第八話 ガイラース国①魔宮
(一)
雲ひとつ無い空は、遥か彼方まで濃い蒼色をしている。
強烈な陽光が大気に降り注いでいる筈だが、ここは標高三千ローナ(一ローナ=一メートル)近い高地である。空気が希薄な為、むしろ空は黒味さえ帯びている。大気の向こう側に存在する宇宙の暗黒が透けて見える空だ。
遠方の蒼空の下には、白く雪を冠った山の連なりが霞んで浮き上がっている。雲かと見まごうばかりの距離と高さであった。
夏の陽光にも融ける事の無い雪を太古の空気と共にその頂きに乗せ、懐には大氷河を抱く。ガイラースの神々の宿る神聖な山脈である。
山の峰と高い天の間で白煙が舞う。風が唸りを上げて、雪を巻き込み吹き荒れているのだ。幾千、幾万の荒ぶる神々が高い叫び声を上げながら、雪に埋もれた谷の間を疾り抜けているようであった。
山肌は一面を雪と氷に覆われている。その下には石や岩が累々と積み重なっている筈であるが、その姿が見えるのはバードラ月(八〜九月)のほんの僅かな期間だけだ。一年の大半は、谷は雪と氷に閉ざされている。
そこには圧倒的に巨大な眺めが広がっていた。山脈の頂の一つに登った者がいれば、息を飲んでその光景を見詰めていただろう。人の距離感を麻痺させる程の壮大な風景であった。
八千ローナを越える高さを有する巨大な山の峰々が、恐ろしい程長大な円弧を造っているのだ。反対側の遥かな端は霞んで見えなくなっている。直径が数百ヨージャ(一ヨージャ=一キロ)になる巨大なクレーターだ。
クレーターの内側は別世界である。山肌はなだらかなスロープとなり、雪山から溶け出した水が幾重も重なって大河へと姿を変え、麓へと流れてゆく。
河の流れはクレーター内部の盆地に草原や密林、湖を産み出していた。中心部には高さ二五〇〇ローナの巨大な岩山がそびえ立っている。
ここが“宝珠”を求め、宮本武蔵の世界へとやって来た、ルーナの故郷ガイラース国である。
ガイラース国は『結界山脈』と呼ばれる長大な雪山の岩峰に周囲を囲まれた盆地だ。
出入りは基本的には、巨大な岩峰の尾根伝いに進んだ南側に存在するダク峠から入るのみである。ダク峠には峠を挟むように左右に巨大な岩壁がそびえており、岩と一体化する形で高さ五〇ローナの城壁が造られている。城壁の中央、道幅に開いた空間が峠の管理をする関所だ。
この関所以外の場所を通りガイラース国に侵入しようとする場合、険しい雪山の峰を越える事となる。夏場でさえ強烈な寒気を有する高峰を登り、氷河を渡り、氷の壁をよじ登る。しかも空気の薄い八千ローナ級の峰々である。関所のあるダク峠さえ、低い場所とは言っても標高三千ローナの場所だ。関所以外のルートを通りガイラース国へ侵入出来る可能性は極めて低い。正に、この大地そのものが巨大な結界なのである。
結界山脈の内側には九つの都市が存在している。
北方に、人面獣身、獣面人身の民“ガンダルヴァ族”の都市『クベーラ』
北東に、人と獣の特徴の混じり合った獣人達“キンナラ族”の都市『イシャナ』
東方に、人間に近い見た目であるが、男女共に容姿が中性的で美しく、耳が長く背も高い“デーヴァ族”の都市『インドラ』
東南に、太古の戦闘神の末裔とされる“アスラ族”の都市『アグニ』
南方に、身体に蟲の特徴を多く現した“ヤクシャ族”の都市『ヤマ』
南西に、半人半蛇の身体を持つ民“マホラガ族”の都市『ラークシャサ』
西方に、強靭な肉体と戦闘力で恐れられる“ナーガ族”の都市『ヴァルナ』
西北に、人身に翼を持つ大空の民“ガルダ族”の都市『ヴァーユ』
ちなみに、この八都市の八種族――“神民”以外にガイラース国に存在するのが“人間”である。彼等は他の種族に比べ、身体能力は大きく劣る。また“気”の扱いも生まれつき不得手な者が殆どであり、社会的地位も他種族に比べ低い。ただし人口だけは多く、各都市全てに逞しく強かに暮らしていた。
そしてそれら九種族が混在する中央の都市。三千年に渡りガイラース国を支配する“王”ヴァリシュタの宮殿がそびえ立つ、王都『ブラフマー』である。
