9話「変化していく思い」
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あの子はまだ意地を張っているみたいで、登校するのも私と襟香ちゃんたち、あの子と由乃ちゃんたちで分かれて行くこととなった。
どう乗り切ったのか、あの元気っぷりを見るとたぶん私の子守唄なしでも眠れたようだ。由乃ちゃんあたりに何かしてもらったのだろう。
まったく、人様に迷惑かけて……ってそれは今の私も同じか。
それにしてもそれを乗り切ったということは、いよいよこの意地の張り合いは平行状態となったということ。これではいつまでも終わることはなさそうだ。果たしてどっちが音を上げるのが先だろうか。
「あっ、あっちゃー……」
朝会が始まるまでのひと時、カバンから教科書を机の中に入れていると、今日の数学の宿題のことをすっかり忘れていたことに気づく。
亜美にわからないところを教えてもらおうと思ってたのに、ケンカのせいで頭からすっかり抜け落ちてた。
今の状況で亜美に訊くのは分が悪いし、だからといってそれで謝るのもシャクだし。
しょうがない。わからないところは襟香ちゃんに訊くか。由乃ちゃんという手もあるけど、彼女は亜美サイドの人間だから行きづらいしね。
「ねえ、襟香ちゃん。今日の数学の宿題でわからないところ訊いてもいい?」
私は後ろの席にいる襟香ちゃんを呼び、教科書とノートを持ってそう尋ねる。
「あっ、うん、いいよ! 私が分かる範囲なら、だけど」
襟香ちゃんはいつもの笑顔でそう返答し、さらに保険をかける。
まあどうせ私がわからないようなところは、襟香ちゃんレベルなら余裕で分かるものだろうから、その心配は皆無だろう。
「ここの問題なんだけど……」
「あ、ここねー、ここはね――」
襟香ちゃんはそう言いながら教科書を開き、私に解説をしてくれる、のだが……
「んー……?」
襟香ちゃんには失礼なのは重々承知だけど、正直言ってさっぱりわからない。
同じ日本語を喋っているはずなのに、言葉が暗号にしか聞こえてこない。
私の脳内で一度解読が入るのだが、それが襟香ちゃんの話すスピードに全く追いつけず、結局訳が分からなくなってしまう。
「ごめん、分かりづらい?」
襟香ちゃんはそれを察したのか、申し訳なさそうに訊いてくる。
「あっ……うん……正直、全くわからない……」
「そっか、ごめんね……」
悲しそうな顔をする襟香ちゃん。そんな顔をされてはこっちまで悲しくなってしまう。
悪いのは私、理解できない私が悪いのだから。
「そんな、こっちこそ理解できなくてごめんね。私、数学はからっきしだからさー」
「いつもは亜美ちゃんに訊いてるもんね。勉強なら由乃ちゃんに訊くってのも手だけど、今は亜美ちゃん側にいるから訊きづらいしねー」
「うん……どうしようかなぁー?」
亜美とケンカしたことを少しだけど、後悔した。
それはつまり、私専用の数学教師を捨てたのと同等の意味をもつのだから。それでも亜美に謝りたいという気はしなかった。
いくらくだらないことでケンカしたとはいえ、あんなわがまま女に私から謝るなんて御免だ。でも、そうなると新たな教師を探さなければならなくなる。さて、どうしようか?
