表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/28

第五話 二天一流

(一)

 空には黒雲が毒蛇の如く渦巻いている。獣の唸り声に似た雷鳴が轟く下で、一つの奇怪な叫びが上がった。

 咆哮とも、悲鳴ともつかない声であった。その声は、武蔵達の眼前の“もの”が発している。

 悪夢が現実となって現れたような光景だった。その“もの”は、熊の胴体と蜥蜴(とかげ)の脚、蛇の首と、頭髪の生えた、鱗の無い蛇の頭部を持つ化獣である。

 異形の怪人、アバラの吐き出した蛭が、野盗の生き残りである新之助を“濁気〈ローグ〉”により変化させた“濁鬼〈ローガー〉”だ。

 濁鬼が蜥蜴の脚を踏み出した。地が振動する。辺りを見回すように首を回し、武蔵達を睨んだ。巨大な黄色い眼であった。

 「知ッテイルゾ……。オマエ達ヲ知ッテイル……」

 濁鬼が不気味な声を発した。口の構造が違う獣が、無理に人語を話しているようだった。

 「オレノ、邪魔ヲ、シタ。オレガ、アノ女ヲ、女ヲ……」

 濁鬼はもどかしそうに首を振る。

 「ソウダ……。アノ女ヲ、喰イタカッタンダ。腹ニ顔ヲ、突ッ込ンデ、思ウサマ、腹ワタヲォォ……」

 口がぬうっとめくれ上がり、歯が剥き出しになった。蛇の顔に、人の歯が生えている。

 濁鬼は口の端を、大きく吊り上げた。笑っているのだ。

 「喰ッテヤル。全員残ラズ、喰ッテヤルヨ」

 巨大な赤い舌が外に垂れ、口のまわりをぞろりと舐めた。濁った眼光が、武蔵達の奥――村人達の避難した小屋に向けられていた。


(ニ)

 「同じだな……」ルーナに抱えられた武蔵が呟く。「己の中の凶暴な衝動を抑えられん。いや、抑える必要など無いのだ。人ではないのだからな。おれは目の前の者を、ただ斬り殺したかった……」

 武蔵は己の内に潜む、黒い汚汁を吐き捨てるように言葉を出していた。

 「人の肉への欲望が、獣の本能と結び付いたかよ」高珍の声に重く硬いものが含まれている。「ここで奴を倒すしかあるまい」

 その言葉に武蔵を抱くルーナの手に力が込められる。その手にそっと武蔵の手が置かれた。

 「俺が戦う。他に方法は無い」

 武蔵の眼は既に決意をしていた。それを見て、ルーナはぐっと言葉を飲み込む。

 「すまない……。高珍老師、ルーナ、彼を連れて、奥の村人達の小屋へ」

 武蔵はまだ意識の朦朧としている梅軒を二人に託すと、脇腹の痛みを堪えて立ち上がり、小袖を脱ぎ捨て叫んだ。

 「半蔵!蛍殿!濁鬼を止めてくれ!!」

 蛍は鋭い爪を生やした手を正面にかざし身構える。爪先から銀糸が送り出され始めた。

 「やっぱ……、やんなきゃならねえよなあ」

 半蔵が呟き、腰に差してあった新たな忍刀を構えた。

 「半蔵様……」

 蛍が声を掛ける。半蔵の身体が小刻みに震えている事に気付いたのだ。

 「へっ、武者震いと言いてえけどよ、正直、本気でびびってるよ。一人だったら絶対逃げ出してるぜ」

 半蔵は精一杯口端を吊り上げて、笑みを作ろうとした。しかし上手くいかない。歯の根が合わず、かちかちと音がしている。

 「ああ、やっぱおれは忍びに向いてねえよ。こんな化け物相手に戦おうなんて、忍びでなくても無謀だって分かるじゃねえか」

 「でも……」蛍が濁鬼に視線を向けたまま言う。「やっぱり逃げないんですね」

 「しょうがねえだろ。あの化け物、おれ達だけじゃなく、伊吉や千絵ちゃんまで喰おうってんだぜ……。ああ、糞!やっぱ怖えー!!旦那!信用してっからな!!絶対何とかしてくれよ!!」

 言葉の末尾は少し情け無かったが、それでも自分を奮い起たせようとしているのが分かる。

 武蔵は口元に力強い笑みを浮かべた。蛍も小さく微笑んで頷く。

 「へへ」

 半蔵の口元から笑いが漏れる。気が付くと、身体の震えは止まっていた。

 「やってやろうじゃねえか!化け物!!」

 半蔵が濁鬼の前に跳躍した。


(三)

 濁鬼は自分の眼前に立つ人間を知っていた。

 高く通った鼻筋と灰色がかった黒い瞳。ゆるく波打つ髪を後ろに流し、口元に人を食ったような笑みを浮かべた男。

 「オマエ……」しゅう、と、歯の間から息が漏れる。「オレノ、手ニ、針ヲ、刺シタナァ……」

 濁鬼の黄色い両眼に炎が燃えた。唇がめくれ上がり、太い犬歯が覗く。

 「覚えていてくれたとは嬉しいねえ」

 半蔵は右手に忍刀を構え、左手を後方に回した。帯の後ろに小さな皮袋が付けられており、そこから金属製の小さな筒を取り出した。直径は2、3センチ、長さが10センチ程の筒である。

