プロローグ
僕は、褒められるのが大好きである。
友人もそれほど多くなく、異性への興味も人並み。趣味も特にないし、スポーツもほとんどしない。そんな僕にとって『褒められる』ということは我が人生における唯一の快感、自分の存在価値を確認するたった一つの機会だったのである。
だから、中学で僕が陸上部に所属していたのも校内マラソンでそこそこの結果を残して褒められたからだし、高校の進路選択で理系を選んだのも数学で高得点を取って褒められたことがあったからである。あるいは、毎日ちゃんと学校に行ってるのだって小学校の頃に皆勤賞を取って褒められたことがあったからだ。
今までの十八年間、いつ、どこで、どんな理由で褒められたのか、僕は一つ一つ覚えている。そのシチュエーションを詳しく覚えている。十年前のことすら、僕は鮮明に覚えているのである。
かようにして、僕にとって『褒められる』ということはとかく重要なことだった。
大切なことだった。
大好きなことだった。
だから、僕は思いもしなかった――
――この僕が、褒められて嬉しくないなんてことがあるなんて。
〈そいつ〉は、にたりと笑いながら僕を褒めてきた。
「うわっはははははは。なかなかなもんじゃないか、お前。驚いたぜ」
街灯一つない真っ暗な路地裏。赤っぽい満月だけが周囲を照らす静寂の中、〈そいつ〉は、紅色のロングヘアーを夜風になびかせながら言ってくる。
「いやいや、お前みたいのはなかなかいないぜ? 普通の奴は逃げるか、へたり込むか、気を失うかだぞ。それを、お前は平然と立ってられるんだからな。いやいや、すげえぜ」
そう言いながら、〈そいつ〉は依然として〈食事〉を続けている。
八重歯からは赤い汁が滴り落ち、歯の隙間から肉片がのぞき、服にも赤い染みがついていた。その鋭い犬歯で肉を引き裂き、骨を噛み砕き、汁を吸っているのである。もぐもぐ、ばきばきと、狼や虎やジャッカルのような、野生を感じさせる食いっぷりだった。彼女が手に取り口に運んでいるものは、もはや僕をしてもただの食料にしか見えないほどぐちゃぐちゃになっていた。
「どうした? つっ立ったまま何も言わねえで。……もしかして、お前も食いたいのか? だったら分けてやるよ。ほれ」
そう言って、〈そいつ〉は大きな塊を僕の方に投げてくる。
僕の足元にごろりと転がるモノ。〈それ〉は、驚愕と恐怖の表情に固まったままの、二十台と思われる女性の頭部だった。頬には(恐らく自身の)血が付着し、数分前まではサラサラだっただろうその黒髪は枯れ果てたようにボサボサになっていた。洗顔も化粧もトリートメントも、もはや無意味なほどに変わり果てた女性の顔だった。
「……どうした? 食わねえのか? だったら返してくれよ、それ。……つーか、お前、何かしゃべったらどうだ? ほら、アタシって〈こんな〉だからさ、最近まともに他人と話すことがなかったんだよ。最後に人と話したのがいつだったかなんて覚えてないくらいにな。多分、数十年前だったと思うけど……。だからさ、久しぶりでアタシも嬉しいんだよ。何か話してくれって。なあ?」
そう言いながらも、〈そいつ〉は〈食事〉を継続している。
見た目は十代後半から二十代前半。僕としては親近感のわく年頃だ。顔立ちもきれいだし、場合によっては僕も積極的に声をかけていたかもしれない。お近づきになろうとしたかもしれない。しかし――――その行為は、それを覆して余りあるほど異様なものだった。
僕は何も言えず、ただ立ち尽くしてそれを眺める。
なおも肉を引きちぎり、骨を咀嚼し、血で舌なめずりをする紅色の髪の女。闇に溶け込む黒いレザーの上着を汚しながらも、手と口は休めない。赤い月に照らされるその光景は、夢か幻のように、まったくと言っていいほど現実感のないものだった。
僕は見とれるように、ただただその光景を瞳に写し続ける。
ただただ、満月の下に立ち尽くす。
――これが、『マンイーター』シャルロット=ランと、僕、橘羽樹の邂逅だった。