「ねえ、今はとりあえず答えさえ分かればいいんだよね?」
「う、うん、そうだけど……」
「じゃあ、とりあえず私の答え写せばいいよ! 説明はアレだったけど、合ってることは間違いないから」
「ありがとう」
「後から私が由乃ちゃんを呼ぶとか、それ以外の誰かに訊くとか、まだまだいくらでも方法はあるんだし大丈夫だよ!」
「うん、そうだね」
私はそんな相槌をうちながら、襟香ちゃんのノートを書き写した。
とりあえずこの場はやり過ごすことができたけど、でも結局それは問題を先延ばしにしたに過ぎない。昨日でもう恐れるものは何もないと思っていけど、どうやら今の戦況は私のほうが不利なようだ。なんとしてでもあの子に屈服しないで解決する方法を見つけなくては。
◇◆◇◆◇
お昼休み。当然のように亜美は櫻井姉妹と別の場所へ。私たちはいつものように机をくっつけお昼にすることに。いつもなら6人なのに今日は3人と、少し寂しさを感じていた。
「ねえ、まりりん」
そんな中、亜弥ちゃんがどこか真面目な顔をして、私の名前を呼ぶ。
「何?」
そんな珍しい顔に、私は身構えつつ用件を伺う。
「私たちは別にいいんだけど、このままずっと喧嘩したまま?」
その用件はやはり、私とあの子のことだった。
まあ私とあの子がケンカすることは山ほどあっても、これだけの事態になったのは初めてなので、亜弥ちゃんもそれだけ心配しているのだろう。
「あの子が謝らない限りはー……このままかな……」
「でもさー昨日から家事とかできなくて調子狂ってるでしょ? 分担制にしたとはいえさ、普段通りの状態じゃないんだし、やっぱそれに慣れるまで時間かかると思うよ?」
「うーん、でも……」
それでも私から謝るのは納得がいかない。だって悪いのはあの子の方なのだから。それぐらいなら、慣れるまで時間がかかっても別にいいと思う。
「それに、このままだと多分どんどんあーみんの大切さが身にしみて実感することになると思うよ。ちなみに今日って何曜日?」
「え? 何曜日って……あっ!」
そうだ、気づいた。今日はデザートにあの子が作ったお菓子がある曜日だ。でも今はケンカ中。
仮に櫻井姉妹に作ってきていたとしても、絶対に私の分はない。
たしかに、あれは毎週の楽しみだった。やっぱりいつものそれがないと、どこか調子が狂う。
「ね、言った通りでしょ? もう体がそれに慣れちゃってるの、だから謝った方がいいと思うけどなー」
「べ、別にこれで余計なカロリーが入らなくなって、体重を気にすることもなくなるから……」
「あーみんそれを分かってて、わざわざまりりんの分だけ砂糖控えめにしてるのに?」
「そ、それは……」
亜弥ちゃんの言葉に言い返すことができなかった。
言わなくてもあの子は私用のお菓子を作ってくれていた。しかもそれでも美味しくなるように研究もしてた。でも、でもだからといって、それを理由に謝るのは――
「それともう1つ。たぶんすっかり忘れてると思うから言うけど、近々数学の小テストあるよ。朝、えりの解説聞いてもわからなかったらしいじゃん。また赤点だよ? しかも小テストだから再テストもないし、その成績がそのまま反映されるんだよ? よっしぃーとかを新たな先生にしてってのもアリなんだろうけどさー、よっしぃーはあーみんサイドだからなかなか難しいと思うよ」
「うぅぅ……」
一応真面目な生徒で通っている者として、これ以上の赤点は出したくない。でも、その2つを天秤にかけても、ゆらゆらと揺れ動くだけでなかなか結果は決まらない。私のプライドが意地でも謝りたくないと抵抗しているからだろう。
「これでわかったでしょ? まりりんにとってあーみんは大切な存在なんだって。その大切な存在をこんなくだらない喧嘩でなくしてもいいの?」
「んー……」
天秤が揺らいでいる。でも、それがどちらかに傾くまでにはまだ至らないようだ。まだ私の心が決め兼ねている。
元の生活に戻るために謝りたい。でも、自分から謝るのは嫌。あの子に勝ち誇った顔をされるのはもっと嫌。
でも、このままじゃ私の数学はどん底に……
「まりりんとあーみんは幼馴染でしょ? それだけ長年つきあってきた存在が、こんなくだらない喧嘩で関係が終わるのは、私は寂しいと思うな。それにたぶんあーみんにだって謝る気持ちはあると思うよ? 意地張ってないで、ここはまりりんが大人になってあげるべきだと思う」
「……そうかな?」
「うん、謝ろう」
「……うん、わかった謝る」
ここは私が大人になろう。
このまま亜弥ちゃんたちや、由乃ちゃんたちに迷惑かけるのもいけない。私が先に言って、亜美が謝りやすい環境を作って、円満に終わろう。
きっと、亜美だって1日ほど私から離れて、不満に感じる部分もあったはずだ。だからきっと、亜美だって謝る気はあるはず。後はそれを言葉にするだけ。
よしっ、帰ってきたら早速誘ってみよう。私は心の中で自分の思いを整理しつつ、覚悟を決め、亜美が帰ってくるのを待った。