第七話 それぞれの邂逅
(一)
男は餓えていた。強烈な餓えだ。
その両眼は獲物を狙う猛虎の如く炯々と光り、熱い血が全身を駆け巡っている。
腹の底には赤く焼けた石の様な苛立ちが煮えたぎり、身体中から血が噴き出して来る気がしていた。
人里離れた山中である。周囲には太い樹々が無数に生えている。梢の間からは、山峡に点在する柳生の里の集落が見えた。
大和柳生の庄は、北方に奈良、京都、東に伊賀を控えた山峡の地である。柳生石舟斎が上泉伊勢守より新陰流を伝授され、柳生新陰流を興したのもこの地であった。
男が歩いているのは、その柳生の庄からそのまま峡谷沿いの山道を辿り、山中に入った道である。
山の霊気が男の身体を押し包んで来ようとしているのだが、男が体内から発する強烈な殺気が山の霊気を押し返している。
伸びた髪を無造作に束ね、陽に灼けた浅黒い肌をしている。薄い眉の下の両眼が、ぎらぎらと異様な光を放つ。
獅子鼻で唇は薄い。飢えた肉食獣の相貌である。
袖無しの長羽織に黒い野袴という、一目で武芸者と分かる出で立ちの男。その名は天鬼。江戸にて将軍家兵法指南役を勤める柳生宗矩の双子の弟である。
だが、その顔には兄の持つ為政者の穏やかな仮面は無い。獰猛な殺人者の素顔を剥き出しにしていた。
天鬼にとって、剣とは人を斬る為の技術に過ぎず、勝負とは敵を斬り殺した後の、体内の血が昇華する様な解放感を味わう為のものであった。
天鬼は今、真剣勝負に、いや、血に餓えていた。
荒んだ眼光を疾らせながら、歯を軋らせて歩を進める。その時であった。天鬼は若い女の悲鳴を聞いた。
視線を向けると、そこにはかつて樵夫でも住んだ事が有るのか、朽ちかけた小屋がある。悲鳴はその小屋から聞こえて来たのだ。
天鬼の巨躯が小屋へと向かい疾った。
朽ちかけた板戸が猛烈な勢いで蹴破られると、中に居た男達の視線が一斉に戸口に現れた天鬼に集中した。
男は三人。山賊か、飢えた廻国修行の兵法者崩れか。着崩れた小袖や獣皮の袖無しは汗と埃に汚れ、一見して無頼の徒と分かる男達である。
山菜でも摘みに来たらしい娘を押さえ付け、襟を広げ半裸にしていた。
「てめえ、何者だ!!」
娘に跨がった、弛んだ頬をした巨体の男が胴間声で叫ぶ。
「楽しそうな事をしているじゃないか……」
男の言葉を無視した天鬼の口元が吊り上がり、笑みに似た表情が作り出される。それは牙を剥いた獣の顔にも見えた。
「失せやがれ。俺達が済んだら、女はくれてやるよ」
脇で娘の腕を押さえている男が、卑猥な嗤いを浮かべながら言う。どうやら天鬼の風貌を見て、自分達と同類だと思ったらしい。
「畜生の分際で、人語が上手いではないか」
獰猛な笑みを浮かべたまま天鬼が言うと、男達の顔色が変わった。眼の奥に強烈な殺気が育っていく。
「ここでやるか、それとも外でやるか……?」
男達の殺気を正面から受けながらも、まるで感じていない様な顔で天鬼は呟き、腰の剛刀を抜いた。
刀身の鞘走る音を聞き、「てめえ!!」と声を上げて、娘に跨がっていた男が跳ね起きた。
先程無視された事も相まって、怒りのあまり顔がどす黒く染まっている。
脇に居た二人と共に、床に放り出していた刀や槍を掴むと屋外に走り出て、三方から天鬼を取り囲んだ。
どうやら、こうした集団での斬殺に慣れている者達の様だ。薄嗤いを浮かべながら、じりじりと間合いを寄せて来る。
天鬼は男達を見ながら、口の片端を吊り上げてただ立っていたが、正面の巨体の男が槍を突いて来る気配を見せた時、突如猛虎の様に地を蹴った。
稲妻の如き鋭い一閃であった。対峙していた槍の男は声を上げる間も無く、脳天から下腹まで一気に斬り落とされていた。
血と脳漿が飛び散り、男は血だるまになって崩れ落ちる。
天鬼の凄まじい斬撃に飲まれ、残る二人の男達は驚愕と恐怖に顔を引きつらせて後退りした。
間髪を入れず、天鬼は右手の男の懐に飛び込んで胴を薙ぎ斬る。男の身に付けていた胴当てごと両断され、内臓がどっと溢れ出た。
更に反転し返す刀で、構えようとしていた背後の男の右腕を斬り飛ばした。
息をつく間も無い、一瞬の攻撃であった。
新陰流の位など関係無い。敵の意表を突き、構えすら取らせずに獣の爪牙の如く撫斬りにする。これが天鬼にとっての剣であった。
胴を斬られた男は地に伏せたまま、大量の血肉と内臓を腹の下から飛び散らせている。
「あ、あ、おれ、の、はらわたが……」
眼を剥き、伸ばした指で宙を掻き毟る様にして言った口から、急に血の泡が噴き出す。そのまま男は動かなくなった。
「あがっ!あがががっ!!」
