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第二部 『異星の龍姫』 第六話 流星

(一)

 彼女の眼前の“電映鏡”には、長大な群島が映し出されていた。

 “転宙翔”を行いこの星域に出現した時に、目の前に現れた碧い星の美しさは衝撃的だった。

 一瞬、自らの使命さえも忘れてしまう程だった。

 いけない――。

 頭を切り換える。自分はこれからあの大地に降り、何としても“宝珠”を回収しなければならないのだ。

 自分よりも先に、この惑星に降りた“天眼”の一族の者は無事だろうか。

 いくらこの惑星の人間〈マヌ〉達よりも遥かに長命とは言え、この星の公転周期で百回転以上の刻が経っている筈だ。

 天眼の一族は、自分達“ナーガ族”よりもずっと人間に近い。

 適応は容易いだろうが、その分彼等は我々や“ガンダルヴァ族”のような強靭な肉体は持っていないのだ。

 それにあの惑星には、遥か昔にも“ヤクシャ族”の者達が移住していた筈だ――。

 ともかく、今は考えても仕方が無い。天眼の一族からの信号は受け取ったのだ。それを信じるしか無い。

 彼女の意思に“幻空鳥”が応えた。低い唸り声のような音を立てて、薄暗い内部に幾筋もの光が走る。電映鏡に映された長大な島の一点に、緑色の光が灯された。

 やがて、幻空鳥がゆっくりと方向を変えて、地上に向けて降下を始めた。

 その夜、天空の暗い雲を切り裂いて、雷よりも強烈な光芒を放つものが出現した。

 金緑色のその光は、巨大な刃の如く長い尾を引いて夜空を疾り、高い笛のような大気を裂く音を発しながら、黒く染まった山肌へと吸い込まれた。

 僅かな間を置いて、光が消えた方向から、地鳴りに似た低い音が響いて来た。


(二)

 杉の原生林の中を、ひとりの老人が歩いていた。

 斜面を上方に向かい歩いている。

 地面は太い樹々の根が大蛇のようにうねり、岩や倒木が至るところに顔を出している。

 老人は夜目が利くのか、無造作に脚を運んでゆく。小柄な体格であるが、岩や倒木をまるで気にする事無く、乗り越え、跨ぎ、進んでいく。

 頭上では、轟々と杉の梢がうねっている。上空は嵐だった。

 山全体を叩く太い雨の音が、大地のとどろきに似た音となっている。

 風にざわめく樹々の梢も絶え間無く音を立て、山が巨大な獣の唸り声を上げているようだ。

 暗い頭上で、時折稲妻が疾る。

 その一瞬だけ、老人の姿が闇の中に浮かび上がる。

 黒い僧衣を身に付けていた。

 頭には耳の周囲に僅かに髪が残っているだけだが、顎下には胸元まで伸びた白髭が生えている。

 足には草鞋を履き、脛に脚絆を巻いている。その脚で下生えを掻き分け、老人とは思えない身軽さで、身体を前へと進めている。

 全身がずぶ濡れだった。髪も髭も雨に濡れて、肌に張り付いている。

 季節は夏であるが、山の雨、しかも激しい雷雨だ。常人ならば、たちまち体温を奪われてしまう。

 しかし、この老人には一向にそういう気配が無い。奪われる以上の熱を、その小さい身体が造り出しているのか。

 力強い光を宿したその双眸が、その事を物語っているようだった。

 山中を歩き続けて、どれ程の刻が経ったのか――いつしか、雨は小降りになっていた。

 歩いていくうちに、雨は更に弱くなり、やがて森の中を漂う霧に姿を変える。

 嵐が去ったのだ。半刻(約一時間)もしないうちに、その霧も消えた。

 「おう……」

 上を見上げた老人が声を上げる。

 雲が割れて、空の一角に、天の裂け目のように星空が現れていた。

 先程の天翔る光が、嵐を連れ去ったようだった。


(三)

