始まりの草原1-2
野に咲く小さな花達、そして優しく降り注ぐ日光が、春の始まりを感じさせる。少し先には、草の国の首都《モーリ》の灰色の城壁がそびえ立つ。
此処は、草の国の冒険者達が、最初に必ず訪れると言っても過言では無いーー"始まりの草原"と呼ばれる土地であった。
水でもなく、そして泡でもない。不思議な丸い形で、水色のぷよぷよとした魔獣があちらこちらで地面を跳ねている。時たま、その丸い体を空中でゆっくり回転させ、二つのつぶらな瞳で興味が唆られる物を探している。
「プルゥ〜〜!?」
ーー穏やかな草原に一匹のスライムの、悲痛な叫び声と言える様なものが響いた。育つ場所の環境によっては、ひと括りにスライムと言っても凶暴な類が生まれる事もある。
だが、此処にいる"青スライム"と呼ばれるものは、人に危害を加える様な、荒れた性格は持ち合わせていない。好奇心から人へと近付いて行く事は多いのだが。
「プルル〜〜〜〜」
ゆっくり思考をする間もなく、また一つ響く新たなスライムの叫び。
何体かのスライム達が、叫び声の元近くに居たのだろうか。鈍い動きで体を跳ねさせながら、森がある此方の方角に逃げてきた。対照的に草原から隠れる森側――馬車の周りで、体を震わせて漂っていたスライム達だけは、気にしないかの様に穏やかなままである。
広い草原にはある程度の距離があった。
スライム達が逃げて来た叫び声の元――そこには、茶色の皮鎧を上に着た、裕福そうな身なりの子供が二人居た。
「お父様にもらった棍棒つかいやすい!」
「スライムなんて簡単すぎるんだよ。強いのいないかなぁ」
「冒険者になるには、きほんが大事だぞ!って、お父様言ってたよ。ほら、あれやっつけよ」
まるで、弱すぎて楽しくないと言いたげな少年に、少女が指差した。その先は、仲間のスライム達に置いて行かれたのに気づかないのだろうか。一体だけで、ぽつんとその場に留まり、跳ねている元気なスライムがいる。
「貸して」
「後ろからそ〜っと、だよ?」
「できるから」
棍棒を受け取った少年が自信有りげと言わんばかりに、気づかれない様にスライムの背後をそっと陣取る。手に持っていた棍棒を振り下げると、スライムの柔らかそうな球体とも言える体に、空気を巻き込みバシッと音を立てて勢い良くのめり込んだ。
「プ……プルァ!!」
棍棒を弾力で返して、スライムが咆声を出した。それは、先程に聞こえた様な弱々しい事など比べ物にもならない。まるで口煩い何処かの親父が怒ったようなそんな音量だ。
ビクッと男の子が驚いたのか肩を震わせた。足がすくんだのか動く事もせず、視線だけを上に下へと動かす。ポヨン、ポヨン、と弾ませながらスライムが振り返り、少年と目が合った。
――その時。呆気にとられて立ち止まっていた少女の足元に、一つの黒い果実が転がりぶつかった。丸い拳大ほどで、囓られた跡が残るそれは、スライムの方向から転がって来たのだ。距離はある為、少年ほど驚きはしなかったのだろうか。または度胸があるのか。少女は声を上げたスライムではなく、足先に止まった果実を不思議そうにコロッと蹴り返す。
そのまま転がる果実に目を追いかけた。
「いやあぁ!!」
その刹那、草原に幼い少女の声が響いた。
果実が転がった――少女の視線の先は、スライムの大きな口らしき物に上半身が呑み込まれる少年の姿だった。ハッと手のひらを一瞬見るが、唯一の武器である棍棒は少年の足元に転がっている。
「ふ、ふきとばせ たすけて 風っ!!」
慌てた様に唱えた魔法により、少女のかざす手から突風が出た。少年を巻き込んだままスライムへと向かう。弾力があると言っても、スライムは水質にも近い不思議な魔獣。少女の突風の強さが勝ったのだろう、風圧に負けたスライムが少年を剥がし、後ろへと二転しながら吹き飛んだ。
「ゴホッゴホッ」
――少年が地に崩れながら咳き込む。
「死なないでっ!!」
「ゴホッ……おぼれるかと……」
吹き飛んだスライムを睨みつけると同時に、咳き込む少年の元へと駆けつけた少女。転がった後に静止したスライムは、ピクリとも動かないままだった。
徐々に息を持ち直したらしい地にへたりこむ少年に、少女が涙目になりながら覗き込んだ。
「やだよ、もう。……立てる?」
「うん……」
ゆっくりと少女に支えられて立ち上がるが、血の気が引いた顔の少年は足がおぼつかない。支える少女も体格が同じ程でふらつき、立つのがやっとだった。
「ここにいたくない……ねぇ、かえれる?」
泣き出しそうな顔で、か弱い声を出す少女の問いに頷く少年。
その間にも二人の顔は、動かないスライムに視線が釘付けとなり、恐怖の色に染まっていた。
一歩、二歩、とその場から身体の力を振り絞る様に、足を首都がある高い城壁の道へと進める。
動かない事に安堵して、少年少女が十歩程の足を進めたとき。