右腕を斬られた男は、意味を持たない悲鳴を上げながら逃げ出した。
天鬼は一人もこの場から逃すつもりは無かった。逃げる男を追い、肩口から袈裟に斬り下げた。
首根を深く抉られ、血が噴水の様に飛び出す。男は悲鳴を上げようとしたが、口からは空気の吹き出る様な音しかしなかった。
男は頭を不自然な程横に傾かせて、よたよたと歩いた後、そのまま前に倒れた。
不意に周囲に静寂が訪れた。微かに、シーッと血の噴出する音がしている。
天鬼は血の臭いが充満した大気を大きく吸い込んだ。
「あ……ありがとうございます……」
娘が戸口から、襟元をかき合わせながら出て来た。声が震えている。帰り血を浴びた天鬼の顔は、娘には先程の山賊達よりも遥かに恐ろしかった。
「災難であったな」
倒れている男の袖で刀の血糊を拭うと、天鬼が娘に笑いかけた。優しいとさえ形容出来る笑顔であった。
思いがけず現れた、邪気の無い微笑みに娘もつり込まれ、安堵した様に涙を浮かべ微笑み返す。
その瞬間――白刃が疾り、娘の首は血しぶきの尾を引いて宙に飛んでいた。
鞠の様に飛んだ首は、湿った音を立てて天鬼の足元に落ちる。死に顔に微笑みが貼り付いていた。
「本当に……災難であったなあ。このおれに出会うとは」
鬼の笑みを浮かべた天鬼は、顔に飛び散った娘の血をべろりと舐め取ると、ようやく満足した様に大きく息を吐いた。
(二)
霧に覆われた巨木の森を天鬼は歩いている。
濃い霧である。数メートル先の樹が、もう見えない。周囲の樹々の影は、白い世界に溶け込んでいる。
それは奇妙な霧であった。生温く、粘着質で、肌にねっとりと絡み付く。まるで巨大な生物の舌で舐め回される様な感触が有った。
奇妙なのは霧だけでは無い。視界に入る樹木ひとつ見ても、それはまるで巨大な芋虫の集合体の如く、歪な瘤が幹に浮き出し、その苦痛から逃れようとするかの様に、上部の枝は捻れ大きく曲がっている。
木も草も、周囲の自然の全てがその形にどこか歪みが有る。匂いにしても、生臭く動物じみているのだ。
高い梢の中で黒い影が動いた。天鬼が視線を向ける。
細い枝に掴まり、動いているのは猿のシルエットである。その猿が動きを止めて、天鬼の方を向いた。
常人ならば叫び声を上げていただろう。その猿の胴体の上には、兎の首が乗っていた。しかも、その頭部には眼球が一つしか無かった。
顔の中央の巨大な眼球が、じっとこちらを見ているのである。
だが天鬼は表情一つ変えない。口の端を小さく吊り上げただけで、再び歩みを進める。
小さく細い、鳥の様な鳴き声が聞こえて来た。かさこそと、小さな脚が落葉を踏む音も響いて来る。
それは一つでは無い。合唱の様に、無数の小さな鳴き声と足音が混じり合い、近付いて来る。
繁みの中から、おびただしい数の生き物の群が飛び出して来た。“それ”は鼠に似ていた。
大人の親指程の大きさの鼠の頭部に、毒々しい緑色の蜘蛛の胴体が付いている。
その“鼠”の群は『キイキイ』と高く鋭く鳴きながら、天鬼の前を通り過ぎて行った。
目に入る全てのものが、グロテスクに形を歪めている。人の背筋に怖気を走らせる不快感が有った。
だが、天鬼はそれらのものを見ても、何ら動じる事は無い。
「相変わらず、何もかもが狂ってやがるぜ……」
そう呟くと、森の奥深くへと進んで行く。
やがて、樹々の疎らになった場所に出た。異形の森に囲まれた、小高い丘である。
丘の上には、高い欅の老樹があった。周囲の樹よりも一際大きく、天に向かい真っ直ぐにそびえ立っている。
異形の森の中では、その存在はむしろ異端であった。
天鬼は丘の中央に立つ欅と、森の入口の中間地点に立ち止まった。足元の地面は、一面柔らかい絨毯の様な苔類に覆われている。
ホホ、ホホ、ホホ……
ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ……
周囲の霧の中から、薄笑いに似た鳴き声が響いて来た。
森の暗闇に、点々と光るものがある。美しく、妖しい光を放つそれは、夜行獣の眼の輝きだ。
無数の光がいつの間にか、天鬼の周囲を取り囲む様に、樹々の間から見詰めている。それは悪夢の如き化獣の群であった。
人の背丈程も有る、猿の頭部の付いた巨大なナメクジ。蜻蛉の様な複眼を持つ猪は、下半身が眼の無い蛇の頭部になっている。馬の頭を二つ生やした蜥蜴――それらのものが、闇の奥からじっとこちらを窺っているのだ。
異様な威圧感が、ひしひしと押し寄せて来る。余程強靭な精神の持ち主でなければ、やがて精神に異常を来すだろう。