 更に小半刻(約三十分)程も歩いただろうか。不意に周囲が明るくなった。

 空が広くなり、青白い月光が溢れるように天から降り注いでいる。

 森が終わったのか――いや、そうでは無かった。

 樹が倒れていた。一様に、同じ方向に向かってである。

 老人が位置している方向から前方に向かい、森の樹々が薙ぎ倒されていた。

 天の一角から落ちて来たものが、この森の樹々を打ち倒した跡である。

 青い夜の虚空に月が輝き、この異様な光景を照らし出している。

 老人は樹々の倒れるその先へ、迷わず歩を進めてゆく。

 数百本の樹が、一面に倒れている。中には、小さく燻り煙を上げているものも有った。

 その先に、巨大な擂り鉢状の穴が現れた。

 城の本丸さえも、中に収める事が出来そうな規模である。形は円形ではなく、楕円形をしていた。

 穴の周囲も、縁を囲む様に樹々が倒れ、近くの土と共に焼け焦げている。

 その穴の中心に、黄色とも緑色ともつかない、朧な燐光を発するものがあった。

 それは流星となり、天空よりこの地に飛来した物体であった。

 老人はその怪しい光を全身に浴びながら、穴を降りてゆく。

 穴の底には奇妙な物体があった。

 それは人の背丈の数倍はある、楕円形の金属の塊だった。

 形は先端部が鋭利に尖った卵の形に似ている。それが、先端部を地中に向けて、穴の底に突き刺さっていた。

 表面は、鏡の様な透明な光沢を持つ銀色の金属で出来ている。

 そこには継ぎ当てられた形跡は一切無い。滑らかな曲線をえがいている。また、羽はおろか一切の装飾も無かった。

 燐光と共に、月の青白い光を反射するその物体に、老人は警戒する事無く真っ直ぐに歩いていく。

 金属塊の正面に立つと、老人は手を伸ばし、その金属の表面に掌を当てた。

 その瞬間――

 老人の触れた部分が金緑色の光を放ち、そこから蜘蛛の巣の如く、細い光の筋が金属塊の表面を走り抜けた。

 不意に、低い唸り声に似た音が穴の内部に満ちた。それは金属塊の内部から響いて来ている。

 老人が手を離すと、金属の表面が水滴が落ちた水面の様に波打ち、澄んだ鐘を鳴らす様な音が響く。

 すると、低い音が止み、金属の表面に小さな穴が空いた。

 始めその穴は握り拳程の大きさであったが、ゆっくりと広がり、人ひとりが充分くぐれる程の大きさになった。まるで金属の表面が液体となった様な、滑らかな動きであった。

 内側からは、淡い緑色の光が漏れて来ている。

 その穴の中に人影があった。

 美しい女であった。

 碧い海の様な瞳が、老人を見ている。

 女は銀色の光沢を持つ、椅子の形状をしたものに横たわっていた。

 内部には、その椅子の様なもの以外には何も見えない。時折、細い光の筋が内部の壁に走るだけだ。

 女はゆっくりと立ち上がった。

 白い滑らかな艶を持つ、絹の様な布を身に巻き付け、首や腕には金銀の飾りを付けている。

 美しい金髪が肩まで流れ、側頭部からは、黒曜石を思わせる硝子質の角が生えていた。

 それだけでは無い。首元と両腕には、翡翠の様な鱗が生えている。

 人外の女であった。

 女の前に老人が歩み出た。

 「お待ちしておりました……。ルーナ様」

 「久しいな……。ボックよ」

 そう答えたルーナの老人を見る眼には、懐かしい者を見る優しい光がある。

 「懐かしい名ですなあ……。今の名は『高珍』と申します」

 老人――高珍も、顔に笑みを浮かべ答えた。


(四)

