僕の盲想Ⅳ(1)
あの衝撃の放課後SMタイムの明くる日の朝。
僕は、未だに昨日の衝撃を引きずっていた。
流石にあの後マニュアルに沿って折檻されるようなことはなかったが、心持ち軽やかになったように感じる篠崎さんの歩調とは対照的に、僕の足は粘性を増していたようだった。足がなかなか地面から離れない、そんな感覚。
あの時僕は、彼女はきっと校内で噂されているような根も葉もない嘘っぱちとは無縁の、正統派釣り目美少女なのだと勝手に断定していた。サディスト? 何それ、美味しいの? 位のことを言ってしまうくらいに世間知らずなお嬢様なのだと。だがしかし、真実は違っていたのだろうか。
僕の頭は、完全に彼女のことで一杯になっていた。こうやって書くとまるで恋でもしているかのようだ。
僕は周りの元気いっぱいな生徒たちにまぎれてとぼとぼと校門をくぐり、校舎へと向かっていると、
「おーい、おーい廻ー」
後ろから聴き慣れた声で呼びかけられた。
「なんだ、翔子か。おはよう」
「なんだとは……ハァ、何よっ……何だとはっ……ハァ」
そこには、グラウンドから駆けて来たのか息の荒い翔子が立っていた。動きやすいよう縛った髪を上下に揺らしながら、膝に両手をついて息を整えている。朝練後なので当然といえば当然だが、少し砂埃で汚れた練習着は汗でびっしょりだった。ポタポタと地面に汗がほとばしっている。当然、その細い体のラインに沿ってピッタリとシャツが張り付いていた。
「あっ、ちょっと、変な目で見ないでよね!」
僕の目線に気がついたのか、翔子は胸の前で腕を交差させる。
「べっ、別に見てねーし。っていうか、どこを見ればいいんだし」
寄りにもよって、胸を隠すなよ……。見てるほうが虚しいぞ? とは口が裂けても言えない。
「どこって、そりゃまぁ……じゃなくって!」
自分で言い出したくせに何やらちょっと混乱気味のようだった。謎の身振り手振りを見せながら、どうやら僕に言いたいことを頭で整理しているようだった。そういうのは、考えてから話しかけよう。
「あのね、昨日、うちのクラスの篠崎さんと一緒に帰らなかった?」
「なっ!」
今度は僕が混乱する番だった。
どこからその情報を得たのかは知らないが、昨日の今日だぞ? いくらなんでも早過ぎないでしょうか。
「やっぱり……」
僕のそんな傍から見たら非常に分かりやすいであろう反応を見て、疑惑は確信が変わったらしい。
翔子はジトーっとした目付きで僕を睨めつけた。
「廻は一昨日あたしに言ったよね? 篠崎さんとは何にも無い、俺の言葉を信じろって」
「いっ、いや、昨日のはね、別にそういったね、事ではなくってね」
自分でも何を言っているのか分からん。
「やっぱり、一昨日何かあったんでしょ……。たっ、例えば、ほら、その、お、お付き合いを申込まれたとか……」
「いやっ、それはない。これはマジで、それはない」
僕は必死の弁解をした。
なんだか浮気を糾弾される彼氏の気分だ。残念ながらそんな経験はないけれども!
その時、良いタイミングで予鈴が鳴り響いた。まさに救いの鐘だ。
「あぁっ、もうこんな時間じゃない。じゃあ分かった。あたしと一緒に帰りなさい! 今日……はちょっと用事があったっけ。じゃあ明日! 明日一緒に帰ったときに続きの話するから! いい、分かった?」
「えぇっ、なんでそんな……」
僕としては、幼馴染とこんな気まずい時間を過ごすのはもう遠慮願いたいのだが……
「ふーん、篠崎さんとは帰れて、あたしとは帰れないんだー」
「喜んで」
それを言われちゃ断れないじゃないか!
