8話「地獄からの呪い」
小鳥遊さんに慰めてもらったあの日。あの日から、私たちの関係は着実に縮まりつつあった。1つの枷が外れたかのように、以前よりも小鳥遊さんが私に対して甘えるようになっていた。
だけれど私たちは教師と生徒。それを絶対的に頭に入れて、彼女と接する。甘やかすこともなく、厳しく。これが最後のバリケード。それが壊された、もしくは壊してしまったならもう歯止めが効かなくなる。
でも、あの一件でどこか私の中で彼女に、安らぎや癒やしを求めているところがあった。彼女といれば嫌なこともちょっとは落ち着く。どうやら私は欲望には弱いようで、それを求めてしまう。
だからその両方が生きるように、教師として問題ない程度の関係で落ち着かせれば、大丈夫だと思っていた。思っていたのだけれど――
「――はーい……って小鳥遊さん……何?」
ある日の夜。彼女が私の部屋を訪ねてきた。
私は彼女を見るなりあからさまに警戒するようにな態度で、用件を聞く。
「ぶぅー何そのたいどー!」
そんな私の態度に、頬を可愛らしく膨らませて文句を言ってくる。
「いや、なんだか嫌な予感がするから……」
ここから先は私だけの部屋。つまり誰もいない。しかも部屋は防音仕様。共同生活で一番問題になるのは音だから、防音にされているらしいけれど、そのせいで中で何をしても外には聞こえやしない。
そんな空間に彼女を入れたら、何をされるかたまったもんじゃない。彼女との関係は、その一線を超えてはいけないのだ。
「ひどーいっ! 大事なお話があってきたのぉー! 入れて?」
その態度はまるで大事なお話をする人のそれではなかった。
でも小悪魔的な、これから悪さをしようという顔にも見えなかった。最近、何かと彼女を気にかけているからだろうか、表情から彼女の心が分かるようになってきたかもしれない。
「…………わかった。入りなさい」
しばらく考えたのち、私は彼女を受け入れることにした。
そう言ってくる彼女のことを信じてあげないのも可哀想だし、変なことをしようとしたらいくらでも抵抗はできるだろう。私だって一応は大人だし、まあそこまで力の差が開いているとは思わないけれど、なんとかできるはず。
「――えっ!? あっ、」
と思っていたのも束の間だった。玄関から部屋に入るや否や、勢いよく私に突進して私をベッドへと押し倒したのだ。
一瞬のことで何が何だかわからず、受け身もとれなかったので、ちょっと呼吸が苦しくなった。でも今はそんなこと言ってる場合じゃない。この状況をなんとかしなくちゃ。
「ちょっとッ! あなたやっぱりそのつもりで――」
なんとかしようと抵抗しようとするも、彼女の方が速く、私の両手首を押さえられ身動きが取れない状態を作られる。力がうまく入らない。足で抵抗しようにも、横になった状態では押し返せるほどの力は出なかった。
私は彼女を睨みつけるように見つめ、叱るように声色を低くして彼女を問い詰めようとしたのだが、
「違うの。これは先生が逃げないための保険ってヤツ」
彼女の真剣な声で私の言葉を遮ってしまう。
それはいつもの甘ったるい感じの声ではなかった。その眼差しは真っ直ぐに私を見つめている。
「逃げられるようなことをしようとしてるってことでしょう?」
でもそれはきっと、私が考えるような『一線』を超える事ではなさそうだ。そんな直感がした。顔つきにそんな雰囲気はまるで感じられない。たぶん『他の』逃げられそうなことをしようとしている。
「うん、そう。アタシね、先生のことがホンキで好き」
愛の告白。さっきまでの真剣な表情から一転して、本当に高校生なのかと思えるほど、妖艶な顔つきで愛の言葉を囁く。
「ッ!?」
その言葉は私に大きな衝撃を与えた。
予想だにしなかったわけじゃない。いつかはこうなるだろうと予想していた。それでも衝撃的だった。色恋沙汰がしばらくなかったとは言え、今の今まで私はそれに気づいていなかったなんて、思いもしなかった。
彼女の『好き』という言葉が信じられないなんて。
