4話「他人関係」
翌朝。私は外から聞こえてくる小鳥のさえずりによってゆっくりと意識が覚醒する。
伸びをしながら体を起こし、すずはどうしているのかと辺りを見渡す。どうやらすずはもう既に起きていたようで、ベッドには姿はなかった。ならば大方キッチンの方で朝食を作っているのだろうと考え、顔を洗うついでにキッチンへと向かう。すると私の予想通り彼女は朝食の準備中であった。
すずは私に気づいたようで、
「お、おはよう、めぐ」
と挨拶をしてくる。
でも、それはいつもの見慣れたそれではなく、そこに少々不安が混じったような声色と表情だった。私がどんな態度をとってくるのか、それに気になりつつも同時にそれに怯えている。そんな感じが伝わってきた。
ホントに今日からただのクラスメイトの関係になってしまうのか、すずは今それが一番の不安要素なのだろう。でもその不安を現実にしてしまうようで悪いけれど、今日からは私とすずはただのクラスメイト。これはどうしても変えられない事実だ。
すず自身は、もちろん本音を言えば私もだけど、それを望んではいない。たぶんあちら側は、挨拶も『めぐ』と呼んでしたように、いつものように接してくることだろう。だから私は鬼のように積極的に突き放してやろうと思う。
「おはよ、えと……――」
あれ、すずの名字ってなんだったけ。あんまりにも私の中で『すず』で通っているから、パッと名字が出てこない。それがあってはじめて突き放すことができるのに。えーと……
「あっ、榎本さん! おはよう」
少し考える間があって、私は改めて挨拶を返す。
そうだそうだ、彼女の名前は『榎本涼香』だ。危うく忘れるところだった。
でもこんな風に名字がすぐに出てこないほどに『すず』で浸透している。それこそが私たちの仲の良さの証明なのだと、心の中で嬉しく思う。
しかもこの『すず』と『めぐ』は他の誰も呼ばない特別な2人だけの呼び方。やっぱり私たちはとても仲が良かったんだなと、距離をあけることで改めて実感した。
「えっ……あっ、朝食できてるよ」
私のその他人行儀な挨拶にあからさまな動揺を見せ、すぐに悲しそうな表情を見せるすず。
ああ、その顔はやめてほしい、私の心にグサグサと突き刺さる。罪悪感が溢れ出して、申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。
でもここで狼狽えていてはいけない。もっと鬼、いや悪魔ぐらいにならなければ。そうじゃないと、すぐに許してしまいそうになる。
これは一種の自分自身との戦いでもあるのだ。すずという誘惑に負けずに、自分の使命を果たす。そうすることで、みんなきっと幸せになれるのだから。頑張らなければ。
「う、うん――」
そう返事をして、私は洗面台へと向かった。
すずにはわかってほしい。自分もこういう状況になって辛いだろうけど、私ももちろん同じくらいに辛いということに。そして、それの原因は自分であるということに。それでこれに懲りてとっとと告白してほしい。そうすれば元通りなのだから。
そんなことを心の中でお願いしながらも、私は朝の準備を済ませていく。そして制服に着替え、スクールバッグをテーブルの近くに置き、すずの作ってくれた朝食を食べることにした。
「……」
だけれど、今ある2人の状況が状況なだけに会話がない。
一日の、一番最初の食事をまさか無言で過ごすとは思わなかった。たぶん、すずも私の名字呼びにショックだったのだろう、それ以降一切私と喋ろうとはしない。こっちからも話すことは特にないので、必然的に無言になってしまう。
でもその空気はとても耐えられるものじゃない。だって目の前にいるすずと目が合う度にすずは悲しそうな、まるで捨てられた子犬みたいな目で私を見つめてくるんだもの。それを見る度に、私の心に矢が突き刺さって、良心が痛む。いたたまれなくなって、またすずのことを許してしまいそうになる。
