片眼鏡をつけ葉巻を手に持っているリリエンタールがどのような表情なのか、頭を下げているゼークトには見えないが ―― 見えなくて良かったという気持ちしかなかった。
今年五十歳になるゼークトは、度胸があり幾たびも困難な状況を乗り越えてきたが ―― 相手が戦争のみならず政略においても常勝不敗の名を欲しいままにしている皇帝となれば話は違う。
できることなら争いたくない相手。
争ったら負けるのは確実で、いかに被害を抑えて降伏するかが大事と大っぴらに言われる人物。
【ほう】
ゼークトはそれほどリリエンタールの声を聞いたことはない。
彼は尊貴の身ゆえ、人と直接会話をすることすらしない。むろん政治家としては話すが、階級の中にあって彼が直接言葉を交わす相手は、片手で足りるほど。
【あの】
【どうして欲しいのだ。端的に述べよ】
【Bk118運河の通行量を以前と同じものにしていただきたく】
【通行量が減らされた理由は分かっているか】
【御意】
【朕を侮辱したが、通行量は元通りにして欲しいと?】
前政権もリリエンタールへの侮辱は一切していない。ただ妃は平民なので軽んじていたのは事実だった。
実際ゼークトも軽く見ていた。
まさか妃への侮辱は自身への侮辱と明言するほど、リリエンタールが妃に入れあげているなど、思いもしなかった。
そのような「報告」が届いていなかったから。
リリエンタールから早い段階、フォルズベーグが新生ルース帝国を名乗ったあたりの会議の場で、既に妃について聞いていたフォルクヴァルツが報告しなかったばかりか、情報の遮断を命じた ―― ゼークトが首相に就任してまず調べたのはそのことだった。既に神聖帝国から出ていった、次の神聖皇帝最有力候補アウグスト・フォン・フォルクヴァルツ。
なにを考えて情報を流さなかったのか?
聞いたところで答えなど返ってこないのは分かっているが、少しどころではなく恨めしく思った。しかし、コンスタンティン二世は「知らないほうがいいと判断したのだろう。現状がこうなることが分かっていても」とフォルクヴァルツを擁護した。
リリエンタール妃のことを悪し様に罵ったアブスブルゴル帝国の現状を鑑みれば、コンスタンティン二世の言葉もあながち間違いではないとは思うが ―― それでも勝者の側に座りパイプをふかしている新大公に対して思うところは尽きない。
【はい。反省の意を込めて今まで免除されていた通行料に関して、これからは定額を支払います】
Bk118運河はもともと、ノーセロート王国が植民地に築き所有していた大陸と世界を結ぶもっとも重要なポイントである。
ここを通れなければ、香辛料を運ぶ際に大きなアバローブ大陸をぐるりと回らなくてはならない。
【たったそれだけか】
【……】
リリエンタールがBk118運河を手に入れた経緯は、彼の隣に座っているノーセロートの廃王太子パレが関係してくる。
パレが政変で難攻不落の要塞に投獄され死を待つのみになったさい、リリエンタールが助け出した。
難攻不落といわれた要塞をいとも容易く落としたリリエンタールは南下し、ノーセロートのデナート海に面している港から船に乗り、Bk118運河を陥落させ実効支配した。
厳重な警備を施していた要塞をも易々と落としたリリエンタールにとって、多少軍が派遣されている程度のBk118運河を手中におさめるのは簡単なことだった。
リリエンタールは奇襲で手に入れたBk118運河を支配したまま、ノーセロートの植民地を奪取し ―― 最終的にノーセロート側は「シャルル・ド・パレに手を出さない」「Bk118運河の株を全て渡す」で全植民地を返却してもらった。
そこに至る駆け引きは見事なものであった。
リリエンタールはまずアバローブ大陸と大陸がもっとも近いバンデオウルス海峡と、Bk118運河にフォルクヴァルツとリトミシュルを派遣し、ルース皇帝に軍を要請するとともに教皇に話をつけ、緋色の衣をひるがえしノーセロート王国に乗り込んだ。
そこでパレを救出すると、今度は血縁関係にある各国の王にとある提案をした。
Bk118運河がわたしの元にある限り、わたしの一門の者が王である国の輸送船の通行料を値引きしよう