その時、微かに羽音が聞こえた。霧に覆われた灰色の空に黒い塊が舞っている。
天鬼が上を見上げた。黒い塊は、彼の頭上を旋回している。
ざっ、と羽音が鳴り、鳥の翼を持った塊が襲い掛かって来た。
鋭い爪が天鬼の頭部を掠め、天鬼の払い上げた刀が翼を打ち、羽毛が舞った。
「けひひひ」
“それ”は天鬼の正面に立つ欅の枝上に舞い降り、しわがれてはいたが、明らかな人語で嗤い声を上げた。
巨大な人の頭部が天鬼を見下ろしている。人間の胴体程のサイズの顔――手足や胴体は無い。
巨大な人の頭の耳に当たる部分から、赤や青の原色系の混ざった色鮮やかな翼が生え、首の付け根から直接鋭い鉤爪を持つ鳥の脚が生えている。
頭には髪も、眉も、体毛は一本も生えていない。面の様な顔に、鋭い刃物で左右のこめかみに切れ込みを入れた様な眼と、高い鼻、耳元まで開いた口が有る。
「戻ったか、天鬼……」
眼が更に細められた。笑ったのであろう。口の中で、細く赤い舌先が踊った。
「ふん」
天鬼の口元に薄い嗤いが浮かぶ。
「相変わらず、吐き気のする姿じゃねえか、ザジ……」
「なに……!?」
ザジの巨大な眼球に血管が浮き上がっていた。鬼気迫る貌である。唇が吊り上がり、剥き出しになった黄色い犬歯をぎりぎりと軋らせている。
「今すぐに、お前を喰っちまっても良いんだぜ……!!」
「やってみろよ」
天鬼は酷薄な笑みを浮かべたまま、きっぱりと言い放った。
「おれに対してそんな事を言ったからには、ぶち殺される覚悟が出来ているんだろうな……!?」
ぎらぎらと燃え立つ炎の如き殺気が、天鬼の巨躯から立ち昇っていた。全身から高熱を発している様である。
ザジの残忍そうな黄色い眼が、濁った光を放つ。裂けた口から覗く牙の間からは、しゅうしゅうと音を立てて熱い吐息が洩れる。
ふたりの間の大気が、沸騰し今にも弾けそうになる寸前であった。
「おやめなさい」
低い声が響いた。爆発するかと思われた空気が、一瞬で静まり返る。
静かだが、恐ろしい程の迫力に満ちた声であった。長い年月に渡り、多くの者達を率いて来た者だけが持つ威厳が感じられる。
天鬼の背後に、独りの老婆が立っていた。
姿は一見すると人間と変わらない。漆黒の和服を着ており、髪は美しい銀髪である。年齢を感じさせない艶があった。
顔には深い皺が刻まれており、その皺に埋もれる様に細い眼がある。
年齢は見当がつかない。九十歳、百歳、それともそれ以上か――。
だが、背筋は真っ直ぐに伸び気力が満ちている。全身から他を圧する気を発していた。
「月夜……」
天鬼が低く呟いた。ザジのつるりとした毛の無い顔が緊張している。
月夜と呼ばれた老婆は、しずしずとふたりに歩み寄る。何時の間にか、周囲の化獣達までもが息を潜めていた。
「天鬼よ、一度この地を離れたお前が、一体何の用ですか」
低い、同じ調子の声で月夜が尋ねた。髪と同じ銀色の瞳が天鬼を見据えている。
天鬼はその問いには直ぐに答えずに、月夜の背後に寄り立つ人影に眼を向けた。
その人物は、やはり和服を身に付けた女であった。純白の布地に、真紅の牡丹の花が染められている。彼女もまた、人間と変わらぬ姿に見える。
長い赤髪を垂らした美しい顔立ちである。二重瞼の眼が緋色の光を放ち、通った鼻筋の下に赤い唇が有った。
「よう、蛍。久しぶりだな……」
天鬼は女の名を呼び、低い声で嗤った。蛍はその双眸に哀しみの色を浮かべ、視線を下へと落とす。
「天鬼よ、先ずは私の質問に答えなさい」
月夜が蛍を庇う様に前へと移動した。天鬼に向けられた銀色の瞳が、先程よりも鋭くなっている。
その眼光を正面から見据え、天鬼は唇の両端を吊り上げ、逞しい歯を剥いた。
「土蜘蛛一族に預けていた、柳生の羅刹衆を貰っていく」
(三)
月夜は正面から天鬼を睨み付けている。そうしているだけで、天鬼の巨躯と同等の迫力が有る。
常人ならば思わず視線を下げてひれ伏し、頭を地に擦り付けたくなる程だ。
向き合うだけで相手よりも優位に立つ、一族の長として身に備わった胆力である。
だが、天鬼は動ずる事も無く、血臭を嗅いだ獣を思わせる獰猛な笑みを浮かべていた。
「なりません……」と、月夜は口から重い呟きを発した後、
「それだけはなりません!!」
激しい声音で叫んだ。その顔に怒りで更に深い皺が刻まれている。
だが、天鬼は一向に恐縮した素振りも見せず、ふてぶてしい態度で月夜を見ているだけだ。
「おまえの考えは聞かずとも分かります。羅刹衆の力をもって、殺戮の限りを尽くしたいだけでしょう……!」
そこまで言った月夜は僅かに顔を曇らせると、その考えを否定するかの様に首を振った。