 「蛍、蛭野郎を頼むぜ。こっちの熊と蛇の出来損ないは、おれが何とかしてみるからよ」

 半蔵の言葉に蛍は頷くと、強い視線をアバラに向けた。

 それを見たアバラが、頬の肉を引きつらせた。恐らくは微笑したのであろうが、肉が溶け落ち包帯が巻かれた顔では、そこまでは分からない。

 「良いのかね?蜘蛛のお嬢さん。君の大切な主人が、濁鬼に生きながらはらわたを喰われる事になってしまうよ」

 「あの人を甘く見るな……!」

 低く呟く蛍の爪先から伸びる銀糸が、アバラの周囲の空間を包囲するように広がっていく。

 「ここから先へは、一歩も行かせない」

 蛍の緋い七つの眼が輝いた。アバラの全身からも、妖気がふつふつとたぎり始める。

 二人の間の空間に、指で触れれば音を立てて亀裂の疾りそうな緊張が張りつめていた。

 「ふうむ……。流石だねえ」

 アバラの口から漏れた声には、感心したような響きがあった。

 「迂闊には動けんか……。だが、それは君も同じ事だ。おれから目を離すわけにもいくまい。ここは、先ず君の主人が濁鬼の最初の食事になるのを見届けようか。その後で、ゆっくりと君の相手をすれば良い」

 ひひひ、と、アバラの口から引きつるような笑い声が上がった。


(四)

