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虹色居酒屋  作者: 大山秀樹
1/15

第1話:行列

グルメブームに乗せられて書きました。元々食べることは好きなので、長く続けられたら、と思います。よろしくお願いします。

1時間後に2話目。

明日に3・4話目を投稿します。

後1週間毎に2話投稿する予定です。



 待ちに待った給料日。配給の列の先頭に並び、「ダック」とお礼を言い、上官から布袋をかっさらい、一目散に走り出す。多分に礼を欠いた行為だが問題ない。あの場所を教えたからか、上官は俺に寛容になった。恐らく上官も兵士に給料を配給し終わったら、脇目も振らずに来るのだろう。席につけると良いが。


 凍えるような寒さも、あの料理にありつける食前酒だと思えばなんてことない。むしろ身体の火照りを冷ますのにちょうど良いくらいだ。


 見えてきた、見えてきた。

 古めかしい木造建築に、読めない看板。

 間違いない、虹色居酒屋だ。1週間振りのご馳走にありつけると、喉がゴクリとなる。

 客はいつも通り並んでいる。

 5人待ちか。今日は少ない方だ。

 それもこれも稀代の賢帝である現皇帝のおかげだ。


 虹色居酒屋が皇都に出現してもう20余年になる。当初は懐疑的な目で見ていた都民も、他の料理屋とは一線を画す味、値段、量、季節ごとに変わるメニューによってたちまち虜になった。……といっても俺がガキの頃の話だから噂でしか知らないが。上官のように敬遠する頭の固い人物もいるが、一度暖簾をくぐれば、いやっ、店舗に近づき、その香ばしい匂いや騒音とも思える色とりどりの笑い声を聞けば間違いなくリピーターになる。

 そして客が増え続け、どうにもこうにも店が回らないーー噂では100人以上が行列待ちをしていたともーー状況になった時に、皇帝が英断を下した。

 給料日の拡散と訪問回数の制限である。

 給料はどんな職についていても月始めに貰うのが一般的であった。給料日直後の財布に余裕がある都民は争いあって虹色居酒屋に行ったため、月始めに客が集中してしまい色々とトラブルも起きた。それを見兼ねた皇帝は、都民の給料日を拡散させ、混雑の緩和に乗り出した。これは当たり、今ではそれほど待つことなく入店できる。店主はそのおかげで毎日忙しそうなので、気の毒ではあるが。

 また虹色居酒屋の料理は庶民が手を出しやすい値段なのだが、料理自体が美味すぎるため、酒も料理もいつもより多く頼んでしまい、結果として他の居酒屋の2倍程度支払うはめになる。全くもって自業自得なのだが、毎日通っていると月の中頃には財布が空になる者もいた。そのため皇帝は虹色居酒屋への訪問を月に5回と制限した。これは貴賎なく適用され、今も役人が分厚い名簿を片手に入店者をチェックしている。

 こんな寒空の下で気の毒だ、と思うかもしれないが、あの作業は決して苦行ではない。むしろ役人にとって垂涎の仕事であり、毎朝希望者でくじ引きが行われ、当たりを引いた者の歓喜の雄叫びが山で働く木こりまで聞こえた、なんて逸話も残っている程である。というのも店主の好意から役人には逐一差し入れが届き、閉店になると余り物を無料で提供してくれるのである。基本的に「オモチカエリ」を拒否している店のため、家で虹色居酒屋の料理に舌鼓を打てるのはその役人だけである。俺も希望したいが選ばれるのは役人だけであり、兵士の俺には縁がない。

 全くもって残念だ。


 皇都の南区に虹色居酒屋はある。

 当初は寂しい裏道だったが、虹色居酒屋の出現により大規模な開発が進められ、行列を作りやすいように道は拡張され、今では一等地ーー歓楽街となっている。辺りには虹色居酒屋にあぶれた客を呼ぼうと、客引きがわんさかいる。更に小規模ながらも屋根が造成され、行列者が雨風を避けやすいようになっている。これも皇帝の発案だ。

 俺の前の5人は扉から東側に整然と列を作り、入店を今か今かと待っている。俺もひっそりとその後ろに並ぶ。

 それから5分程経って、1人が出てきて、1人が入店した。前にいるのは4人になった。どうやらその4人はグループらしく、テーブル席に座るのだろう。とするとカウンターが開けば、4人を飛び越えて俺が入店できる。それがここのルールである。

