【175】隊長、鷲づかみにされる
―― ここに居るのが主席宰相閣下なら良かったのだろうが……
キース中将その台詞は、卑怯だと思います。
台詞そのものもですが、スタンドライトの明かりだけという薄暗い室内で、微かな笑みを浮かべてというのも。
唯でさえ儚い感じなのに……儚い詐欺はあくまでも詐欺を働いてくれないと困るのです。本当に儚い上官とか要りませんから! 詐欺ってください!
「そんなことはありませんよ。キース閣下が居て下さって良かったです」
実際は恥ずかしいので、いて欲しくなかったのですが……任務中に悪夢にうなされて、上官に気遣われるって最悪だ。
「そうか」
ここは何も言わずにまた寝たほうがいいような気もするのですが……なんか、このまま休むのも気が引けるといいますか。なにこの空気。
決して色っぽい空気とかそういうのじゃなくて……どう表現していいのか分からない、今まで感じたことのない空気。重いわけでもない。
「水をもう一杯いただいてもよろしいでしょうか?」
”水飲み場に行け”と言われたら、そのまま部屋を後にさせていただきますが ――
「ああ。テーブルに置け」
キース中将は水差しを手に取り、テーブルに置いたコップに注いでくれた。
基本的にキース中将って優しいんですよ。知っている、知ってるよー。キース中将が優しいのは知ってるよ。
水が注がれたグラスを持つ。
キース中将は水差しをテーブルに置いて腕を組み、大理石製のマントルピースに軽く寄りかかっている。
コップの水を半分ほど飲み ――
「では、失礼いたします」
横になりブランケットを顔まで上げて、もう一度寝ることにした。
寝て目を覚ましたら、いつも通りに戻るさ。なにが違うのか分からないけれど、うん、きっと元に戻る。
今は夢と現の狭間なんだ、きっと。
しばらくわたしを見下ろしていたキース中将は移動し、革張りの椅子に腰を降ろして、本を手に取りページを捲る。ゆったりとページを捲る音が聞こえてくる………………珍しく寝られない。
何処でもすぐに寝られるのが、わたしの良いところなのに!
ソファーだから寝返り打ったら落ちるだろうし、頻繁に寝返りするとキース中将にご迷惑だし。
「クローヴィス」
「はい」
「眠れないのか?」
「はい」
寝られそうにないので、起きて会議資料の読み込みでもー。
「また悪夢を見てしまうかもしれないからか?」
「そうかも知れません」
横になったまま会話というのも失礼だな。起き……
「横になったままでいい。いや、そのままでいろ」
分かりました。ではせめてブランケットを下げて、顔を出してお話します。
「言いたいことがあった」
なんだろう?
「不自由な生活を強いて悪いな。先日、主席宰相閣下とお前の、食事の席でのやり取りを見て思ったのだが……」
先日の食事の席でのやり取り?
……ああ、上官の前で婚約者である閣下ときゃっきゃしてました……ぐふっ……あの時は気付かなかったけど、上官の前で浮かれすぎてたなあ。
ま、まあ反省はするけれど、後悔はしていない。楽しかったからー。
「軽率な行動を取って済みませんでした」
「それはいい。むしろ、もっと自由で良かった」
キース中将が本を机に置いた音が聞こえた。
「婚約は整い、並の王侯では用意不可能な婚約指輪も受け取った。式の日時も決まったのだ、本来であれば周囲に公表し祝福され、花嫁は家族や知人らと楽しんで式の準備をする、もっとも幸福な時期だが、国の事情で公表は差し控えられているお前は、それが出来ない」
「ええ……まあ」
そこまで深刻に言われずとも……その……。
一応国の一大事ですし。不満はないのですが。
「忙しさにかまけて、あまり式の準備に携われていないのだろう」
情報提供元は何処ですかー! 上官の耳に入れるような内容じゃないですよー!