「天鬼……、もう戦乱の時代は終るのです。いずれ天下は徳川のものとなるでしょう。我々土蜘蛛も、羅刹衆も、その力を使う必要は無いのですよ。それどころか、我々の存在はこれからの世にとっての災いとしかなりません……」
「寝惚けた事を言うな」
天鬼は月夜の言葉を途中で遮った。それ自体が無作法である上に、言葉の内容も態度も、月夜への礼儀が微塵も感じられない。背後に控えた蛍は顔色を変え、ザジからは殺気が膨れ上がる。
「争乱は起きる……」
周囲から沸き上がる自身への敵意など微風程度にしか感じていないかの様に、天鬼は口元に冷笑さえ浮かべて言った。
「豊臣か……!!」
月夜は眉根を寄せて、低い声で呟いた。
関ヶ原の戦いでは西軍が総崩れとなったが、豊臣秀頼は天下に並び無い名城とうたわれる大阪城に依然健在である。
秀頼が今後家康に臣従するとは、世間でも考えられていない。いずれは再び徳川と決戦を起こす事は間違い無いと思われていた。
「戦乱が起これば、功名をたてる機会も有るでしょう。ですがそれは、“人間”の話……。我々人外の者には、人の世での出世など有り得ません」
我が子に言い聞かせる様に、哀切の籠った声で月夜は語りかける。それに対し、天鬼は気味が悪い程静かに、そしてゆっくりと答えた。
「退屈な泰平の世を乱し、徳川の天下を覆そうとしているのは、豊臣でも西軍の生き残りでも無い」
双眸に異様な光を宿らせて、天鬼は明確に言い切った。
「乱を起こすのは、このおれだ」
正気の沙汰とは思えない言葉であった。天鬼の発言を聞き、月夜は怒りを顕に叱責を浴びせる。
「思い上がるな!!いかに腕が立つからといって、たかが一人に何が出来る……!!」
天鬼は笑った。笑みの底に、はっきりと分かる狂気が有る。笑みでも消せない凶相の部類に入るものだ。
「ここには“天の船”が有る」
凶気を孕んだ声で告げられ、月夜の表情が強張る。
「そして、天よりまた新たな“船”が舞い降りた……。知らぬとは言わせぬぞ。それに呼応するかの様に、ここの“船”も動いたそうではないか」
月夜の顔色がにわかに変わる。口から苦渋に満ちた呻き声が洩れた。
「あれは……、あれだけは手を触れてはならぬ物です!あれは……!!」
「途撤も無い代物よなぁ。刀もまるで歯が立たず、炎でも焼かれず、種子島さえ通らん。しかも、もし新たな“船”に乗って来た者がいれば、再び天空を翔る事さえ可能かもしれんぞ」
月夜の言葉を引き継ぐ様に語る天鬼が、背をぞくりとすくませて唇を噛んだ。眼が熱を帯びた様に光っている。
「天鬼……、おまえは、何をしようとしている……?」
蒼白になっていく顔を向け、月夜が声を絞り出す様に問い掛ける。
「豊臣でも、島津でも、毛利でも良い。いや、大名だけでは無い。各地にこの“船”の技術をばらまけば……きっと面白い事になるだろうなぁ」
血に染まった三日月を連想させる笑みを満面に浮かべ、天鬼は言った。
「この日の本が再び戦乱の時代になるぞ。いや、この国そのものが根底から覆る様な時代にな……!!」
「愚か者め!!」
月夜が吐き捨てる様に叫んだ。白かった頬に朱が走り、怒りで身が震えている。蛍も表情を強張らせ、信じられないものを見る様に眼を見開いている。
だが、ザジだけは沈黙していた。眼の奥に黒い炎が燃えている。それを見た天鬼が太い唇を吊り上げて、歯を覗かせた。
「ザジよ……、おまえは今のままで満足か?」
「耳を貸すな!ザジ!!」
月夜が鋭い声を発する。だが、天鬼はそれに構わず言葉を続けた。
「人間を容易く殺せる力を持ちながら、霧の奥深くに隠れる様に生きる。しかも“業”の狂った肉体同士では、子さえ満足に出来ぬ。出来たとしても、腹から生まれ出て来るのは、周りの化物共の様な獣の出来損ないばかりよ!!このまま人知れず朽ち果てていけば、それで満足か!!」
天鬼の、憎しみさえ籠った叫びが響き渡った。
月夜も、蛍も、ザジも声が出ない。天鬼が炎を吐く様に、大きく息を吐いた。その時であった。
ヒェッ、ヒェッ、ヒェッ……
ホホ、ホホ、ホホ……
カカ、カカ、カカ……
周囲の化獣達が、一斉に喉の奥を鳴らす。
「見ろよ。こやつらも『その通りだ』と言っておるわ……」
天鬼の肉体を、はっきりと分かる異様な気が包んでいる。それは、肉の裡から発する凶気であった。身体を包む空間が、捻れ歪んでいる様にさえ見える。
天鬼は身体の向きを変えると、異形の森へ向かい歩き出した。
「ここで、このまま腐りたい奴は好きにしな……」
そう呟くと、蛍に鋭い眼光を向ける。彼女は思わず身をすくませて、震える声を出した。