 半蔵の手に金属製の筒が握られている。

 親指で筒の先端を弾くと、軽い音を立てて先端部分が外れ、その下から細い針が現れた。

 「蛍達の里長と、おれのじいちゃんの特別製だ……。覚悟しやがれ」

 針の先端が、半蔵自身の手によって首筋に潜り込んでいく。そして、針の反対側の端をゆっくりと押し始めた。

 筒の中身が肉の内部へと押し出されてゆく。

 全ての中身を押し出すと半蔵は金属の筒を捨てた。

 胸がいつの間にか、大きく前に迫り出したり、縮んだりし始めていた。

 大きな呼吸を繰り返し、その変化のリズムがテンポを速めてゆく。

 ふつふつと額に汗の玉が浮き始めた。開いた唇の内側で歯を噛んでいる。

 何かに耐えているように、その噛んだ歯に全身の力が籠っている。

 「ごひゅう」

 大きく息を吐いた。歯の間を疾り抜ける空気が、しゅうしゅうと音を立てる。獣じみた呻き声が漏れ始めた。

 「秘薬をもって、人間を破壊の限りを尽くす夜叉と化す……“破叉化(ばさか)の術”だ!!」

 びくん、と、半蔵の身体に震えが走り抜けた。その震えが大きくなってゆく。

 「むう」

 アバラが呻いた。半蔵の内部に凄まじいパワーが生まれつつある。

 「しゃああっ!!」

 いきなり半蔵が叫び声を上げた。跳躍し、後方に下がる。

 濁鬼の前で半蔵は身構えていた。二本脚ではない。両手両足――四肢を地に突いて、四つん這いで半蔵は枯れ草の中に立っていた。

 膝ではなく、爪先を地に突いている。体型は人でも、人が獣の姿勢を真似ているという不自然さが無い。

 半蔵の足先が地を抉った。猛然とスピードを上げる。濁鬼が動いたのは、ほぼ同時であった。

 凄まじい速さであった。巨大な黒い塊が、半蔵に向かい吹っ飛んで来る。

 轟!!と吠えた。威嚇と攻撃の姿勢である。強烈な迫力であった。

 半蔵の正面から、獣臭を含んだ熱風が叩き付けて来た。

 「がああああっ!!」

 半蔵の咽からも、獣の声がたぎり出た。

 濁鬼が、熊の右腕を真横から薙ぎ払う。

 半蔵が上半身を伏せて、右腕をかわす。爪が右頬を掠めた。

 それだけで、べろりと皮がめくられ肉が抉られた。太い溝がそこに出来る。

 右腕をかいくぐり、半蔵は忍刀を濁鬼の脇腹に向かい打ち込んだ。

 ずくり、と、忍刀の刃が肉に潜り込む。しかし、刃は途中で止まってしまった。獣毛と分厚い筋肉が刃を止めたのだ。一瞬、半蔵の動きが止まる。

 半蔵の顔に牙を立てようと、濁鬼が口を開いた。黄色い犬歯が上から襲い掛かる。

 半蔵は右脚で思い切り濁鬼の胴を蹴りつけた。反動で濁鬼から忍刀を引き抜き、飛び離れる。

 右脚の爪先、ほんの数センチ先の空間で、濁鬼の歯が噛み合わされた。

 瞬間、半蔵の身体が地に沈んだ。同時に下から突き出して来るものがあった。半蔵の右脚である。地から突き上げた槍と同じであった。

 その槍が、閃光の速さで、牙を剥いた濁鬼の顎に真下からぶち当たった。がつん、と、歯と歯が噛み合わされる音が響く。濁鬼が唸り声を上げ、口から血をしぶかせた。

 ふしゅっ

 半蔵が鋭い呼気を発した。同時に濁鬼に向かい疾る。鬼神の速さであった。

 閃光の速さで濁鬼が左手の爪を振るう。

 寸前で身を伏せる。頭上を大気を引き裂き腕が通過した。そのまま四足獣の体勢で、半蔵は大地を蹴って疾り出した。濁鬼の右横の空間――眼前には、草地の周囲を囲む樹々がある。

 宙を飛ぶように疾った。驚く程の身軽さであった。体重を感じさせない、空気のような動きだ。

 半蔵は両脚の膝を曲げ飛び上がった。両脚のバネだけで2メートル以上も跳び、樹の幹に忍刀を打ち込み、そのまま腕力だけで身体を一番下の太い枝の上に引き上げた。

 最早、人間の動きでは無い。そのまま枝先へ走る。体重で枝が下にたわんだ。

 枝が下にたわみ切った時、膝のバネを使い、枝に更なる反動を与えた。ぐうっと枝が持ち上がる。

 ざっ、と、梢を鳴らして、半蔵の身体が宙に舞った。濁鬼の頭上を越えて、新たな樹上へ跳ぶ。

 枝の中を半蔵が動く。濁鬼の眼には、黒い影が移動していくようにしか見えない。

 半蔵が濁鬼の背後に降り立った。しかし、濁鬼もその瞬間にはもう動いていた。

 襲い来る濁鬼に、半蔵の身体が大きく宙に跳ね上がる。左でも右でも無い。正面から濁鬼の頭上に四肢を広げ舞い上がった。

 不意に、大きく広げた手足を縮める。その縮まった身体が濁鬼の頭上に落ちて来る。

 仰向き、牙を剥く濁鬼の顔に向かい、縮まった半蔵の身体から一直線に左脚が伸びた。

 驚く程正確に、その指先が濁鬼の眼球を狙う。

 蛇の首を大きく後方にしならせ、濁鬼がその蹴りをかわす。次の瞬間、その首を半蔵に向かい叩きつけた。

 咄嗟に腕を身体の前で交差させ、その一撃を受ける。

 凄まじい衝撃だった。背骨の奥まで電気が疾り抜けるようだっだった。

 数メートル吹き飛ばされる身体を回転させ、何とか地面に四つん這いで降り立つ。

 地に突いた両腕に激痛がある。しかし、その痛みが、獣の衝動に支配されそうな半蔵の意識を繋ぎ止めていた。

 ――これは、おれらしくねえな。

 半蔵はそう思う。

 気道が焼け付くように痛い。息をする度に痛む。手足が千切れそうだ。

 いつの間にか、こうなってしまった。

 初めは、服部家を再興させる為に武蔵達に近付いたのに。それが、こんな化け物と戦う羽目になっている。

 独りで逃げろと、頭の何処かで囁くものがいる。もう十分やったと、それが囁く。

 ぎりっ、と、半蔵の身体の筋肉が軋んだ。

 濁鬼の黄色く濁った眼光に晒されると、再び身体が震えそうになる。

 いや、震えそうに、では無い。確かに、小さく震えている。

 いい。と思う。

 震えてもいい。逃げなければ、それでいい。

 理由は自分でも良く分からない。しかし、逃げればそれで終わりだという事は分かる。

 逃げれば、もうこの場には戻れない。もう二度と、蛍の前にも武蔵達の前にも居られない。

 ちっぽけだが、“意地”が、“誇り”が感じられるこの場所には。

 半蔵は軽く腰を沈めた。

 濁鬼は生臭い息を、妖気と共にとろとろと吐き出し、にっ、と、口を吊り上げて笑った。黄色い歯の奥で、赤い舌が蠢くのが見える。

 「こうっ……」

 半蔵が歯を剥いて哭いた。静かだが、熱い炎がその瞳に宿った。


(五)

 半蔵と濁鬼の戦いを意識の端に感じながら、武蔵は呼吸を整えていた。

 今すぐにでも、半蔵の加勢に行きたい。その思いを歯を軋らせて耐える。

 ここで動けば、時間を稼いでくれる半蔵の覚悟を踏みにじる事になる。

 落ち着け――己に言い聞かせ、武蔵は大気中の“気〈プラーナ〉”を呼吸と共に体内に取り入れていた。

 ゆっくりと呼吸を整えてゆく。過去、何千回と繰り返した仙道の呼吸法である。

 人体には、“気〈プラーナ〉”が流れる道筋となる“気道〈ナーディー〉”が七万二千存在するとされる。

 その中でも、特に重視される三つの気道がある。

 身体の中心、脊椎に沿って延びる、中央の“シュムスナー”

 その左側に、螺旋状に巻き付く様に走る“月の気道〈イダー〉”

