【157】隊長、額の傷を考える
フォルズベーグの混乱ぶりは酷いものらしく ―― 争いやら飢えを嫌った市民の一部が、ついに共産連邦へと逃げ込むようになったそうだ。
我が国とアディフィンが国境を封じているから、陸路で逃げるとしたら共産連邦に入るしかないのは分かるけどさ。
国境を封じているわたしたちが言うのもなんだけど共産連邦でいいの?
ウィレムが行方不明になっていた頃に、動き回っていたセシル王女。
王女はあの後、ノーセロート帝国で保護されているのだが、王女が新生ルース皇帝アレクセイとの婚姻を拒んだことに、フォルズベーグ国内から非難が殺到しているのだそうだ。
「完全に情報が錯綜した結果だと思いますが、このように考えるのは仕方ないことでしょう」
ボイスOFFと共に資料に目を通すと ――
「宰相なあ」
「アレクセイは成人しているので、摂政は不適切でしょう。やっていることが子供っぽいとしても」
アレクセイと王女が結婚していたら、皇帝の従兄弟を招聘しフォルズベーグの宰相を務めてもらうことができたのに、何故拒んだのだ ―― この従兄弟とはもちろん閣下のこと。
アレクセイが皇帝で閣下が宰相とか、傀儡政権にしか見えないと思うのだが……。
資料によると王女は閣下の提案を拒絶するばかりか、部下を差し向け、その部下は往来で閣下に刃物を……これ、アディフィンの首都で起こった出来事ですよね。
資料に書かれている閣下のお付きが銃により退けるって、これわたしですよねー。
でも確かに、王女の部下の男が大声で「王女とアレクセイを結婚させるとは、どういうことだ!」ってことを叫んでいたなあ。
「頭を下げるべき相手に剣先を向けるという行動に、多くのものが憤りを感じているようです。これでは王女とアレクセイが結婚したとしても、閣下をフォルズベーグに招聘することもできないとも」
「あ……」
「リリエンタール閣下がフォルズベーグの宰相を務めるなど、あり得ないことなのですが、このような噂が広がり、この噂が広がれば広がるほど、王女に対する怒りや失望が大きくなっているようです。その失望は王家にも及んでるとのこと」
フォルズベーグの皆さん。閣下がそちらに行く予定は、一切ありませんから。王女の部下の男騎士の態度はどうかと思いますが。
「リリエンタール閣下はアディフィン国王の義弟。その相手に対し、アディフィン王国の首都でこの愚行。小官が説明することではありませんが、閣下は各国の王族と血がつながっている御方。その御方に対してのこの行為、かなりの反発が生じたようです」
「そうだよなあ」
懐刀大佐救出の際、王宮で閣下とアディフィン国王コンラート二世とのやり取り、言葉は分からなかったけど、閣下のほうが偉そうな感じがしたなあ。
そのことをボイスOFFに言ってみたら、
「隊長の気のせいではないでしょう。コンラート二世がアディフィン国王でいられるのは、リリエンタール閣下が認めているからなのは、周知の事実ですので」
「……」
コンラート二世って閣下の異母兄じゃないよね! 王妃が異母姉なだけで。それなのに、何故閣下の影響力がそんなにもあるの?
「フォルズベーグのセシル王女はノーセロートにて保護されておりますが、ノーセロート国内でも、リリエンタール閣下に無礼を働いた王女をどのように扱うか? 問題になっているようです」
直接無礼を働いたのはセシル王女の部下ですが、その責任は部下だけにとどまるはずもない。主君にも責任問題が及ぶのは、当然のことだろう。
「小官は事情を知っているので、要らぬ心配だと言い切れますが、世間では次期アブスブルゴル皇帝の最有力候補はリリエンタール閣下。下手にセシル王女に肩入れをして、次期アブスブルゴル皇帝に睨まれるのは国益にならないので、放逐すべきだという意見もかなり出ているそうです」
ノーセロート帝国のシャドーボクシングが過ぎて、可哀想になってくる。
閣下はアブスブルゴル皇帝にはならない……というか、その権利なくなってしまいますよーわたしのせいで。
「セシル王女ももう少し考えて行動してくれたら、良かったのだろうが」
具体的な例を挙げることは、わたしにはできないけれどね!