「て……天鬼、私は……」
それを見て天鬼は破顔した。無垢な子供の様な、純粋な歓喜を示す笑いだ。その笑顔のまま、天鬼は言い放った。
「来たくなれば、何時でも来い。死体の山や、血の河を好きなだけ見せてやるぞ」
そして、笑い声を発した。まざまざと狂気を伝えて来る哄笑である。
月夜は顔を歪め歯を軋らせる。蛍の顔は青く澄んだ死人の肌の様だった。
異様な響きを大気に満ちさせながら歩みを進めゆく天鬼の背を、二人はただ見ている事しか出来なかった。
(四)
静かな夜であった。
気の早い秋の虫達の声が、籔の中から微かに届いて来る。そこは人里から離れた雑木林の中の廃寺である。
既に放置されて久しい寺らしく、本堂は半壊し、狭い境内には落葉が積もり蔓草が這っている。周囲は鬱蒼とした樹木に囲まれ、人の気配は無い。
小さな社の脇には、大人数人で手を繋いで一周出来る程の、太い幹の欅が立っている。
その下で、三人の人影が小さな火を囲んでいた。
ルーナ、高珍、そして宮本武蔵の三人である。ルーナ達が武蔵に出会ってから、三日目の夜であった。
焚き火の上には棒に刺した鳥肉がかざしてあり、その肉から香ばしい匂いが立ち始めている。
ルーナは先に焼き上がった串を手に取り、焦げ目の付いた鳥肉を頬張っている。
彼女とは焚き火を挟んだ正面側に、肉の刺さった串を回転させる高珍と、少し距離を置いた右側――炎の灯りと暗闇との中間に、武蔵が座していた。
武蔵の肉体を蝕んでいた獣化現象は既に治まっている。
外気法――日付の変わる時刻から、夜が明けた正午迄の“生気”の時間帯に、清浄な大気を取り入れる呼吸法を行い、高珍が濁気の治療を行った結果だ。
武蔵が精神力で、獣化を押さえ込んでいた事が大きい――と、ルーナは高珍から聞いていた。
その言葉を思い返しながら、ルーナはちらりと武蔵に視線を送る。
武蔵はぼんやりと放心した様な瞳で、肉に手を伸ばす事も無く炎を見詰めていた。
先程も高珍が『食わんのか』と声を掛けたが、その時から、いや、それ以前から同じ様子である。
尻を地に付け、胡座をかき損ねた様に、背を曲げてだらしなく脚を組んでいる。
腕に生えていた黒い獣毛は無くなっていたが、顔の下半分を覆っている髭と伸び乱れた髪はそのままだ。
あちこちが擦り切れ、ぼろぼろになった袴と、これもぼろくず同然の変色した小袖も出会った時のままである。
風下に居れば、ルーナの座る場所にまで、その身体が放つ異臭が漂って来る。
かつての武蔵を知る者が見れば、同一人物とはとても思えないだろう。その肉体に満ち溢れていた熱気が、今はきれいに武蔵の身体から抜け落ちていた。
治療を行いながら、高珍はぽつりぽつりと武蔵に自分達の事を話していた。
細かな部分は省いた大雑把な説明ではあったが、それでもこの時代の、この星の人間にとっては信じられない話ばかりだろう。
『天から来た』などと聞かされても、普通は理解出来る筈が無い。ただ混乱するだけだ。
だが、武蔵は呆けた顔をして、ただ黙って話を聞いていた。『そうか……』と、話の最後に一言発しただけである。
話を全く理解していない訳では無さそうだが、それに対して起こる筈の心の動きが停止している様であった。
武蔵は一日の大半を、ただじっと黙って山を眺めて過ごしていた。睡眠も殆ど取っていない。眠るよりは、山を見ている方が良かった。
眠れば決まって血みどろの悪夢を見る。その夢が、自分の肉体を内側から蝕んでいく様だった。
起きて山を見詰めている時は気が休まる。山は見ていて飽きる事が無い。人の生きる刻とは無関係に、山はそこに存在し続ける。
自然の中で流れる刻に比べ、自分達人間の一生のなんと小さな事か――。
そんな風に考える事も有れば、ただ山の一部となった様に、舞い散る葉を眺めている時も有る。
死にたい、とは思わない。かと言って、再び剣の道を歩みたいと思うわけでも無い。
魂の脱け殻の様に、ただ息をしている。それが今の武蔵だった。
そんな武蔵に、ルーナはこの三日間何度か話し掛けていた。だが、武蔵の反応は乏しいものである。やっと聞き出せたのは、彼の名前だけだった。殆どの問い掛けには無反応であった。
“無礼な奴め!”という思いは有る。ガイラースでは、ナーガ族と人間〈マヌ〉の間には、比較しようも無い程の身分の差が有る。
例えナーガ族の中で疎まれた立場の自分達『黒龍族』でも、本来はこの様に人間〈マヌ〉と一つの火を囲むなど考えられない事だ。
