7話「甘い蜜」
結局、体調が戻らないまま放課後になってしまった。
そして今日も今日とて美術部の部活動はある。もちろん監督を副顧問の先生に任せて、体調不良で早退させてもらうこともできる。でも結局帰る場所はこの学園の寮。生徒にもしものことがあった時のために、教師が常駐し、そこで生活を送っている。
これは大袈裟に言って、私にはどこにも安息の場所がないと言ってるのも同然だ。帰っても、すぐに点呼。その後、翌日の授業の準備に駆られ、そして朝早くから出勤。もちろんやりがいを感じる部分もあるけど、その分キツい部分もあるのが事実だ。どうせ寮に帰っても仕事なら、このまま続けてても変わりないだろう。私はそう思った。
美術室に向かうと、既に生徒たちが来ていて自分たちの絵を描いている。そしてもう絵が終わっている彼女も、おそらく不純な理由で部活動に参加していた。
「――せんせぇー? 今日は何か元気なさそうだけど、大丈夫?」
いつものようにみんなの出来を見ながら監督していると、小鳥遊さんが心配した様子で訊いてくる。
「ええ、大丈夫よ。心配してくれてありがとう」
どうやら彼女にも気づかれていたみたいだ。
こんなにも生徒に心配されるようじゃ、私もまだまだ教師として未熟だな。そう思いつつも、事情が事情なだけにそれを誰かに相談することもできない。そんなもどかしい状態だった。
だから、適当に流してそのままこの話を終わらせようと思ったけれど、
「でもぉー……しんどそーだヨ?」
小鳥遊さんはとても心配そうな顔をして、私の頭を軽く撫でてくれる。
「ッ!…………ねぇ、小鳥遊さん……ちょっと、準備室に来てもらっていい?」
そのたった一つの行為に、私の体に衝撃が駆け巡る。
そしてイケない行為を思いついてしまった私は、自身の悪魔の囁きに導かれるかのように、彼女を美術準備室に誘う。
『こんなことをしてはいけない』そういう理性と言う名の天使が私を制止しようとするが、その程度の力ではもう抑えきれなかった。
「え? うん、いいけど、どうしたの?」
急にそんなことを言ったせいで、ちょっと戸惑うような表情を見せる。
「ちょっと、ね……」
後先のことなんてどうでもいい。もし、もしそれで心が癒やされるのであれば――そう思いながら、私は小鳥遊さんを美術準備室に連れて行く。たぶん周りのみんなは何も思ってはいないだろうけど、怪しまれないように念の為、細心の注意を払って、見られていないタイミングで入っていく。絵に集中しているだろうし、十中八九大丈夫だろうけど。念入りに、バッチリと鍵をかける。
それから、おそらく美術の担当の教師が使っているであろう、一般的な動くコロコロタイプのオフィスチェアの背もたれを持って、
「――ここに、座って」
と、彼女を誘導する。
「え!? ニャフフッ、甘えたいモード入っちゃった?」
その言動だけで、これから何をするのか察したようで、小悪魔みたいな笑顔で可愛らしく首を傾げてそんなことを訊いてくる。
「……うん」
いつもならここで否定したり、ちょっと怒ってみたりするだろう。
でも今の私にはそんな余裕はどこにもなかった。彼女の言う通り、誰かに甘えたい、ただその一心だった。それほどに私の心は疲弊していた。
「おぉー……ホント今日のせんせぇ、いつものせんせぇとは思えない……ホントにヤなことあったんだね……いいよ、アタシが慰めてあげる」
普段とは違う私に驚きつつも、私のその頼みをすんなりと受け入れてくれる小鳥遊さん。
私の指示通りに座って、まるで子供を迎え入れるかのように、顔をこちらへ向けて『おいで』と言ってくる。もうその言葉で、私の理性は完全に崩壊していた。そのまま彼女のことを後ろから抱きしめる。ギューッと強く。顎を彼女の右肩に乗せ、顔を彼女の方へと預ける。すると、小鳥遊さんは何も言わずに、私の頭を優しくそっと撫で始めてくれた。
今日、というかこんな気持ちを感じたのはいつ以来だろうか。ただ頭を撫でられているだけなのに、それが心地よくて気持ちよくて、今日一日中、私の心に溜まっていたドス黒い感情が水に洗い流されていくみたいだった。そして彼女を抱きしめることで得られるぬくもり、これもしばらくぶりの感覚だ。髪から、おそらくシャンプーのいい香りがしてくる。でもその中にも、ちゃんと彼女特有の匂いが混ざっている。それがアロマセラピーになっているというのは大袈裟かもしれないけれど、今の私を落ち着かせてくれる、癒やしてくれる好きな匂いだった。でも……