 次に扉を開けて出てくるのが、1人だったら良いな。

 前の4人には申し訳ないが、もう口に唾が溢れている。今日は俺の大好物の鳥のカラアゲを最初に頼もう。皇都でもお目にかかれない肉厚な鶏肉と、不可思議なショーユというソースで味付けされたあれに良く冷えたエールがあれば言うことはない。レモンなる酸っぱい果実をかける奴もいるが、俺は邪道だと思っている。最初はカラアゲ本来の味を堪能し、衣からしみ出る油を存分に味わい、冷えたエールをごくごくと喉に流し込む。残りが3割……いやっ4割を切った時点でレモンをかけて味を変えるのが王道だ。そうすれば1度で2度味わえるのに、みなさっさとレモンをかけてしまう。それは店主の努力を冒涜してはいないのか、カラアゲに対する背信ではないのか、といつも喧嘩になる。マリーちゃんに怒られるからすぐ止めるけど。


 まだかな、まだかな、と足の裏で雪を弄んでいると、俺の背後からガヤガヤと騒々しい音を立てて5人組の集団がやってきた。先頭は……げっ、新任の司祭様だ。取り巻きを連れてのご来店か。コール教は禁欲を推奨してはいないので、罰当たりな行為ではないが、この店のルールは知っているのだろうか。辺境から赴任してきたはずだから、知らない可能性が高い。厄介事にならなければ良いが。


「ここが噂の居酒屋ですか?」

「はっ、虹色居酒屋です」

 腰巾着が勢い良く応える。

「良い匂いですね。何を食わせる店ですか?」

「季節ごとに変わり、豊富なメニューがあるそうです。肉や魚からデザートまで。しかも驚くほど安価だとか」

「庶民の味方のような店ですね。感心、感心。どこが入口ですか?」

 司祭様がキョロキョロと周囲を見渡す。

「行列の先頭です」

「いきましょう」

 当然のように司祭様は行列を追い越そうとした。

 最近ではこんな特権意識がむき出しの司祭様が横行している。現皇帝の戦争のない平和な御世になってタガが外れた司祭様が多くなった。行列を平気で越えていく。そんな司祭様に先を譲ったこともあるがここはダメだ。

「待って下さい」

 意を決して司祭の前に飛び出し両手を広げる。

「なんですか?」

 司祭様が怪訝な目で俺を見据える。白いのが混じった豊かな髭、刺すような目、しわがれた皮膚。権威が服を着たような感じだ。平民の俺は思わずひれ伏しそうになるが、ぐっと堪える。

「はっ、皇都軍第3部隊所属、マーズ伍長です」

 直立不動になり、腹から声を出す。

「兵士ですか。私に何のようですか?」

 司祭様が髭を触る。

「はっ、虹色居酒屋は先着順です。どうか司祭様におかれましても、列にお並び下さいますようお願い致します」

「ほう」

 司祭様が声色を変える。語り聞かせるような声ではなく、威嚇する声。こえー。

「私に列に並べ、と言うのですか?」

 温和な語りかけるような口調だが、その裏には怒りが感じられる。こえー。

「はっ」

「神に仕える私にそれを言うのですか? あなたは背教者ですか?」

「いえっ、私は敬虔な信徒であります。ですがこの取り決めは皇帝陛下もお認めになったモノです。『貴賎なし』とは陛下のお言葉です」

「ふむ、しかし私は神に仕える者、言わば神の使いです。その取り決めには入らないのでは?」

「司祭様も同様とのことです」

「……あなたは神の使いたる私に反抗するのですか? 神の使いの時間を奪おうというのですか? それは神に逆らう行為ですよ」

 司祭様が唸り声を出す。とても50手前の老人が出すとは思えない強い声。

 空気が張り詰め、氷点下以下の気温が更に下がったように感じられる。四肢が震え鼓動が早くなった。体内から酸素が失われ酸欠状態になり、パクパクと上唇と下唇が何度も触れ合う。

 司祭様に逆らい背教者の烙印を押されたら、生きていけない。

 日陰者の生活、犯罪者への転落、そんなモノが脳裏をよぎる。

 苦しい。空気を吸いたい。空気を。

 必死で口を開け、息を吸い込み、吐く。それを何回か繰り返すと、フッと司祭様が怒気を緩めるのが感じられた。

 引いてくれるのかな?