 右側に同じく螺旋状に巻き付き走る“日の気道〈ピンガラー〉”

 月の気道は左の鼻孔に通じ、日の気道は右の鼻孔に通じるとされている。

 呼吸の際に、月の気道から大気に満ちる“気”を取り入れ、体内に留めた後に日の気道から吐き出す。次は逆に、日の気道から取り入れ、月の気道から吐き出す。この流れを意識して行う。

 一定の呼吸のリズムを繰り返すことにより、体内の気道を流れる“気”の量と流れを強くしてゆく。

 そして、体内に満ちた“気”が一定量に達すると、“気”は自然に背骨に沿った中央のシュムスナー気道に流れ込む。

 すると、人体の脊柱に沿って存在する“念輪〈チャクラ〉”が解放されてゆく。

 この呼吸――“気”の強化は、“念輪〈チャクラ〉”を解き放つ事が目的である。

 シュムスナー気道には七つの念輪が存在し、それが気道を封印している。人間の本来発揮出来る力の、言わばリミッターとなっているのだ。位置と名称は下部より、

 仙骨最下部の“地”

 性器奥の  “水”

 臍奥の   “火”

 心臓奥の  “風”

 咽奥の   “空”

 眉間部の  “月”

 頭頂部の  “日”

 この中で、一番最初に覚醒するのが、仙骨最下部の“地”の念輪である。

 ここには、“クンダリーニ”という炎の蛇で表される、人間の根源力と言えるエネルギー体が眠っている。

 その炎蛇が覚醒し、シュムスナー気道を上昇していくと共に、念輪を解放していくのだ。

 ここで特筆すべきは、念輪を一つ解放する度に、取り込める“気”の量も、増幅する“気”の量も倍加していく事である。解放される力が四倍化されるのだ。

 “地”の念輪で四倍化した力は、“水”の念輪では十六倍、“火”の念輪では六十四倍となる。頭頂部の“日”の念輪では、四の七乗倍――。

 自身の命さえも滅ぼしかねない、諸刃の剣の法である。急激に増大する力に、肉体が耐えられないのだ。

 人体に封印された、神の如き力を呼び覚ます、日と月――二つの天の気道を操る禁断の法。

 それこそが、『二天一流 起神の法』である。


(六)

 武蔵は、その血が、肉が、骨が、小さく軋み音を上げるのを感じていた。

 肉の裡に、ふつふつと熱く込み上げて来るものがある。

 どうしようも無く血が騒ぎ、己の獣が目覚めようとしている。

 武蔵の身体に熱い気の塊がせりあがって来た。堰を切った奔流のように、体内を走り抜けた。

 その瞬間、武蔵の肉体は灼熱の炎と化した。


(七)

 半蔵は身体中に無数の傷を負っていた。

 特に深いものは右頬、左肩と右上腕部、そして胸である。いずれも、濁鬼の鋭い爪に抉り取られた傷だ。傷口からは、血が流れ続けている。

 いったい、どれ程の時間戦っているのか。半蔵の脳裏からは、その記憶が欠落していた。攻防の一瞬、一瞬に全ての集中力を奪われてしまっているのだ。

 全身の筋肉が悲鳴を上げている。あとどのくらい身体が動くのか分からない。呼吸であと三回分?四回分?それとも、今、この瞬間に身体が動かなくなってしまうのか。

 よく倒れないものだ。まだ両脚で立っている自分が不思議だった。

 視界の隅に蛍がいる。泣きそうな顔をして自分を見ている。

 何度も自分の名を呼んでくれていた気がする。そうだ。その度に、遠退きそうな意識が再び体の中に戻ったのだ。

 眼前の濁鬼は、歯を剥き出しにした凶悪な笑みを浮かべている。

 何度斬りつけたのか分からない。だが、自分と違い、奴の傷は浅い。

 分かっているのだ。目の前の人間に、自分を殺せる力が無い事が。自分の優位を信じて疑わない――。そんな意志の込められた笑みだった。

 ――くそったれ!!