「はい。ですがそれは小官の能力の低さが原因ですので」
実際閣下は何ごともなく準備を主導していらっしゃる。わたしの百倍は仕事している閣下にできて、わたしにできないのは、全て能力差のせいですね。
「お前は若い、もっと浮かれて楽しんでいい」
「閣下がそう仰るのでしたら」
善処しますは違うよな。
「お前の初恋かどうかは知らんが、初めての恋人で、好きで結婚するんだろう? もう少し馬鹿みたいにはしゃいでいいんだぞ。それを諫め、フォローするのが俺の仕事だ」
”くすっ”って笑い声が聞こえてきた。
キース中将笑ってるー。笑われてるー。確かに初めての恋人で、好きで結婚しますが、他人に迷惑かけるのは嫌ですよ。
上官、それも軍トップに馬鹿を見せるのは無理ですって。
「俺はその頃、今のお前より少し若かったが、随分と浮かれて、ヴェルナーやキルピヴァーラたちに鬱陶しいと言われたもんだ」
「閣下にも、そんな頃があったのですね」
ウルスラさんと恋人同士だった頃の話なんだろうなあ。ウルスラさんとは、わたしが物心つくかつかないかの頃に亡くなられた、キース中将の恋人の名前です。普通に軍で生きてたら、知らぬ間にその名を覚えてしまうくらい有名な人です。
「ああ……偶に休んで会いに行っていいぞ」
「ありがとうございます」
閣下にはお会いしたいのですが、仕事もしっかりとしたいのです。
「ふ……お前、絶対休まないタイプだな。お前の真面目さには、笑いすらこみ上げてくる」
あ、バレた。ですよねー。すぐバレますよねえ。
なんたってわたしですから!
あと真面目って言いますけれど、普通だと思いますよ。
などと思っていたら、革と布が擦れる音 ―― キース中将は椅子から立ち上がり、こちらへ近づいてきた。
”休め!”って、頭鷲づかみにされるのかしらー。
雰囲気儚いけど、キース中将の腕力は普通の男性(基準・デニス)以上だから、結構痛いんですよねーキース中将の鷲づかみ。
お前そんなにキース中将に、頭を鷲づかみされてるの? と、聞かれたら、結構されていると答えるさ。
パワハラ? ああ、そんな言葉存じ上げませんね。
「今のお前の状況では、恋人のことを話す相手もいないだろう?」
キース中将がわたしの顔をのぞき込んできた。
「ええ、まあ」
婚約しているのを隠しているので、友人、知人には一切喋っておりません。
「両親にあの人のことを惚気るのは難しかろう」
両親は閣下のこと嫌いではないようなのですが、新聞で閣下の記事を読むにつけては「素晴らしい御方だな。この人が……」と漏らすような状態なので、無理ですね。それを抜きにしても、両親に惚気るのは……。
「お前の弟は信頼できて口も硬いだろうが、あの人のことになると、何をするか分からんしな」
デニスに閣下のことを語ったら、興奮のあまり線路と蒸気機関車に向かってダイナミック五体投地しそうですね。客観的に言うと飛び込み自殺でしょうけれど。
そんなことを考えていたら、のぞき込んでいるキース中将の、撫でつけているアッシュブロンドの髪がはらりと一房解けた。
「俺は事情を知っていて、側にいることが多い。こんな中年の野郎に語るのも嫌だろうが、どうしても言いたくなったら俺に言え。愚痴でも惚気でも聞く。ただし黙って聞くとは言わない」
「最後の黙って聞くとは言わない……とは?」
なんとなく分かるのですが ―― 微笑んだキース中将の儚いこと、儚いこと……ただしそれはすぐに見えなくなりました。顔! 顔に手が。顔鷲づかみにされたー。力は込められていないのでいいのですが。
「こんな風にすることもある」
「は、はあ」
なんで惚気話をして、キース中将に顔を鷲づかみにされるのでしょう? それは遠回しにするな? ということでは。
鷲づかみにしていた手が離れ ―― わたしは欠伸をかみ殺す。
「いつも通りになったな」
「?」
「その欠伸、眠気から来るものだろう」
咄嗟にきゅっと我慢したというのに、欠伸が出かけたことバレた。
「はい」
「まだ一時間半は休める。眠れ」
話をしているうちに、今まで感じたことのない雰囲気も払拭された。きっとわたしがもやもやしたものを抱えているのに気付き、お話してくれたのだろう。
「あの……ありがとうございます」
「俺はお前の睡眠時間を削って、常々言いたいと思っていたことを言っただけだ」
落ちた一房の髪をかき上げる。その仕草が色っぽいのは何故だ! エルヴィーラ、テレジア、お前たちが大好きなキース中将は、今日も無駄に格好良くて、脳筋なわたしですら切なくなるほどに儚いよ……儚さは詐欺だけど。
「あの方とのこと、偶に相談に乗っていただけると嬉しいです」
一番相談したら駄目な人って気もしますが、わざわざそう言ってくださったのだ! 顔面鷲づかみ覚悟で相談させてもらうさ!
「ああ。お前の目にあの人がどう映っているのかも知りたいしな」
小首を傾げて破顔一笑 ―― 破壊力が凄いです。眠気すら吹っ飛びそうなくらいですよ。無駄にその笑顔を振りまいちゃ駄目です、キース中将。
我ら親衛隊が苦労するから止めて下さい。