ルーナは幼い頃からボック――高珍が傍に控え、また身分にもこだわらない父の影響も有り、人間〈マヌ〉に対する差別意識は比較的低いと言える。だが、生まれ育った周囲に存在する階級社会の空気は簡単に否定出来るものでは無い。
それも有るが――何よりもルーナを苛つかせている原因が他に有る。
あの夜、武蔵の見せた哀しい光を放つ瞳が、ずっと彼女の心に引っ掛かっていた。
眼を閉じると、武蔵の琥珀色の瞳が鮮明に甦る。それがルーナに武蔵への興味を引き起こさせるのだが、こうも反応が素っ気無いと、自分の一方的な想いの様で、ルーナはどうにも面白く無いのだ。
この夜も何度か武蔵へと視線を送ったが、相変わらず武蔵は無表情で炎を見ている。ルーナは不貞腐れた様に鼻を鳴らすと、高珍に声を掛けた。
「……何時までここに居るつもりだ?」
高珍は穏やかな微笑みを浮かべルーナを見た。
自分の内面の武蔵への感情が見抜かれている気持ちになり、ルーナは気まずそうに視線を反らす。
「人を待っているのですよ」
高珍は竹を小さく割り、椀の形にした物に、竹筒の中の液体を注いでルーナに差し出した。
彼女はそれを受け取り、少量を口に含む。中身は白い濁り酒だ。ルーナの酒好きを高珍は良く知っている。
「昼の内に合図をしておきましたからな、近日中にはやって来るでしょう」
高珍の言葉に、ルーナはふと彼が下の街道沿いに生える松の樹に、白い布を巻き付けていた事を思い出す。それが何者かへの合図であったのか――。酒を口に運びながら、そんな事を考える。
酒を飲み終えると、荷物の入った袋を枕代わりにルーナは横になった。暫くすると、小さな寝息を立て始める。ごく微かな音で、横に居ても聞こえるかどうかといった位だ。
彼女の寝息よりも、周囲の虫達の声の方が耳に届いて来る。残った武蔵と高珍の二人は無言のまま、秋の虫達の音を聞いていた。
「宮本武蔵か……」
高珍が独り言の様に呟いた。武蔵の身体が、ぴくりと動く。
「安心せい。わしらからは聞かぬ。話したくなった時に話せば良い……」
高珍の穏やかな言葉に導かれる様に、武蔵が視線を向ける。蛍にも似た小さな光が、武蔵の瞳に宿っていた
「凄いな、あなた達は……」
ぼそり、と武蔵は口にした。
「遥か遠い国から命を懸けて、使命の為にこの地にやって来たのか……」
今にも消え去ってしまいそうな小さな声で武蔵は続け、高珍は黙ってそれを聞いている。
「おれにも有ったのだろうか……。命を懸けるべきものが……」
武蔵は再び沈黙した。梢を鳴らす風の音と、時折爆ぜる焚き火の音、そして虫の音が響いている。
ルーナは薄く眼を開けていた。武蔵の声が自然と耳に入り、緩く意識が目覚めたのだ。だが、再び武蔵が沈黙した事で、ゆっくりと意識が沈んでいく。
その時気付いた。急速に頭の中が目覚めてゆく。武蔵の纏う“気”の質が変化していた。
(五)
その変化には、武蔵の隣に座していた高珍が先に気付いていた。
武蔵の目線が、高珍の背後の暗闇に向けられている。同時にその身体から、“気”の圧力が微かに立ち昇り始めていた。
その時、武蔵は幽かな感触を覚えていた。
周囲に満ちる山の霊気の中に、ほんの一瞬紛れ込んだ異物感――。蟻の足音の如く、存在していても気付けぬ程のものだ。
高珍も、ルーナも感じられないその感触に武蔵は気付き、それだけで全身の体毛がそそり立っていた。
次の瞬間、武蔵はルーナに飛び付き、彼女を押し倒す様に覆い被さった。突然の事に、ルーナは眼を見開いて仰天する。
「な――っ!?」
思わず彼女が声を上げ、高珍も眼を丸くしたその時であった。
夜気を切り裂いて、闇の中を飛来する物があった。
ずぐっ、と鈍い音を立てて、細く先を尖らせた金属の棒が、武蔵の左前腕部に突き刺さる。
武蔵が動かねば、その金属は間違い無くルーナの身体に突き刺さっていた筈である。
「ぐっ!!」
武蔵が低く声を洩らす。それを見たルーナの顔色が変わり、高珍は素早く身構えて金属の飛来した方向の闇に眼を凝らした。
少なからず、高珍は動揺していた。
かつて濁気に侵され、獣化現象を起こした武蔵の接近を知らせた結界は、この時も仕掛けておいた。
何者かがその結界を潜り抜けた。そしてそれに自分達よりも先に武蔵が気付いたのである。
しかし、すぐに気持ちを切り換える。闇の中から、今ははっきりとした殺意がじわじわと押し寄せているのだ。
武蔵は袖を細く裂くと、腕に巻き付けて強く絞る様に縛った。そして金属棒を引き抜くと、腕の傷口に口を当て、強く血を吸い取り脇に吐き捨てる。
その一連の作業を、武蔵は殆ど意識せずに行っていた。兵法修業の中では、討ち果たした相手の弟子や近親者に襲撃を受ける事も有る。そういった命の遣り取りの中で、身に付けた動作であった。