 一度だけ。あと一度だけ忍刀を振る。それが最後だ。奴に思い知らせてやる。

 腕を持ち上げた。全身の力を込める。こんなに重いと思ったのは初めてだ。砕けそうな程に歯を噛み締めて、足を蹴り出した。

 身体ごと叩きつけるつもりで突進する。肺から絞り出すような雄叫びを上げて、半蔵は濁鬼に斬りかかった。

 烈帛の気合いに、濁鬼の反応が一瞬遅れる。

 半蔵は、忍刀を濁鬼の顔面に向けて打ち込んだ。

 ずくり、と、刃が潜り込む。下顎の半分を、忍刀が断ち割っていた。

 その時、みしり、と、音がした。

 半蔵は、まるで真っ赤に焼けた石を腹に押し当てられたような感触を味わっていた。

 濁鬼の前腕部が、腹にめり込んでいた。

 懐に飛び込んでいた為、爪では無い。しかし、丸太のような腕が深々と食い込み、肋骨の折れる音が響く。

 「がああっ!!」

 半蔵が悲鳴を上げる。

 地面に叩き付けられ、もんどり打つ。口から大量の血を吐いた。呼吸が出来ない。今の一撃で、肺の中の空気を根こそぎ吐き出してしまった。

 濁鬼が顔を上げた。顔からは笑みが消えている。凄まじい怒りの形相だった。

 下顎の右側を、半蔵の一撃で大きく断ち切られており、骨が剥き出しになっている。呼吸をする度に血が泡を立て、しぶきを上げていた。

 「ゴ……ロ……ズ……」

 先程よりも更に、発音が不明確になっている。黄色い眼が血走り、狂気の光を宿していた。

 半蔵はその場から動こうとするが、地面に投げ出された手足には、まるで力が入らない。

 「半蔵様!!」

 蛍が悲痛な声を上げて駆け寄ろうとするが、その足下にアバラの口から毒液が放たれる。

 「行かせんよ……。さあ、きみの主人の最後を見物しようじゃないか」

 先程とは反対に、アバラが蛍の動きを封じている。

 濁鬼が蜥蜴の脚を踏み出した。半蔵が歯を軋らせる。蛍が半蔵の名を叫んだ。その時であった。

 その場にいた全員が、火球に似た凄まじい力が爆発するのを感じた。

 それは物質化した気の暴風であり、武蔵の周囲の大地が抉れ、爆音が轟いた。

 獣に似た唸り声を上げて武蔵が立ち上がり、獅子の咆哮を放った。


(八)

 濁鬼と化した新之助は、自らの肉体の異変を感じていた。

 全身が細かく震えている。獣と化した身体が、全力で警告している。

 逃げろ。目の前の男は危険だ。この男は危険過ぎる。

 だが、その警告を頭でねじ伏せた。

 何を言う。こいつは、ただの人間だ。今の自分に勝てるはずが無い。そうだ。そこで倒れている奴に、何度斬りつけられても、自分は平気だった。恐れる事など無い。

 喉元まで出かかっている悲鳴をかき消すように、口から血しぶきを飛ばしながら吠えた。

 「むうう……」

 アバラが呻き声を上げる。蛍も、武蔵から暴風のように吹き付けて来る気の圧力に呆然としている。

 武蔵はゆっくりと歩を進めた。自分の血肉が、今この瞬間にも爆発してしまいそうだ。

 それを懸命に堪えている。肉がざわめき、骨がぎちぎちと鳴っている。身体中に迸る力を、武蔵は必死に押さえつけていた。

 ――これ程のものか!!

 武蔵が解放したのは、いや、出来るのは、二番目の“水”の念輪までである。

 七つある念輪のうち、二つを解放しただけで、全身の血が沸騰しそうだった。

 指先や、髪の先端まで凄まじい力が流れ込み、大気がびりびりと音を立てている。

 武蔵は、ずい、と、足を前に踏み出して濁鬼の前に立った。

 正面から向き合ってみると、なんという巨体か。180センチを優に越える武蔵よりも、高さだけで遥かに上回る。肉の量は大人と子供の差だ。

 しかし、その身体から発する圧力は、武蔵が濁鬼を圧倒していた。

 ガアアアアッ!!

 濁鬼が強い呼気を吐いた。

 「おおおおっ!!」

 武蔵もまた呼気を発し、腰を落として構える。

 濁鬼の攻撃が武蔵を襲った。左腕が強烈な勢いで武蔵の右側から叩き付けてきた。

 常人であれば、その攻撃で頭部が消失する。削り取られたように、胴から首を落とされるだろう。

 武蔵は逃げなかった。逆に濁鬼に向かい踏み込んだ。首を沈め、右肘を上げて濁鬼の左腕を受ける。

 強烈な一撃が、武蔵の右肘にぶつかってきた。

 踏み込んでいる為、爪の一撃ではない。手首と肘の中間に武蔵の肘が食い込んだ。

 濁鬼の眼が、驚愕の為に見開かれる。

 武蔵の肉体は、その一撃に耐えたのだ。人とは桁違いの攻撃を受けながら、一歩も動かずその場に踏みとどまったのである。

 次は右腕が上から打ち降ろされてきた。武蔵はそれを左手で受け止める。

 大気を裂く音がする程の一撃が、武蔵の前でがっちりと止められていた。濁鬼の右手首を、武蔵の左手が掴んでいる。

 武蔵の全身の筋肉が、一瞬の激しい荷重を受けて、瘤のように膨れ上がっていた。

 「むう!!」

 重い呼気を吐いて、武蔵は濁鬼の力を正面から受けている。凄い力であった。濁鬼の巨体が生み出す怪力を、武蔵の力が上回っているのだ。

 人を超越した力が武蔵の中にたわめられ、更に膨張してゆく。底知れない力である。武蔵の全身に太い筋肉の束が浮き上がっていた。

 濁鬼の顔には既にあの冷酷な笑みは無い。犬歯を剥き出しにして強張っている。きりきりと歯が鳴った。

 徐々に濁鬼の右腕が捻られていく。みりみりと、筋肉が断裂していく音がする。

 濁鬼が、かっ、と、口を開いて、武蔵の頭部に歯を立てに来た。

 「ぬううっ!!」

 だが、それより速く、武蔵が濁鬼の顎に頭突きを入れる。

 めしゃっ!!

