【121】隊長、任務遂行と無事を願う
「到着いたしました」
到着したのは分かっております馭者さん。
馬車が停車したのは分かっておりますとも……顔をぱしぱしと叩き軍帽を目深に被り、深呼吸してドアを開けて外へ。
季節は七月だが、夜はかなり涼しいのが北に位置する我が国だ。おかげで少し頭が冷える。
「馬車でお送りいたしましょうか」
馭者さんは閣下の邸を訪れた際、いつも門から裏口まで運んでくれた馭者だった。
閣下は先ほどこの人のことを”ヒュー”と呼んでいましたね。ヒューさんなんですね
「大丈夫です。馬で充分です」
いやまあ……馬だろうが馬車だろうが、人が付いてくることに代わりはないのだが、今は馬に乗って頭を冷やしたいです。
「そうですか。ご入り用の際は何時でもお呼びください」
「閣下の馭者を呼び出すなど」
閣下の馭者を呼び出すくらいなら、タクシー馬車で移動しますので大丈夫ですよ。今だってタクシー馬車を拾えば、馬を連れ帰ってもらうための同行者なしで……いや、過去に買収されたタクシー馬車に乗ってレオニードのところに行ったことがあるから、気軽に乗っちゃ駄目なんだな。あと単身移動はできるだけ控えるよう言われてたな。
盛大にやらかし失敗しましたもんねー。
「ここには軍の馭者が大勢いますので、暇なんですよ。ですから、お気になさらずに、呼びつけてくださいませ妃殿下」
うぉぉ……馭者さんご存じなんですか。でも妃殿下は止めて欲しいなあ。いや、妃殿下らしいのですが。
「ではその時には」
何事かがあった場合キース中将の運転手を一人確保できたとも言える。うん、わたしが閣下の馭者を呼び出して乗ったら目立つが、キース中将ならおかしくはない。
「妃殿下」
妃殿下は止めてー! 人気のない厩舎側で妃殿下呼ばわりされるのは。人気があったらもっと困るけどさ。
「なんでしょう?」
「わたくしめは妃殿下に自己紹介をしても良いと、閣下からお許しをいただいております」
「そうなのですか」
わたしに自己紹介するのに、閣下の許可が必要なのですか?
上流階級の召使いと主人って、なんか大変ですね。
「妃殿下にご面倒をおかけいたしますが、わたくしめに名を尋ねてくださいませ」
…………ん? ああ! そうか! 貴族は身分の高いほうが尋ねない限り、身分の低い方は名乗っちゃいけないんだった。
士官学校のマナーの授業で習ってました。
もちろんすっかり忘れるほどわたしも馬鹿ではない。だが、自分の身分が高いということは理解できません。
「まだわたしの身分は平民ですので、そのようなことは気にする必要はありません」
閣下と正式に結婚しているわけじゃないから、庶民のままですよ。そんなくどくどしく考えなくても。
「ベルナルドさまからお聞きいたしましたが、妃殿下はすでに大公妃にして公王妃であらせられると」
執事さん、なにを仰って! とも思うが、大公妃はおそらくバイエラントで、公王妃はグリュンヴァルターを指すのだろう。この二つは閣下の直轄領だろうから……よく分からん!
「分かりました。あなたの名前をお聞かせください」
分からんが分かったということにして馭者さんの名前を聞こう!
閣下が許可したということは、名前を聞けということだろうからね!
馭者さんは両膝をつき、胸の前で手を交差させ頭を下げた。
「ヒューバート・ハクスリーと申します。本来でしたら妃殿下に賛辞を捧げるべきですが、それは我が主にして妃殿下の夫たる閣下が禁じておりますのでご容赦ください」
最上級の挨拶をされてしまった。そして賛辞を禁止して下さってありがとうございます閣下! わたしそういうの聞くと、どうしていいか分からなくなるので。
「初めまして、ハクスリー殿。イヴ・クローヴィスと申します」
「気軽にヒューとお呼び下さい、妃殿下」
それならわたしのことも妃殿下ではなく、気軽にクローヴィスと呼んで欲しいのですが、この状況から推察するに無理ですよね。
思っていたら、足音が近づいてきた。
これは、聞き覚えのある足音。
「立ってください、ヒュー。お久しぶりです……えっと、えっと……中佐!」
足音のほうに視線を向けて、ガス灯の明かりで軍服の階級を確認して閣下の懐刀の偽名を呼ぼうとしたのだが、階級章が中佐なので名前が分からない! うーん、オルフハード少佐が出世したのかな?
「久しぶりだな、大尉」
「本当にお久しぶりです、中佐!」
何中佐なんだろう? まあいいや!
