【005】代表、稚拙な罠を踏みつぶす
オリュンポスのサポートスタッフだが、同行ではなく先行という形になった。
先に現地入りして一軒家を借りたり、食糧品や日常品の購入場所の確認、病院との連携などを行ってくれることに。
ちなみに病院との連携だが、閣下が王立病院に紹介状を書いてくださったので、あっさりと受け入れられたそうです。
これで選手の安全は、まあまあ確保できたはず。
「まあまあ」なのは、医師は今回なにをしていいのかよく分からない。さらに医師同行を求めたわたしも、はっきりとしたことは分からない ―― この辺りは閣下にふんわりとしたイメージを伝えたら、
「ハインリヒにブリタニアス行きを指示しておこう。藪なりに必死に考えて結果を出すであろう」
シシリアーナで開かれている眼科学会に出席しているシュレーディンガー博士に、終わり次第ブリタニアスに向かうよう命じてくださった。
もの凄く忙しい思いをさせてしまって済みません、シュレーディンガー博士。
「ハインリヒは本当に手術には向かない男ですので、研究させておいたほうが世のためです」
あまり喋らないアイヒベルク閣下ですら……手術に向かないのか。
でもそれ以外で医学に貢献できるのなら、それでいいのでは……いいのかなあ。
「ほんと名医なんですよ、学者としては。症例を見つけるのも得意ですし、新たな治療法を見つけるのも得意。手術器具だって開発できるし、手術も指揮を執らせる分には名医ですが、当人がメスを持ったらその患者は神の御許に送られること間違いなし。それがハインツです」
ベルナルドさんの具体的なことといったら。
「大佐。オディロンに襲撃されたあと、医学研究所に行くのは危険だったのでは?」
ディートリヒ大佐がオディロンと交戦後、治療のために医学研究所につれて行ってくれと言ったが、噂を聞く分には心霊スポット以上に行ってはいけない場所ではないのだろうか?
尋ねるとディートリヒ大佐は人好きする笑顔で、
「診察は完璧で、治療法の指示は完璧ですから」
あの人に治療してもらうとは言っていませんよと。
「治療にあたる人は別にいるのですか?」
医学研究所の所長なわたしですが、そういう仕組みになっているとは全く存じませんでした。
ほら、わたしお飾りだから!
「はい。シュレーディンガー博士の出される指示は完璧で的確ですから、その通りに治療すれば治ります」
診察が得意な医者と、治療が得意な医者の二種類がいてもおかしくはないか。誤診も医療過誤もないならそれに越したことはないしね。
「指示を出すのが得意なのは、血筋でしょうかね?」
人に指示を出すって結構難しい。短い期間だったけど隊長職でそれを実感した。慣れもそうだが、人に伝えるって難しいんだよ。
でも偶に人に命令を出すのが得意な人っているのだ ――
「かもしれません。閣下のお父上の性格を知る人からすると、シュレーディンガー博士は似ているらしいので」
「似てるのですか」
「はい。”俺さまが一番だ”みたいなところが、非常に似ていると評判です」
閣下のお父上ゲオルグ大公はそういう性格だったらしい。
わたしが生まれるよりも前に亡くなられているので、まさに伝聞でしか知りようがない……まあ、言葉は悪いのだが亡くなられていて良かったな、と思ったりもしている。
わたしと結婚したことで、閣下とアブスブルゴル帝国は不仲となり一触即発状態になってしまった。
ゲオルグ大公は最初の妻と母親がアブスブルゴル帝室の人なので、考えはそっちよりなんじゃないかなーと。
そうなれば閣下と正面からぶつかる可能性が。
ご存命なら既に八十も終わりくらいの年なので、直接やり合うようなことはないかも知れないけど……あっ! そもそもゲオルグ大公がご存命だったら、閣下が独身のままということはない! どこかのお姫さまと結婚してるわー。
ちなみに閣下のお母上エリザヴェーダ皇女からは、なにもアクションはありません。
アブスブルゴル皇帝レオポルト五世がエリザヴェーダ皇女に母親として、息子の貴賤結婚には反対すべきだという内容の手紙を送ったそうですが、封が開けられ読まれた形跡だけはあるその手紙だけが、レオポルト五世のもとに返ってきたそうです。
わたしも恨まれたい訳ではありませんし、気にくわないヤツは無視に限るよという意見には条件次第では同意する方ではありますが、閣下とエリザヴェーダ皇女の間はなあ……。
これはもう間を取り持つとか、関係修復のために骨を折るとかいうレベルの話じゃない。
愛の反対は憎しみではなく、無関心とは前世でよく聞いた言葉だけど、両者が同じレベルで完全無関心というのを実際目の当たりにすると凄いよ。
悪意や憎悪、害意や敵意などがあったほうが楽だし、片方が無関心な相手に叶わぬ思いを懐いているのなら、それはもう幸せと表現していい状態。