「理解できましたか? さあ道を開けなさい」

 全く理解してくれなかった。淡い期待は打ち砕かれる。

 半身になり道を譲ろうかと思ったが、踏みとどまった。俺は現皇帝に仕えることをこの上ない誉れとしている。現皇帝に命を救われた恩を返すべく命を捧げようと決めたのに、勅語に反することなどできない。

「どうか、お下がり下さい」頭を下げて懇願する。

 司祭様の再三の威嚇にも関わらず一歩も引かない俺に対して取り巻きが何か言っているが全く頭に入ってこない。耳から耳へと通り抜ける。

 そもそも不安で頭は一杯で取り巻きの言葉を聞く余裕もない。もしかしたら明日の飯にもありつけないかもしれない。老いた母親をどうやって世話しようか。

 そんな俺を見兼ねた役人がやってきて、一言二言司祭様に物申した。だが司祭様の怒気は強まるばかりで、一向に収まる気配がない。役人も下手に出ざるを得ず、手を焼いている。どうしようか、と考えていると、司祭様は一層冷えた声を出した。

「わかりました。あなたとそこの兵士マーズを背教者と認定します。神の使いたる私に逆らい、ひいては神の威光を汚した罪です。あなた方の下には明朝にでも背教者の認定証が届くでしょう。それをーー」

 途端に役人が青ざめる。当然俺も頭から血の気が引いている。

 このままでは最悪の結末を迎える。どうにかしないと。

「待って、待って下さい」俺は必死で司祭様の言葉を遮る。

「何ですか?」

「俺は背教者なんかじゃありません。神を敬い、毎朝の祈りも欠かしてません。週末には教会に行きーー」

「あなたは神の使いを侮辱し、神の行いを妨げた。神の行く道に立ちはだかった。これはまさしく神の教えに逆らうーー」

 司祭様は取り付く島もなかった。もう俺の言葉は届かない。

 最悪だ。陛下に恩を返せないまま終わるのか。

 ……母さん、すまない。

 絶望しかけた時、俺の前に並んでいた4人の内の先頭から3番目の男が怒声を上げる。

「いい加減にせぬか」

 振り返って声のする方を見る。わらにもすがる思いだった。

「黙って聞いていれば見苦しいことよ。どう考えてもその青年が正しいではないか。それを神の行いだとか、屁理屈を並べ立てよって」

 その男はこちらを見ようともせず虚空へと怒鳴っていた。周りの男達は笑っていた。

「屁理屈?」司祭様が首を傾げる。

「屁理屈とは聞き捨てなりません。私は神の使いですぞ」

「神は平等を説いておる」

「それは人々の平等です。神の使いである我々神官には関係ありません」

「そんな訳あるか。神の前には全て平等だ。そうやって特権意識むき出しな一部の神官のせいで、教会は堕落していると言われるのだ」

 そうだ、その通りだ。

「私への侮辱は神への侮辱ですよ。更に教会を侮辱しようとは。あなたも背教者ですか?」

「ほう、儂を背教者と呼ぶのか? ゴードンも偉くなったモノだな」

「ゴードン? 私の幼名を知っている?」

 神官の道を志す者は一度名前を捨て神から新たな名前を授かる。それ以降旧名を名乗ることはない。つまりあの人物は神から名前を授かる前の司祭様を知っていることになる。

 司祭様を叱責した人物がこちらを向く。

 雄々しく鍛え上げられた身体に、豊かな髭、琥珀色の瞳。腰に下げる剣の装飾は、質素だが透き通っており、見る者を魅了させる。あれは……虹色居酒屋でしか手に入らない「ビー玉」という奴だ。混ぜモノが一切入ってない高級品だ。売れば幾らになるかわからない。虹色居酒屋が常連客に配る代物である。つまりこの精悍な男は何度となく、ここに足を運んでいるのだろう。

 誰だろう、と思っていると、司祭様が足を滑らせ尻もちをついた。そしてワナワナと唇を震わせ、右手で精悍な男を指さした。

「ユ、ユ、ユング陛下!?」

 ユング陛下?