これではいけない。たぶんこの2人『きり』の状況だからこそいけないのだ。2人きりだとどうしても目が自然とすずの方へと向いてしまう。そしてすずもこっちを見て、目が合ってしまう。
だから私は食事をさっさと済ませ、この空気から逃げ出すことにした。他の人たちがいる空間なら気も紛れるだろう。
「えっ……と、もう、行くの?」
食器をまとめ、出かける準備を始めるとすぐにすずがそう問いかけてくる。
たぶんすずとしては『もう行くの』というよりは、『1人で行くの』と言いたい感じだろう。
いつもなら2人で登校しているから、まず1人で行くことなんて滅多にないし。そのいつもどおりにすずは2人で登校したいはず。でもそれではこの空気のまま変わらない。それは申し訳ないけれど、正直言って嫌だ。
だから私は、
「う、うん。今日は用事があるから」
すずに適当な嘘を吐き捨ててそそくさと部屋を後にし、学校へと向かうことにした。
まあ、この程度の嘘はすずにだったら普通にバレてしまうだろう。だからそれでまた彼女のことを傷つけてしまうのではないかと心配だったが、それ以上に気まずい空気は私には耐えられない。
だから今日は1人で先に行ってしまおう。教室につければ、後は気まずい空気を味わうことなんてなくなるはずだから。
◇◆◇◆◇
どれ位ぶりだろうか、1人で登校するのは。話し相手がいないので、暇なことこの上ない。それに意外にも1人というものは非常に寂しい。すずとの登校に慣れているというのもあるだろうけど、ここまでとは。
私はすずの大切さを改めて実感させられた。でもこれは私が決めたこと。一度決めたからにはきちんと約束は守らなければならない。だから、私はこのままクラスメイトを続けなければならない。そう自身の頭に言い聞かせていく。
「めぐみー、おはよー!」
「おはよー、めぐみ」
そんな最中、後ろから聞き覚えのある声がしてくる。その声に振り返ると、
「あ、常葉さん、荒川さん、おはよう!」
予想通りの2人が肩を並べて歩いていた。
まだ普通の会話をするには遠い距離にいたので、ちょっと声を大きめして挨拶をする。
「むぅーめぐみもー!」
けれどその挨拶に対して不満があったのか、常葉さんはふくれっ面をして、どこか怒ったような様子でこちらへと早足でやってきた。
「ん? 何が?」
ただただ名前を呼んだだけなのに、どうして怒られなければならないのだろうか。その意味不明な言動に、私は常葉さんに聞き返す。
「私のこと『杏奈』って呼んでよー!」
なにかと思えばそんなことか。本人に言ったら失礼かもしれないけど、大したことない話だった。私はそんなことを思いつつ、すぐにその言い訳を考え始める。
「いや、だって……」
「だって?」
「そっちの方が呼び慣れてるから。今更呼び方変えるのも面倒だし」
最初から『常葉さん』という呼称だったし、『すず』と同じでもう私の中ではそれで浸透してしまっている。だからそれを今更変えるというのは面倒で、手間だ。というのが表向きの答え。
「でもさー、私たち友達でしょー? 友達同士なのに、名前じゃなくて名字で呼ぶってなんか変じゃない?」
だけどその言い訳に痛いところをついてくる常葉さん。
まあ普通に考えて友達同士で名字で、しかもさんづけで呼ぶなんて、そう滅多にいないだろう。普通なら名前に敬称をつけるとか、名前とかから取ったあだ名だろう。
でも私はその表向きの答え以外に、裏の答えがある。ただそれを常葉さんには説明することは、もちろん『裏』なのだからできないのだ。
だから次の表向きの答えをどうしたものかと考え始めるが、
「んー……じゃあ、善処します」
特に妙案が浮かばず、適当にはぐらかすことにした。一応『善処』はするので。