 武蔵は地獄の中にいた。

 この世の地獄だ。

 武蔵は血と脂でぎらぎらと光る刀を両手に握っている。

 刃先も柄も、斬った相手の血でぬめっている。

 どれ程の敵を斬ったのだろうか。

 身に付けた小袖も袴も、血で濡れずっしりと重い。

 初めこそ、むっとする様な血の臭いを嗅ぐ事が出来たが、今はもう鼻が麻痺してしまった。

 顔も髪も真っ赤に染まっているだろう。

 また目の前に敵が現れた。

 左胸を狙い突き出された槍を、右手の太刀で斬り上げ、そのまま踏み込み一太刀で首を切断する。

 ざっ、と血が噴き出し、顔にかかった。

 続けて打ち込まれる刀を、左手の脇差しで相手の手首ごと切り落とし、脇から一文字に斬り込む。

 胴を深く裂かれた敵は、口から血を噴き、内臓を溢れさせて崩れる。

 武蔵の肩口に、黄ばんだ肉片が飛び散った。

 正面の敵に飛び掛かり、ひと呼吸で頭蓋を両断する。

 眼球が飛び出し、頭部が石榴の様に割れた。ざあっ、と血が雨の如く降り注ぐ。

 武蔵の顔と襟元に、豆腐に似た脳漿がこびり付いていた。

 斬っても斬っても、また新たな敵が現れて襲いかかって来る。

 気が狂いそうになる。

 気持ちが萎えそうになる。

 それを無理矢理奮い起たせる。

 武蔵は天に向かって吠えた。血の叫びであった。

 泣いていた。血の涙であった。


(五)