僕は着替えのある翔子と別れると、校門をくぐった時よりも更に重い足取りで校舎へと向かった。
何だよ……爽やかに朝の挨拶をしたはずなのに全然気分がすっきりしないじゃないか……。
僕がのろのろと昇降口で上履きに履き替えていると、
「待っていたぞ、廻」
何故か階段を塞ぐかのようにマギーが立ち塞がっていた。
「今度はマギーか。おはよう」
クラスメートが僕らを見ながら怪訝な表情で横をすり抜けていく。
「……」
僕の前に黙って立ちふさがるマギーはまるでリノリウムを突き破り生えてきた大木のようだった。
なんだ、『アスファルトをものともせずに生えてきた根性大根!』みたいな見出しで地方紙の端を飾るつもりなのか、お前は。なんなら記事書いてやるぞ。
「……今日の放課後、文芸部の部室」
無口キャラのごとくじっくり数十秒掛けてそれだけ言うと、マギーは長い身体を揺らしながら教室へと帰っていった。
しかも、こいつも挨拶を無視ときたもんだ。
若者の挨拶離れも深刻だな! ……何か原因があるんじゃないかって? ハハハ、社会学的な統計にはそんな個人の事情は反映されないのだよ。はぁ。
僕は先の翔子の件とダMの件とで恐らく不当に掛けられるだろう嫌疑に思いを馳せて気分がさらにどんよりと濁った。このまま濁りきったら僕の中から何か良くないものが生まれそうだ。助けて、女神様。
がらがらとやる気のない音で教室の扉を開け、僕よりも早く登校してるクラスメートに適当に「うーっす」だの「おいーっす」だのとこれまたやる気のない挨拶をする。まぁ、慣れ親しんでしまったクラスでの挨拶なんてこんなものだ。
ビバ・テキトー……だったのだが。
「……おはようございます」
「……おはようございます」
自分の後ろの席から、緊張感あふれる朝の挨拶が飛んできた。
既に見慣れた感のある、しかしながらこれっぽっちも鋭さの衰えない眼力で攻撃……ならぬ我射殺が僕を攻める。
そう、翔子やらとのごたごたですっかり忘れていたが、今僕が最も考えるべき懸案事項は座席の関係により裂けることの出来ない篠崎氷菓との邂逅について、だったのだ。
それにしても、さっきから朝の挨拶を交わしてもこれっぽっちもスッキリしないぞ。むしろ、宣戦布告のように次々と厄介事を招いている気がする。
なんだよ、挨拶は魔法じゃないのかよっ。挨拶するたび宿敵増えるね!
僕はそっ、と椅子を引き、薄氷の上に座るかのごとく慎重に腰を下ろした。ひしひしと視線を背で感じているのは、果たしての僕の勘違いだろうか。鞄から教科書やノートを取り出す手も、なんだかぎこちなかった。そして――
「あっ」
やってしまった。
バラバラと床に散乱する教科書やノート。近くのクラスメートから何やってんだよーだのなんだのと野次が飛ぶが、今はかまっている余裕は無い。
僕は、全くドジっ娘かよ、と心のなかでセルフツッコミを入れながら拾っていた。今時流行らんぞ、ドジっ娘。
粗方拾い終えたのだが、英語の教科書だけが見つからなかった。極力見ないようにしていた背後にあるんだろうなぁ、この流れ。
僕はいや~な予感をひしひしと感じて、そっと後ろを伺った。
あぁ、やっぱり。
大方の予想通り、英語の教科書は僕の背後、つまり篠崎さんの席の下に鎮座していた。しかも……
「あっ、あのぉ……」
僕はここに望んでいるのです! もっと踏んでください! あぁっ、そう! もっと、もっと!! と言わんばかりに、篠崎さんの足にしっかりと踏まれた形で。
僕の英語教科書を間違った道から救うべく、彼女にやんわりと足をどけていただけるようにお願い奉った。
こいつはまだ更生の余地があるからな。ダMはもう救いようがないけど。
だが、彼女は僕の声が聞こえているのかいないのか、何やらブツブツブツブツ言いながら考え事をしているようだった。なんて言ってるんだ?
僕はちょっと興味をそそられ教科書を拾うふりをしつつ声の届く範囲にじりじりと近づいていった。
「あ……む……」
?
何を言っているんだ?
僕はもう少し、もう少し、と近づく。
「あーめん……むち……」
「ほわっ!」
アーメン!?
鞭!?
この子は朝っぱらから何を言ってるんだ! あぁ、昨日買った本を思い返しているの? そうなの?
僕が思わず驚愕の声を上げると、流石に気がついたのか、彼女のビクッと肩を竦めて視線をこちらに向けた。当然ながら、相変わらずの眼力で。
「あっ、はい、何でしょう」
口調は柔らかなのだが、双眸に込められた力はなみなみならぬ物ではなかった。まるで口と眼が違う生き物かのようだ。
「あっ、あの、教科書……」
僕が彼女の瞳に気圧されながらも必死で足元を指さす。
彼女もようやく自分が僕の教科書を踏んづけているのに気がついたのだろう。……もしかしたらもっと前から気がついていたという可能性もあったが。
結局、朝も早くから二度も視線、じゃなかった死線をくぐり抜けることになってしまった。それにしても、一体彼女は何を呟いていたのだろうか……。僕の耳が正しければ、かなり物騒なことを呟いていた気がするんだが。いっ、いやっ気のせいだ、気のせい。ハハハハハ……はぁ。
こうして、僕は今日一日の間帰りのホームルームが終わり彼女から開放されるまで、彼女の言動の謎と態度の急変、そして背後から感じる無言の圧力による消耗戦を繰り広げることになるのであった。