第三話「十字架」
水曜日の夜。僕は塾からの帰路を歩んでいた。
時刻は七時。
夏も終わった九月中旬ということで、段々日も短くなってきている。一ヶ月前まではこの時間でもまだかろうじて明るかっただろうが、今では完全に夕闇。夜と呼んでも過言でないくらいに辺りは暗く、風も涼しい。
そんな夜道を、僕は制服姿のまま(高校から塾へ直行したのである)、一人とぼとぼと歩いていた。
雲がかった月を見上げながら、そう言えば〈あいつ〉に出会ったのも塾帰りだった――と思っていると、ふと、どこからともなくグチャグチャという、聞き覚えのある――しかし、耳馴染みはしない――音が聞こえてきた。
しばらくその場で立ち尽くしていると、ふいに、脇の路地裏から現れた人影。
黒いジャケットを盛大に赤く汚した、紅の髪の女性。生臭い匂いをまとい、満腹感に満たされた微笑を浮かべているシャルロットだった。
シャルロットは口元を腕で拭いながら、
「よう、羽樹。どうした、こんなところで?」
「どうしたも何も、僕は帰宅途中だ」
僕は肩をすくめながら答えた。
「……というか、あんたはまた飽きもせず〈食事〉か?」
「あっはっは。何を言ってやがる。食事に飽きるもクソもないだろ。まあ、食材に飽きることはあるがな」
当然のことのように言って笑うシャルロット。
僕は、シャルロットの服から滴っている血を眺めながら、
「……しかし、そんな派手に食い散らかして、警察とかにバレないのか? 血が道に点々と落ちてるじゃないか」
「ああ。まあ、心配ないさ。人通りが全然ないところで食ったし、食べ残しはしてないし、明日は雨みたいだし、な。見つかる前に洗い流されるさ」
「……と言っても、僕に見つかった前例があるじゃないか。それが警察だったらどうするんだ? 拳銃で狙われるぞ?」
「拳銃? あっはは。んなもんでアタシが死ぬかよ。十数年前に一回、南の方で警官三人に囲まれたこともあったがな。全員食ってやったさ。ちっぽけな金属の弾なんかじゃ、アタシの体にかすり傷をつけるのが関の山だ。殺すなんて不可能に近いぜ」
「……そうなのか? あんたの体、人間とたいして変わらないように見えるが」
「ふん、回復力が違うんだよ」
自慢げに言いながら、シャルロットは自分の細腕を見せびらかすように撫で始めた。透き通るような白い肌。女性一般と何ら変わらない柔そうな二の腕だが、そこには傷跡も何も残っていない。
「たいがいの傷は一秒足らずでふさがるし、たとえ貫通したって、ものの一分で元通りだ。アタシにダメージを残すなんて、ただの人間には無理だよ。……まあ、そのせいでアタシは大食いになっちまってるんだがな」
「なるほど、それで人食いか。…………しかし、あんたは大丈夫でも僕はどうするんだ? こんなにあんたと通じてて、僕がしょっぴかれる可能性だってあるだろう」
「お前がアタシについてリークするってのか? んなことしてみろ。お前の家族も友達も知り合いも一人残らず食ってやる――――って、そう言ってるだろ?」
「いや、だけど、向こうは向こうで国家権力なんだ。僕にゃ逆らえないよ。捕まったら、僕にはどうにもならないさ」
「う〜む……そうか、お前もお前で危険ってわけか。確かに、今お前が捕まるとアタシも困るなあ。あのゲーム、まだクリアしてないし、う〜ん……」
考え込むように、シャルロットは腕を組んだ。そしてひとしきり頭をくるくる回した後、ぽんと手を叩いて、
「……よし、じゃあ、お前にこれを貸してやろう」
そう言って、シャルロットは首にかかっていたペンダントを外した。
それは、シルバーのチェーンに黄金色の十字架がついたもの。月明かりに照らされ、鈍く輝いている。シャルロットから手渡されたその重みは予想以上で、僕は危うく取りこぼすところだった。
その十字架を僕はひょいと摘み上げながら、
「……これは?」
「便利アイテムだ。それ、縦に引っ張ってみろ」
言われて、僕はクロスの上と下を摘んでそのまま引いた。スポッと二分する十字架。その間から、ナイフのような刃が現れる。
「何これ? ……ナイフ?」
「ああ。つっても、オモチャみてえなもんだがな。しかし、あった方がマシだろ」
「マシって言ったって……」
僕はその切っ先を月に照らし、まじまじと眺めてみた。
そもそも、この十字架のペンダント自体が十五センチ程度の長さだ。この刃は十センチもないだろう。親指より少し長い程度だ。一体――
「――こんなちっこいナイフで、どうやって警察に対抗しろって言うんだ? オモチャみたいなもんって、まんまオモチャじゃないか。まだハサミの方が役に立ちそうだが……」
「あっははは。見た目で判断するなよ。……そうだな。ほれ、こっち見ろ」
言われて振り向くと、シャルロットは小石を拾い上げ、それを僕に向かって思いっきり投げつけてきた。
僕は思わず、ナイフを握ったままの右手で顔をかばう――――と、
――カツンッ
何かにぶつかったような音がして、僕の眼前で石が弾けとんだ。右手には何の感触もなかった。しかし小石は、飛んできた方向とは逆にアスファルトの上をころころ転がっていく。
「……? 何が起こった?」
「そのナイフが弾き返したんだよ」
シャルロットが僕の手元を指差し、からから笑いながら答えた。
「そのナイフには少しばかり魔力が流れててな。ただの鉄よりかは頑丈だし、防御壁も作ってくれる。だから鉄砲で撃たれても、それでかばえばたいがい防御できるぜ。心強いだろ?」
「う、うん……」
「つーわけで、それがありゃお前も安心だ。ちゃんと身に着けておけよ? じゃな」
そう言って、背中越しに手を振りながらシャルロットは路地裏から出て行く。
闇の中に一人取り残される僕。
――魔力
そんなことをいきなり言われてもピンとはこないが、しかし人食い女が言うことだ。信じる、信じない以前の問題だろう。そもそも、シャルロット自体がアンビリーバブルな存在である。
僕は、赤く染まったアスファルトを見下ろし――――ぞくりと身震いしながら、十字架のペンダントをポケットにしまった。