王の宮殿は、クレーターの中央部分に屹立する高さ二五〇〇ローナの岩山『マルポリ山』の山裾にあった。灰色の玄武岩が露出している部分に、それは忽然と現れる。
どこからが岩壁で、どこからが建物なのか――巨大な岩をそのまま削り出し造られた宮殿は、記録によれば、高さ三〇〇ローナ、幅六〇〇ローナとされている。斜面に沿って建造されている為、正面からは三〇階、側面からは二〇階に見える。
だが、地下にはそれ以上の階層があるとも噂されているし、背面の岩山にも山肌を堀抜いて無数の通路と部屋が存在するという説もある。
もしかすると、山そのものが一つの宮殿であるのではないか――そんな話さえも信じてしまいそうになる。宮殿は、ガイラース国王ヴァリシュタの絶大な権力の象徴であった。
巨大な王宮は、三つの部分で構成されている。
王宮を正面より見て右側の、壁が深紅に塗られた『紅宮』。ここは宗教的権威の中心であり、行政機構を統べる“神官”達の住居となっている。
そして左側の、白亜の『白宮』。こちらは軍事、治安維持の中枢となる“武官”達の本拠地だ。
その二宮の奥にそびえ立つ、壁一面が黄金と様々な色の宝玉、神々の浮彫で飾られた豪奢な『太陽宮』――ヴァリシュタ王の宮殿である。
現在、実質的にガイラース国を支配しているのが、この紅宮と白宮と言える。
支配者は三千年の“不死の王”ヴァリシュタであるが、その姿を公に現した事はこの数百年間数える程しか無かった。
王の意志は神官と武官の代表者によって構成された、ガイラース国の最高決議機関である『神民会議』に伝えられ、そこで王の前で話し合い、決議がされる。
ガイラース国の民には、そのようになっている。会議は非公開であるし、決定事項を国民に向けて発表するのも神民会議の代表者だ。
王は絶対的で神聖な存在である。公の場に軽々しく姿を見せるものでは無い――と、いつの間にか暗黙のルールのようなものが存在している。その為か、王宮はまるで城塞の如く人々の立ち入りを阻んでいた。
宮殿は北側を背後のマルポリ山の断崖絶壁に守られ、西側、東側、門のある南側の三方を、高さ二〇ローナの巨大な正方形の石を積み上げた壁で囲まれている。
壁の内側には川が流れ森が広がり、王や神官、武官達の食事の為に家畜や農園まで存在していた。また、森の中には本流とは別に小川があるらしいが、その流れを見た者はいない。ヴァリシュタ王の為の神聖な川とされているからである。
門の周辺には昼夜を問わず、内側と外側に兵士が立ち、交代で見張りに当たっている。各種族から選抜された屈強な兵士ばかりだ。
宮殿に入る事が可能なのは、神民の中でも限られた者のみである。宮殿は正に王都ブラフマーの、いや、ガイラース国の中心であった。
王都ブラフマーは大きく分けて、四つの区画に分類される。
盆地の中央に位置するマルポリ山を背後にした王宮と、官庁舎が並ぶ中央区。中央区前の広場から南側に放射状に広がっていく商業区。その隙間を埋めるように、増築を繰り返した集合住宅が密集する住宅街区。
そして、中央区、商業区、住宅街区を囲む城壁の外側に存在する貧民街である。
王都ブラフマーに入る事を許可されなかった難民達が、城壁と壁の外側を堀のように囲む河の間に暮らし始めたのが貧民街の始まりであった。
城壁の外周に沿って粗末なあばら家が無数に建ち並び、いつの間にか勝手に定期市まで立つ程に成長してしまった。しかも商業区の商人達の中には、難民の人間達を低賃金で働かせる者まで出始めたのである。
こうなると強制的に退去させる事は既に不可能であり、王都側としても仕方無く貧民街の人々も王都の住民と認める他無かった。許可さえ与えられれば、貧民街から王都に入る事も可能となったのだ。
そして、貧民街の存在は王都にとっても非常に都合の良いものとなってゆく。特にヴァリシュタ王にとっては――。
(二)