ノーセロート王国の近隣列強は、全てリリエンタールが当主を務める一門の分家筋 ―― 各国王家もその配分に賛成し、Bk118運河はリリエンタールのものとなった。
この時リリエンタールは弱冠十五歳。
こうして手にいれたBk118運河だが、代表はシャルル・ド・パレで、株を半分所有してはいるが、それら全てをリリエンタールに預けている ―― 配当金の幾らかは教皇領に納められていると噂されているが、詳しいことはゼークトも知らない。
【なにかご希望がありましたら】
【この退屈な時間が早く終わることだな。こんなことをしているくらいなら、妃を見つめていたい】
なんと返したものかと考えながら口を開きかけたとき、リリエンタールの隣に座っているパレが「やめろ」とばかりに小さく手を振った。
パレの指示を信じるべきか否か? 指示を正しく解釈できたのか? ゼークトはためらうも、一度口を閉じた。
【カールは優しいな】
【あなた方より優しくない人を捜す方が難しいのでは? とりあえず話はここで打ち切りましょう。次の面会予定時刻を過ぎているので。二人とも同席します? 相手はアディフィンのコンラートとリトミシュル辺境伯です。どんな話になるのかは、お分かりでしょう】
国を切り崩されているコンラート二世と、切り崩しているリトミシュル辺境伯 ―― コンラート二世が仲介を願い出たのは明らかだった。
【いいや。帰るぞゼークト。リリエンタール伯】
コンスタンティンにとってもコンラート二世は義兄だが、助ける気はまったくない。そもそも助けられないことを、コンスタンティンはよく知っている。
彼は自分がリリエンタールには及ばないことを、はっきりと理解していた。
弟の中には自分が当主になれなかったことを嘆き、リリエンタールの能力を濁った目でみていた者たちもいたが ―― コンスタンティンはその考えを持つ弟たちから距離を取り、こうして今ここにいる。
【なにかな、神聖皇帝】
【結婚祝いを贈りたい。なにならば贈ってもよいのか】
【…………気持ちだけで充分だぞ】
隣に座っているパレが深いため息をつき、フォルクヴァルツは笑う。
【この人に聞いても無駄ですので、贈り物に関してはわたしが受け付けます】
パレが言った「無駄」の意味が気になったコンスタンティンだが、追求はせず、
【そうか。では頼む】
【わかりました。維持費が嵩んで仕方ない城なんかでもいいですよ】
【いや、そんなものは贈らない】
最後にリリエンタールから声を掛けられ、彼らはシガールームを退室した。
【贈り物を受け取ってくれたら、少しは安心できますな】
【そうだな。なにを贈ればいいか、一緒に悩んでくれゼークト】
【御意】
通商に関する問題はなにひとつ解決していなかったが、オリュンポス期間内は何度か面談を受け入れてくれるので、その間に何とかもとの交通量に戻してもらえるよう努力しようと、
【おや、陛下お久しぶり。ゼークト侯もごきげんよう】
考えて歩いていると、廊下の向こう側から黒眼帯が目立つ男が単身で現れ、彼らに軽く挨拶をしてきた。
コンスタンティンとゼークトも軽く挨拶をし通り過ぎる。
―― 来年、早ければ今年からアレを相手にするのか
ゼークトは連邦共和国初代大統領と対峙することを想像して、なんとも重い気持ちになりながらシャール宮殿を出て裏口へと回る。
庭でリリエンタール妃が他の選手たちと何かしていたらしい声は聞こえてきたが、ゼークトは生憎ロスカネフ語は介さなかったので、何をしているのかは分からなかった。
本心をいえば遠目からでも挨拶をしたかったのだが、それは諦めざるを得なかった。
【義兄と辺境伯との会談中、わたしたちが妃を見たと知ったら機嫌を損ねるであろうから】
【そうですな……いつかご挨拶できる栄誉に預かれればいいのですが】
【わたしより、お前のほうが可能性は高いな】
【陛下……】
政治的な問題はなにひとつ解消しなかったが、リリエンタールが妃を鍾愛していることだけは実感することができた。それだけでも、足を運んだ甲斐があると ―― 彼らはシャール宮殿をあとにした。