「周りに何かがいる……」
武蔵が低い声で囁いた。その言葉が夜気の中へと消え去る前に、頭上の欅の梢から音を立て、ぽたぽたと何かが落ちて来た。
ルーナが自分の肩や髪へと落ちて来た物をつまみ上げる。それは不気味に蠢く黒い蛭であった。
「〜〜!!」
声にならない悲鳴をルーナが上げる。その時、高珍が気付いた。周囲の闇の中に小さな音が満ちている。何か小さな生き物が、草の上を、土の上を這う音である。
かさかさ、と闇の中に無数の音が響く。やがて炎の灯りにその姿が照らし出された。武蔵達の周囲に、おびただしい数の蛭が群れていたのだ。
く、く、く、という含み笑いが暗がりから響いて来る。
「うぬか……、蛭使い!」
高珍が周囲へ油断無く気を張り巡らしながら身構えた。
「面白いものを連れているな、高珍……」
嗤いながら声が言った。周囲の闇のどの方向からも、その声は聞こえて来る気がする。気配を巧みに消しているのだ。
高珍は身体からゆっくりと、蜘蛛が糸を伸ばす様に気を広げ始めた。
気の末端が触れた場所の気配が伝わって来る。相手は確かに隠形の術に足けているが、意識を気配を探る事に集中させれば、高珍に分が有った。
「上だ!!」
高珍が叫んだ。何かが樹上から落下して来る。
高珍の声と同時に、武蔵は両腕でルーナを抱え上げ、大きく横へ跳んでいた。
跳び退いたその場所に、黒い塊が湿った音を立てて落ちた。どす黒いヘドロの様なその物体は、落ちた途端にその形を変えていく。
はっきりとした生有るものの動きであるが、人の肉の動きでは無い。恐ろしく不気味な動きだ。人一人分の黒いヘドロの塊が蠢いている。
まるで人間の身体から、骨を全て抜き取ってしまった様な不規則な動きだった。
その黒い塊の上に顔と思われる場所が有った。白い面である。塊の上部に白い面が乗っているのだ。
ぬたり、と粘着質な音を立てて、面が塊の表面から持ち上がって来た。
面の眼に当たる部分の穴に、ぼこり、と内側から眼球が現れた。瞼の無い、血走った眼球そのものである。
「お初に御目に掛かりますね、ルーナ殿……。私はアバラと申します……」
湿った声で、異形の怪人――アバラが言った。
焚き火を挟み、ルーナ達とアバラが向かい合っている。アバラは先程までルーナの居た欅の根元に立ち、右前方にルーナと武蔵、左に高珍と、全員を視界に入れる位置に居た。
「私の名を……」
固い表情でルーナが呟く。
「私の可愛い蛭達に、あなた達を見張らせておきましたからねぇ……」
そう言うと、アバラは低く、愉しそうな含み笑いを洩らす。
「油断されるなルーナ様……。こやつは、先程お話しした者共の手下です」
高珍の眼が固い光を帯びている。ルーナが息を飲んだ気配が伝わって来た。
「こやつが……!!」
呻く様に言葉を発し、ルーナが喉の奥で唸る。
「今日はほんの挨拶ですよ。我が主からの伝言です。『楽しみにしている』と……」
そう告げると、アバラは再び嗤う。声に明らかな嘲りが含まれている。
その時であった。高珍が閃光の速さで右手を振るい、銀光がアバラに向かい放たれた。
がっ!、と堅い物を立つ音が響く。アバラの面の中央に、高珍の投げた棒手裏剣が突き刺さっていた。
「これがわしの返答よ……」
高珍の眼が猛禽を思わせる鋭いものとなっている。
「確かにお伝えしましょう」
アバラが平然と言うと、その身体に変化が現れた。直立していた黒い体が、ゆっくりと氷が溶ける様にほどけ始めたのだ。その表面が蠢いている。それは、無数の蛭の集合体であった。
「うぐっ……」
ルーナが顔をしかめる。武蔵はその光景を表情を変えずに見詰めていた。
力を失った様に、蛭の塊は焚き火の中へと溶け出していく。まるで人間の断末魔の叫びを高く細くした様な不快な音を立てて、蛭が燃え始めた。肉の焦げる臭いが夜気の中へと広がってゆく。
「じゅべべべ……」
面の部分から黒い泡を立てて、アバラ――蛭がもがいていた。やがて火の中から、猫程の大きさの巨大な蛭が這い出して来た。黒い体の表面に、毒々しい色の赤い斑点が付いている。
火から逃れる様に這う蛭の先端部分から、青い粘液が流れ出している姿は見ているだけで怖ぞ気が走った。
それを高珍が無言で炎の中に蹴り入れる。炎に焼かれた蛭は、くるくると身を縮めていった。
「こやつの蛭は、濁気の塊です。取り憑かれれば、数日と持たずに魂〈ルン〉が狂わされますぞ……」
固い表情のまま高珍が言う。その時、頭上の樹々の梢が、ざっ、と鳴った。
