第七話「秘密」
『問二、性善説と性悪説について、あなたの考えを五百字以内で述べなさい。(二百点)』
……………………。
性善と性悪、ねえ。
人間の根本は善か、悪か? 悪意はどこからやってくるものなのか?
両方とも何百年も前に提唱され煮詰められてきた説らしいが、倫理の先生に言わせると、この問題はとかく難しいのだそうだ。いまだに答えは出でていない、あるいは存在しないのかもしれない。現在の教育システム上では性善説が前提にされているが、それはその方が収まりがいいというだけで、それが真実というわけではない。周りの人間が陰口を叩いている様を見る分には、むしろ性悪説を思想の根本に置いている人間の方が多いような気がしてならないもんだ。
しかし僕には、そもそもこの問い自体がナンセンスだと思えてならない。
善とか悪とか、そんなのは人間が作ったただの枠組み。ただのシステムの一つ。人間の行動原理をすべて記述するのは無理なんじゃないだろうか。
シャルロットを見てれば分かる。
彼女の出生が一体どんなものなのか、僕には知る由もないが――――しかし、彼女が人間と意思疎通を図る能力を持っているのは事実だ。僕のことを友達呼ばわりし、僕に付きまとってくる。僕に護身用のアイテムをくれたりもしたのだ。
だが、彼女は人間を食う。
人の息の根を止める。
人殺し――――それは人間社会ではまごうことなく『悪』に分類される行為だが、彼女は許可なく悪意なくそれをやってのける。ただただ空腹を満たすためだけにその行いを続ける。自分の生命維持のためにそれをやってのける。
そこには善も悪もない。
善意も悪意もない。
あるのはただの――――食欲。
そうだ。理性なんてものをもっていようが、社会なんてものの中で生きていようが、人間だって動物の一種に過ぎない。結局、己の欲望に従って生きているだけだ。モラルだってマナーだって、自尊心やら社会的尊厳やらなんやら、それを守ることによって得られるものがあるから守るだけなんだ。倫理学なんてそんな高尚な問題ではなく、すべての行動は単純に損得で測れるようなものなんだ。
無意味な人殺しは許さない――――それを許せば、一つでも例外を作れば、社会は殺伐とし、安全な環境が作れなくなる。自分の身が危なくなる。自身の生命維持に支障が出る。だから許さない。
我が子を殺そうとする殺人犯を逆に殺すことはいとわない――――何もしなければ自分の最愛の血縁者が殺されてしまうのだ。その時に生まれる心的ストレスに比べれば、他者の命を奪う行為など逡巡することもない。願望にのっとり、この動作は遂行される。
欲望と願望に照らし合わせれば、人間の行動原理なんてスムーズに答えが出るんじゃないだろうか?
善も悪も、まったくもって無意味な概念なんじゃないだろうか?
……………………。
なんてことを書いたら、入試落とされるかな?
むしろ採点者に気に入られて――――なんてのは、期待薄か。
入試で失敗したら息苦しい浪人生活が待ってる。そんな危険を冒してまで試す勇気はないがね。そもそも、ただの入試課題の一問にここまで自分の善悪観念をぶつける気もないし。
僕は、パタンと机の上の参考書を閉じた。
そして椅子の背もたれに体重をかけ、うーんと伸びをする。
壁時計を見ると、とうに十二時を過ぎていた。すでに真夜中と言われる時間だ。両親も妹もとっくに眠ってるだろう。僕は九時に風呂から上がってそれからずっと机に向かってたから、かれこれ三時間勉強してたことになる。いい加減疲れたが、こんな生活もあと三ヶ月ちょっとだ。未来を少しでもマシなものにするために、これくらいは我慢しよう。
僕は体勢を戻しながら、机の上の皿――その上には水洗いしただけのキュウリが三本載っている――に手を伸ばした。二時間前に母さんが持ってきてくれた今日の夜食だ。僕は一本手に取ると、皿の端に盛られている味噌を絡めて、そのまま口に運ぶ。なんとも味気ないメニューだが、朝の胃の調子のことを考えれば、これくらいさっぱりしたものの方がいいのかもしれない。
シャクシャクと歯ごたえを楽しみながら、僕が再度問題集に意識を戻そうとすると、
――ガラガラッ
「おっす、羽樹。来たぜー」
ベランダから侵入してきた迷惑な声。
今まで折角集中できてたのに、これでぶち壊しだ。今日の勉強はこれで終わりだろう。
僕はキュウリをくわえたまま首を回し、
「まったく、お前は何でこんな時間に――」
「うぎゃぁあああああああああああああああああ!」
シャルロットが奇声を上げた。
僕は慌てて立ち上がり、シャルロットに近づきながら、
「お、おい! いきなり叫ぶな! というか、一体どうした――」
「う、うわ! ばか! や、やめろ! 近づくな! それ以上近づくな!」
「な、何だ? 近づくなって、何が――」
「頼む! この……このとおりだから! お願いするから! だから〈それ〉をアタシに近づけるな!」
…………〈それ〉?
僕はきょとんとし、次いでシャルロットの視線の先を追った。
シャルロットは僕の顔の下の部分――――僕の口を見ているようである。そして僕が今口にくわえているのは、みずみずしいキュウリで――
「――シャルロット、お前まさかキュウリが――」
――ドンッドンッ
いきなり、僕の部屋のドアが叩かれた。
『ちょっと、お兄ちゃん! うるさいよ! どうしたの?』
「あ、ごめん」
僕はドア越しの妹の声に答える。
「テレビの音量、間違って上げちゃったんだ。悪い、悪い」
『……もうっ。気をつけてよね! こっちは寝てるんだから』
叱責の声の後、パタンパタンとスリッパの音がドアから離れていった。そして、隣室の扉が開閉する音が聞こえてくる。
……危ない、危ない。
というか、兄は来年の我が家の家計のために頑張ってるってのに、それはともすればあいつのためでもあるのに、それをまったくおもんぱかってくれていない。可愛げがないもんだ。まあ、今に始まったことじゃないけど。期待もしてなかったし。
――もとい、
僕はキュウリを口から外し、再度シャルロットの方を見た。
シャルロットは床にへたりこみ目に涙を浮かべつつも、緑の物体が自分から離れたことに幾分安心したようにようやく落ち着きを取り戻したようである。
「……お前、キュウリが嫌いなのか?」
「嫌いなんてもんじゃねえ」
シャルロットは顔をしかめつつ、すくっと立ち上がった。
「見るだけで嫌だ。力が抜けちまう。半径三メートル以内には絶対に入れない」
「そんなに? ……ってか、何でそんなに嫌いなんだ? こんなただの野菜が」
「『嫌い』に理由なんてあるかよ。強いて言うなら、生来、生理的に嫌いなんだ」
「なるほど。吸血鬼のにんにくみたいなもんか?」
僕は手に持った食べかけのキュウリを皿に戻し、さらにその皿をシャルロットから遠ざけるように机の端に動かしながら、
「しかし、意外だな。こんなもんがお前の弱点だったなんて」
「……他人に言うなよ?」
乱れた紅の髪を整えながら、シャルロットがキッと僕を睨みつけてくる。
「アタシはキュウリが近づくだけで魔力の制御が不安定になっちまう。これは、アタシに関する重大なシークレットだ。ぜっっったいに、誰にも言うなよ? 言ったら絶交だからな」
「……わ、分かったよ。分かってるよ」
僕は、『シャルロットとの絶交』がどんなものなのかを具体的に想像しながら、こくりと頷いた。