【172】隊長、マスカットを配る
非常に名残惜しいのですが、閣下の元を去らなくてはならない時間に。
仕事嫌いじゃないし、上官は面倒ですが良い人で、部下たちの見舞いにも行きたいなと思っていたので……でも名残惜しいのは仕方ないのですよ。
「そんな可愛らしい顔をしないで欲しいな、大尉。連れ帰りたくなるではないか」
閣下がすっかりと薄くなった額の傷を撫でながら、そう仰る。
「それはわたしも同じです、閣下。閣下を抱き上げ連れ出し、一緒に馬を駆ってどこかへ行きたいです」
仕事を放棄するわけじゃないんですが、遊びに行きたいですよねー。という、正直な気持ちを告げたところ「ぼふむっふ」って変な声が聞こえた。
声の出所はきっとシュレーディンガー博士。
「相変わらず敵わぬわ」
「?」
”遠出”と”敵わない”がつながらないのですが……閣下とわたしの思考回路なんて、全く性能が違うのだから、つながらなくて当然か。
「大尉。最後になったが、先日レイモンドが捕らえたオディロンを”自分たちが護送する”と言い張り護送中に脱走を許し、四名の死者と二十八名の負傷者を出した異端審問官たちの愚行を許してくれ」
閣下が仰ると、スパーダさんの他、室内にいた給仕だと思っていた五名とロドリックさん、そしてシュレーディンガー博士が次々に膝を折った。
えっとこれは……皆さん異端審問官ということでよろしいのでしょうか? もしかしなくてもわたし、異端審問官の目の前で枢機卿である閣下のお口に葡萄押し込んでたの?
「シュレーディンガーは検邪聖省が抱えるアドバイザーの一人だ。オディロン拘束に際し麻酔を打つためにあの場にいたのだ。これに関してはシュレーディンガーには罪はないが、跪きたいようなので、黙って跪かせてやってくれ」
「はい」
わたしはオディロンを殴って蹴って、ぱしゅぱしゅと銃を撃っただけでして、謝罪など受ける立場ではないのですが。もう立って下さい。
「見苦しい、下がれ」
閣下がわたしの心を読んで下さったようですが、見苦しいなどとは思っておりませんよ。
異端審問官の皆さんが去ったあと、閣下からも謝罪を受けることに。
「負傷させてしまって悪かった」
「いいえ。わたしがもっと強ければ、こんな痣など付けずに済んだのです。これはわたしの実力不足によるもの。これから更に努力をし、またオディロンと相まみえる時があれば無傷とは言えませんが、今回よりずっと負傷を少なくして勝ちます」
進んでもう一度、などとは全く思いませんが、もしもということがあるので、金的蹴りの精度と速度をさらにアップさせるべく鍛えておこう。
「本当にあまり無理せぬようにな。わたしは大尉が危険な目に遭わぬよう、できる限り注意を払うが、大尉はわたしの手を華麗にすり抜けてゆくからな」
でもこの痣の大部分って、オルフハード少佐を抱きとめた時の……あ!
「閣下。オルフハード少佐の容態は」
は、薄情とか言うなー! 色々と忙しくって一杯一杯だったんだよ!
閣下のお口にシャインマスカットを押し込むという所行をしておりましたが。
「ああ。大尉のおかげで、大した怪我はしていないので心配ない。体調が整い次第、大尉に会いに行くよう命じておく」
ご無事で良かったです。
オルフハード少佐に頼んだ閣下へのプレゼント、どうなったかな? 忙しくて無理だったかもしれないよな。あと良い品がなかったりということも考えられる。
その場合はどうしようかなー。
部屋を出る前に閣下がキスして下さいました。上官が側にいたので照れてしまったのですが『その程度のキスで、なに照れてるんだ』と言われる始末。
いやでも恥ずかしいのですよ!
こうして名残惜しいなあ、最近伸びてきた後ろ髪が引かれるなあ……などと思うも、何時までもそう言ってはいられない。
閣下にお会いして緩んでしまった顔を叩いて気合いを入れて軍病院へ。わたしの手にはシャインマスカットの入った袋がぶら下がっている。
護衛としては格好悪いが、許していただきたい。いや、キース中将が許してくれたから大丈夫。
一連の事件で負傷した軍人たちは、一部屋六人の大部屋に四~五人ずつに分けられて入院中。
二十七名の中で重傷者はハインミュラー(右足骨折)ボイスOFF(右手骨折)リンデン(肋骨三本)の三名。
ボイスOFFを重傷にしたのはわたしだけどね!