 半蔵の忍刀が断ち切った部分が砕けた。

 オゲエエエッ!!

 濁鬼が苦痛の叫びを上げる。骨が当たり、武蔵の額が切れた。血が溢れ出て鼻筋を伝う。

 「ひゅっ!!」

 肺の中に溜めた呼気を鋭く吐き、武蔵は右膝を跳ね上げた。

 武蔵の右膝が、みしり、と、濁鬼の腹にめり込んだ。岩を蹴り上げたような感触だった。

 一瞬、濁鬼の身体が宙に浮いた。巨象のような重量が、武蔵の一撃で浮いたのだ。

 ゴブアアッ!!

 口から血と呻き声を上げて、濁鬼が後方に下がる。

 「旦那!!」

 その時、半蔵の声が響いた。その声の方向から、武蔵に向かい太刀が放り投げられる。

 梅軒の鎖鎌の分銅が巻き付いていた太刀である。武蔵がその柄を空中で受けた。

 「半蔵!!」

 武蔵が応えたその先に、草地にゆっくりと倒れこむ半蔵の姿があった。

 「今度こそ、もう限界……」

 そう言い残し、前のめりに倒れる。

 「やっぱり頼りになるぜ、お前は……!」

 武蔵は大きく踏み出し、太刀を打ち降ろした。巨岩さえも両断するような、凄まじい一撃だった。

 太刀の一閃は、濁鬼の右腕を肩の付け根から断ち落としていた。

 エガアアアッ!!