 轟々と風が鳴っている。

 闇の中で唐松の梢がうねり、無数の葉が風の中に千切れ舞ってゆく。

 深い深い暗闇の中であった。

 武蔵は目を覚ましていた。

 いつもの悪夢を見ていたのだ。

 眼は既に開いている。だが、その眼前には濃い夜の闇があるだけだ。

 森の吠える音が耳に響いている。

 樹々が暗い天に向かい、身を捩って哭いている。

 武蔵にはそれが、悪夢の中で無限に斬り殺した者達の断末魔に聞こえた。

 轟、と森が哭く。

 武蔵は耳を塞いだ。頬を伝っているのは、血の涙であった。

 自分が何を考えているのか分からない。何も考えていないのかもしれない。

 ただ、様々なものが眼前の闇の中を、影の様に通り過ぎてゆく。

 人の顔が浮かんでいる。

 頭を叩き割った、吉岡清十郎の顔。

 腹を裂き、臓物を溢れさせた、弟の伝七郎の顔。

 一乗寺で斬り殺した、吉岡一門の男達の顔。

 名代に担ぎ上げられた、又七郎の顔――太刀を降り下ろしたその顔は、まだ少年と言える年齢だった。

 大きな黒い瞳が“なぜ?”と、問い掛けている様だった。

 それだけでは無い。

 旅の途中で戦い、斬り倒した武芸者達、野盗達――それらの顔が浮かんでは消える。

 どの顔も、皆哀しげな顔をしていた。

 何故こうなってしまったのか。武蔵は考える。

 兵法で名を上げ、一流を起こし、時を得て大名の師となり、名を後世に遺す。

 そのつもりで木刀片手に故郷を出た。それがそもそもの間違いだったのか。

 それとも、父平田武仁が、先代吉岡憲法に勝利したという因縁を利用して、吉岡道場に戦いを挑んだあの時からなのか。

 このようにしか、なりようが無かったのか。

 武蔵は自問する。

 あの時――一乗寺の戦いは異常であった。

 今更だが、そう思う。

 名門の意地も有ろう。柳生流、小野派一刀流に次いで知られる京の吉岡が、たった一人の浪人に負けていい筈が無い。負ければ全てを失うのだ。

 いよいよとなった時、彼等は銃も、弓矢も、人数も揃えて自分を殺そうとした。

 自分はまだ一介の浪人だ。失うものは無い。

 逃げても良かった。そうだ。弟の伝七郎を倒した後は、出立する支度まで整えていた。

 それが吉岡一門からの果たし状を見た時、身体の裡から、黒い獣が肉の中に這いずり出て来るのを感じた。

 それはもしかしたら、ずっと以前から自分の中に存在していたのかもしれない。

 そしてあの時、どす黒い炎となって、全身を駆け巡った。気が付くと走り出していた。一乗寺下り松に向かい、まっしぐらに又七郎に駆け寄り太刀を降り下ろした。

 更に、名代を失ったにも関わらず、亡者の様に自分に襲いかかって来る吉岡一門を、狂喜の笑みを張り付かせたまま、次々と斬り伏せたのだ。

 血を求めていた。自分も、吉岡一門も、その場にいた全ての者が狂っていた。

 手足を切断されてもなお、吉岡の者達は向かって来た。

 腹から内臓を引き摺りながら、殺気を孕んだ眼をして斬りかかって来たのだ。

 自分もその異常さを何ら感じず、ただ眼前の相手の骨肉を断つ感触に震え、浴びる血に酔いしれていた。

 ――そうだ。

 武蔵は頷いた。

 あの時だ。吉岡清十郎と立ち合う前に、吉岡道場を見た。

 道場に直接乗り込んでは、門弟達になぶり殺しにされる。

 だから、高札を立てて挑発する様な文を書き、吉岡の方から動く様にした。

 その前に、当主の顔を確認しておきたかった。いざその場に行って、弟子達のみが待ち構えていては意味が無い。

 その時に見たのだ。いや、感じた。そして眼が引き付けられた。

 道場の奥に飾られた、柄に龍の胴体の細工がされ、龍の頭部の鍔を持つあの剣を。

 その瞬間、肉の裡に黒い炎が灯るのが分かった。

 炎はじりじりと体内を焼き、そして吉岡一門との戦いで、巨大な獣となって牙を剥いたのだ……。

 武蔵は暗闇の中で、自分を抱くように、垢まみれの小袖の布地を掴んだ。

 恐ろしかった。

 死ぬ事が、では無い。兵法者として、死ぬ事が有るのは当然だと思っている。

 血に染まった襤褸(ぼろ)の様になって、命を終える兵法者達の姿を何度も見た。

 殺生は、可能であれば避けたい。これは当然だ。

 だが、兵法修行を行うからには、生命の遣り取りは日常の事として覚悟しておかなければならない。それは自分も相手も同じ事だ。

 これまでの鍛練の成果を充分に生かし、戦った上での結果が死ならば、それは仕方が無いと思う。

 だが、今の自分は違う。

 剣の道を極めると志し、そこへ辿り着く為の兵法修行であり、戦いであった。

 それが、戦う事が、いや、眼前の敵を斬り、命を奪う事が目的となっている。

 血しぶきが帯の様に噴き上げ、敵の首が鞠の様に飛ぶのを見ると、暗い悦びが肉の裡に起こる。

 何の為にとか、自分の生命が惜しいとか、そんなものは欠片も無い。

 殺したいから殺す。ただそれだけだ。

 自分の身体そのものを砕いてしまいそうな、暗い力の塊。

 それが内側から自分を喰い尽くそうとしている。

 自分が自分で無くなっていく。

 「助けてくれ――」

 声が震えている。

 何にすがれば良いのか。どうすればこの恐怖から救われるのか。

 武蔵は自分を抱き締める腕に力を込めた。

 どうしようも無い孤独感が全身を包んでいる。

 母とはぐれた幼子の様に、声を殺して武蔵は泣いていた。


(六)

 樹々の梢の隙間から、宝石を散りばめた様な星空が輝いていた。

 あの空の彼方、大気と星空の狭間に、幻空鳥は浮遊している。

 再び幻空鳥を地上に降下させ、瞬く星々の遥か先――“ガイラース”へ帰るのはいつの日になるのか。

 ルーナは夜空を見上げ、ふと考えた。

 夜の霧が、重い瘴気の様に、低く地を這い流れてゆく。

 森の中には、様々なものの音が満ちていた。

 微かな風。小動物の足音。樹木の軋む音。猛禽の羽音――。

 それらが山全体の低い囁き声の様に届いて来る。

 山の声に包まれながら、ルーナと高珍の二人は炎を見詰めていた。

 一本の、大きな杉の老樹の根元である。

 そこで火を焚き、ルーナは背を杉の幹に預け、高珍は先程仕掛けた罠にかかった、兎の肉を焼いている。

 ルーナの碧い瞳に、オレンジ色の炎が映っている。

 彼女が身に付けているものは、絹の衣装から、黒い僧衣に変わっていた。高珍が用意した物だ。装飾品も外されている。

 「王の様子はどうですかな……」

 肉を炙りながら、高珍が独り言の様に口にした。

 「相変わらずだ。身体を蝕む死に怯え、“紅宮”に閉じこもり、不死の秘薬の研究に御執心さ……。最近は更にひどい。種族を問わず、日に二、三人が紅宮に消えたまま戻らぬ。都でも、民の噂になり始めているよ。『王は生け贄を欲している』とな」