 知っている。

 前皇帝の弟で現皇帝の叔父だ。武勇に優れ、大将にまで上り詰めたが高齢を理由に退役した人物だ。皇帝の親族が要職を占めるのはよくあるが、ユング陛下は1兵卒からはじめ手柄を立て続け大将になった生粋の武人である。様々な戦役で勲功を立て、肖像画には10以上の勲章を右胸にたたえ笑顔を見せる姿が描かれている。都民にも人気があり、その肖像画を飾っている人は多い。雲の上の人物だ。

 初めて見たユング陛下の顔は肖像画より凛々しく感じられた。

「久しいのう、ゴードン。儂が幼少時お前を鍛えていたことが、つい昨日のことのように思い出される。お前は泣き虫で、儂の一撃でーー」

「陛下、その辺で」立ち上がった司祭が懇願する。

「しかも卑怯者で訓練を放り出しては逃げーー」

「陛下」

「良いか、ゴードン。お前のような輩が教会の評判を下げるのだ。神の前に平等なのは神官も兵士も一般人も関係ない」

「はっ」

「わかったら、さっさとその兵士と役人に謝れ。神は贖罪の機会を無知な我々にお与え下さった。神官であるお前が見本を示せ。さもなくば枢機卿にことの顛末を伝えるぞ」

「……マーズ伍長、そして記録係の役人。すみませんでした。私が間違っていました」

「……それだけか?」

 威圧的な陛下の言葉に司祭様の目が泳ぐ。トラウマでもあるのだろうか?

「神の敬虔な信徒であるそなたらを侮辱してすまなかった」深々と司祭様が頭を下げる。

「これで許して貰えるだろうか? 気がすまなかったら、枢機卿に言って降格させることも可能だが」

「いえっ、大丈夫です」

「私も大丈夫です」

 後難を恐れた俺と役人は、陛下の提案をやんわりと拒絶する。この争いはこの場だけにしておいたほうが良い。司祭様に恨まれて良いことなんか1つもない。

「ありがとう。代わりといってはなんだが、そなたらの食事は儂が奢ろう。記録係の君の分も払っておく。多めに払っておくから、次回の食事は存分に堪能するが良い」ニコッと陛下が笑う。

 その笑顔には不思議な魅力があり、惹きこまれそうになった。

 大将にまでなった陛下はやはりモノが違う。

「ありがとうございます。大助かりです」

「ありがとうございます」

 良かった。一件落着だ。背教者になるのを免れた上に、食事を奢って貰えるなんて万々歳だ。良いことはしてみるもんだな。

 記録係の役人は何回も頭を下げてから持ち場へと戻っていった。

「ゴードン、こっちに来い。説教してやる」

「はっ」

 弱々しく頷いた司祭様は震える足で陛下の下に向かい、こってりと絞られた。腰巾着たちはなすすべなく立ちすくんでいる。

 早く扉が開いて、客が出てこないかな、と司祭様は思っているだろうが、残念ながら15分間扉が開くことはなかった。その間陛下の説教は続き司祭様はまるで枯れ木のように打ちひしがれていた。

 いい気味だ。


 15分後に扉が開いて5人組が出てきた。やっとかー、と俺は身体を震わせた。5人組なので当然陛下のグループが入店する。俺は次の客が出てくるまでの辛抱だ。

 しかし陛下が入店する気配はなかった。

「陛下、入店なさらないので?」

 不思議に思った司祭様が聞いた。当初感じた大物感が消え、陛下にお伺いをたてるその姿は滑稽でさえあった。

「まだ呼ばれていない」陛下が応える。

 虹色居酒屋は店主の「お次のお客様ドーゾ」という言葉が入店の合図だ。最近はマリーちゃんがその役目を担っている。それまでは待たなければならない。

「陛下を待たせるとは。たかが居酒屋風情でーー」

「ゴードン」

「すみません」

 あの司祭様はオツムが少々足りてないらしい。それから30秒程してから店内から「お次のお客様ドーゾ」というかわいらしい声が聞こえてきたが、陛下はまたしても動かなかった。

「陛下。声が聞こえましたけど」

「先客がおる」

「先客。前の方は陛下の連れですよね?」

「そうだ」

「ならばどこに?」

 司祭様がキョロキョロと辺りを探すが人影はない。俺も列から身を乗り出して確認するが、誰もいないように思える。

 陛下は何を言っているのだろうか?