キース中将に一目惚れした王女さまに、アレクセイと結婚しろというのも酷なのだろうが……ま、まあアレクセイにも好みってものがあるだろうし、キース中将は「なに言ってるんだ、この小娘」で終わるだろうが。
「それは勿論ですが、元々フォルズベーグ王国はリリエンタール閣下暗殺未遂事件を起こした時点で、各国からかなり批難を受けておりましたから。セシル王女がどれほど注意して行動したとしても、揚げ足を取られたものと思われます」
ボイスOFFの言葉に、伸びた髪で隠れ、随分と傷跡も薄くなった額の傷が、ちくりと痛んだ。
もちろん外的な痛みでなく、精神的なものだ。
わたしはあの事件の黒幕については知らない。当時のわたしは聞けるような立場ではなかったので。閣下と婚約している今は……どうなんだろう。
「あの事件についてスタルッカ軍曹はなにか知っているか?」
事件が起きた当時ボイスOFFは、貴族で海軍将校だったのだから、わたしよりは情報を得やすい立場にいた。
だから何か知っているのではと思ったのだが、
「リリエンタール閣下の暗殺未遂事件に関しては、なにも知りません」
「そうか」
「社交界でもかなり話題になりましたが、当事者であるリリエンタール閣下、現場にいたヒースコート閣下もなにも話されず、そのうち女王の事件などが起こり、誰もなにも分からぬまま、社交界の噂からは消えて行きました」
なるほどなー。
「あれは非常に謎の多い事件です」
「そうなのか?」
「リリエンタール閣下暗殺を目論む人間がいるとは、到底思えないのです」
「え?」
言ってはなんだが、閣下は我が国の国王と違い、列強の王の血を引いているから、なにもしていなくても恨まれちゃったりするんじゃないの?
「ごく一般的なロスカネフ貴族の認識でよろしければ、話させていただきますが」
「他国の王族の視点などはない……ということか」
「はい。ただ、海軍にいた頃、交流があったブリタニアス貴族士官から聞いた話もすこしは混ざりますが」
「是非とも教えてくれ」
閣下のことを貴族から聞くってこと、ほとんどなかったから新鮮だなあ。室長? ああ、室長は室長だから。貴族枠じゃなくて、室長枠ってやつ。
「リリエンタール閣下という方は、絶大な権力を所持しておりますが、おおよそ暗殺とは無縁の御方……というのが貴族の認識です。暗殺とは無縁の理由は、リリエンタール閣下が亡くなられると、大陸のパワーバランスが崩れ世界大戦が起こりかねないからです」
ボイスOFFから聞いちゃいけない単語を、思いっきりきかされた。世界大戦って……おい!
「……そう言えば、あちらこちらの次期国王として呼び声高いものな」
「一例を取りますと、リリエンタール閣下の財産。その額がどれほどのものかは、隊長はご存じでしょうが、知らぬ我々でも莫大な額であることは存じております」
知らないよー。わざわざ言わないけど、わたしは知らないよ。閣下の財産なんて知りません。
「リリエンタール閣下の財産相続人は現在、ブリタニアスのグロリア女王になっているのは、ご存じ……ではないようですね」
知るわけないだろ! ボイスOFF。閣下の個人財産なんて、わたしになんの関係もないんだから!
「またブリタニアスのグロリア女王の財産の相続人は、リリエンタール閣下となっています」
「そうなのか……もしかして、グロリア女王の財産を継げるのは閣下だけだが、グロリア女王亡き後、閣下の財産を継げるのは各国の王家ということに?」
「そうです。相続の関係上、リリエンタール閣下がグロリア女王よりも先に亡くなられると、各国の王家が困るのです。その中でも最も困るのが、財を継いでしまうブリタニアス王家かと」
ブリタニアス王家には王位継承法というものがある。
庶民のわたしに、他国の王位継承法など関係ないこと……だったのだが、閣下と結婚するとなると、そうも言ってはいられないし、ブリタニアスに赴任することになっていたので、それらについて少しは勉強した。
王位継承法で重要なのが王族は「神聖帝国リーフェンシュタール選帝侯妃マルゴットの血を引くもの」でなくてはならないという項目。
もちろん正嫡の子でなくてはならず、庶子に権利はない。
もう一つ重要なのが「神聖帝国フォルクヴァルツ選帝侯カールの血を引くものに権利はない」というもの。特に後者、選帝侯カールの血を引くものは決して認められず、選帝侯妃マルゴットの血と、選帝侯カールの血の両方を引いていた場合、後者のほうが重要視され、継承権は与えられない。
ちなみに選帝侯カールの血筋が嫌われる理由だが、彼がブリタニアスの王ジョン三世を残虐に殺害したのが最大の理由。この辺りは全く関係ない我が国の歴史の教科書にも載っているくらい有名なお話だ。
閣下の祖父、神聖皇帝リヒャルト六世は、産まれた当時はブリタニアス王家のリチャード王子で、後に請われて跡取りがいなかった神聖帝国の皇帝の座についたのだが、ブリタニアス王家産まれということから分かるように選帝侯妃マルゴットの血を引いており、選帝侯カールの血は引いていなかった。
このリヒャルト六世が迎えた皇后も選帝侯カールの血は引いていなかったのだが、閣下の父にあたるバイエラント大公ゲオルグの最初の妻は選帝侯カールの血を引いており ―― 閣下の異母兄姉は全員ブリタニアス王家を継ぐ権利がない。
「話は逸れますが、ブリタニアス側はリリエンタール閣下の結婚を手放しで喜ぶことでしょう。カールの血を持たない妃、これが絶対条件であり、この条件を満たしていれば、あとはどうとでもなりますから」
わたしは室長が遡って調べても、どこにも貴族の血が混じっていないという、庶民の中の庶民。他国の王族の血なんて、一切入っておりませんので……って、なんでブリタニアスが喜ぶの? もしかしてブリタニアス、わたしと閣下の子供に跡を継がせようとしている……の?