と言いつつも、実は変える気は全くなかったりする。それは別に常葉さんを友達だと思っていないとかそういうことではない。私が常葉さんを名前呼びしないというより、『できない』理由がある。それはすずが『まだ常葉さんのことを名前で呼んでいない』ということだ。
すずを差し置いて私が先に常葉さんの名前呼びなんて、できるはずがない。もちろん私が先に呼ぶことで、それにつられてすずも呼ぶという可能性はあるだろうけど、でも呼ぶことによってすずに誤解されたりしたら目も当てられない。だから私は常葉さんのことを名字で呼ぶ。もちろん荒川さんだけ名前で呼ぶというのも変なので、荒川さんも名字で呼ぶ。
「むむー絶対変える気ないでしょ」
意外にも常葉さんは私の心を内を見抜いているようで、怪訝そうな顔して鋭い所をついてくる。
「まあまあ杏奈。ここはひとまず、めぐみのこと信じてあげたら? 友達だったら、信じてあげるのが普通でしょ?」
そんな中、2人の仲裁に入るかのように常葉さんをなだめてくれる荒川さん。
「しょうがないなー、今日のところは唯に免じて許してあげる。そういえば、涼香がいないみたいだけど、どうしたの?」
これでようやく終わったかと思えば、またしても災難がやってくる。今度はすずがいないことに気づかれてしまった。
「え、えーと……」
こればっかしはうまい答えが出そうにない。今の常葉さんなら何言っても見抜かれてしまいそうだし、それで変に心配かけてしまうとそれこそ面倒な事になってしまう。どうにも分が悪く、思わず常葉さんから目を逸らしてしまう。
「ん? もしかして何かあった?」
今日はとことんまで鋭い所をついてくる常葉さんだった。
でもこの事を常葉さんに知られてしまうのはまずい。彼女のことで色々と揉めているのだから、その本人に知られてしまえば作戦が大いに狂ってしまう。
だからバレてしまわないようにどうにか取り繕うと、言い訳を必死になって考え始める。
「ううん、何も。今日はちょっと用事があって遅れるみたい」
でも出てきた言葉はすぐにバレてしまいそうな嘘だった。本人に訊いてしまえば、すぐにバレることだろう。
ああ、どうしてこういう時ばっか私の頭は働かないのだろうか。なにか気の利いた一言が出てくればいいのに。
そう思いつつも、もはや背中に嫌な汗をかき始めているこの状況で、常葉さんの言葉を待つ。
「ふーん、そうなんだー」
言葉では納得しているような感じだが、でもその表情はまだどこから疑りの念があるように思えた。
すずほどではないけれど、常葉さんとも一緒にいる時間は長い。私が彼女の言葉に出ていない部分が読めるように、おそらく常葉さんも私の言葉に出ていない部分を読み取っているのかもしれない。
「ねえ、でも後ろに涼香ちゃんいるみたいだけど……?」
そんな心理戦みたいなことを繰り広げている時、荒川さんが訝しげな顔をして後ろの方を指してそんなことを言ってきた。
「えっ!? あちゃー……」
その言葉に驚きながらも、私は荒川さんの肩越しに向こうの方へと目をやる。
すると、そこには荒川さんの言うとおり、奥からどこか寂しそうな表情で歩いているすずがいた。
それを見て、思わず私は頭を抱えて落胆してしまった。なんというタイミングの悪さであろうか。これでは、私が嘘をついたことがバレバレだ。
「あ、あれー、おかしいなー? 遅れるって言ってたんどけどなー? ごめん、聞き間違いだったみたい! あっ、そうだ、私が用事あったんだった! じゃあ先急ぐからじゃあねー!」
もう言い訳を考えられる余裕なんてなかったので、わざとらしくボケてみせ、適当な嘘をついてこの場から逃げることにした。
このままでは何かと色々訊かれるのは目に見えている。話がこじれてしまわないように、すずの想いがバレてしまわないように、とにかく私だけはこの場を離れよう。
バレてしまえば、この作戦が失敗に終わってしまう。それだけは絶対に避けたいことだから。私は3人にそう言い残し、それから一切振り向かず早足で学校へと向かっていくのであった。