リンデン含む照明担当者たちはガラス片による切り傷が多く、親衛隊隊員はほとんど打撲。
ハインミュラーとリンデン以外は明日には退院できるとのこと ―― なのでキース中将は本日見舞うことにしたのだ。
キース中将、こういう所、非常にまめなんですよね。
「主席宰相閣下からクローヴィスへの労いの品のお裾分けだ」
そしてわざわざシャインマスカット入手経路の説明まで。
そこは必要ないと思うんですが。
部屋に一房ずつおき、次の部屋へと移動すると、先ほどまで居た部屋から凄い音が ―― 病院って出入り口にドアないから、音がよく聞こえてくるのだ。
何ごとか? と思ったが、キース中将の側を離れるわけにはいかないので、素知らぬふりをして護衛として付き従い、全室の慰問を終え最初の部屋を見たら、シャインマスカットの果梗がべきべきに折れていた。果梗ばらばら事件ですよ。
もちろんシャインマスカットは一欠片も残ってはおりませんでした。
「食いそびれたのか」
「ああ」
唯一自由に動けないハインミュラーなど、一粒も食べることが出来なかった模様です。お前等もう少し、気を使ってやれよ……まあ、わたしもこいつとは色々あるので、敢えて言ったりはしないが。
「明日の午前中、一房持ってきてやるよ」
ですがこいつのおかげで勝てたので、一房融通するくらいの気持ちはあります。
病院を出てから、司令部に戻り、隊を副隊長に任せ書類作成に精を出す ―― わたしの優秀な副官と、腹立たしいが有能なユルハイネンが入院中なので、その穴を埋めるべく、わたしがしなくてはならないのだ。
また司令本部警備体制の見直しに関しての会議に出席しなくてはならなかったり。
こう見えても忙しいのですよ! それなりにね!
書類整理を終え、引き継ぎを行い、明日の夜勤許可を貰って帰宅すると、家には閣下より届けられたシャインマスカットがいっぱい!
それも「ごそっ!」と盛られているのではなく、一つ一つしっかりとした作りの黒い箱入りで、全てに黄金のリボンが掛けられている ―― それが三十箱。
閣下は「家族分届ける」と言ってくださったわけだが、閣下の中では一人一房ではなかったようだ……うん、そうだね、わたしを想定した場合、一人一房なんてことにはならないよね! ですが閣下、家族の胃袋は普通です。わたしだけが現役フードファイター(優勝候補)なんです。
わたし宛の贈り物ということで、誰も手を付けていなかったのだが、箱から漏れ出す良い香りに、カリナのテンションは高まるばかり。
でも夕食前に一房食べると、ご飯食べられなくなるよ。わたしは余裕だけどさ。
というわけで母さんと話し合い ―― 夕食前に三分の一、夕食後には残り三分の二を食べて良いということに。
「カリナ、あーん」
「もう、姉ちゃんったら! カリナ子供じゃないんだから。でも姉ちゃんだから、特別に食べてあげる」
カリナの優しさに甘えて口に一粒。すっごく美味しそうに食べる。実際すごく美味しいわけですが。
もちろんこんなにたくさん貰ったので、メイドの二人にも「さあ、持って行け!」とばかりに箱ごと渡すと、それはそれは喜ばれた。
シャインマスカット美味しいもんねーと言ったら二人とも「食べたことないんですよ」と……あ、そうだね、我が家もシャインマスカットなんて買わないもんね。
食べるとしたら専ら外。おめでたいことがあった時のレストランとか、ブルーノの家のホームパーティーなら並ぶかな? ってクラス。
「もう一箱、どうだ?」
「ありがたいけれど、結構でございますイヴお嬢さま」
「一箱で充分です。マカロンまで分けていただきましたし、これ以上もらったら、来月の給金いただけませんわ」
マカロンも三十個セットだった。きっと閣下はわたしを想定して……。
「クライブ」
クライブにも渡そうとしたのだが断られた。
「いただけません」
「クライブが食べてくれないと、わたしたちが美味しく食べられないんだ」
一人だけ食べさせないとか、なんか嫌じゃないか。
それも山ほどあるんだよ? 分けて当然だろう。
「美味しく食べられない……ですか」
「ああ。だから食べてくれるな?」
「でも……」
食べものを貰っちゃ駄目とか言われてるんだろうなあ。そうだとしたら困るから、明日にでもキース中将に少しばかり相談に乗ってもらおう。
一緒に住んでいるのに、同じもの食えないとか嫌だからね!
召使いと主、的な差はあるが食おう!
「なにも問題はない。なにより貰わないと、カリナやデニスに怪しまれるぞ。任務遂行の為に仕方なく貰って食べた、でいいんだよ。あ、もしかして苦手だったか? それなら無理強いはしない」
「いいえ、苦手ではありません。では、ありがたくいただきます、イヴさま」
「お嬢さま」を抜くという希望も聞いてくれてありがとう、クライブ。さすがに二十四歳にもなって、十六歳の男子に「イヴお嬢さま」と呼ばれるのは辛い。