 ルーナは炎から視線を外さず、ぽつりぽつりと話す。

 「“アスラ族”や“マホラガ族”が、よく黙っていますな」

 「今のところはな……。消えるのは、人間〈マヌ〉が多いからだろう。だが、彼等の国でも、民の声を抑え切れなくなっているそうだ……。それに、“デーヴァ族”と“ナーガ族”の中に、犠牲者が出たという話は無い。……このままでは、九種族間の対立にも繋がりかねん」

 「愚かな……」

 眼を閉じて、高珍が重く呟いた。

 ルーナは胸中の苦いものを吐き出す様に、深く息を吐く。

 「それでも、王の為に“宝珠”を持ち帰るしか無いのだ……。我々、ナーガ族の異端“黒龍族”が生き残る為にはな」

 ルーナは視線を炎から、高珍へと移した。

 「お前には本当に苦労をかけるな……」

 「何を仰います、ルーナ様。我々“天眼”の民は、人間〈マヌ〉の枠組みから外れた存在です。行き場の無い我等を受け入れて下さった黒龍族の為ならば、この命惜しくはありませんぞ」

 まるで孫を見る様な暖かい眼差しで、高珍が言う。ルーナの口元にも、柔らかい笑みが浮いた。

 「そう言えば」

 ルーナが思い出した様に問い掛ける。

 「ボック……いや、高珍は、この星でどう過ごしていたのだ……?」

 ルーナの問いに、高珍は遠い過去を見る様に、虚空を見詰めた。

 「そうですなあ……。この星で、百年以上も前の事ですからなあ、私がこの島国の“カシマ”の地に降り立ったのは……。私よりも以前に来ていた天眼の一族が、その土地の神官家として根付いておりましたので、その一族の者を名乗り、国中を廻りました。……ですが、“宝珠”の手懸かりは、中々掴む事が出来ませんでした。私以前にこの地にいた、天眼の一族も同様です……。何故ならば“宝珠”の探索を、数百年に渡り阻む者達が存在したのです」

 「……何だと!?」

 高珍の言葉に、ルーナが思わず立ち上がる。

 「何者だ!そやつらは!!」

 重々しく高珍が口を開く。

 「“鬼若”と“遮那”と名乗る者達です」


(七)

 「“オニワカ”と“シャナ”だと……?」

 炎に照らされた、ルーナの眼付きが険しくなっている。

 「その名自体は、この国の古い歴史にも記されております。同じ名を名乗っているだけなのか……。ともかく、我々もその者達を調べ、既にそやつらが“宝珠”を手にしているらしいという事も分かりました」

 「ぐむ……」

 ルーナの口から呻き声が漏れた。

 「当然、我々も手をこまねいていた訳では有りません。一度、鬼若と名乗る者と立ち合った事が有ります」

 一瞬、炎が大きく燃え上がった。瞬間的に高珍の裡で膨らんだ闘気に呼応したかの様だった。

 「奴等を追い、鞍馬と言う地に赴く途中でした。そう、この様な夜の森で、そやつは凄まじい殺気を放ち襲いかかって来たのです。……どうやら向こうも、我等が“宝珠”を狙う一族の者と知っていた様ですな」