周囲の樹木が、まるで無数の人の囁き声の様に、ざわざわと鳴り響いている。山の黒い圧力が重みを増して、武蔵達を取り囲んでいた。
「またお会いしましょう、皆様……」
闇の中にアバラの声が響き、低い嗤いが溶けていった。
やがてその声が消えると、黒い圧力も徐々に収まり、再び周囲の闇に静けさが戻ってゆく。何時の間にか、蛭達も姿を消していた。
「ふう……」
ルーナが大きく息を吐いた。その額にさ汗の玉が浮いている。
「今夜はここまでの様ですな……」
高珍が重い声で呟く。静まり返っていた虫達の声が、叢の中に鳴り響いていた。
微かな血の臭いが鼻をつき、ルーナは顔を上げた。アバラの飛鉄を受けた武蔵の右腕から血が流れ、地面に黒い染みを作っている。
「ムサシ……!」
ルーナが顔を青くして、その腕を取る。
彼女の掌から伝わる小さな震えを感じながら、武蔵は闇に鋭い眼光を放っていた。
(六)
昇る朝日が、夜明け前の薄青色の闇を拭い去ってゆく。曙の光が森を包み、武蔵達が夜を明かした廃寺の姿を鮮やかに浮き出させていた。
境内の石畳の先には、朽ちかけた堂が在り、正面に古い賽銭箱が置いてある。その奥には小さな階段があり、それを上りきった板の上に、武蔵とルーナが腰掛けていた。武蔵の腕の手当てをしているのである。
片肌を脱いで、手当てを受けている武蔵の顔が時折しかめられる。原因は傷の痛みよりも、ルーナの手当ての手付きの様である。そもそも高珍が行う筈だったのだが、ルーナが半ば強引に引き受けたのだ。
いざ始めてみると、傷口に焼酎をわざわざ口に含んでから豪快に吹き掛けたり、傷に膏薬を直接力一杯擦り込み武蔵に悲鳴を上げさせたりと、散々な様子である。
「サムライのくせに堪え性が無いぞ!辛抱しろ!!」
理不尽にたしなめられながら、さらし布を巻いて固定された頃には武蔵は若干ぐったりとしていた。
「……終わったか?」
恐る恐るという具合に聞いて来た武蔵に、ルーナは不満そうに口を尖らせる。
「なんで手当てをしてもらっておいて不安そうなのだ……!まあ、毒の心配は無さそうだな。うむ!我ながら完璧だ!!」
自分の手際に自信が有るらしい彼女の様子に武蔵は苦笑すると、もうこれ以上何かされるのはごめんだとばかりに、そそくさと衣服を直す。そして、ふと笑っていた自分に気付いた。
彼女と一緒では、落ち込んでいる暇も無いか――
そう考える様になった事にも驚きつつ、何気無くルーナの方に顔を向ける。一応、手当ての礼を言おうと思ったのだが、彼女は顔を俯かせて黙っている。
「……?」
ルーナはただ沈黙しているわけでは無かった。翡翠の鱗に覆われた両掌をしきりに組み替えて、口では何かをもごもごと呟いている。しかし、顔は俯かせたままの為、表情までは分からない。
「助けてくれて……ありがとう……」
か細い声で、ルーナは呟いていた。顔が真っ赤に染まっている。
この様な形で礼を言う事は、これまでの彼女の経験には無かった。彼女達黒龍族は、同族のナーガ族からも『呪われた黒角の者達』と疎まれて来たのである。触れる事さえ避けられた記憶も有る。
武蔵の両腕で抱え上げられた時、厚い胸板の感触に不覚にも鼓動が乱れてしまった。
自分の抱いている感情をどう呼べば良いのか分からないまま、勝手に赤くなる顔を見られない様に俯いていたルーナだが、武蔵からは何の反応も無い。不安になり彼の顔をちらりと見る。すると、
「え?何?何か言ったのか?」
ぽかんとした表情で、武蔵が顔を覗きこんでいた。
武蔵に悪気は無い。ルーナの声があまりにも小さくて、本当に聞き取れ無かったのだ。
「――って言ったのよ」
ぼそり、とルーナが呟く。その声には地の底から響く様な凄みが有る。その迫力にたじろぎつつも、やはり聞き取れず、「へ?」と武蔵は間の抜けた返事をした。
「臭いっつってんのよ!!あんたは!!いい加減に体を洗え!!この馬鹿ムサシ!!」
弾ける様に頭を上げて、耳まで真っ赤になった顔の碧い瞳に若干の涙まで溜めて、ルーナは絶叫した。
武蔵は階段から転げ落ち、周囲の樹からは仰天した鳥達が一斉に飛び立つ程の大音声であった。
「この馬鹿!!この馬鹿!!あんたって奴は!!人がどんだけの思いで!!」
怒りが治まらない様子で、ルーナは目を回した武蔵の襟元を掴み、がくがくと激しく揺らす。
「す、すみません!体を洗いますんですみません!!」
「ちっがーう!!それも本当だけど、ちがーう!!」
内容のずれた遣り取りを大声でする二人の姿を見て、杉の大樹の上から周囲の見張りをしていた高珍が、「やれやれ……」と、呆れた様に声を洩らしていた。