底
ちょっと遅れました。すません。
灰色と緑が汚らしく混ざった闇と、鼻を突く異臭が混在する下水道の一部。崩れ蛸ンクリ壁の部分から増水時に水が進入して土を削り、抉ったのだろう。歪な部屋のようになっている空間に、周囲の苔とり黒みの強い緑色をした触椀が多数蠢いていた。
その数、八本。
「う、が、うううぅぅぅぅ」
蛸を思わせる吸盤を裏面に敷き詰め、苔を纏ったかのような模様を波打たせ、それは苦悩するかのように美しい女性の姿をした人間の上半身を苦悩に歪めていた。
「く、う、くるる」
喉から漏れる声は言葉にならない空気の振動音。洞窟から吹き込む海風が音色を立てるように、喉を通った呼気が鳴き声として漏れてしまった、ただそれだけのもの。
しかし、彼女をもし人が見たとしたら、きっと違う感想を抱くだろう。
曰く「何かに耐えているようだ」と。
事実、それは衝動に必至に抵抗していた。
ふとすれば欲求に従い動いてしまいそうな自分の身体を抱きしめて、爪が肌に食い込み、緑の血が流れ出るほどに強く拘束して、必至に押さえつけていた。
「う、がぁぁぁぁ!」
本能と自我との戦い。その激しさを象徴するように、八本の足は空洞内をのたうち回り、土壁を強打して更に部屋を広くしている。
数日前に押さえきれずに漏らしてしまった衝動。日に日に押さえられなくなっていく我が身を省みて、それでも尚ソレは自分の身を掻き抱く。
下水に這い回るネズミや蛇が巻き込まれて命を散らし、それを拾い上げて食らいつく事で、欲求を少しでも押さえようとする。
だが、空腹が癒えても欲求は止まらない。
またそれは、別の所にある故に。
「く、るるる」
微かに残る自我の残滓を総動員して、ソレは終わりの見えない戦いを、敗北しかない戦いを強いられていた。
しかし、それも、もう長くは保ちそうに無かった。
◇ ◇
「あーもうだめ、しんどい」
「まだ二時間しか経ってませんよ。休憩だけですからね」
「紅さんの鬼ーーーー」
ネームレス地下修練場。
こっそり掘った行政不認知の地下空間。周囲を強化されたタイル等の建材と、一部に強化ガラスをはめ込んだ窓だけが目に付く殺風景な部屋の真ん中で、遊は大の字に身体を投げ出して必至に呼吸を整えていた。
今の遊にとっては酸素こそが求めるご馳走だと言わんばかりに、激しく胸を上下させている。披露と痛みで震える全身には大粒の汗が滝のように滴り、既に身体の周囲は水たまり状態だ。
「はい遊お兄ちゃん、脱水になる前にこれ飲んで」
「あーサンキュ、黎奈ちゃん」
ここに遊が来てから一週間、毎日続いている基礎訓練という名の組み手だったが、ネームレスの存在を父から聞いてここに保護されることになった黎奈はその存在に大いに反応。「遊お兄ちゃんがやるなら、私はしっかり見とくから!」との宣言とともに訓練を見学するようになった。
三日たった今では完全にマネージャーのようになってしまっている。
「まったく、もう少し粘りなさい」
「紅の訓練がオカシイだけよ。普通二時間も動けないわよ」
格闘技の試合は長くて五分程だったと遊は記憶している。無呼吸状態で攻勢に出たり、緩急付けた動きが必須。加えて集中を研ぎ澄ませる必要のある格闘技は命の危険が少ないとは言っても、どうしても消耗は激しくなるものだ。故に休憩を挟みながらならともかく、継続して時間単位でなどそう出来るものではない。むしろ身体を壊す危険がある以上、指導者が絶対に許さないだろう。
それをこの女は、紅は、時間単位を分単位と間違えているところがある。二時間はこの女には二分に相当するのだ。とんでもない脳筋である。
モデルのような可憐と言ってもいい外見に惑わされる者がネームレスに存在しないのも、納得の話である。
「ちょっと、また遊をボロくしてるの?」
そんな惑わされないもの筆頭である恵が修練場の有様に若干引いた声を上げた。
「ケロッ?」
傍らに浮いている小さなカエル、恵みのアバターであるノーイも少し心配そうな視線を遊に向けていたので大丈夫だと軽く手を振っておく。
それでもノーイは遊の胸に飛び乗ると、まるで森林の奥深くで湧いた水の様な心地よい水流を発生させ、汗をかいて火照った遊の身体を優しく包み込んでさっぱりと汗を洗い流してくれた。
「ありがと、ノーイ」
「ケロロッ」
どういたしまして。そう言うように甲高い鳴き声を上げると、またピョンと跳躍し恵みの傍らで浮かんでいる水で出来た蓮の葉に着地した。
「はい、濡れたままだと風邪引くよ」
「重ねてありがとう黎奈ちゃん」
傍らから差し出されるスポーツタオルに顔を押し当て、次いで順に身体を拭っていく。気がつくと身体の火照りは収まっており、ノーイが汗と一緒に処理してくれたのだと悟った。
「またこっぴどくしごかれたわね。ゴリラは手加減を知らないから全く」
「手加減ならしていますよ、気絶もしていないじゃないですか。骨も折れていない」
「基準がオカシイのよあんたは」
こればかりは恵みの意見に同意だと、遊も力強く頷いておく。これからこの身体と運命と向き合って生きていくために必要な力だと説明されたし頭では理解しているのだが、どうにも未だにピンと来ない。
喧嘩とは無縁とは言えないが、それでもそんな危機とは離れて生きてきた遊には、危険と言われてもどの程度のものか分からない。
今分かるのはこの間スター相手になぶられた記憶と、先日会った九渚の威圧感。この二つは自分の味方になるとは思えない故に、それを思い浮かべて訓練に耐えているのだ。
なにも出来ないまま死ぬのは、もう嫌だから。
「なんですか、疲労なんて休めば済む話でしょう。軽い怪我程度なら何も問題ありませんし」
「疲労でも限度があるって言ってるのよ全く。まあいいわ、遊、霧華さんが呼んでるから行ってきなさい」
「霧華さんが?」
なんだろう、珍しい。
ここのボスである彼女とは、初対面の日以来会ってない。どうやら忙しいらしく、時折執務室から怒声が聞こえる以外に存在感がないのだ。
まるでマフィアの女幹部のような仕事ぶりに近づきたくなかったという遊の本音もあり、ここまで接触を避けてやってきたのもあるか。
「どうしたの、怖い? まあ初対面があれじゃしょうがないかもね。でも何もしなければ優しい・・・・・・と思うから気にせず行ってらっしゃい。ここの片づけは紅がやっておくから」
「あ、ちょっと恵!?」
恵が言った言葉の間がすごく気になるが、ここのボスの呼び出しである以上、行かないわけにはいかないのだろう。
なんとか牛歩でもやってみるかとか思いながら立ち上がると、横から黎奈が「私も行く」とついてきたので、そのまま二人で修練場を後にした。
続きは夕方から夜には