 「それで、どうなったのだ」

 ルーナの問いに、高珍は無言で僧衣の胸元を開く。その胸に、横一直線に刃物で抉った様な、火傷に似たひきつれが有った。

 「それは……」

 炎の灯りの中でも分かる程、ルーナの顔が青ざめている。

 「擦れ違いざまに、一瞬でした。逃げるだけで精一杯でしたよ」

 「ぬうう……」

 「『一度も不覚を取らず、矢傷六ヶ所以外に傷一つ無し』などと、世人は良く言ったものですなあ」

 高珍は自嘲めいた笑みを浮かべた。その時であった。

 何者かの気配を感じた。それにはルーナも気付いている。

 二人が身を寄せている杉の巨木を中心として、半径10メートル程の円を描く様に、高珍が結界を張っておいたのだ。

 樹を囲む様に、一定の間隔を開けて“気”を送り込んだ木の葉を置いてある。

 何者かがその結界内に侵入すれば、すぐにそれと知れる。

 その結界が反応した。

 深い闇の中を風が渡ってゆく。さやさやと揺れる葉ずれの音が、耳元に届いて来る。

 周囲の闇を見ていた高珍の眼が、すっと細められた。

 「そこの者……」

 低く呟いた。

 「先程から、わし等を窺っているらしいが、そろそろ出て来たらどうかね」

 しゅっ、と息を吐く音がして、何者かが移動し始めた。藪を掻き分け、下生えを踏む音がする。

 何者かの影が動く前のほんの一瞬、ルーナはそこに人影を見た様に思った。

 繁みの中に佇み、じっとこちらを窺っている男――。

 痛ましい程に、哀しい瞳をしていた。

 炎の灯りは影までは届いていない。だが、その影の発していた哀しみの感触だけは、鮮明に残っている。

 誘われる様に、ルーナは立ち上がりかけていた。それを高珍が手で制し、自身が何者かの影を見たばかりの繁みへ向かい歩いていく。

 「わしはここにおるよ。そのつもりになったら、仕掛けて来るがよい」

 高珍は闇に向かい声を掛けて、その場に立ち止まった。

 両腕を身体の後方に回し、腰の後で手を組む。何の力も入っていない、自然な立ち方である。

 山の大気と同質の、透明な気を高珍は発していた。


(八)

 風が梢を揺らしながら、通り過ぎてゆく。

 高珍はぴくりとも動かない。樹々を揺らす同じ風に、白髭をなぶらせているだけである。

 時間にして数分が過ぎた時、ルーナは高珍の正面の闇に、二つの緑色の光が灯るのを見た。

 獣の眼だ。一対の、燃える様な怪しい双眸。

 闇の向こうから、眼に見えぬ気の圧力が、じわじわと寄せて来る。

 凄まじい瘴気であった。

 ルーナの肌が、いつの間にか細かく震えていた。

 しゅうしゅうと、獣の顎から漏れる様な息の音が響いて来る。

 その影は、ゆっくりと繁みの中から這い出て来た。

 高珍の前方5、6メートルの草の上に、闇が凝固したかの様な黒い影がうずくまっている。

 黒い影は、少しずつ高珍との距離を詰めていた。草を踏む音さえも聞こえない程に、ゆっくりと四つん這いで歩を進めている。

 緑色に燃える双眸は、高珍から外れる事は無い。ルーナの耳には、いつの間にか影の放つ呼吸音だけしか聴こえなくなっていた。全身に冷たい汗をかいている。

 だが、高珍は表情を変えずに、静かに影を見詰めていた。

 黒い影から、沸々と禍々しい瘴気が湧き出した。それがゆっくりと輪を広げ、周囲を包んでゆく。

 瘴気の圧力に対抗する様に、高珍の体内からも同等の気の圧力が生まれ、大気が徐々に張りつめる。

 しゅっ!!