ルーナがガイラース国を発つより以前のある日――ジャートラ月(三〜四月)の事。季節は長い冬が終わり、ようやく春の気配が陽光の中に含まれ始めていた。
ブラフマーの中央付近に存在する広場は、様々な姿の神民達で賑わっていた。
牛の頭部を持つ見上げるような大男が、石畳の上に藁で編んだ敷物を広げ、そこに瑞々しい果実や野菜を並べている。
荷台の上の農具や包丁を手に取り「イシャナ製の鉄製品は丈夫で長持ちだよ!」と、声を発する狼のような耳と尖った鼻をした青年の前では、赤い鱗に覆われた蛇の下半身を持つ美しい女性が、真剣な表情で鍋を吟味している。
蟷螂を思わせる巨大な黒い眼の男が、地に着く程細長い腕に色とりどりの絹の服を掛けて通行人に見せている。その前では背中に白い翼を生やした活発そうな少女が、道行く女性達に「ガルダ族用、マホラガ族用、うちの店で手に入らない服は無いですよ〜!」と話し掛けていた。
水晶の角を側頭部に持つ、上等そうな絹の衣服を身に付けた男が、青い鱗に覆われた腕で黄金の装飾品を店頭に出した。それを見て、腰まで届く美しい金髪と長い耳が特徴的な女性が眼を輝かせる。隣の同族の男性は少々困り顔だ。
鋭い視線を油断無く周囲に疾らせる男は巡回中の兵士である。四本の剣を背負い革の鎧を身に付けたその男は、青銅の如き肌と四本の太い腕を持っていた。
広場の露店や商業区の店舗を見てみれば、神民達の中で、香辛料の原料となる植物の種や枝葉を細かく磨り潰したり、商品を満載した荷車を引くといった下働きをしている人間の姿も多く目に入る。
元は貧民街の住人であった者が殆どだ。低賃金て働かせる事の出来る彼等は、ブラフマーの商業区を支える労働力となっているのである。
市場の人混みの中を、一人の少女が歩いていた。
人間ならば年は十二、三歳位だろうか。だが、身体に巻いた純白の絹と腕の翡翠の鱗から、彼女が人間ではなくナーガ族だと分かる。
彼女は金髪の側面に大きな花飾りを着けていた。“黒龍族”の証である黒曜石の光沢を持つ角を隠す為である。他の神民、特にナーガ族に見つかれば余計なトラブルになるかも知れない。それを防ぐ為の物だ。
彼女は好奇心に満ちた瞳で忙しなく周囲のものに視線を巡らせている。街は活気に溢れていた。五月蝿い程である。普段彼女の暮らしている人気の無い屋敷とは別世界だ。
野菜、肉、果実、花々の鮮やかな色彩。売り物の家畜、屋台から香る食べ物、様々な香辛料の匂い。商品を売り歩く者の声、壊れた農具を修理する音、街角の芸人達の歌声と楽器の音色――。全てのものが、少女の感覚を刺激していた。
そして男や女、子供、若者、老人――性別や年代の異なる、それぞれ全く違う外見をした神民と人間の人々。普段、限られた者としか接しない彼女は、その姿を見るだけで心が踊る。
この市場で欲しいものが有って歩き回っている訳では無い。一度、王都の喧騒の中を歩いてみたかったのだ。今日は父にねだり、無理を言って連れて来てもらった。彼女の父も、普段寂しい思いをさせている自覚が有ったのだろう。
今、その父親は、広場の先にそびえる王宮に行っている。その間に少女は自身の世話係の男と一緒に市場に来ていた。
だが現在その世話係は彼女の近くにいない。はぐれた、のでは無い。自分で自由に市場を見て回る為に、あえて一人になったのだ――と、彼女自身は思っている。
今頃、世話係の男は必死になり自分を探しているだろうか。自分がわがままを言う度に、白いものが目立つ髪を掻いて、武骨な顔に困ったように皺を寄せる優しげな表情が思い出される。
それとも、あの武官の父も一目置く彼の事だ。とっくに自分の居場所など察知していて、あえて自由に歩き回らせてくれているのかもしれない。
「屋敷に閉じ籠もりきりでは、お嬢様があまりに可哀想です。たまには外の世界を楽しませてあげて下さい。私が命に代えてもお守り致します」そう言って、自分の外出を後押ししてくれたのだ。
それを思い出し、少女の心に安心感と共にふと冒険心が沸き起こって来た。彼女の視線は自然に王宮に向けられる。