これならまだレオポルト五世と閣下の関係の方が修復できそうだ……まあ関係を壊した存在であるわたしが言って良い台詞ではない気もしますが、とにかく憎しみは愛に転じることもあるという説が、本当に身にしみる。
もちろんわたしは、間を取り持とうなんて気はない。
わたしがなにもしないこと、それだけがわたしの唯一できるエリザヴェーダ皇女孝行なのだ。
自称大親友な閣下方も、”主は仰った。アントニウスとイヴァーノはもっとも近しき兄弟であると”な枢機卿閣下も、ベルナルドさんも室長も口を揃えて、
―― 妃殿下が仲良くして下さいと言ったら、すぐさま完璧な形で仲良くなるだろう。そこに皇女の意思は存在しない。アントンが「妃殿下の望む仲の良い親子」という形で支配するだけだ ――
そのように仰った。
そしてわたしは閣下にも伺ってみたのだが、
「腹立たしいが、それたちの言っていることは正しい」
閣下も否定なさらなかった。
◆◇◆◇◆◇◆
ドネウセス半島最後の訪問国バルニャー王国に到着したのは二日前のこと。
共産連邦の海軍を追い返してくれた人物として、閣下は観衆から大声援を受けていました。
追い返したのはブリタニアス海軍ですが、呼んでくれたのは閣下だということで。
「対共産連邦同盟に沿った行動を取ったまでのことだ」
”ありがとうございます”するバルニャー王国の大統領に閣下はそのように一言。ちなみに国力としては、バルニャー王国のほうが我が国よりも上です。
そんな感じの首脳会談を終えてから、閣下は他の有力者たちとご歓談。
わたしは暇……というわけではなく、バルニャー王国の施設を見学という公務を担当し、閣下とは別行動を取っていた。
本日の護衛はハインミュラーとディートリヒ大佐。
博物館で学芸員から説明を受け……通訳を介してそれを聞き、前もって閣下が用意してくださった質問を通訳に、というお仕事をし休憩を取るために貴賓室に入ったところ、ソファーと座面の間から”ちょこん”と顔を出している封筒が。
手紙の内容は……バルニャー語で読めなかったので、通訳に翻訳してもらったところ、閣下のお母上がわたしに会うために、バルニャー王国までやってきた。さらには閣下には内緒で会いたい ―― 通訳はそのように訳した。
内容を聞いたディートリヒ大佐は、わたしの耳元で、
「通訳も絡んでいる可能性が考えられる」
囁くとディートリヒ大佐の判断で”大統領夫人が体調不良”という理由で予定を切り上げ、馬車に乗り込んだ。
「わたしの体調不良とか、本国だったら絶対信じてもらえないと思うんだが」
「返答に困ります、リリエンタール伯妃殿下」
やめろーハインミュラー。わたしのことは少佐と呼べ! と言いたいが、本日のわたしは軍服ではなく、貴婦人っぽくジゴ袖なデイドレスを着ているので少佐とは呼んでもらえない……閣下と結婚したので貴婦人なんだけどさ。
まっすぐ滞在先のホテルに戻ると、ホテルに残っていた海外出張組に周囲の守りを固めるよう指示してから、通訳を連れてディートリヒ大佐は閣下の元へ。
室内にはわたしとハインミュラーの二人きりとなり、鞄から辞書を取り出し、もちゃもちゃしながら単語を引き、
「通訳は嘘をついてはいなかったみたいだな」
「そうですね」
手紙の内容に嘘がないことを何とか確認した。
「しかしこんな稚拙な罠、誰が乗るか」
”国王夫妻主催の晩餐会に出席し、開始から一時間経ったら中座して、一人で中庭に来てください”と書かれ、更に簡易の地図も描かれていた。
誰が言葉の通じない異国の宮殿を一人でうろつき回るというのだ。
これでもわたしは、要人警護の現役だ! ありとあらゆる賊の出方を熟知……とまではいわないが、それなりに覚えているから、してはいけないことは分かっている。
さらにわたしは大統領夫人という名の大統領警護だと自負している!
だから、側にいる閣下から離れるつもりはない!
「本当にリリエンタール閣下の母上ということはないのですか?」
ハインミュラーは、手紙を読み返し尋ねてきた。
「ない。閣下と皇女は、一生会うことはないだろう。それが二人にとって最良なのだ」
「そうですか」
「四十一年間、会おうと思えば何時でも会えたのにも関わらず、どちらも一度も会おうとしなかったくらいだからな」
この訳の分からない手紙ですが、もちろん閣下のお母さまからの手紙ではありませんでした。
晩餐会のさいに、その場所にいたのは王外孫 ―― 公爵令嬢の手のものでしたが、さくっと捕まりすぐに口を割りました。
公爵令嬢はわたしを呼び出し殺害し、閣下の後妻に収まりたかった……と証言しているとか。
閣下の後妻に収まりたいのは分かるけど、わたしを殺す必要はない……わたしを排除しても公爵令嬢が妻に選ばれるわけではないのに。
「どういう思考回路で、そういう考えに至ったんでしょう」
「命を狙われたのに、のんびりしているな少佐」
「もう命の危険はないので。捕り物お疲れさまでした、ディートリヒ大佐」
ディートリヒ大佐、余計な仕事を増やしてしまって。