 濁鬼から絶叫が迸る。

 一瞬、傷口から激しく血が噴き出したが、その血は途中で止まってしまう。

 「ちいっ!!」武蔵が舌打ちする。「体の造りまで、でたらめかよ……!!」

 「イ、痛エェ……!」

 濁鬼が顔を歪めて言った。それは痛みだけでは無い。痛みを上回る、武蔵への殺意だ。

 「腕を斬った程度では駄目よ!!」

 横手から声が上げられた。

 武蔵の向けた視線の先に、小屋の入口に立つルーナと高珍の姿がある。

 「ムサシ……」

 ルーナが絞り出すような声を出した。痛ましいものを見るような顔で、武蔵を見ている。

 ――そんな顔をするな。

 武蔵はルーナに眼で答えた。大丈夫だ。おれの身体は、まだ耐えられる筈だ。

 身体に痺れが生じ始めている。腕が、脚が、人の限界を超えた力を発揮している全身が、煮えるように熱い。

 武蔵の全身に汗が浮いていた。濁鬼の攻撃を支えた筋肉が、ぶちぶちと音を立てている。筋繊維が細かく断裂し、発熱しているのだ。

 「ひゅう……」

 武蔵が咽を鳴らした。

 感じる。肉体の下部から、強大な力を持った火竜が起き上がり、体内を焼き尽くそうとしている。

 全身が、熱く流動する溶岩へと変貌したようだ。沸き上がる力に、身体が限界を超えようとしている。

 武蔵の肉体の輪郭に沿って、周囲の空間が押し曲げられているように見える。身体が、一瞬倍近くに膨れ上がったようにも見えた。

 濁鬼は武蔵の強大な気の高まりを感じていた。

 武蔵が一歩前に出ると、濁鬼がその距離だけ後方に下がる。獣の本能が、人の怒りの感情を凌駕していた。

 武蔵は太刀を上段に構える。

 血が煮えたぎっている。全身が炎を上げて燃え上がりそうだ。

 まだだ。まだ足りない。この切っ先までを己の一部と化して、気を流し込むのだ。

 武蔵は、一瞬自分の身体の気の強張りをほどいた。気配を、その存在を絶つ。

 武蔵の肉体から人としての気配が消えた時、肉体と太刀はどちらも同じ“物質”と化した。

 そして次の瞬間、武蔵はありったけの気を爆発させた。全身に、そして太刀の先にまで気の奔流が駆け巡る。

 ざわっ、と、武蔵の髪が立ち上がり、全身が青白い炎に包まれた。

 現実の炎ではない。武蔵の放つ強大な気に、大気中の気が感応しているのだ。

 太陽が光を放つように、武蔵の肉体が意志とは関係無く、炎光を放っている。

 気の圧力が風を呼び、周囲の草が波打ち、周辺の樹々が揺らめいている。

 「まさか……」アバラの声が、明らかに動揺している。「気の波動の集約だと……?まさか、“それ”が出来るのか!?」

 武蔵は太刀を天に向かい振り上げた。両肩が巨大な瘤のように盛り上がり、両眼が見開かれた。

 この一撃に、己の全ての力を籠める。前に一歩踏み出しざまに、

 「があああああっ!!」

 振り降ろした。

 雷を幾本も束ねたような強烈な閃光が空を貫き、轟音が大地を揺らした。

 爆風が巻き起こり、土煙が立つ。

 閃光に、一瞬眼を焼かれた半蔵と蛍が再び眼を開けた時、目の前の風景が一変していた。

 肩で荒く息をする武蔵の前に、巨大な大地の裂け目が現れていた。

 武蔵の前で一直線に大地が抉り取られ、眼前の森の樹木が彼方まで薙ぎ倒されている。

 幅は10数メートル、深さは3、4メートルは有ろうか。剥き出しになった地面の脇の草と視界の奥にある薙ぎ倒された樹木が焼け焦げ、ぶすぶすと煙が出ていた。

 流星が大地を貫いた跡のようであった。

 見ると、裂け目の周辺に、熊の手の一部らしきもの、蜥蜴の脚の一部らしきものが点在している。

 武蔵の一撃で、濁鬼は粉砕されていた。

 「凄え……」

 満足に動かぬ身体で、それでもやっと頭を上げて、半蔵は呟いた。

 背を戦慄が走り抜けていた。

 人の肉体とは、これ程の潜在能力を秘めているものなのか――

 蛍の身体が震えていた。何故震えているのか分からない。

 分かっているのは、恐れとは別の種類であるらしいという事であった。

 その蛍の目の前で、武蔵が膝を突いた。太刀を杖にして、やっと身体を支えている状態だ。異常とも言える量の汗を流している。

 我に返った蛍が、武蔵と半蔵の元へ駆け寄る。

 その瞬間であった。

 蛍の頭上から、強烈な殺気が突き刺さって来た。

 「しゃっ!!」

 鋭い呼気と共に、蛍の身体が瞬時に反応した。手元から、銀光が放たれる。

 頭上の黒い影がその銀光を受け、軌道を変えて、3メートル程離れた場所に降り立った。

 周囲に瘴気をまとわりつかせたアバラであった。

 肉の腐り落ちた顔を歪ませ、ひひひ、と笑い声を上げる。胸には、蛍の放った棒手裏剣が突き刺さっている。

 「驚いたな……。そちらのハンゾウくんも、そこのムサシくんも、実に素晴らしい。人間〈マヌ〉の身で、まさか濁鬼を倒すとは思わなかったよ。勿論、ホタルくん。きみも良い腕だねえ……」