民の立ち入りは禁じられているのは当然知っているが、同時に王宮は大好きな父の働いている場所なのだ。
ほんの少しだけ――
迷ったのは僅かの間だけだった。彼女の足は王宮の方角へと進み始めていた。
(三)
市場の喧騒を通り過ぎ、黒龍族の少女は商業区の外れに出た。城壁の外側の遠く彼方には、結界山脈の高い峰々が蒼い空の中にそびえ立っている。視線を街の中に戻せば、王都に巨大な影を落とすマルポリ山の威容が目に飛び込んで来る。
岩山の麓に存在する王宮を目指し進むと、やがて王宮を囲む城壁に辿り着いた。壁の上方からは樹々の梢が見える。壁の内側の針葉樹と落葉樹の混生する森だ。
少女は見張りの兵士の眼を避けるように、商業区の店舗の陰に隠れながら壁に沿って歩いて行った。だが、当然の如く内側へ入る方法など思い付かない。やがて歩く内に東側の壁の端が見えて来た。
城壁は西側と東側の端が、マルポリ山の岩壁にぶつかり岩肌と一体化する形になっている。
ここまで来ると、見張りの兵士の数は少なくなっていた。巡回に通り過ぎる頻度が数分に一回になっている。兵士の顔にも緊張した様子は無い。ここ何十年も、何者かが壁を乗り越え侵入した事が無いからだ。
ふと、彼女は眼前の壁の下方にある異物感に気付いた。眼を凝らしてみれば、壁と地面の接する部分から何かが飛び出している。
それは、壁の内側に自生する年経た巨木の根であった。王宮の森は王宮が出来た頃より存在していた為に樹齢何百年という巨木も珍しく無い。恐らく何十年という歳月をかけて、樹の根が地を這い壁の外側へと押し出て来たのだろう。
その根は成長するに従い太さを増して、壁との間に僅かな隙間を作り出していた。根の成長に壁の石材が負けて、一部が崩れていたのだ。
大人が通れる大きさでは無い。だが、子供の体格ならば――
少女は一番近くの建物の陰から注意深く周辺を見渡す。兵士は先程穴を背にして通り過ぎたところである。
彼女は陰から急いで駆け出すと、穴を潜り抜けてそのまま森の中へと入って行った。
(四)
落葉が幾重にも重なった森の土は、踏むと少女の軽い体重でも柔らかく沈む。しばらく歩むと、周辺の視界は全て森の木々に囲まれた。
落葉の匂いと針葉樹の匂いが、森の中に満ちている。通り過ぎた冬と訪れた春が同居するほんの僅かな間の空気だ。
梢の間から射し込む陽光が、足下に宝石のように輝いている。
時折、栗鼠などの小動物が枯葉を踏んで駆け抜けてゆく音が聴こえる。高い頭上では、鳥達の鳴き声が響いていた。その他は自分の足音と息遣いが聞こえるだけだ。先程までの街の喧騒が嘘のようだった。
その時――
馬の嘶きが聞こえた。視界奥の樹間に馬の姿が見える。一台の荷馬車が王宮の裏手に向かい、坂道を登って行くところであった。馬を引いているのは革の鎧を身に付けた、蛇の頭部を持つマホラガ族の男だ。
荷台には、汚れた布で覆われた荷物が載っている。大きさは木陰から見ている少女の身長よりも大きな物のようだ。
好奇心に駆られた彼女が荷馬車を見ていると、車輪が石に乗り上げ荷台が大きく揺れた。その時であった。
布から白いものが零れ出た。
“それ”を眼にした瞬間、少女は息を飲んだ。全身が凍り付き、呼吸が止まる。
荷台から垂れ下がっていたのは、人間の女の上半身であった。
生気を無くした青白い顔と、虚空を見据え瞬き一つしない眼から、人間の女が既に息絶えている事が分かる。
蛇面の兵士は表情の無い顔で、無言のまま女の死体を荷台に戻すと、何事も無かったように再び馬を引き始めた。
荷馬車が完全に視界から消えた時、弾けるように少女は駆け出していた。
少女は夢中で森の斜面を城壁に向かい走った。途中、何度か森の中を流れる小さな川を水を跳ね上げて渡る。
いくら走っても壁が近づいて来る気がしない。それに、どれだけ体が動いても、身体の芯から凍結したように汗一つかいていない。
息が乱れ視界が歪む。泣いているのかもしれないが、確認する余裕など無い。一刻も早くこの森から逃げなければ。