決して嬉しくて信じられないとかじゃない。その言葉の通りのまま、信頼することができなかった。
事実として、頭の中で彼女が私のことを好きというのは理解できる。でもその言葉に私は疑心暗鬼になってしまっているのだ。その告白が私の中にすっと入ってこない。
それに私からすれば、彼女と私の関係が教師と生徒でなければ関係を進めてしまいそうなくらい、彼女ことを思い始めている。だのに、それが信じられないなんて。
こうなってしまったのは間違いない、直感的にそれが結びついた。あの悪夢で見たトラウマのせいだ。私が深く傷ついたあの事件のせいで、私は人の『好き』という言葉を信用できなくなっていたんだ。
「せん、せ?」
まるで石のように固まってしまった私に、小鳥遊さんは不安そうな顔をして首を傾げる。
「あっ、え、うん。あ、ああ、ありがとう小鳥遊さん。そう思ってくれるのは嬉しい……けどね。私とあなたは教師と生徒。節度は守った方がいいと思うわ」
でもこの場をうまく切り抜けられるほど今の私の頭は先のことでいっぱいでうまく機能しておらず、結局『教師と生徒』という言葉を盾にしてその告白から逃げるしかなかった。
「えぇー? そんなの関係ないじゃーん。生徒は先生をスキになっちゃイケナイのー?」
でもこの程度で食い下がらないのが小鳥遊さん。そんなのよくわかってる。
普段の感じに戻って、大人を困らせるようなことを言ってくる。
「そうとまでは言っていなけど……」
物理的にも、精神的にも彼女に追い詰められている。冷静な判断ができない。次の言葉を必死で考える余裕すらなかった。
「じゃあ――」
「と、とにかく! 今日はもう帰りなさい。あなたの気持ち、想いはわかったから」
だから突き放すように彼女を帰らせることしかできなかった。強引だけど、今はこれしかない。
「……はーい」
さっきみたいにまだ食い下がらないかと思ったけれど、彼女はどういうわけかそれで納得してくれたみたいだ。ただまだ表情は不満げと言った様子。
私を押さえつけていた手首を解放し、まるで尻尾を元気なさそうにだらんと垂らした感じの背中で私の部屋から出ていく。
たぶん、彼女は『これで恋が終わった』とは微塵も思っていないだろう。彼女の目の中に映る、恋の灯火は潰えてないみたい。これからどうなるんだろう、それも気になるけれど、今は……
「――行ったわよね……」
私は彼女に気づかれないようにしっかりと私の部屋を出ていなくなったことを確認した後に、、
「あぁ……あぁぁ……ウァァァアアアアアアアアッッ――!」
1人部屋で絶叫した。
怖い、怖くてしょうがない。アイツに、その後の人生まで狂わされるなんて。
志保が『まだ引きずってるの』って言っていたように、あれからもう何年も経つ。なのに、その後遺症がまだ私に牙を向いてくるなんて。私は恋愛をしてはいけないのだろうか。誰かを好きになってはいけないのだろうか。
両手で体を掴んで、必死に震えを止めようとするけれども、まだ止まらない。やっぱり私は無垢花にはなれない。所詮、その花の蜜を吸う蝶止まり。でもその蜜を吸うことすら、今の私にはできないみたい。この楽園なら、もっと素直に、純粋に恋愛ができると思っていたのに。
「許さない……絶対許さないッ!」
私の人生おかしくした、『アイツ』への憎しみが再び込み上げてくる。
あの時、アイツのせいでイジメられたあの日に感じた怒り。それを超えるほどの怒りを今感じているかもしれない。
けれど今この楽園から出ることができない以上、アイツを殺しに行くことすらできない。だからその矛先の宛がない分、余計に怒りが増している。
アイツさえいなければ……アイツさえいなければ!!
多大なるストレスが私を襲い、もう何もする気になれなかった。もう何も考えたくなかった。これ以上何かを考えると、頭がおかしくなってしまう。狂いそうになる。
もうやめた、明日の私にバトンパス。なんとかしてくれるでしょう、きっと、たぶん。