静止したままだったスライムが突然一回転した。
丸い二つの目がある正面が、少年少女の背中を見つける。
「プ、プル〜〜!!」
声にいち早く、歩いて来た背後に振り返ったのは少女だ。
スライムは大きな口を開け、転がって来る。
「いやぁぁ!!」
「う、まって、お……」
少女の走り去る背に向けて届かない手を伸ばす。反応に出遅れて、少年は置いて行かれたのだ。
――もう無理かもしれない。そんな絶望感を漂わせる表情で、迫り来るスライムの姿に目を瞑った。
その瞬間。
目を瞑る少年の前に立ち塞がる、突然現れた茶髪の白いローブ。その白い背中には金色の刺繍が施された教会の司祭の紋。
「止まれ!」
若さが滲み出る落ち着いた声で、転がって来るスライムに本を投げつけた。開いた状態の本がスライムへと被さった。ぶつけただけならば、自然に落ちるのが予想出来る。
しかし、その本はくっついた。スライムは同時に静止する。
白ローブの男が、すかさず少年の位置まで行きしゃがみこんだ。
少年の恐怖心から引きつっていた表情が、第三者の出現に少し和らいだように見えた。
「しさいさま……?」
「はい。もう大丈夫ですよ。これを飲んだら坊やは、真っ直ぐ帰りなさい」
茶色い液体の入った小瓶を差し出した。蓋を開けて嗅ぐ少年は不思議な顔をする。「甘くて美味しいものですよ。力も戻るから」と、"しさいさま"と言われた男が、もう一本を懐から取り出し自分で飲んで見せた。おずおずと少年も手に持つ瓶を一口飲む。「あまい……」驚きに小さな目が開き、二口三口と続き一気に飲み干した。それを見届けた男は優しく気を遣う様に話しかけた。
「さぁ、帰りなさい。いいかい? 真っ直ぐですよ。また怖い思いをするかもしれません。戻ってきては駄目ですよ?」
手を差し伸べられて立ち上がった少年の顔色は、スライムに襲われる前ほどに戻っていた。
「はい! ありがとうございました」
ペコリとお辞儀をし、背を向け城壁へと駆け出す少年の足取りは元気なものだった。
「どうだい?」
"しさいさま"の男は少年の背が更に小さくなるまで見届けると、そのままポツリと呟いた。先程の少年に向けた、目元を細めた優しさを感じさせる表情は無い。心配などしてなかったかの様な冷たい目に変わっていた。
「食ベ頃、熟シテ甘イゾ。嫉妬モ、喰ウカ?」
走り去って行った少年は既に姿見えず、草原に見える人影は今の所は見当たらない。掠れた声でスライムの元にいる本が答えた。嫉妬とは――司祭様と呼ばれた男、空のもう一つの顔の事。
「スライムは抵抗あるな……止めとくよ」
「ナンダ、美味イノニ。瓶ノ、チョコレートヨリモ」
「そんな事言ったら、強欲にまた鎖で縛られるかもな?」
「ソレハ、オソロシイ……」
嫉妬が肩を竦めて、茶化すように咎めている。そして、動かないスライムに齧りつく、手の平に収まる程の喋る本。その体積でどうやってスライムが収まるのか。パカパカと横に開く本には、鋭い小さな歯が何本も生えてより、まるで口の様だった。
**
「で、どうなんだ? この黒い林檎の効果は?」
食べ終わるのを見計らい、嫉妬が再び本に声をかけた。少し先に落ちていた、齧りかけの黒い果実を手にして。
――先程まであった青い球体のスライムの姿は、欠片さえもない。綺麗な若々しい草の生える地のみになっていた。
「強欲ノ見立テ通リダナ。食シタ魔物、魔力ヲ吸ッテ、普通ノヨリモ質ガイイ」
「皮に狂暴化効果。僕等の言霊が効くのも確かな訳だね」
「神ハ良イ物ヲクレタ。中ダケナラ、タダノ甘イ果実。人モ、皮ゴト食ワナケレバイイノダロ? マダマダ実ル。魔獣達モ操レルノカ」
「物騒な事、外で言うもんじゃないって」
「司祭様ハ優シクナイ。裏ハ、オソロシイト?」
「はぁ……。暴食、もうその癪な口は閉じてな。戻って報告だ」
嫉妬は、煩そうに暴食と呼んだ本を足で踏みつけた。そして、口を閉ざされても尚、モゾモゾ動こうとする本を脇に強く抱えた。強く抵抗しない辺り、本もそこまで拒んでいない様に見える。そしてその場を離れるのだった。
先程のような悲鳴もなく、穏やかな草原がただ広がっている。
***
深い緑の木が並ぶ森、城壁とは反対側――。
一台の馬車が見えてきた時、嫉妬は歩みを止めた。
何体かのスライム達がポヨン、ポヨンと後ろを追いかける様に跳ねて来ていたのだ。
「そっか。そんなに匂いが気に入ったなら、あげるよ」
微笑みながら、手にしたままだった黒い林檎を、青いスライム達の小さな群れに投げ込んだ。
「「「プル〜〜!!」」」
嫉妬の能力である"魔獣の声を翻訳"。恐らく、言葉通り果実からの匂いについてきたのだろう。
奇矯を上げてスライム達が群がった。丸い球体達がぶつかり合っている。
それを背にし、また馬車へと歩き出すのだった。
「"人から栄養を貰っておいてよ。スライムのマダム達"」
一つの"言霊"を残して。