必死で駆ける彼女が足を止めたのは、何個目かの沢を渡ろうとした時であった。その沢が余りにも奇妙な色をしていたからである。
その水は濁っていた。砂や泥の混じった濁りでは無い。何か別のものが、水を変色させている。
禍々しい赤茶色。そして周囲に漂う腐臭に似た臭い――
「――!!」
少女は沢の前で立ち竦み顔を引きつらせた。「血……」と、自分の口から無意識に出た言葉が、まるで他人の発した言葉のように耳に響く。
両足が激しく震えていた。歯ががちがちと音を立てている。動こうとしても、首から下が切り離されてしまったように全く動かない。
その時であった。少女は不意に背後から声を掛けられた。全身が硬直する。だが、
「ルーナ様……」
それは優しく穏やかな、今彼女の一番聞きたい声であった。彼女は油の切れた歯車のような歪な動きでゆっくりと首を振り向かせる。
「ボック……」
そこには少女が心から信頼する従者の男がいた。黒い布地を体の前で重ね合わせ紐で結び、腹に帯を巻いた動きやすそうな服を身に付けている。彼は優しい光を湛えた瞳で少女を見ていた。
「遅くなりまして申し訳有りません。周辺の見張りの兵士を眠らせるのに手間取ってしまいました……」
そう言うと、ボックはルーナを力強く抱き締める。その力が彼女の張り詰めた気を解いてゆく。
ルーナは「ごめんなさい……」と、小さく洩らすと、声を押し殺して泣き始めた。
(五)
闇が支配する暗黒の空間が広がっていた。
床も、壁も、天井も全てが石で造られたその部屋には窓が無い。
それでも微かに部屋の内部が見て取れるのは、部屋の入口から見て右側の壁に小さな灯明皿が一箇所のみ設置されており、そこでか細い火が燃えているからだ。
その灯りは弱く、天井や反対側の壁までは届いていない。かえって闇の濃さを際立たせているようである。
石室の内部には異様な臭いが満ちている。黴の臭い、燃える油の臭い……。
しかし、内部を一番強く満たしているのはそれらの臭いでは無い。腐った血と肉の臭いである。
余りにも強く充満したその臭いは、固形化した血肉を鼻の穴に直接差し込まれたように、頭痛さえする強烈なものだ。
部屋の中央には方形の石棺が置かれていた。五、六人が入る事が出来そうな大きさが有る。
石棺の内部に臭いの元が有った。棺を満たしているものは、どす黒く変色した血であった。縁には腐りかけた肉の切れ端や、毛髪がへばり付いている。
ぼこり、と音を立てて、石棺の血が泡立った。
血溜まりの表面が盛り上がり、人の頭部程の大きさの固まりがゆっくりと突き出て来る。
固まりは全体がどろどろに溶け合った血と肉に覆われており、下がどうなっているのか分からない。
“それ”が人の頭部だとして、口に当たる部分に空洞が現れた。腐った血肉の下で“それ”が口を開けたのだ。
ぐちゅっ
粘着質の音が響いた。
ぐちゅる、るじゅるるる……、げじゅるるる……
口から血と膿を飛び散らせながら“それ”が言葉を発した。
すると、石室の外側から小さな音が聞こえて来た。爪が石を踏む音である。
かちり、かちりと硬質な音が規則正しく、ゆっくりと近づいて来る。その音が聞こえて来る方向は、石の壁に取り付けられた厚い木製の両開き扉となっていた。
音は扉の前で停止し、そして重々しく扉が開かれる。僅かに開かれた扉の隙間から一筋の光が刃物のように暗い石室に射し込んだ。
「お呼びでございますか」「ヴァリシュタ王……」
扉の隙間から、落ち着いた男の声と、静かな女の声が交互に聞こえて来た。奇妙な事に、その声は別の人間が順番に話したようなぎこちなさが無い。一人の人間が瞬時に声色を変えたかのような滑らかさである。
ぶぢゅう、ぶぢゅるるる……
「お待ち下さい」「すぐにご用意致します」
高い軋り音を上げて扉が大きく開かれ、一人の黒衣を纏った人影が入って来た。神官が身に付けるものと同様に、身体に布を巻き付けて肩から半身を覆うように垂らした衣である。