「体の方はもうよろしいのですか?」
暗闇とガス灯の明かりの下で見る懐刀中佐は、以前と変わっていないようだが……暗がりとガス灯の下でわたしの目線だからなあ。かなり無理していても、分からない可能性も。
「ああ。大丈夫だ」
「それは良かった」
仕事に復帰するには閣下の許可が必要だろうし、閣下が許可したということは自己申告通り平気なのだろう。
「馬の用意はできた。送ろう」
「中佐が?」
「そうだ……どうした大尉?」
閣下。いつもいつも、懐刀を同行させて下さりありがとうございます。でも、でも、ですが……。
「わたしのお守りばかりさせて済みません。閣下のお側でもっと重要なお仕事なさりたいでしょうに」
わたしが閣下の狗に引っかかったばかりに、懐刀中佐が付き添わなくてはならなくなってしまって。
「いや、気にするな。というか大尉の認識が間違っているぞ」
「なにがでしょうか?」
「閣下の最優先は大尉だ。はっきり言えば、現時点で大尉が妃殿下であることを知らされている者たちは、大尉の護衛を任されたいと切望している」
「……はぁ?」
「とりあえず馬に乗りながら話す」
「分かりました。それでは失礼します、ヒューさん」
栗毛の馬に飛び乗り、馭者さんに挨拶をして、黒い馬に乗った懐刀中佐と共に速歩で馬を並べ外灯のある大通りを進む。
「中佐、先ほどの話の続きを」
「ああ、それか。言葉通りだ。閣下はよほど信頼している部下じゃない限り、大尉の護衛には付けない。そう言う意味では、俺は一番信頼されてるって訳だ」
「それは……そう……なのですか。ですが、わたしの護衛ではつまらないのでは?」
閣下がもっとも信頼している部下を付けて下さることは嬉しいが、その部下がわたしの護衛というあまり面白みのない仕事ばかり与えられていては、退屈なのではないでしょうか? ということでして。
「大尉の護衛はつまらなくはないな。むしろ身が持たなくてマズイと思ったことは何度かあるが」
「済みません、人よりちょっと丈夫なもので」
「ちょっと……うん、そうだな。とにかく大尉の護衛は、立候補者の多い競争倍率が激しい人気の任務だ。だから気にする必要はない。俺は好きで大尉護衛の任を勝ち取っているんだ」
競争倍率激しいと仰いますが、わたしは懐刀中佐以外の方には護衛されたことなかった筈です。毎回懐刀中佐がその任を勝ち取っているというのでしょうか?
「大尉が気にすることじゃないってことだ。もっとも今日の護衛は、閣下が特別に俺に与えてくれたものだがな」
「なにか理由があるのですか?」
「任務でしばらくここを離れる。その前に、心配していた大尉に顔を見せて安心させてくるように……とのご命令だ」
懐刀中佐任務で国外に向かわれるのですか。
ああ、たしかにその前に無事な姿を拝見することができて良かった。あれ? この時期に国外で任務。それも閣下の懐刀がするような任務って、もしかしてノーセロート帝国対新生ルース帝国の戦いを長引かせるための工作員として、フォルズベーグ入りするのかな?
「大尉の推察通りだ。さすが士官学校卒の軍事の専門家、こういうことはすぐに気付くな」
「からかわないで下さい……危険な任務ですので、お気を付け下さい中佐」
混乱が続くフォルズベーグに潜入して、ノーセロート軍に横からちょっかいかけるのかあ。危険だよなあ。顔見知りにはあまり行って欲しくない任務。でも自分が行けと言われたら、割合喜んで行く任務だ。
大変なのは分かっているが、ノーセロートと新生ルースの戦いを長引かせることが、我が国と共産連邦の戦いにおいて重要だと知っているので、任じられたら「命に替えても!」と意気揚々と赴ける。
他人が引き受けたと聞けば心配するが、軍人ならやりたい任務……すげー複雑な気持ちだ。
「ああ、ありがとう。ま、侵略され支配者が変わっていようが、店は開いているだろうから、なにか土産でも買ってきてやるよ。なにか欲しいものでもあるか、大尉」
「商人は逞しいですもんね……では中佐のお言葉に甘えて、閣下にカフリンクスをプレゼントしたいので、宝石付きのやつ買ってきてくれませんか? 国内だと買った瞬間に閣下にバレてしまいそうなので」
閣下の誕生日に向けて贈り物を用意しないと。
去年は何一つ用意できていなかったので、今年は半年くらい前から……いや残り五ヶ月しかないけど。戦争直前で会えるかどうか分からないけど。だからこそ、今のうちに用意をしなければ。
「……ぶっ! でもまあ、大尉の言いたいことは分かる。希望の宝石はなんだ?」
「閣下の誕生石ターコイズがいいです。料金は立て替えておいてください。わたしの懐事情をご存じの中佐ですから、妥当な金額の商品を見繕って下さると信じております」
わたしの預金額もご存じでしょうから。
「分かった」
「そうだ、中佐。旅のお守りとして、わたしが閣下からいただいた旅の守護聖人が刻まれたメダイを貸します。大事なものですから、ちゃんと返してくださいね」
自宅に戻り待ってもらい、部屋からメダイを持ち出して渡し、中佐を見送ろうとしたのだが、
「大尉が自宅に戻ったのを確認しないと、俺はここを発てないんだが」
ですよねー。困り顔の中佐にお休みの挨拶をして、わたしは家へと戻った。玄関ドアを閉めてもまだ馬が走り出す気配はない。
しばらく様子を見てから戻るのだろう……わたしもそうするからね! 気にせずシャワーを浴びて寝る準備をしよう。