私はなんてことをしているのだろうか。落ち着いたら、急に冷静さを取り戻してくる。
すぐ隣の部屋では生徒たちが何も知らずに部活動中だというのに。こんなところ、誰かに見つかってしまったら、下手したら職を解かれるかもしれないのに。
でも、それでもそれをやめられない私がいた。ホント、ダメな教師だ。私って。今だけはこの僅かな時間だけは誰にも見つからずにこうしていたい。こうやって安息を得られれば、嫌なことだって忘れられるはずだから。
こんな心が弱っているからだろうか。彼女に依存してしまう。でもきっと、これは、たぶん、ただ利用しているとかそういうのではない。疲れた心を癒やすだけのペットとか、そういうものでは決してないはず。他の誰でもない彼女、『小鳥遊麗奈』だからこそ甘えてしまうのだと思う。
彼女はいい意味でも、悪い意味でもこの学園では目立つ存在だ。そして私は部活の顧問、そしてクラスの担任ということもあって何かと気にかけていた。でも猫ように甘えてくる彼女に、まるで飼い主のように甘やかしたりしてあげていたことで、『教師と生徒』という超えてはならない枠組みを超えてしまいそうになっている。彼女が私に依存し、甘えるように、私も知らぬ間に彼女に興味を持ち始めていたのかもしれない。
だけど教師と生徒という枠組み以前に、私にはある問題がある。それはこの島の秘密を知っていること。そして彼女は何も知らない無垢な花であること。だから、私には一つ不安なことがあった。私のような黒く染まりきった者が、白く綺麗な無垢花に触れてしまってもいいのだろうかということ。
その純粋無垢な白を、私が触れただけで黒く染めてしまうかもしれないのに。一度染まりきったものは、もう元には戻らない。いくら白くなろうとしても、それは所詮元の白ではないのだ。でもそれと同時に私の中に確かにあるのは、そのあまりにも美しく、綺麗な花に触れてみたいという気持ち。
なれないとは分かっていても、触れて彼女たちのようになってみたい。私だけのものにしてしまいたい。
「……ねえ、せんせっ?」
そんなまるで風に揺れる花のように、ゆらゆらと思いが揺らぐ私に、小鳥遊さんはそっと優しい声色で私のことを呼ぶ。
「なに、小鳥遊さん」
「これから何か辛いことがあった時は、いつでも私に甘えていいからね? せんせぇーだって人なんだから、大人だからって我慢しなきゃいけないことなんてないんだよ?」
こう言ったら失礼かもしれないけれど、そういうことを言う小鳥遊さんがすごく新鮮だった。普段がああいう感じでいつもふざけてるイメージだから、そういうことをちゃんとした考えを持っているんだ、とちょっと驚いた。
「ありがとう。でも、あなたは我慢しなさすぎよ」
でもその言葉は嬉しい。これは別に子供の小鳥遊さんから、とかそういうのではなくそういう言葉を投げかけてくれる人がいると凄く助かる。その一言が、心を和らげることに繋がるのだから。
だけど、子供にそんなことを言われたのがちょっぴり恥ずかしい気持ちもあってか、照れ隠しで減らず口を叩いてしまう。
「ニャハッ、でもぉーそれで自分を追い込んじゃったら元も子もないよー?」
「うん、そうね」
でも減らず口を叩いても、その小鳥遊さんの言葉はしっかり心の中で受け止めておこうと思う。
追い込んで結果、亡くなってしまった人だっているのだから。でもやっぱり、そういう意味ではこうして彼女のように心の支え、になれる人がいる私はいくらかはマシなのかもしれない。
ホントはいけないと分かっていても、その甘い蜜に誘われて、癒やされる。彼女にはそう、私を引きつける魅力みたいなものがあるのだろう。そうじゃなきゃ、こんなこと、絶対していない。
それから私は時間も忘れて、気が済むまで彼女に甘えていた。
誰にもバレてないことを祈りつつ、今日の部活を終えるのであった。もちろん冷静になってから、迫りくる背徳感と言ったら言うまでもなかった。