 鋭い呼気が影の口から漏れた。同時に宙へと猛烈な勢いで跳ね上がり、高珍に向かい襲いかかる。

 「くけええええっ!!」

 「哈ァ!!」

 放電に似た凄まじい気合が、影と高珍の間に迸る。

 瘴気を纏わり付かせた影の全身が、青白い炎に包まれた。

 両腕を前方に突き出した高珍の体からも、炎と同じ強さの光が放たれる。

 閃光の様に襲いかかった影の右腕を、高珍が下から左手の甲で払い上げた。

 その瞬間、周囲にガラスが砕ける様な衝撃音が鳴り響いた。

 影は正面から爆風を受けた様に吹き飛ばされ、宙で一回転し、地面に叩き付けられる。高珍の頬や腕には、刃物で切り裂かれた様な細い傷が走っていた。

 「ボック!!」

 ルーナが声を上げる。

 「心配有りませぬ。気の衝突で、大気が弾けた様ですな……」

 高珍は全身に気を張り巡らせながら、地に倒れた影に眼をやった。

 ふっふっ、と息を継ぐ微かな音が響いて来る。

 やがて樹々の隙間から青白い月光が射し込み、影の姿を照らし出した。

 「人間〈マヌ〉……」

 ぼそりと、ルーナが呟いた。

 倒れていたのは、襤褸(ぼろ)同然の小袖と袴を身に付け、垢まみれに汚れきった男であった。

 顔を見れば、数ヶ月は髭を剃っていないらしい。髪も伸び乱れ、先端の方は捻れ固まっている。

 身に付けた小袖も袴も、汗や垢が布地の芯まで染み込み、元の色が何色か分からない程だ。

 夜気に溶けた男の体臭が、ルーナの鼻孔にも届いて来る。

 グロロロロ……

 うつぶせになっていた男が、獣が喉の奥で立てる様な声を漏らした。

 袖から覗く両腕には、黒い獣毛が生えている。

 「ギイッ!!」

 男の口から、人間のものでは無い声が出た。驚く程長い舌が、口から垂れ下がっている。

 「ボック……」

 ルーナが高珍に声を掛ける。隠し切れない程の緊張感が声に現れていた。

 「はい……。こやつ、“濁気〈ローグ〉”に侵されております」

 「おおお……」

 男が狂おしく声を上げた。血の滴る様な、哀しみに悶える様な響き――ルーナにはそう聞こえた。

 男は泣いていた。

 「おれ、を、おれを、殺してくれ……」

 男が言った。しわがれた声である。口の構造まで変わりつつあるらしい。

 「殺せ……だと?」

 高珍の鋭く狭められていた両眼が見開かれた。

 「濁気に侵され、“魂〈ルン〉”の変質まで現れた者が……」

 ―正気を保っていられる筈が無い―

 それはルーナも同じ考えであった。と、同時に思う。先程の哀しみの瞳は、やはり彼のものであったのだと。

 「もう、おれは、おれで無くなってしまう。だから、その前に、おれを……」

 男が顔を上げた。垢で固まり捩り合わされ、幾筋かの束になった髪が顔にかかっている。

 その中で涙に溢れた琥珀色の瞳が光っていた。その眼は、紛れも無く人間のものであった。

 己の手で己の胸に刃を潜り込ませている――ルーナの眼には、男がその様に見えた。胸の奥に、小さな痛みが走る。

 「おぬし……、たった独りで戦っておったのだな」

 高珍が言った。子供をあやす様な、優しい声であった。

 声にならない嗚咽が、男の口から漏れた。

 高珍がゆっくりと前に出る。

 「だめだ……。おれに、近付いては」

 男が退がろうとする。

 「心配いらん」

 男に言い聞かせる様に、高珍が言う。

 「来るな!!」

 喉を絞り上げて、男は叫ぶ。

 「おぬしは人よ……。今ならまだ人に戻れる」

 高珍を見上げる男の眼に、みるみるうちに涙が溢れた。顔がくしゃくしゃに歪んでいる。

 高珍は男の額に、そっと右掌を乗せた。

 「今は休め」

 その言葉と同時に、男は糸の切れた操り人形の様に、その場に崩れ落ちた。

 「大した男よ……。よくぞ、今まで人の自我を失わずに……」

 そう呟く高珍の背後にルーナが立っていた。無言で男を見下ろしている。

 涙を流しながらも、どこか安堵した様な微笑みを浮かべて、男――宮本武蔵は気を失っていた。

 ルーナはその前でしゃがみ、武蔵の頬にゆっくりと手を伸ばす。

 鋭い爪で傷つけぬ様に、そっと涙に触れた。

 「……子供みたい」

 ルーナがぼそりと呟いた。


(九)