石室の暗闇を吸収したように黒く染められた絹の布地に、黄金で美しい模様が織り出されていた。
その人影は明らかに、人間とは異質のものを身体の周囲にまとわり付かせている。
まるで巨大な肉食獣が、無理に後脚で立ち上がったように不自然に前屈みになっていた。
いや、黒衣の裾から覗く両脚には確かに黒い獣毛が生えている。
人影の胴体は黒い虎のものであった。歩く度に太く鋭い爪が石の床を叩き、かちり、かちりと音がする。腕は手首まで毛に覆われていたが、手だけは黒く長い爪が生えている以外は人間に近い形状をしていた。
虎の胴体の上には人間の顔がある。しかし、闇の中に白く浮かび上がった首は二つであった。胴体の上に、男と女の首が一つづつ生えているのだ。
男の方は、頭を剃り上げた、ほの白く美しい首である。綺麗に通った鼻筋が、上品な雰囲気さえ醸し出している。女の首は、長い髪を垂らした、おそろしい程の美人であった。二重の瞳が怪しく光り、細い鼻筋の下に赤い唇がある。女は唇を横に広げ笑みを浮かべていた。
この“人物”の名はアシュガン。ガンダルヴァ族の族長であり、紅宮の神官達の長である。
アシュガンは両手で銀製の荷台を押していた。台の上には白い物体が置かれている。
暗い石室の中で、小さな灯りに照らし出されるもの――それは、ルーナの見た人間の女の死体であった。
一糸纏わぬその裸体は、恐らく病で命を亡くしたのであろう。外傷らしきものは見当たらない。
ごぶっ
血溜まりの中の“ヴァリシュタ王”と呼ばれたものが喉を鳴らした。それを聞いてアシュガンの双頭が口を吊り上げて笑みを浮かべる。
「どうぞ存分に」「お召し上がり下さいませ」
男と女の首が交互に言葉を発した。それを受けて“王”が「ぶぢゅるるるっ!」と、口の空洞から血と膿を飛び散らせる。
生臭い、吐き気を催す呼気が顔にまで届いて来るが、アシュガンは全く顔色を変えない。
石棺の血溜まりの中から不気味なものが、ぬちゃり、と音を立てて這い出して来た。
おぞましい異形の腕であった。爬虫類や獣や昆虫を、でたらめに混ぜ合わせたような腕である。
指先から手の甲までは黒い外骨格に覆われているが、間接部分には獣毛が生えている。手首から肘は、鱗と血膿の滴る羽毛が不規則に全体を包んでいた。
その掌が、女の体に向かい伸ばされていく。だが、死体の乗せられた荷台は石棺から一ローナ程も離れている為に手は届かない。
鉤爪を生やした腕が限界まで伸び切った時、恐ろしい事が起こった。
手の甲の外骨格が、めきりと音を立てて持ち上がり、その隙間に人の眼球が現れたのだ。
血走った眼球が死体を捕らえると同時に、異形の腕が、ごきごきと骨肉を軋らせる音を上げて一気に倍以上の長さに伸びた。
鉤爪が死体の足首を掴み、そのまま軽々と血溜まりの中へと引きずり込む。
石棺から腐った血と肉が飛び散り、周囲の床に音を立てて落ちた。
ゾブッ……
耳を塞ぎたくなるような不快な音がした。“王”が女の肉に喰らいついた音であった。
めりめり、と骨から肉を引き剥がす音。じゅるじゅる、と肉の裂け目に口を当てて血を啜り上げる音。こりこり、ぐちゃぐちゃ、と口の中で骨と肉を咀嚼する音――
聞く者の精神を削り取るような異様な音が石室の内部に満ちる。
腐臭と血臭の濃度が増していく暗闇は、異質な粘着質のものへと変化していくようだった。
「存分に味わいなさいませ。偉大なる我等が王よ……」「足りなければ、すぐに替わりをお持ち致しますよ」
アシュガンの双頭が向かい合い、にんまりと嗤い合う。
「卑しい下賤な人間の分際で」「王の“聖食”となれるならば本望でしょう」
「王都の回りには」「人間共が幾らでも涌いていますからねえ」
「まことに奴等は地を這う蟲のようだなあ」「まことその通り……」
そう言うと、アシュガンの双頭は声を上げて嗤い出す。二つの声は不気味に縺れ合い、暗闇に響き渡った。
凄まじい瘴気が空気の中にわだかまってゆく。狂った闇の中で、アシュガンはその四つの瞳に柔和とさえ言える光を湛え、血の狂宴を見詰めていた。