◇◆◇◆◇
私の思いを察したのか、はたまたすずが登校中に何か言ったのかはわからないが、常葉さんと荒川さんはあれから私たちのことを追及するようなことはしなかった。
だが、それも時間の問題だろう。いくら気を遣っているとはいえ、このままこの状態が長く続けば、流石に無視できるものではなくなる。
それにたぶん、常葉さん辺りがいつもの調子で訊いてくることもあるかもしれない。その時のために何か対策をたてようにも、すずと口合わせしなければ辻褄があわない。
「あ、橘さんちょっといい?」
策を練りながら廊下を歩いていると、すれ違った月見里先生が私のことを呼び止める。
「はい、何ですか?」
「このプリントを榎本さんに渡してくれないかしら。今日中にどうしても提出してほしいプリントなの」
「えっ、私が渡すんですか?」
今日は厄日なのだろうか。どうしてこうも神様は私に試練を与えてくるのか。
渡すということは、どうしてもすずと喋らなければいけない。当然、無言で渡すなんてことはできるはずがない。そうなれば、如何せん2人に気まずい空気が流れるにきまっている。それをもし常葉さんと荒川さんに目撃でもされれば、何かあったと思われるのは間違いない。
今からそのことを考えるだけで、気が滅入る。それもこれもそもそもの話が、すずが告白してくれればこんなことにはならなかったのに。本当にどうして告白してくれなかったのだろうか。というか、私より告白をしないことを選ぶとはどういうことなのだろうか。
おっといけない、思わずカッとなってしまった。今はすずに当たってもしょうがない。過ぎ去ったものに何言ってもどうなるわけでもないし。それにもっと元を辿れば、自業自得なんだし。
「先生これから朝の会議があって。まあ朝会で渡してもいいんだけど、忘れるといけないし。それに早めに渡したほうがいいから」
「わかりました、渡しておきます」
私は嫌々ながらも先生からの頼みなので、致し方がなく受けることにした。まあ、私も一応は真面目な生徒で通っているし、ここで断るという選択肢はほぼないに等しいだろう。
「ありがとう、橘さん。じゃあよろしくね」
「はぁー……憂鬱だ……」
先生がいなくなった後、1人でそんなため息を吐きながら、教室へと戻ることにした。
「――す、じゃなくて……えと……え、榎本さん! このプリント今日中に提出だって」
すず呼びが染み付いていて、なかなか名字呼びに移行できない。それに最初は簡単だと思っていたが、意外と普通のクラスメイトを装うのは難しいみたいだ。距離感のとり方が非常に難しい。行き過ぎるとただの友達だし、離れすぎてもなんかケンカしている風にみえてしまう。
「え、ええ、ありがとう」
すずはとても悲しそうな表情を見せながら、プリントを受け取った。
彼女の顔はヘタすればこのまま泣いてしまうのではないかと思ったほど、悲しみに満ちていた。まだクラスメイトの関係に戻って、そう時間は経っていないというのに。それだけすずには堪えているということなのだろう。
「うぐっ……」
その表情に私の心が痛む。それと同時に罪悪感が湧いてくる。それを私は必死に押し殺し、平常心を保とうと振り払うように顔を左右に振った。
「じゃ、じゃあ確かに渡したからね!」
そしてあくまでも平静を装い、すずにそう告げてさっさと自分の席へと退避することにした。
このままあのすずの悲しい顔を見ていると、負けそうになってしまう。罪悪感が内側からこみ上げて、すずが可哀想に思えてきてしまう。
でも、悲しませてしまったことはもちろん申し訳ないけれど、これはすずのためなのだ。この関係が嫌に思うのなら、早く告白すればいい。そうすればすぐにでも私たちの関係は元通りになるのだから。
だから、お願いすず。早く常葉さんに想いを伝えて。私たちの関係が壊れてしまう前に――