 江戸にある柳生家下屋敷の片隅に、小さな道場がある。

 ここは柳生一族の者が、将軍家に指南する時に使う為の場であり、通常人の出入りは無い。

 既に周囲は闇に閉ざされた時刻である。その道場の四隅に置かれた燭台が灯り、二人の男を照らし出していた。

 正面の神棚を背にして、柳生宗矩が座っている。肩衣を身に付けた(かみしも)姿である。

 額から頭頂部を剃った月代(さかやき)の下の顔は柔和な笑みを浮かべ、兵法家と言うよりは、禅僧の様な雰囲気だ。

 だが顔の下の首は、長年の激しい鍛練をうかがわせる様に、丸太の如く太い。岩の様な体躯をしている。

 宗矩の前には、袖無し長羽織に黒い野袴という、一目で武芸者と分かる出で立ちの男がいた。

 伸びた髪を後ろで束ねた、巨躯の武士である。

 浅黒い肌、猛禽の様な鋭い眼光。そして顔は長年殺戮の中で生きてきた兵法者の凄絶さを漂わせていた。

 そしてこの男と柳生宗矩には共通点が有った。

 浮かべる表情こそ違えど、その顔は正に生き写しである。

 「血の臭いがするぞ、天鬼……」

 宗矩が微笑を顔に貼り付かせたまま言った。

 「また斬って来たのか」

 その言葉を受け、正面の男――天鬼が暗鬱な殺人者の視線を向ける。

 「人を斬らない剣に、何の意味が有るよ、兄者……」

 岩を引き摺る様な低い声で、天鬼が答えた。その口からは屍臭さえ漂って来そうである。

 「天鬼よ、そちも知っての通り、新陰流の開祖であられた上泉伊勢守様は、兵法をただ人を斬るだけの技であってはならないとお考えになり――」

 「人を斬って、徳川に取り入った者がよく言うな」

 「――」

 「兄者にも柳生一族の猛々しい血が流れておる。何だその腑抜けた姿は。秀忠や、近習どもをあやしすかして、太刀技のひとつふたつ教えて満足かよ……。ええ?」

 宗矩の天鬼を見る眼に、刺し貫く様な鋭い光が加わった。天鬼はその眼光を正面から見返す。

 「お前に何が分かる……」

 宗矩は口元に笑みを貼り付かせたまま呻く様に言った。だが、炎に照らし出された顔は不気味に歪んでいる。

 「何事にも二つの面が有る。剣にも、柳生にもな。己の欲望のまま殺人剣を振るうお前に、儂の心が分かるか。下らぬ御機嫌取りを繰り返す、この気持ちが」

 「ふ……」

 天鬼が口の片端を吊り上げる。

 「儂はな、柳生の剣で天下を動かしてやる。それが、僅か二百五十石で柳生谷から這い上がって来た者の夢よ。その為には術策を巡らし、利用出来るものは全て利用してやる。つまらぬ“子守り”もそのひとつよ。お前の殺人剣もな。よく覚えておけ……!」

 宗矩の双眸は熾火の様に光っていた。夜叉を思わせる凄絶な面貌である。柳生一門の統率者としての本性が顔を出していた。

 「そうだ。その顔だ」

 天鬼も両眼をぎらつかせ、宗矩の顔を見返し、にやりと嗤った。

 「それで、その“殺人剣”を呼んだ訳を聞こうか」

 宗矩の顔からは、夜叉の表情は既に消え去っている。

 「先日の“流星”の事は、配下の伊賀者から聞いていよう」

 「うむ……」

 天鬼の眼が光る。

 「柳生谷の“羅刹衆”も、流星と共にこの地に降り立ったと伝えられている……。その話だけなら、よく聞く昔話と変わらぬ。だが我々はこの眼で見ておる。あの人の範疇から外れた異形の者共と、我々の技術では到底造り出せぬ道具の数々をな……」

 宗矩の言葉に、天鬼は無言で頷く。

 「羅刹衆が、太古の昔に祖先が乗って来たとされる“船”を守っている事は知っているな」

 天鬼の眼を覗き込む様にして、宗矩が言葉を続ける。

 「あの流星が落ちた夜にな、その“船”が鳴き、動いたそうだ。まだあの“船”は生きておる……」

 宗矩の双眸に、再び獰猛な光が宿っていた。

 「ほう……」

 天鬼が宗矩を睨む様に見据える。

 「面白い事になりそうではないか」

 天鬼の口元に、獣が牙を剥いた様な不敵な嗤いが浮かんだ。

 「天鬼、羅刹衆を指揮し、流星を探せ」

 宗矩が命じると、天鬼は傍らの剛刀を掴み立ち上がる。それは無数の兵法者や隠密、そして“それ以外”の人間達の血を吸った妖刀である。

 道場を出る前に、天鬼は目線だけを宗矩に向けて聞いた。

 「兄者、この件、幕府には……」

 「伝えておらん。……必要無い」

 宗矩は能面の様な微笑を浮かべて答えた。

 「それでこそよ」

 天鬼は、にんまりと唇を左右に吊り上げた。凄まじい鬼の笑みであった。

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