「そうやって横ばかり見てるから、神官というのはつけあがるのだ。もっと下を、下々の者の声に耳を傾けないか」

「すみません」

 司祭様はさっきから謝ってばかりだ。

「下だよ。下。下を見てみろ」陛下が地面を指差す。

「下ですか」

 俺と司祭様の目線が同時に下がる。

 そこには確かに先客がいた。

 寒さをまぎらわせるために自身の身体をしきりに擦り、更には視線を気にしてか、自身の毛を舐め回して(・・・・・・・)いる。グレーの体毛に細長く高貴な髭。つぶらな瞳と縦に細長い黒目は愛くるしく、今にも抱きつきたい衝動に駆られる。

 ーー猫だ。

 陛下の仰った先客は猫だった。

 司祭様は口を開けて呆けた顔で陛下を見る。

「猫ですね」

「猫だ」

「猫ですよ?」

「猫だが?」

 なんともバカらしい会話である。

「前皇帝の弟君であり、前大将の陛下が猫に先を譲るのですか?」

「先着順だからな」

「なっ!?…………」司祭様は衝撃を受けて黙った。

 記録係の役人が席を立ち、ガラッと扉を開ける。「お次はクロです」と呼びかけると、マリーちゃんが走って来て、猫を抱きしめる。クロとはあの猫の名前か。もしかしたら常連なのかもな。猫は嫌がる様子もなく「ニャー」と喉を鳴らしてマリーちゃんにじゃれつく。ひとしきり猫と触れ合った後で、店主から渡されたメザシを猫に与えた。クロはその獲物を口に加え、どこかへ走り去った。マリーちゃんはその後ろ姿に手を振っていた。

「さっ、次のお客様ね」クルッとマリーちゃんがこちらを振り向く。

「あらっ、ユンおじいちゃん。お久しぶりです」

「ああ、マリーちゃん。久しぶりだね。また大きくなっちゃって」陛下は列の先頭に行く。

「やだー、おじいちゃんたら。おせじが上手いんだからー」

 頬を染めたマリーちゃんが陛下をどつく。

 神をも恐れぬ所業である。

「その汚らわしい手を離しなさい。このお方は、いてっ」

 陛下が司祭様の頭を殴りつけた。

「ゴードン、お前は礼儀をわきまえろ。この店では私はユンおじいちゃんで通っている。この娘に何の落ち度もない。むしろ孫のようで可愛らしいくらいだ」

 陛下はマリーちゃんを抱きかかえた。

「それに浮世の喧騒やしがらみから解き放たれて、酔いしれるのが居酒屋というモノだ。この虹色居酒屋はその最たる例だぞ」

「あー、虹色居酒屋って言った。お父さん怒るよ」

 マリーちゃんが陛下を注意する。

「そりゃすまんかった。うっかりしていた。どうか言いつけないでおくれよ」

「良いよ。おじいちゃんいい人だから」

 マリーちゃんが笑う。

「ダック。正式名称は……ケンとシズクの居酒屋だったかな」

「うん、そう。お父さんとお母さんの名前なんだ」

 虹色居酒屋は通称である。

 客が毎日変わるからとか、料理が頻繁に変わるからとか、店主がシズクさんにプロポーズしたのが虹の下だからとか、それっぽい理由は何個か聞いたことがある。どれが本当かはわからないが、ここは虹色居酒屋と呼ばれている。店主はその名称を嫌っているが、客の大半は影でそう呼んでいる。

 正式名称が長ったらしいからである。

「さっ、どうぞ。私は手を洗わなくちゃ。クロ触っちゃったからね」

 ニカッと笑ったマリーちゃんは店内へと入っていった。

 店内からは笑い声が聞こえてきた。

「こんな、こんなことが……」

 司祭様はぶつぶつと独り言を言っていた。余程の衝撃を受けたらしく腰巾着の声も耳に入らないようである。

「邪魔するよ」

 陛下は何でもないという風体で、虹色居酒屋に入店した。



 後に猫の後ろで順番を待つ陛下の絵画が描かれ、陛下が大層この絵を気に入り、自分の遺影に用いるように指示を出すとは、この時は知る由もなかった。

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