 言いながら、ゆっくりと後方に退がり始めた。

 「土産代わりに、誰か一人でも殺しておこうと思ったが……。そう簡単にはいかないようだね。ここは退かせてもらおうか」

 蛍の視線がアバラを追う。アバラの退がる速度が上がっていく。

 「また会おう」

 走りながらアバラが言い、そのまま身体を跳躍させた。その瞬間であった。

 アバラの正面の大気の中に、高圧のものが出現した。同時に、それが凄まじい力でアバラに叩き付けてきた。

 「ごばっ!!」

 見えない暴風の塊が、アバラの身体を大きく後方にはね飛ばしていた。巨大な鉄球が目の前に不意に出現し、それに吹っ飛ばされたようだった。

 そのまま背中から地面に叩き付けられ、二、三回地面をバウンドしながらも、何とか立ち上がる。

 べっ、と、どす黒い血を吐き出し眼を剥いた先に、両掌を前に向け、腕を前に突き出した高珍がいた。

 「逃がさんよ……」

 静かだが、重く響く声で高珍が言う。

 「ぬうっ!!」

 アバラの口から驚きの声が上がった。その眼が、高珍の眉間に向けられている。

 燐光を帯びた緑色の光。高珍の眉間に、金緑色の瞳が現れていた。

 「天眼――!?きさま、何故そんなものを!?」

 アバラが高い声を上げる。

 「この世界に渡って来たのは、蛍の先祖達だけでは無い、という事よ」

 そう答えた高珍の背後に、ルーナが立っていた。

 「ここで、おまえを倒す……!!」

 ルーナの周囲に、風の渦が生じ始めている。

 やがて、ルーナの全身がうっすらと光に包まれてゆく。バチバチと火花が弾ける音がして、電光を帯びた金色の髪が天へ逆立つ。

 前方に突き出したルーナの右手の先の空間に、発光する球体が現れた。

 始め、それは小さく掌に収まる程度の大きさだった。それが、「キュウウッ」という不気味な吸気音と共に、急激に大きさを増してゆく。

 同時に、周囲の温度が上昇し始めた。球体の放つ光と熱が増幅されていく。

 「聖仙術!?馬鹿な!!“太陽樹”の存在しないこの世界で、そこまでの密度の“気”を集める事など――」

 アバラの言葉に「“気”なら有るさ」と、高珍が答える。「誰が、武蔵に“起神の法”を教えたと思っておる――!」

 ルーナの左手が、高珍の肩に置かれていた。ルーナと共に、高珍の全身も発光している。

 光は炎のように揺らめき、意思を持つかの如く、高珍からルーナへ向かい流れていた。

 高珍は体の正面で、拝むように両手を合わせている。僧衣の袖から覗く腕には血管が浮き出し、滝のように汗をかいていた。

 先程の武蔵と同様に、身を焼き尽くさんとする、気の奔流に耐えているのだ。

 「一撃分が限界ですぞ……!」

 高珍が呟く。

 「十分だ……!!」

 ルーナが答えた。その額に汗の玉が浮かび、歯を食いしばっている。高珍の身体から流れ込む“気”の制御に、凄まじい精神力を使っている。

 「ぬかったか……!まさか、そのような手段を使うとは!!」

 アバラが身を翻し、宙へ跳んだ。だが、

 「遅い……!『ア・ギニ・バ・ヤ(紅蓮の災厄)』!!」

 赤い灼熱の球体が、ルーナの手から尾を引いて放たれた。

 美しく、そして禍々しく輝く放物線を描き、巨大な火球がアバラに襲いかかる。

 「――ッ!!」

 着弾と同時に、とてつもない爆発音がして、熱風と爆風の余波が武蔵達にまで届いた。

 暗雲に覆われていた空が、一瞬そこに太陽が現れたように輝き、火の粉が雨の如く周辺に降り注いだ。

 火球の大爆発で、周辺の酸素が一気に薄くなったようだった。

 ルーナがその場に膝を突き、大きく息を吐く。たった一発だが、疲労の限界まで追い込まれていた。

 「龍〈ナーガ〉として、いつまでも人間〈マヌ〉にばかり、頼ってはいられないからな……」

 疲れ切った表情で言うと、ルーナは武蔵を見て微笑む。

 ルーナに向かい軽く手を振ってみせ、武蔵は冷たい草の上に仰向けに寝転んだ。

 おそろしい疲労感が全身を包んでいる。今は、一歩も動きたく無い。

 「……腹が減ったな」

 健康そうな音を立てて、武蔵の腹の虫が鳴った。


(九)

 黒い巨大な蛭が、地を這っている。

 武蔵達が戦っていた草地から離れた、周辺を囲む森の中である。

 蛭の体表は所々が焼け焦げ、そこから緑色の体液が、じくじくと染み出している。

 一刻も早くその場から去ろうと、懸命にもがいているようだ。

 その蛭の動きが止まる。前方に、三つの人影が立っていた。

 一人は女であった。

 黒い(うちぎ)を身にまとい、市女笠を被っている。

 笠の縁からは、薄い布が垂らしてあり、顔は見えない。

 白い顎の先と、血のように赤い唇だけが見えている。

 「アバラ……」

 その唇が動いた。

 「おう……」蛭の先端部の穴から、声が漏れ出た。「あなた様は……」

 女の後に控えた、巨大な影が前に出る。

 人間離れした巨躯の男であった。尋常のサイズでは無い。身長が2メートルを遥かに超えている。

 身に付けた黒い僧衣の布地を、分厚い筋肉が押し上げている。巨大な岩のような質感と重量感を持つ男だった。

 赤く逆立つ髪が僅かに風になびき、影となった顔の中心で、双眸がぎらりと獣の光を放つ。

 「油断したな……。死ににくい身体を過信するのが、お前の悪い癖だ」

 地の底から響くような声で男は言うと、巨大な掌で蛭を掴みあげる。

 「お前は役に立つ。だが……次は無い」

 男が手に力を込める。蛭が苦しそうに、“ぷぎいい”と、鳴き声を上げた。

 「そのくらいで、いいでしょう」

 三人目の男が声を掛けた。

 黒い水干を着た、美麗な男であった。

 年齢は二十歳前後に見えるが、その顔立ちのどこかに、まだ少年の面影を残している。

 癖の無い黒髪が、首筋の辺りまで伸びている。口は血を含んだような紅色だった。

 青年の口には、微かな微笑みが溜められている。だが、その笑みと漆黒の瞳には、見る者の背筋を凍らせる気配があった。

 「龍の姫を始末する事は出来ませんでしたが、彼女達の力を見る事は出来ました。目的の半分は果たせましたよ」

 その青年は肉体の周囲に、見えない氷の刃を張り付かせているようであった。

 「それにこちらも予想外でした……。あの、むさし、という男の力を少々侮っていたようですね」

 青年が、漆黒の瞳を巨躯の男に向ける。

 「例の男の様子はどうですか?」

 「まだ精神が不安定です。記憶の混乱が原因と思われます。今、暫くの刻をお与え下さい」

 男の口調、態度は青年に対する臣下の礼のようなものがある。

 青年は無言で頷くと、袿の女に手を差し出す。

 「参りましょう……。我々の望みの為に」

 女がそっと、その手を取る。

 「貴方様と共にならば、何処までも……」

 女の赤い唇が囁いた。

 二人はゆっくりと森の中へ歩き出した。その後へ、巨躯の男と蛭となったアバラが続く。

 歩きながら、巨躯の男が視線を森の後方――武蔵達の方へと向けた。

 「人を超えた力を持つ者は、人ではいられない……」

 その言葉を残し、男は再び歩を進めた。

 やがて、彼等の姿は暗闇の中へと消えていった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